書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

『続きと始まり』柴崎友香著

 出来事がおこったときはよくわからず、振り返ってはじめて見えてくるものがある。それも、思ったよりたくさん。柴崎友香の新作長編『続きと始まり』は、そんなことに気づかせてくれる。
 視点人物は三人。石原優子は三十代後半。夫の実家のある滋賀県で、雑貨や日用品を扱う会社のパートとして働きつつ、子供二人を育てている。小坂圭太郎は三十三歳。調理師免許を持ち、東京の居酒屋で働いている。五歳年上の貴美子との間に四歳の娘がいる。柳本れいは四十六歳。一昨年に五年間つき合った人と別れた。東京でフリーの写真家として活動する傍ら、知人の女性が木造二階建ての自宅ではじめた写真館を手伝っている。
「1 二〇二〇年三月 石原優子」から始まり、「2 二〇二〇年五月 小坂圭太郎」「3 二〇二〇年七月 柳本れい」と、順番に語り手が替わっていく構成。二三か月おきに二〇二二年二月まで続き、ぐるっと四周した最後に全員が語り手となる「13 いつかの二月とまたいつかの二月」が置かれている。
 各章に年月はあるが、登場人物たちの回想には、阪神淡路大震災東日本大震災の時期も含まれる。緊急事態宣言やまん延防止など、今となっては“思い出す”言葉も登場するものの、地震やウイルスの危機を本書は直接には描かない。あのとき人がどんなことを思い、口にし、ふるまったのか。その日常を、非日常を、静かに振り返るのだ。
 年齢も仕事も家族構成も違う三人だが、彼らが考えること、感じることは、コロナ禍という状況で、それぞれの立場を超えて響き合う。たとえば家族からの心ない言葉。「優子ちゃんはしっかり結婚して、孫も産んでくれて、ほんまに親孝行でうらやましいわ、って言われたわ」という母に、優子は〈「孫」を産んだんとちゃうわ、わたしの子供やっちゅうねん〉と頭の中で毒づく。圭太郎は両親から「子供が生まれたのはよかったよ。でも、男の子じゃないだろ」「お前は馬鹿か! 家が絶えていいっていうのか!」という言葉を浴びせられ、頭の中が〈一瞬空洞に〉なる。そんなとき気の利いた返しもできず、ひとまずその場を納めようとしてしまうのも、優子や圭太郎に限らず誰にでも身に覚えがあることだろう。
 私たちは忘れっぽい。だから振り返る意味がある。優子と同僚の河田さんとの会話が象徴的だ。「なんか時間の感覚おかしくなってるよね」「あのときはまだ、感染者がいるとかいないとか、そんな感じやったのが信じられないですね。マスクとトイレットペーパーを必死で探してたとか」「もう忘れそうやな。二年しか経ってないのに。まだ続いてるのに」「なにも終わらないのに、次々始まって、忘れていくばっかりで」。
 三人は互いを認識してはいないが、ノーベル賞を受賞したポーランドの詩人・シンボルスカの詩によって結びつけられている。以前、とあるイベントで詩に出会い、現在の状況下で三人三様に思い出すのだ。詩集のタイトルは『終わりと始まり』。作中で紹介される「一目惚れ」という詩は〈始まりはすべて/続きにすぎない/そして出来事の書はいつも/途中のページが開けられている〉と結ばれている。
「どうすれば良かったのかわかるのは、いつもそれが過ぎたあとだよね」――複数の人物が同じように口にするこの言葉は、しかし悔恨やあきらめを意味しない。物語の終わりに、れいが振り返る。〈誰かがちゃんとやってくれると思っていた。世の中はだんだんよくなってきてるとこもあるよねと言うときに、苦しんできた人や変えようとしてきた人のことをそれほど切実に考えてはいなかった。いつかのあのニュースやできごとが今のこのことにつながっていて、いつかのあのできごとはもっと前の別のことにつながっていたと、自分が実際に経験してやっとわかりはじめた〉。
 私たちはみな、過去の続きを生きている。現在は未来に続いている。その当たり前のような真実を、振り返ることの意味を、そしてこれからの始め方を、読み手ひとり一人に問う作品だ。

2024年1月書評王:山口裕之

がんばって解題しようとするとするりと逃げられてしまうなぁと感じて、順番を考えつつ材料だけを置いていく、料理レシピのような書評になりました。ぜひ読んで、自分なりの解釈をつくってほしい本です。