書評王の島

池袋コミュニティ・カレッジで開講中の「書評の愉悦ブックレビュー」で王に選ばれた書評を紹介するブログです。

『長い一日』滝口悠生著

 序盤のいくつかのエピソードを読んで、夫婦が仲良く「私」という一人称を共有しているのか、と思った。夫婦というのは、小説家の滝口氏とその妻のこと。本作『長い一日』はエッセイのようにして始まり、やがて小説としか捉えられない形になっていく、そういう作品である。もとは、講談社のPR誌『本』二〇一八年四月号から二〇二〇年十二月号にかけて、全三十三回が連載された。
 世田谷に住んでいる滝口夫妻は二〇一七年八月十六日の朝、七年半暮らしてきた部屋からそろそろ引っ越そうかと思い立つ。正確には、妻が何気ない感じで引っ越しを提案する。だがその後半年、夫婦は腰を上げようとせず、転居先を探し始めたのは翌年二月の終わりのこと。それでも三月に入ると、お気に入りの物件が見つかるのだった。
 夫婦の引っ越しが軸になっているのは確かだが、その顛末を書いただけの小説ではない。まず気づくのは人称の扱い方だ。序盤は「夫」、「妻」という三人称の中に「私」という一人称が時折混ざる形で書かれる。「私」とは書き手である夫、滝口氏だ。ところが少し話が進むと、今度は「妻」が「私」として語り出す。夫婦による一人称の共有と最初に書いたが、バトンのように「私」を受け渡し合っているというほうが的確かもしれない。妻の手に渡ったバトンはまた夫に戻る。だが、それだけでは終わらない。
 夫妻の友人たちが一挙に登場する「お花見の日」という回が契機となる。八朔さんという夫の大学時代からの友人の家に招かれた滝口夫妻。花見の場には八朔さんの家族の他に、窓目くん、けり子といった友人たちが集まっている。楽しく酒を飲み、いろいろあって別れ、その翌日が本作の最重要の一日。自宅で大家のおじさんと話す夫、仕事場に向かったはずが予定外の行動に出てしまう妻、髪を切り護国寺辺りを散策する窓目くん、千葉の実家近くの川を訪れる八朔さん、天麩羅を食べに行こうとするけり子と夫のジョナサン。それぞれが「私」として語り始め、視点人物が蜘蛛の子を散らすように分かれていく。
 彼らの内面を見つめ、本人以外は知り得ない感情を書いていくにあたって本作は完全に小説となる。すると今度は、自分がいつの間にか小説という入れ物の中に放り込まれ、描写されていたことについて、窓目くんと滝口氏の妻が意見を交わし始めるのだ。
 今まで何度も滝口氏の小説に登場させられてきたという窓目くんは「その人物のどこを切り取っても、現実の俺ではないし。それは俺だけど、そいつの部分だけ見ると俺じゃない」と、小説化された自分と現実の自分の差異をはっきりさせた上で、書かれること自体は好意的に捉える。それに対して妻は、「あんなふうに書かれてしまったら、書かれた以外のことが思い出せなくなってしまうじゃないか」と憤慨する。「引っ越ししたいなあ」というひと言を、大家のおじさんのとある事情に気づかないまま、脳天気に言ったふうに書かれたことが、納得いっていないからだ。「なるほど、小説というのはそうやってすべてを記録できないこの現実を、言葉で書き換えて読んだり話したりできる形にするものなのか」と妻は言う。であれば、取りこぼされる思いや出来事があって当然なのだ。
 一方で、窓目くんの一日は小説として書かれることでどんどん膨らんでいく。髪を切りに街に出た彼は、その日知り合ったばかりの美容師の女性と山陽山陰を貫く伯備線に乗って旅をし、護国寺に戻って、妻とばったり鉢合わせするのだ。小説は独自の時間と空間を作り出す。「まだ昼過ぎだというのに、今日の一日はこんなに長く、果てしない」。窓目くんはそれを目一杯楽しむ。
 作者の身辺を記した文章が、小説に変わっていくことで広がりを得る。しかし決して万能ではなく、生きているこの時間自体は、書くことが不可能なものとしてまた別にある。そのどちらもが、豊かな果実として読者に差しだされた作品だ。


2021年8月書評王:鈴木隆
『長い一日』には、時間をどう扱うかという、もう一つの大きな軸があります。それを敢えて捨てての書評となりました。もっともっと広くて入りくんでいて、でも最後まで読むと驚くほどシンプルな形に見えてくる『長い一日』を、ぜひ体験していただきたいです。