書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

【作家紹介シリーズ】 ジョン・アーヴィング

 2021年11月、ジョン・アーヴィングFacebookに投稿した。自分の最後の長篇は、2022年10月刊行になるだろう、と。1942年生まれのアーヴィングは今年80歳。『神秘大通り』から7年、15作目の長篇、”The Last Chairlift”は10月18日に刊行される。ハードカバーで912ページの大長篇だ。同作の日本語訳が近い将来刊行されることを願いつつ、彼の主要作を振り返ってみよう。
 1980年代に米国文学に触れ始めた多くの読者にとって、アーヴィングは特別な位置を占める。長大な物語。一風変わった登場人物。ユーモアと悲しみで感情をゆさぶり、作品世界に没頭させる描写の豊潤さ。
 デビュー作『熊を放つ』は、その後の作品の萌芽が随所にみられるみずみずしい一冊。1968年、アイオワ大学の修士論文として書かれたという。日本では彼を敬愛する村上春樹訳が刊行されている。
 続く二作では、二組の男女の夫婦交換小説『158ポンドの結婚』より、曲がりくねった尿道を持つ主人公の青春物語『ウォーターメソッドマン』がいい。彼と愛息コルムが海辺で交流する場面は、父と子の姿を書き続けたアーヴィング作品中でも、ひときわ美しい。
 1978年、四作目の『ガープの世界』が大ベストセラーとなり、アーヴィングの世界的な人気を決定づけた。奇妙な出自の主人公ガープ。女性運動家としてまつり上げられる母。ふたりも、周囲の人間の多くも体や心の複雑な傷を抱え、作品にはセックスと虐待と死があふれる。それなのになぜ読後感がこんなに温かいのだろう。
 「開いてる窓の外で立ち止まるなよ」―つらいことがあっても窓から飛び降りずに生き延びよう、という切実なメッセージを込めた『ホテル・ニューハンプシャー』までの五作で、デビューから13年かけて、アーヴィングは国内外での評価と人気を確立した。
 続く中期の三作では、テーマの幅、物語の豊潤さ、緻密さで飛躍を見せた。1985年の『サイダー・ハウス・ルール』は非合法だった時代の堕胎を扱う。米国最高裁が女性の人工中絶権を認めた判決を破棄した今、改めて手に取られるべき作品だ。もちろん、物語としての完成度も高い。
  米国では『ガープ』を超える人気という『オウエンのために祈りを』は、ベトナム戦争ケネディ大統領暗殺など、60年代のアメリカがギュッと詰まって、何よりオウエンと語り手ジョニーの友情物語として美しい。最後の一ページまで読者をつかんで離さない緊張感あふれる構成の傑作だ。一転、インドを舞台に探偵小説風の味付けでコメディタッチの『サーカスの息子』は楽しく読める。
 1998年以降の六作でもアーヴィングらしさは健在だ。『未亡人の一年』ならアムステルダムの元警官ハリー。『第四の手』で手の移植手術を行う外科医ゼイジャック。『また会う日まで』の体中を入れ墨で覆われた父親、ウィリアム。『あの川のほとりで』の木樵のケッチャム。『ひとりの体で』の図書館司書、ミス・フロスト。『神秘大通り』の主人公フワン・ディエゴ。語り尽くせないほど魅力的な登場人物が豊かな物語を彩る。
  正直、近作から『ガープ』や『オウエン』のときのような驚きを得ることは少ない。だが、半世紀以上にわたって数多くの大長篇を刊行し、読者を夢中にしてきたアーヴィングの、物語を生み続ける想像力と、それを緻密な構成の作品にまとめ上げるエネルギーと言ったら。彼が多くの読者にとって別格の特別な作家であるゆえんだ。
  長篇作家アーヴィングの短篇は『ピギー・スニード救う話』所収の作品ぐらい。実は冒頭のFacebookの投稿で、彼は言っているのだ、「今後も中篇は書くけれど」と。これからは80代のアーヴィングによる短めの作品が読めるかもしれない。それをおおいに楽しみにしよう。

 

2022年10月書評王:田仲真記子
一か月かけてジョン・アーヴィング全作品を再読するのは至福の体験でした。改めて圧倒されました。