書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

『見えるか保己一』蝉谷めぐ実著

 2020年に『化け物心中』で小説野性時代新人賞を受賞し鮮烈なデビューを飾って以来、『おんなの女房』(吉川英治文学新人賞受賞)、『万両役者の扇』(山田風太郎賞受賞)など歌舞伎を題材とした時代小説を発表してきた蝉谷めぐ実。長編5作目にして初めて歌舞伎を離れて向き合ったのが、江戸時代の中期から後期を生きた盲目の国学者、塙保己一(はなわ・ほきいち)の生涯だった。
 幼少時に失明するも勉学に並々ならぬ意欲と才能を発揮し、十代半ばで故郷の保木野村(現・埼玉県本庄市)を出て江戸へ。人の縁に恵まれた彼は、雨富検校や賀茂真淵などのもとで学を深める。国学の教育・研究機関である和学講談所を設立する一方、日本中に散逸していた古典文学作品や史料の収集に奔走し、国学・国史を中心とした666冊に及ぶ叢書『群書類従』を数十年かけて出版。日本の国学発展に大きく寄与した人物である。
 朝日新聞のインタビュー記事によると、蝉谷はもともと、近世をいったん離れて平安時代を舞台にした作品を考えていたという。しかし、たまたま参加した平安装束の着付け講座で「『源氏物語』などの文学作品が現在のような形で残っているのは塙保己一の功績によるところが大きい」といった話を聞き、この盲目の国学者に強い興味を抱いた。それが『見えるか保己一』という新作につながったのだ。
 保己一は幼少時から、優れた記憶力の持ち主だった。『平家物語』でも『栄花物語』でも耳にした文章をすばやく吸収し、記憶の抽斗に整理分類していつでも取り出すことができた。しかし青年期には、盲(めしい)の者が身を立てる術として当時一般的だった鍼や按摩がどうしても上達せずに苦労する。ちょっとしたからかいの言葉に絶望して、入水自殺を図りかけた日もある。
 国学に専心し、妻子ができ、弟子をとるようになってからも、場にそぐわない物言いで周りを凍りつかせてしまうことしばしば。例えば叢書出版のための版木が大火で焼けてしまったときは、弟子たちを元気づけようと〈これだけで済んだのであれば上々であろう〉と口にして、一番弟子から〈あなたは目が見えないからそんなことが言えるのです〉と怒鳴られる。弟子たちが「怪我人は一人も出ていない」と気遣いによる嘘をついたため、火事がもたらした惨状がわからなかったのだ。
『見えるか保己一』は、感動的で心温まる偉人伝では決してない。記憶力や聴覚、触覚の鋭さ、そして血のにじむような努力から偉業を成し遂げても、〈目明きには見えぬものまで見えているよう〉〈あなた様は頭が良くていらっしゃるから〉と言われる。そのたびに保己一が感じる葛藤。盲目の彼を気遣う周囲の優しさが悪い方へ作用し、「信じられるのは血を分けた家族だけだ」と思い詰めて妾に何人も子どもを産ませた時期もある。
 一方、第一の関心事はあくまでも学問である彼に、家族となった者たちは心を削られていく。学者としての彼に心酔し、心の均衡を崩していく弟子も描かれる。保己一だけでなく、弟子の葉次郎や長女のとせ子など周囲の者たちも語り手を務め、緊迫感に満ちた全6章の物語が展開する。
 この小説には乱気流が閉じ込められている。憧れ、嫉妬、蔑み、哀れみ、畏怖などさまざまな感情が吹き荒れる。本作のページをめくりながら、自分がかつて無意識に投げた心ない言葉や、他人から向けられた誤解を思い出して、読み手の心も激しく揺れ動くだろう。そして、本作の操縦桿を握る作者もまた、乱気流を全身に受けながら旅を続けたのではないだろうか。己が創り出した人物たちが起こす感情の嵐から逃げることなく誠実に、大胆に物語を着地させた蝉谷は、新たな地平に降り立ったはずだ。
 本作は2026年5月に山本周五郎賞を受賞し、同年上半期の直木三十五賞受賞を有力視されている。しかしおそらく蝉谷の視線は、直木賞という中継地点のはるか先へ向けられているのではないか。まだ見ぬ場所へ踏み出した彼女の足取りは、真摯かつ力強さに満ちている。

2026年6月書評王:田中夏代

 若林正恭さんの『青天』や、朝倉かすみさんの『けんぐゎい』など、話題性が高い候補作ぞろいの第175回直木賞。とはいえ、本命は『見えるか保己一』と確信しています。乱気流が封じ込められたこの傑作が、なんとしても選出されますように!(2026.7.5記)

 

『田園の憂鬱』佐藤春夫著

講師:それでは只今より女性相談支援員研修を開講いたします。本日はDV被害者への支援についてグループセッションを行い、暴力が起きる背景も含めて考察を深め、支援策を導き出していただければと思います。今回は近代日本の小説家で、詩人でもある佐藤春夫の『田園の憂鬱』をテキストとします。これは1916(大正5)年著者が24歳のときに、現在の横浜市青葉区となる小さな村に半年ほど暮らした体験を基に書かれた、小説家としてのデビュー作にして代表作となった作品です。1919(大正8)年刊行ですので、時代背景など異なる点もありますが、だからこそ支援の本質が見えてくる部分もあるかと思います。それでは各グループでセッションを始めてください。
~グループ1~
研修生A:まずこれがDV案件に該当するか、という点から見ていく必要があると思います。
研修生B:妻は夫から〈返事が気に入らないといっては転ぶほど突きとばされたり、打たれたり〉されていて、日常的に身体的暴力があったことは間違いないです。
研修生C:精神的暴力も見逃せません。〈前の恋〉と比較して妻を貶めたり、〈女特有の身勝手な主観〉とか女性蔑視ワードが頻出したり、〈何が気に入らないのか二日も三日も一言も口を利こうとはしなかった〉とか、完全に不機嫌ハラスメントでしょ。
B:特に薔薇の一件はひどいですよ。庭木の陰に生えていた貧相な薔薇の木に自分の境遇(と言ったって親の金で田舎家買わせて、勝手に都落ちしてきただけなのに)を重ねて、その薔薇がやっと咲いたものだから、大威張りで鼻息荒く〈花を御馳走に饗宴を開くのだ〉って妻に花を摘んでこさせたら、妻が夫を喜ばせようと咲いた薔薇を全部切ってきたことにブチ切れる場面ね。
C:〈一つでよかったんだ〉〈一つをね!〉って、超不機嫌モード突入でグチグチネチネチ。知らねーよ、自分で摘んでこいって。
A:この作品は雑誌掲載のときのタイトルが「病める薔薇」なんですよね。著者が自身を薔薇に投影しているのは分かるんですが。
B:小説だから著者=夫ではないでしょうけど、夫の症状として不眠や幻聴、幻覚、それに〈俺の犬は盗まれる、殺される、きっとだ!〉なんて被害妄想等々があって、本人も〈俺はひどいヒポコンデリヤだわい〉って一応病識はあるようです。
C:その病識もね~。註によるとヒポコンデリヤって心気症、つまり知識人の病って認識みたいだから、それさえもプライドがプンプンと匂うんですよね。取り急ぎ妻への支援策としては、警察か配偶者暴力相談支援センターへの相談を勧めます。
B:ですね。いったんDVシェルター入居も検討し、住所秘匿で転居が望ましいのでは。
C:ただ、その後経済的に自立するのが難しいかも。元舞台女優だから復帰したら居場所バレちゃいますよね。
A:う~ん、夫は妻にそんなに執着してない感じじゃないですか?接近禁止命令出されたらそれで収まるのでは。自分の先行きの不安感から身近で自分より立場の弱いものに強く当たっているだけのように思います。
C:飼い猫を蹴ったり、普段は可愛がっている2匹の犬(ラフテとレオ)を急に激昂して杖で〈強かに打ち下した〉りと動物虐待もやってますもんね。ラフテとレオもこんな主人、噛んでやればいいのにって思いました。
B:でも、令和の現代となっては不適切極まりない表現があるとはいえ、『田園の憂鬱』が100年以上も読み継がれているのはなぜなんでしょうね。
A:まだ何者にもなり得ていない若さに由来する、過剰な自信と底なしの不安のアンバランスな視座から描く自然描写の美しさゆえでは?
C:〝DVとは何か″の教科書だから?
A・B:さすがに佐藤春夫が憤死しますよ。

2026年5月書評王:関根弥生

 数十年ぶりに再読してこんな話だった?!と驚きました。いちばん田舎暮らしに向かないタイプの人が妄想の中の田園に憧れた結果、本人も妻もご近所も全員不幸という気の毒な移住ミスマッチの典型例とも読めます。

がちょうのペチューニアに賛同する人にお薦めする3冊

 今年で没後45年となるロジャー・デュボワザンの『がちょうのペチューニア』*1は、拾った本を持ち歩くことで賢くなったと勘違いしたおばかさんのペチューニアが、農場の仲間を大騒動に巻き込むユーモラスな絵本。

 でも、モノとしての本が気に入ることだってあるよね、とペチューニアに賛同する人にお薦めしたいのが、約30年に亘り、本を被写体として撮影してきた潮田登久子の写真と、夫である島尾伸三のエッセイを収めた、モノクロが美しい『ビブリオビブリ』*2。

 モロッコ革の装幀に真珠が散りばめられた、約150年前の宝石本は〈ノートルダム〉。ページの片隅が無数に折られ、老いた皮膚のようになって広げることさえできない〈ロバの耳〉。ページが剥ぎ取られ無残な姿を晒す、15世紀末のスペイン修道会の装飾写本は〈あばら骨〉等々。魅力的な〈あだ名〉が付された18葉の写真の本たちは、どれも長いながい時間を纏って、そこに〝ある″というよりも〝居る″がふさわしい存在感を放つ。

 タイトルの〈ビブリオビブリ〉とは〈書物崇拝狂とも〉いい、〈オブジェとして本を愛好する人〉を指す。巻末の註によれば、欧州特にフランスでは、ごく最近まで「仮綴じ本」を買って〈アンカットの本文ページを切り開きながら読みすすめ〉、読み終えると街の〈「ルリユール」工房を訪ねて、製本家とともに好みの革装本に仕立てた〉のだとか。

 日本ではあまり聞き慣れない<ルリユール>は、<手仕事の製本>を意味する。完成までには相応の時間と手間を要するが、むしろその工程に惹かれるかたは、坂本葵の小説『その本はまだルリユールされていない』*3をどうぞ。

 司法書士への道を諦めたまふみが、母校の小学校で非正規雇用の学校司書として働くため、古びた木造アパート、リーブル荘に引っ越してくる。そのすぐ隣に建つ〈ルリユール工房〉には、世界でも活躍する製本家、綺堂瀧子とその孫娘の由良子が住んでおり、この工房での体験や新たな出会いを糧に、まふみが少しずつ自身の手で人生を綴じ直してゆくのが物語の縦糸。

 横糸として、はちゃめちゃな選択肢が人気の絵本『ねぇ、どれがいい?』*4や、肺に睡蓮が寄生した恋人との狂おしい日常を描いた小説『うたかたの日々』*5、故郷アンダルシアの美しさを可愛がっているロバに語りかける哀切に満ちた詩集『プラテーロとわたし』*6など多くの本が顔を覗かせる。

  だが、本作の白眉はなんといっても<ルリユール工房>で産み出される、金の文様が箔押しされた革の上製本や100年経っても綴じ直すことができる<シークレット・ベルギー装>、菫の香気が封じ込められた美しく堅牢な函など種々の手製本の贅なのだ。

 では、それらの手製本が実際どんなモノなのか、と気になる向きにはこちら。『西洋挿絵見聞録-製本・挿絵・蔵書票-』*7は、稀代の愛書家にして美術史家であった気谷誠が、15世紀の活版印刷術の発明や18世紀に定まった挿絵本の文法、19世紀の粗悪な大量出版時代を経た愛書家たちによる美麗な本の復活など、数多のエピソードを縦横無尽に語る、170点もの貴重な図版を収載した充実のエッセイ集だ。

 なかでも20世紀初頭に流行した〈宝石本〉について、かなりの紙幅が割かれており興味深い。1911年、英国で1050個の宝石を配して絢爛豪華を極め〈古今を通じ最高の製本〉と称えられた本が完成した。詩人の名を冠して〈グレート・オマー〉と呼ばれたその本が、翌年米国へと運ばれるため積み込まれたのは、かのタイタニック号だった。もちろん〈グレート・オマー〉のその後の行方は杳として知れない。宝石本など愛書家向けの製本は公開される機会も稀であり、そのため存在の把握すら困難で、研究も充分にはなされていないのだという。

 奇しくも気谷誠が宝石本について考察を深める端緒となったのが、1994年サザビーズのオークションで彼が落札した、ウィリアム・モリスの『恋こそすべて』であり、これこそ、冒頭に紹介した『ビブリオビブリ』で〈ノートルダム〉と名付けられた1冊だったのだ。

 本はモノとしてだけでもこんなに楽しい。

 

*1『がちょうのペチューニア』ロジャー・デュボワザン作 松岡享子訳 冨山房 1999年 

*2『ビブリオビブリ』島尾伸三文 潮田登久子写真 BONBOOK 2024年

*3『その本はまだルリユールされていない』 坂本葵著 平凡社 2025年3月

*4『ねぇ、どれがいい?』ジョン・バーニンガム作 松川真弓訳 評論社 2010年 

*5『うたかたの日々』ボリス・ヴィアン著 伊東守男訳 ハヤカワ書房 2002年

*6『プラテーロとわたし』J・R・ヒメネス作 長新太絵 伊藤武好・伊藤百合子訳 理論社 2011年

*7『西洋挿絵見聞録-製本・挿絵・蔵書票-』気谷誠著 アーツアンドクラフツ 2009年

 

2025年5月書評王:関根弥生

 ロジャー・デュボアザンの絵本で初めて読んだのは『ごきげんなライオン』(ルイーズ・ファティオ文 福音館書店 1964年)でした。動物園に暮らす礼儀正しいライオンが、街のみんなに挨拶しようと出かけていったら街が大騒動になるおはなし。手に汗握るというのとも違うし、ほぼ茶色で描かれた地味めの絵本なのですが、大好きでくり返しくり返しくり返し読んだ記憶があります。

『名前のないカフェ』ローベルト・ゼーターラー著/浅井晶子訳

〈ウィーンで最も貧しく薄汚い地域のひとつ〉であるカルメリーター市場の脇に、古ぼけた陰気なカフェがあった。やる気のなさそうな店主がぬるいビールを出していたが、ある日ふいに失踪してしまう。店の窓に埃がかぶっていくのを見ていたのは、戦災孤児の施設で育ち、市場で働いて7年になる31歳のローベルト・ジーモン。やってみたいという素朴な憧れにいてもたってもいられなくなり、この店を居抜きで借りて自分の店としてオープンする決心をする。1966年の晩夏のことだ。
 懸命に店を掃除し、厨房の手入れをし、メニューの黒板を取り付けるジーモン。出すものはビールやコーヒーのほか、ラードを塗ったパン、塩漬けのキュウリ。だが、看板に掲げるべき店の名前がどうしても思い付かない。結局、名無しでオープンしたカフェは、名前を持たぬまま、この場を必要とする人にとって大切な存在になっていく。
『名前のないカフェ』の著者ゼーターラーは、ジーモンが店を構えた年と同じ1966年生まれ。邦訳は過去3冊。売店で働く若者の視点から第二次大戦前夜のウィーンを描いて映画化もされた『キオスク』。墓地に眠る29人の死者の声から小さな町の姿を浮かび上がらせる『野原』。アルプス山中に生きた無名の男の生涯をたどって国際ブッカー賞の最終候補にもなった『ある一生』は、幸せそうな出来事は一瞬で、苦労ばかりが多い人生を描きながら、なぜか読み手を満たされた気持ちにさせる。ゼーターラーは、オーストリアを代表する作家のひとりと目されている。
 単行本で200ページあまり。カフェをひとつの舞台として、その10年間を39の断章で区切り、さまざまな人生の喜怒哀楽が描かれる群像劇である。田舎から縫製工場のお針子としてウィーンへ出てきたミラは、職を失い途方にくれていたところ、縁あって店員としてやとわれることになる。凄まじい巨漢の男・レネは、レスラーとして脚光を浴びる夏の数週間以外は、ゴーカート場の切符売り兼呼び込みとして働き、カフェでは蒸留酒を飲んだくれている。牛乳・チーズ商のハイネは、自分が拾った15歳年下の画家ミーシャの女癖の悪さに、テラスの隅の席で激昂する。ふだんは豪放磊落な肉屋のベルクは、おかみさんが4人目の子を身ごもったことで今後の生活を案じている。店に名前はなくとも、登場人物ひとり一人には固有の輪郭と陰影が与えられている。彼らがたんに物語の都合で配置された存在ではなく、生身の人間として作品内に息づいていることが、説明しすぎない文体がゆえに確かにこちらに伝わってくる。
 素直に喜べるエピソードは数少なく、ちょっと塩っぱい話が多いのに、思い返すと心に残る。登場人物たちは、利口でも、裕福でも、立派でもない。だがそのぶん、不器用に愛を伝え、迷いながら隣人に手を差し伸べようとし、痛撃からなんとか立ち直ろうともがく。それが、しばしば笑いをもたらす。レネがミラを口説くため、ジーモンにもらったアドバイスを一生懸命実行しようとするところなど、ちょっとした落語のような趣がある。
 この店はカフェとして出すべきものは出しているが、とくに店主のこだわりとか、際立った個性があるわけではない。客に提供しているのは、おもに“居場所”だ。「世の中の回転速度はどんどん上がっていますから、人生に十分な重みのない人たちが軌道から投げ出されてしまうこともあります。そんなときにしがみつくことが出来る場所があるのは、いいことではないでしょうか?」――物語の終わり近くで、カフェの危機を救おうとしてジーモンが書く手紙が、この店を見守ってきた読者の気持ちにも寄り添うようだ。「名前のないカフェ」はほんとうにかつてウィーンにあったのではないかと、思い込んでしまいたくなる。名前がないからこそ、この店は読み手の記憶の中にある、失いたくなかった場所に重なってくるのかもしれない。

2026年4月書評王:山口裕之

会社員引退後に奥さんとカウンターだけの小さなカフェを開く妄想をするのは、けっこう楽しいです。1年後に70%が廃業するという業態なのに。空想で馬券を買ったつもりになる娯楽と似ているなと思います。

『キャンディハウス』ジェニファー・イーガン著/谷崎由依訳

〈「時間ってやつはならずものだ。そうだろ? そのならずものたちを、のさばらせておくつもりか?」〉
 2011年のピュリッツァー賞(フィクション部門)や全米批評家協会賞に選出された『ならずものがやってくる』(ハヤカワepi文庫)。作者のジェニファー・イーガンはこの小説で、ある登場人物にそんな言葉を語らせている。
 時間は確かにならずものだ。容赦なくやってきて、若さも根拠なき自信も根こそぎ奪っていく。もちろん大切な思い出も。しかしイーガンは2022年に発表した新作小説『キャンディハウス』で、このならずものに対抗する一つの可能性を提示した。脳に蓄積された記憶の外在化(目に見える形にして外に出すこと)という驚きの手段によって。
 この方法を発明したのは、『ならずもの~』にもちらりと登場し、学生だった1990年代からインターネット時代の到来を予感していたビックスだ。マンダラ社というIT企業を立ち上げ、2010年代にはテック業界のアイコン的存在となったビックスは、あるアカデミックな集まりで動物学者から聞いた実験手法をヒントに、「オウン・ユア・アンコンシャス(自分の無意識を所有しよう)」という、個人の脳に蓄積されているすべての記憶を外在化するサービスを開発。さらにその後、外在化した自分の記憶をクラウドにアップロードすることでほかの登録者の膨大な記憶にアクセスできる「コレクティブ・コンシャスネス」もリリースした。
 時間と共にどんな思い出も色あせ、永遠だと思われた絆や関係性も変容していく。しかし記憶を外在化することで、思い出せない記憶を自由に呼び起こしたり、関係が途切れてしまったけれど気になっている人の姿を他人の記憶の中に探したりできる。その意味で記憶の外在化は、ならずものをのさばらせない有効な手段と言えるかもしれない。14のストーリーで構成された連作短編集『キャンディハウス』には記憶の外在化サービスが登場しない話も収録されているが、どのストーリーでも、記憶の求心力に捕らえられた人物が必死にもがいている。
 登場人物の何人かは、記憶の外在化サービスを使ってならずものに立ち向かおうとする。例えばヘロイン依存症に苦しむ50代女性のロキシーは、幸福なティーンエイジを再び味わうために亡くなった父親の意識を追体験。また、激務をこなすためにアデロール(中枢神経系の興奮剤)が手放せなかったマイルズは、何回かやり取りした密売人のデーモンに親しみを感じ、数年後に「彼はどうしているだろう」と集合記憶にアクセスする。
 彼らは期待通りの結果を得られるだろうか? 詳しくは語らないが、ロキシーやマイルズ、そして本作と『ならずもの~』の両方に登場する人物たちの足跡を追っていくと、「ならずものには抗わない方がよい」という作者の思いがぼんやり見えてくる。人は年を取り、日々多くを忘れていく。それを受け入れ、過去に執着しすぎずに身近な人やものを大切にすることで、時間というならずものは味方になってくれるかもしれない。
 作者のジェニファー・イーガンは、ペンシルヴァニア大学在学中にスティーブ・ジョブズと1年間交際し、一時期は日本とアメリカでモデルとしてメディアに出ていた経歴の持ち主だ。本書『キャンディハウス』には、美しい少女が現実にさらされながら成長していく生々しい姿や、テック業界の創業者が思い描くユートピア的な理想像が変質していくプロセスが、圧倒的な臨場感とカラフルさで描写されている。
『キャンディハウス』の唯一の欠点は、かなり時間泥棒であること。過去と未来を行き来しながらつながる人物の相関図を頭の中で描きつつ読み終えたら、必ず『ならずもの~』に手を出したくなり、その後また『キャンディハウス』に戻りたくなってしまうのだ。

2025年11月書評王:田中夏代

『ならずものがやってくる』から『キャンディハウス』と続けて読むと、両作品に登場する人物たちに「頑張ってきたね」と語りかけたくなります。雰囲気はまったく違うのですが、テレビドラマ「最後から二番目の恋」シリーズが好きな人にお勧めしてみたいです!

2026年3月の日本を生きる皆様に改めておすすめする3冊

 〈メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かねばならぬと決意した〉という書き出しから始まる太宰治の短編「走れメロス」を久しぶりに読み返した。ディオニス王の暴政に怒ったメロスは王に意見しようと城に乗り込んで捕まり、短剣を持っていたことから磔を宣告される。そのとき、村に残した妹の婚礼を見届けるために三日の猶予を申し出て、身代わりとして親友のセリヌンティウスを王に差し出し、村へと駆けていくという、あまりにも有名な物語だ。
 メロスは懸命に走り、途中で心が折れそうになりながらも約束の期限ぎりぎりに王のもとに戻って、セリヌンティウスと涙を流して抱き合う。その姿を見た王は感動し、「信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうかわしも仲間に入れてくれまいか」と二人に近寄り、それを見ていた群衆が拍手喝采して終幕となる。メロスの友愛と誠実が暴君の心を変えたと読んで差し支えないのだろうが、ちょっと待てと思う。今まで多くの人を殺めてきた王の罪は、メロスの行いに感動して涙を流しただけで許されるのか。〈必ず、かの邪智暴虐の王を除かねばならぬ〉というメロスの決意は、王の涙ひとつで揺らいでしまうのか。さらに言えば、芝居めいた王の仕草に喝采した群衆はあまりにも単純すぎないか。
 『暴君──シェイクスピアの政治学』は、現代を生きる世界屈指のシェイクスピア学者スティーブン・グリーンブラットが、シェイクスピアの政治劇を通して、暴君とは何かを考えた一冊。〈世界屈指の〉という冠はグリーンブラットのピューリッツァー賞受賞作『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』の訳者・河野純治による言葉だ。
 権力を握った者はさまざまな理由によって暴君になっていくのだが、結局、それを可能にするのは当の暴君以外の人々だ。『リチャード三世』について、グリーンブラットは次のように書く。〈リチャードの悪事に気づかない人など、まずいない。その皮肉な態度や残酷さや裏切り体質は秘密でも何でもない〉。そんな人物がインクランドの王位に就けるのは〈まわりにいる人間たちがそれぞれ同じように自滅的な反応をしてしまうがゆえ〉であり、〈こうした反応が集まると、国全体が一挙に崩壊するのだ〉。
 グリーンブラットはさらに一般市民の態度にも批判の言葉を投げかける。〈面倒を避けたいがために、いやいやながらもリチャードの命令に従う雑多な群衆がいる。自分たちも何かいい目を見られるのではないかと期待して頑張る連中もいれば、社会的に高い立場にいる人たちを倒して苦痛や死へ追いやる残酷なゲームを楽しむ連中がいる。野望を抱く暴君は、そういった連中をいくらでも利用できる。(中略)現代においてもそうであろう〉。
 暴君が生まれてしまうのは、当人の気質以上に民衆のせいであるのなら、私たち一人一人の意識の改革が必要だ。シェイクスピアとほぼ同時代を生きたフランスの法律家エティエンヌ・ド・ラ・ボエシの『自発的隷従論』はそのために有益な一冊。圧政者(=暴君)のやり口を五つのファクターに分類して解説するとともに、〈民衆自身が、抑圧されるがままになっているどころか、あえてみずからを抑圧させているのである〉〈みずからの悲惨な境遇を受けいれるどころか、進んでそれを求めているのも、みな民衆自身なのである〉と我々一般市民の過ちを糾弾する。
 古代ローマの皇帝たちを圧政者の例として取り上げ、説得力のある論を展開していくのだが、これを書いたのはいち学生だった十代のときだったというから驚きだ。その熱のこもった主張は現代にも十分通用し、近年、邦訳が大いに注目を集めている。
 メロスとセリヌンティウスの友情に感銘を受け、改心の意を示したディオニス王。その姿をメロスのように受け入れていいのか、あの場にいた群衆のように拍手喝采を送って然るべきか。それを我がこととして考えるときが、今なのだ。

2026年3月書評王:鈴木隆詩
この原稿を書いたのは20206年3月の初旬ですが、今すごい勢いでいろいろな(良くない)ことが起こっているので、1か月後とか2か月後には、我々はいったいどうなってるのでしょうかね。無事だといいですね。

『第七問』リチャード・フラナガン著/渡辺佐智江訳

 第二次世界大戦で大日本帝国陸軍の捕虜となったオーストラリアの軍医・ドリゴの半生を描いた『奥のほそ道』で2014年のブッカー賞を受賞したフラナガン。同作では、敷設のため数万人もの死者を出したことで悪名高い泰緬鉄道(タイとミャンマーを結ぶ鉄道)の強制労働を生き延びた父の経験が題材とされたのだが、その経験にはつづきがあった。
 今作『第七問』は、2012年の冬、父がかつて抑留されていた山口県の収容所跡を語り手〈わたし〉が訪れる場面から始まる。日本へ移され、炭鉱で奴隷労働させられていた父を救ったのは、原爆投下に続く大日本帝国の無条件降伏だった。
 もし原爆がなかったら、日本の降伏は遅れただろうか。衰弱した父は、その冬を生き延びられただろうか。そもそも1945年の夏に原爆が米国によって完成させられるのは絶対に避けられない運命だっただろうか。本書は『タイムマシン』『宇宙戦争』で知られる英国の作家H・G・ウェルズがはじめて原子爆弾を小説『解放された世界』に登場させたことにさかのぼり、作品の影響から原爆開発のきっかけをつくった科学者の人生を、流刑地として出発し先住民虐殺の上に成り立つ出身地・タスマニアの歴史を、語り手自らの家族史を、溺死しかかった自身のカヌー事故を、玉突きのような連鎖反応として描いていく。
 個々のエピソードは章をまたいで複雑に入り組んでいるが、読みにくさとは無縁だ。全十章とエピローグからなる本書は、長くても数ページ、時には数行という節にこまかく区切られ、さまざまな時代と場面を行き来しながら、つねにひとつの問いへと戻ってくる。
『第七問』という書名は、学童に出す暗算問題のパロディとして〈より長く愛するのはだれでしょう〉という算数とは何の関係もないことを問うチェーホフ最初期の短篇からとられている。〈チェーホフは、答えを提示するのではなく必要な問いを投げかけるのが、文学の役割であるということを信条としていた〉とする〈わたし〉は同様に、答えを求めずただ「なぜ」と問い続ける。それが〈決して理解できない〉ことに対峙するために必要な態度だと考えているのだ。
 本書の〈わたし〉は、人の為すことの善悪を軽々しく判断はしない。原爆投下をなにかの理由で正当化もしなければ、断罪したりもしない。あらゆる悲劇的な結果について、仕方の無いことという開き直りもしない。その代わりに、問いがある。
 本書が真に驚異的なのは、世界史的な出来事と、家族の来歴や自分自身の体験が、たくみな構成と語り口によって継ぎ目なく結び合わされていることだ。世界には戦争があり、虐待があり、ジェノサイドがあり、差別がある。ガザでは罪なき人が殺されていて、自分の隣で貧困が人を殺していることはわかっているのに、私(読み手)と世界とは断ち切られている。それは、繋がっていることに耐えられない私自身が遠ざけているからだ。本書は、時間と空間を大きくとった視点と、ものごとをあるがままに見ようという率直さと、冷静な怒り、諧謔、そして内省でもって、このどうしようもない世界と私とを繋げる手助けをしてくれる。
 ろくなことをしない人類だが、本書が手渡すのは絶望ではない。第九章の終わりに〈あなたが今読んでいるこの本は、わたしの父母と故郷の島への、消え去った世界への愛を綴った短い手紙であり、それ以上のものではない〉とある。この偶然にまみれ、結果をおしつけることしかしてこない世界を、どう受け止めて生きていくのか。答えのない問いを、やさしく突きつけられる読書体験だ。

2025年10月書評王:山口裕之

このあとに読んだ『言語化するための小説思考』(小川哲/講談社)でも、〈大事なのは「答え」ではなく「問い」〉〈僕の考えでは、答えのある問いは「小説」ではない〉とあって、なるほどなぁと思いました。