2020年に『化け物心中』で小説野性時代新人賞を受賞し鮮烈なデビューを飾って以来、『おんなの女房』(吉川英治文学新人賞受賞)、『万両役者の扇』(山田風太郎賞受賞)など歌舞伎を題材とした時代小説を発表してきた蝉谷めぐ実。長編5作目にして初めて歌舞伎を離れて向き合ったのが、江戸時代の中期から後期を生きた盲目の国学者、塙保己一(はなわ・ほきいち)の生涯だった。
幼少時に失明するも勉学に並々ならぬ意欲と才能を発揮し、十代半ばで故郷の保木野村(現・埼玉県本庄市)を出て江戸へ。人の縁に恵まれた彼は、雨富検校や賀茂真淵などのもとで学を深める。国学の教育・研究機関である和学講談所を設立する一方、日本中に散逸していた古典文学作品や史料の収集に奔走し、国学・国史を中心とした666冊に及ぶ叢書『群書類従』を数十年かけて出版。日本の国学発展に大きく寄与した人物である。
朝日新聞のインタビュー記事によると、蝉谷はもともと、近世をいったん離れて平安時代を舞台にした作品を考えていたという。しかし、たまたま参加した平安装束の着付け講座で「『源氏物語』などの文学作品が現在のような形で残っているのは塙保己一の功績によるところが大きい」といった話を聞き、この盲目の国学者に強い興味を抱いた。それが『見えるか保己一』という新作につながったのだ。
保己一は幼少時から、優れた記憶力の持ち主だった。『平家物語』でも『栄花物語』でも耳にした文章をすばやく吸収し、記憶の抽斗に整理分類していつでも取り出すことができた。しかし青年期には、盲(めしい)の者が身を立てる術として当時一般的だった鍼や按摩がどうしても上達せずに苦労する。ちょっとしたからかいの言葉に絶望して、入水自殺を図りかけた日もある。
国学に専心し、妻子ができ、弟子をとるようになってからも、場にそぐわない物言いで周りを凍りつかせてしまうことしばしば。例えば叢書出版のための版木が大火で焼けてしまったときは、弟子たちを元気づけようと〈これだけで済んだのであれば上々であろう〉と口にして、一番弟子から〈あなたは目が見えないからそんなことが言えるのです〉と怒鳴られる。弟子たちが「怪我人は一人も出ていない」と気遣いによる嘘をついたため、火事がもたらした惨状がわからなかったのだ。
『見えるか保己一』は、感動的で心温まる偉人伝では決してない。記憶力や聴覚、触覚の鋭さ、そして血のにじむような努力から偉業を成し遂げても、〈目明きには見えぬものまで見えているよう〉〈あなた様は頭が良くていらっしゃるから〉と言われる。そのたびに保己一が感じる葛藤。盲目の彼を気遣う周囲の優しさが悪い方へ作用し、「信じられるのは血を分けた家族だけだ」と思い詰めて妾に何人も子どもを産ませた時期もある。
一方、第一の関心事はあくまでも学問である彼に、家族となった者たちは心を削られていく。学者としての彼に心酔し、心の均衡を崩していく弟子も描かれる。保己一だけでなく、弟子の葉次郎や長女のとせ子など周囲の者たちも語り手を務め、緊迫感に満ちた全6章の物語が展開する。
この小説には乱気流が閉じ込められている。憧れ、嫉妬、蔑み、哀れみ、畏怖などさまざまな感情が吹き荒れる。本作のページをめくりながら、自分がかつて無意識に投げた心ない言葉や、他人から向けられた誤解を思い出して、読み手の心も激しく揺れ動くだろう。そして、本作の操縦桿を握る作者もまた、乱気流を全身に受けながら旅を続けたのではないだろうか。己が創り出した人物たちが起こす感情の嵐から逃げることなく誠実に、大胆に物語を着地させた蝉谷は、新たな地平に降り立ったはずだ。
本作は2026年5月に山本周五郎賞を受賞し、同年上半期の直木三十五賞受賞を有力視されている。しかしおそらく蝉谷の視線は、直木賞という中継地点のはるか先へ向けられているのではないか。まだ見ぬ場所へ踏み出した彼女の足取りは、真摯かつ力強さに満ちている。
2026年6月書評王:田中夏代
若林正恭さんの『青天』や、朝倉かすみさんの『けんぐゎい』など、話題性が高い候補作ぞろいの第175回直木賞。とはいえ、本命は『見えるか保己一』と確信しています。乱気流が封じ込められたこの傑作が、なんとしても選出されますように!(2026.7.5記)













