書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

フランツ・カフカ氏にお勧めしたい3冊

 フランツ・カフカ様。あなたがこの世を去った1924年から100年余。生前はあまり評価されなかったとうかがっていますが、現在ではあなたの著作は世界中の人に選ばれていますね。さらに書き手の中にも、あなたが残した作品や言葉にインスパイアされて作品を創り上げた人が大勢います。

 例えば、短編小説の名手として知られるアメリカの作家、スティーヴン・ミルハウザー。彼の短編集『高校のカフカ、一九五九』所収の表題作は、「もしもカフカが1959年のアメリカで高校生だったら?」という設定で書かれた中編小説です。物静かな高校生カフカが、授業中にも関わらずロシア文学に集中しすぎて先生に睨まれたり、気になる女子に声をかけそこなって意気消沈したり、子犬を虐待する青年に義憤から立ち向かっていったり。はたまた「自分は何を知っているだろう?」と繰り返し自問したり。ビビッドながらのどかな毎日が、カフカの人となりを語る同級生たちの言葉と共に綴られています。

 のちの読者の中には、あなたを「不安と絶望を感じ続けて生きた人」と考える人も多いでしょう。でもそれは、19世紀末のヨーロッパでユダヤ系の家庭に生まれ、病気がちだったからこそつくられたパーソナリティなのでしょうね。「高校のカフカ~」の世界では、あなたは好きな読書を楽しみ、自意識に翻弄されながらもおおらかに生きています。そこに作者ミルハウザーの、あなたの本質に迫ろうとする真摯な思いを感じます。

 あなたが訴え続けた絶望や不安に注目した書き手は少なくありませんが、日本の文学紹介者、頭木弘樹もその一人です。20歳で難病にかかり13年間も闘病生活を送った来歴の持ち主だけに、病弱だったあなたへの傾倒はかなりのもの。『絶望名人カフカの人生論』(新潮文庫)の編訳をはじめ、あなたに関する著作を多数上梓しています。中でも強い存在感を放つのが、『カフカ俳句』という一冊。あなたが書き残した短い言葉に自由律俳句(五・七・五や季語の制約がない俳句)の雰囲気を感じ取った彼は、あなたの短編小説や手紙、日記、ノートなどから言葉を拾い、俳句に見立てて味わう試みを本書で実現したのです。

〈鳥籠が鳥を探しにいった〉、〈可能性が息絶える〉、〈世間に逃げ込む〉……。どこかわかるような、でも状況を明確に説明しづらいフレーズを、編訳者の頭木は自分の体験も交えながらていねいに解説しています。例えば〈誰かの腕のなかに倒れたのは、どうもわたしらしい〉というフレーズには、〈貧血で倒れたとき、こんな感じがしたことがある〉と共感。彼が自分事としてとらえたくなるのは、あなたの残した言葉が心からのものだからでしょう。

『カフカ俳句』に収められた80の言葉のうち、チェコ人のミレナ・イェセンスカーという恋人に宛てた手紙からの引用は13もあります。ミレナとあなたがひんぱんに手紙を交わしたのは1年足らずですが、彼女への手紙は100通をはるかに超え、『ミレナへの手紙』(池内紀訳 白水社)などの形でまとめられています。ミレナからの手紙は現存しないけれど、フランスの作家、マリ=フィリップ・ジョンシュレーはあなたの手紙を深く読み込んで「ミレナが書いた手紙はどんなものだったのか」と想像力を振り絞り、『あなたの迷宮のなかへ カフカへの失われた愛の手紙』という書簡小説を生み出しました。

 あなたがミレナと実際に会ったのは、ほんの数回だそうですね。しかし本作からは、手紙で気持ちをやり取りするからこそ愛が燃え上がっていく様子が、痛々しいほどリアルに伝わります。ミレナが憑依したような作者の筆致を、あなたはどう受け止めるでしょうか。カフカ愛に撃ち抜かれた? それとも、重すぎて自分には耐えられない? いずれにしても、あなたの作品や言葉に創作欲をかき立てられた作者ジョンシュレーの思いは、ミレナ本人の手紙に劣らず熱いはずです。

カフカ俳句

2026年1月書評王:田中夏代

note始めました! 「書評王の島」ブログに未掲載の書評も投稿していくので、たまにチェックしていただけるとうれしいです。
https://note.com/tanakayo821

BLというだけで敬遠している人におススメする3冊

 書店に行けば目立つ一角にコーナーが設けられ、ふたりで食卓を囲む日々を描いた漫画『きのう何食べた?①~㉔』(よしながふみ著講談社)や、中年男性の一途な想いと可愛らしさが話題になったテレビ朝日系列のドラマ『おっさんずラブ』など、"BL(ボーイズラブ)"人気はもはや一過性のムーブメントではなくすっかり定着した感がある。
 一方、BLは苦手という意見も当然ながらある。だが、BLと一口に言っても設定や登場人物は様々。感情移入できたりできなかったりするのは他のジャンルと同様で、BLというラベルだけで遠ざけてしまうのはとてももったいない、というわけでまずはこの1冊を。
 やんちゃだが腕は確かな板前星野トオルと、無愛想で〈庭の怪〉退治が本業の庭師、鷹木明との微妙な距離感を描く漫画『てだれもんら①②』(*1)。トオルの明に向ける想いは周囲にダダ洩れだが、寡黙な明の気持ちは示されない。肴を作り一緒に晩酌をして過ごす週末の夜に、明の寝顔をそっと撮りためるのが精いっぱいだ。
 著者中野シズカの体調不良により、1巻の刊行から6年の歳月を経て待望の再始動となった本作。月光に照らされた庭や松露の吸い物、ぐじ(甘鯛)の松かさ揚げなどの料理が美しく描かれ、明の勤務先〈枩叢(まつむら)植木〉店の看板犬、柴犬の丸介も可愛い。
 ラブ要素は控え目ながら、トオルの背中の大きな火傷跡と、繰り返し見る悪夢に明が関わっているらしいことが示唆され、謎の解明に逸る気持ちを抑えつつ、今後の展開をゆっくり見守りたい作品なのだ。
 トオルが明の寝顔を撮影しようとする度、寝ぼけて布団にもぐってしまう明に〈フトンをかぶるな!フトンを!〉と身悶えするシーンがあるが、布団を顔にかけることがリアルに禁止された場所が舞台になっているのが、BL界で熱烈な人気を誇る木原音瀬の「箱の中」だ。
 痴漢の冤罪で実刑判決を受け、刑務所に収監された元市役所職員の堂野崇文。厳しい規則でがんじがらめの雑居房で、屈辱と不信感にまみれ体調を崩した堂野を看病し、優しさを向けてくれたのが同室の喜多川圭だった。殺人罪で服役中の彼には無神経と無邪気が同居しており、感情のやりとりが不器用で、堂野は欠乏と過剰の両極に戸惑い翻弄される。
 集英社文庫版『箱の中』(*2)は、ふたりが出会う「箱の中」と出所後に堂野を探す喜多川の執念が迫る「脆弱な詐欺師」、そして再会後を描いた「檻の外」が所収され、3篇をとおして愛とは何かが鮮やかに描かれている。長年BL布教に尽力してきた作家三浦しをんの秀逸なBL考察を含む、素晴らしい作品解説も必読だ。
 堂野の人生は冤罪で一転してしまったが、『あなたについて知っていること』(*3)の若き医師ターレクもまた、ある出会いによって思ってもみなかった未来を迎えることになる。
 1980年代、エジプトのカイロでターレクは父のクリニックを継ぐべく医者になり、妻を娶って順風満帆の生活を送っていたが、スラム地区の美しい19歳の青年アリーの家にその母を往診するようになってから、全てが一変するのだ。溺れるようにアリーを愛するターレクを糾弾する周囲の人々の目。
 やがて起きた事件を契機にターレクは、自身の人生を生き直す決断をする。彼が手放したものは、得たものは何だったのか。しかしそれを語るのは本人ではなく、ターレクを〈あなた〉と呼び、その胸中に思いを馳せ代弁する、謎に満ちた語り手の存在によって、後半の物語はがらりと趣きを変えてみせる。
 小説や漫画におけるBLとは一種の仕掛けだ。社会的には未だ逆風であるにも関わらず、それでもこの道を選ぶという登場人物たちの意思が創作物のボルテージを押し上げ、主題を鮮やかに魅せてくれるのだ。読まず嫌いはもったいない。

2025年11月書評王:関根弥生
 2作目に紹介した『箱の中』の解説で、三浦しをんさんがこの作品はノベルス版『檻の外』(蒼龍社)所収の「なつやすみ」まで読んで初めて完結するのだ!と熱く語られているのですが、絶版&電子化もされていないとあって、もはやツチノコ級の幻の書となっています。Amazonでの5千円超高値を選ぶか国会図書館に読みに行くか…。

『南海王国記』飯嶋和一著

 2025年のGWに台湾南部の都市・台南を訪れて感じたのは、当地に縁が深い鄭成功(ていせいこう)という人物を、前もって知っておけばより楽しめたのに、ということだった。漢民族の王朝である明が倒れ、中国大陸の支配を東北部の満州族(のちに清を建国)に明け渡していく過程で、最後まで抵抗し続けたのが鄭成功とその一族だった。明朝が事実上滅びた後もアモイと周辺の島を中心に活動していたが、1661年、船団を率いて当時オランダ人が城塞を築いて拠点としていた台南を攻略。本人は翌年没するも、鄭氏は1683年に清に滅ぼされるまで三代に亘って台湾島を保持し、独自の政権を築いたことで、今日では台湾の「民族の英雄」として祀られる存在となっているのだ。
 骨太な歴史小説で知られる飯嶋和一。2018年の『星夜航行』以来、7年ぶりの長編『南海王国記』は、この鄭成功を軸に明朝から清朝への王朝交代を描く。
 建国以来、鎖国政策を続けていた明だったが、その末期、ヨーロッパ人の到来によって否応なく東アジアは国際貿易の渦に巻き込まれる。そこで頭角を現したのが、福建出身の海賊貿易商・鄭芝龍(ていしりゅう)。密貿易で財を築き、武装集団を率いるようになった彼は、政府から福建沿岸の防衛提督に任じられ、さらには都督にまで栄進する。一方で、北からの満州族の侵攻と、西からの農民の反乱によって、ついに明朝は瓦解。北京も南京も奪われた漢民族は、残された華南にいくつかの南明政権を立てて清に抵抗する。鄭芝龍も太祖ゆかりの人物を呼び寄せ隆武帝(りゅうぶてい)として擁立するのだが、清の攻勢はすぐそこまでせまっていた。
 長崎・平戸の武士の娘と芝龍との間に生まれた長男で、7歳のとき日本から父のもとに呼び寄せられて科挙合格を目指し学問に励んでいた森(しん)は、明朝崩壊にあたって1645年、22歳で武人として生きる決心をする。隆武帝に拝謁した際、あまりの美丈夫ぶりに皇帝の姓・朱を賜り、名も改めて成功とするように命じられたが、さすがに畏れ多いとして以降「国姓」と自称。のちに近松門左衛門が著して大ヒットを飛ばす「国性爺合戦」は、成功に題材をとったものだ。
 1646年、芝龍はもはや明に忠誠を誓う理由がないと清に降伏したが、信を重んじる成功は父と袂を分かち、南澳島で挙兵。以来、彼は抗清復明の旗を掲げ、最後まで清と戦い続ける勢力の中心となる。
 500ページを超える本書。序章は1628年・「寧遠の戦い」に始まり、成功の挙兵は第三章、台湾攻略は第四章。第六章、成功の孫の代に、かつては鄭氏のもとにいた武将・施琅(しろう)が率いる清朝の進撃に抗せず、台湾島を明け渡すまでが物語となる。
 重厚かつ緻密な描写は本作でも貫かれているが、これまでとは異なるところもある。飯島作品には必ずあった“名も無き者”たちの声が、今作では聞こえてこないのだ。『雷電本紀』では、史上最強の力士・雷電為右衛門に希望を託す江戸の庶民がいた。『出星前夜』は、島原の乱を天草四郎視点ではなく圧政に耐えかねた庄屋衆たちの蜂起として描いた。そうした虐げられた側からの熱は本作には存在せず、鄭成功は自分のなかの「信」のみを頼りに戦い続ける。そのためか、これまでにも増して価値判断が読者に委ねられているという印象を受けるのだ。
 たとえば鄭成功の言動はたしかに英雄的だが、自らの「信」に縛られるあまり、部下や家族への対応が峻烈に過ぎるのではないかと、評者としては感じてしまう。少数民族である満州族がなぜ中国大陸で長期間にわたる帝国を築くことができたのかといえば、明の制度を残し、漢人支配層を柔軟に取り込んだことによる。本書でも施琅をはじめ、多くの明の文人・武人が清に寝返る。成功は嘆くが、清にあって彼に不足していたのは、その懐の深さなのではないか。
 節を曲げずに最後まで信に生きた硬骨漢ととるか、理想は立派だが柔軟性が足りないリーダーととるか。中国本土からの圧迫を受けつつも、したたかに領土を保っている台湾の始まりに、思いを馳せる一冊だ。

2025年9月書評王:山口裕之
台南は、ストリートフードがおいしくて、台北とはまた違った魅力がある街でした。屋台の牡蠣オムレツ、また食べたいなぁ。

『たのしい保育園』滝口悠生著

 早春の朝。〈お母さんがよかった〉と最近覚えた過去形を駆使し、泣き喚いて暴れる2歳のももちゃんを抱きかかえ、なんとか気持ちを逸らそうと話しかけながら歩いて保育園に向かうももちゃんのお父さん。二人と一緒に家を出て、反対方向にある駅に向かっているももちゃんのお母さんは、後ろ髪を引かれながら背中でその騒動を聞いている。
 滝口悠生の最新作『たのしい保育園』は、季刊「文藝」の2023年夏季号から2024年秋季号までに連載された「緑色」「恐竜」「ロッテの高沢」「音楽」「連絡」の5篇に、書き下ろしの「名前」を加えた計6篇からなる連作短編集だ。
 著者本人と思しき、1982年生まれで文筆業を生業とするももちゃんのお父さんの視座を中心に、パンデミックの最中に生まれたももちゃんの3歳までの日々が、時系列は行きつ戻りつ、記憶が紡がれるまま連想が跳ねるままに描かれている。
 冒頭に紹介した、ある日の登園風景を描いた「緑色」は、困ったなぁとは思いつつももちゃんの意志の強さに成長を見出す父親の視点から、回収日を間違えてゴミを出しに来たご近所の富士見さんに切り替わり、父子の騒動を微笑ましく眺めながら、子どもは持たなかったが後悔や残念さだけでもなく、とはいえ夫に少しの疎ましさを覚えないではない30年余に及ぶ結婚生活に想いを馳せる。ようやく電車に乗り込んだももちゃんのお母さんが、〈耳のなかでまだ娘の泣き声がちょっとだけ聞こえ〉て、仕事場に着いてからも卒乳のタイミングを思案するうちに、〈あ、カルガモが泳いでる〉と川面を指さす父親にまた視点は戻り、ピンク色の桃の蕾や〈燃えるように広がる黄色〉のミモザが、泣き疲れたももちゃんを囲む世界が鮮やかに立ち上がってくるのだ。
 著者が本作について「本チャンネル(配信日2025年4月30日)」のインタビューで〈保育園や保育士さんについて書こうと〉したと答えている通り、全編を通して〈保育園という場所への畏敬の念〉と、前例のないパンデミックの中で、必死に日常を守ろうとしてくれた保育士や同じ園に通う保護者たち、そして子どもたちへの敬意が込められていることに胸を打たれる。
 6篇の中でちょっと特異なタイトルの「ロッテの高沢」では、特にそれが顕著だ。ももちゃんのお父さんは保育士との面談で、1980年代に走攻守すべてにおいて安定した活躍を見せたロッテの高沢選手の話題を振り、〈本題のすごく遠くから話はじめて〉しまうが、その〈迂遠な語り方を無駄ともおかしいとも〉思わずに真摯に受け止めた担任の湯美さんは、数年を経た後に、あのときももちゃんの父親が、オールラウンダーの資質が求められる保育という仕事への敬意と感謝を示そうとしていたことにようやく気づく。
 「連絡」は、ももちゃんの保育園では、連絡帳のアプリを使っているのだが、ももちゃんの父親が書くそれは、〈コメント〉の域を遥かに越えて、ももちゃんの成長の一つひとつを刻印していくこと、そしてそれを伝える宛先があることの喜びに溢れている。
 ももちゃんのお父さんが、容量オーバーのエラーを起こすほど書き過ぎてしまうのは、子どもの成長と"喪失"が背中合わせであることを敏感に察知しているからだ。だから〈ああ-っていう気持ち。それは子どもの成長を目にしたときの感動とよろこびであり、同時に幼さや未熟さが失われていくことの寂しさでもある〉という湯美さんの言葉に深く頷き、母乳やミルクの甘やかな息を、さえずりのような喃語を、育児の只中にいるときには必死過ぎてなかなか気がつけない宝物を、書くことで記憶に留めようとしているのだ。
 「It takes a whole village  to raise a child」というアフリカのことわざがある。直訳すると1人の子どもを育てるには村全体の協力や知恵が必要であるという意味になる。預かる子どもだけでなく、ときに子育てに行き詰まる保護者の辛さも受け止めてくれる保育園は、まさにこの〈村〉の中心を為すところではないか。
 『たのしい保育園』は、子育て経験の有無など関係なく、また子どもという存在を苦手に思うひとにも、ずっと前に自分も子どもだったことを思い出させてくれ、こんな新鮮な驚きに満ちた世界があるのだということを伝えてくれる楽しい〈連絡帳〉なのだ。

たのしい保育園

たのしい保育園

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2025年6月書評王:関根弥生
 自分が経験したことのないことでも、本を読んだり映画を観たりして、我がことのように感じたりすることはあると思うのですが、育児についてはなぜか「体験してない人にはわからない」になりがち、な気がします。 『たのしい保育園』を"育児"や"父親小説"としての側面からだけ紹介すると、読む人を狭めてしまうのではないか、でもそれはとても勿体ないことだと思ったので、なるべくそうならない書き方を心がけました。

『ジェイムズ』パーシヴァル・エヴェレット著/木原善彦 訳

初読のオレ:全米図書賞&ピュリツァー賞の二冠をキメた『ジェイムズ』を読んだよ。
再読のオレ:黒人奴隷ジムの視点から『ハックルベリー・フィンの冒険』を語り直したという話題作ね。どうだった?
初読:おもしろかったけど不自然なところがいっぱいあって。それが本作の問題なんだか、本歌取りだからなのか、ちょっともにょる。
再読:たとえば?
初読:虐待する父親から逃げてきたハックと「よそに売られる」と聞いて逃げ出したジムがともにミシシッピ川を下っていく珍道中を描く、というのは本家由来として。偶然が都合良すぎ。追っ手からは発信器でもついてんのってくらいよく見つかるし、いったんはぐれたジムとハックが再会するとこも2回とも確率的にあり得んって感じだし。
再読:本家『ハック・フィン』前半をなぞってる第一部でだいたい6割くらいのボリューム。第二部・第三部はオリジナルだからぜんぶ本家のせいにはできんなぁ。
初読:後半のほうがスピード感上がってよかったよ。本家読んだの?
再読:再読しながらね。後半グダるから、前半だけもってきたのはGJ。言うとくけど、オレ的評価だとめっちゃリーダビリティ高くなってるから。
初読:逃亡劇として話の筋を通してあるし、章が短くて事件の起こるテンポがすごくいいよね。
再読:逃げてるだけじゃなく、離ればなれになった妻と娘を取り戻すというモチベがあるから、下を向いていられない。連続する「もームリ」って状況をどう打開するかという『隠し砦の三悪人』みたいな楽しみもある。
初読:不自然といえば、物語上のおおきな約束があるよね。ジムたちが訳文だと「何をしただ?」みたいな〈奴隷言葉〉をしゃべるのは白人たちの前だけで、それは黒人をバカだと思わせておくため、白人を優越感に浸らせておくほうが安全だからなんだと。
再読:そういう意味では、一種の「歴史改変もの」といえるかも。
初読:それにしてもジムが天才過ぎる。判事の図書室に入ってときどき本を盗み見るだけで、誰にも教わらないで本を読めるようになる? 初めて鉛筆を握った手で、文章を綴れる? その教育水準で夢の中とは言えジョン・ロックやヴォルテールと哲学的な議論を交わせる?  オレはジムがトラック転生して知識と記憶を持ったまま生まれ変わったきた高学歴現代人だって言われても驚かないね。
再読:普通じゃない。でも、その飛躍は小説として絶対に、絶対に必要なんだ。
初読:どういうこと?
再読:『ハック・フィン』を語り直す意味は、どこにあると思う? 黒人奴隷史そのものを現代的な価値観から塗り替えることだ。あらためて言うが、何十万人もアフリカから拉致してきて、その子孫も奴隷にし、南北戦争前には400万人もの奴隷をつくり、それを神にも正当化させたんだ。白人の黒人に対する、人が人にしていいわけないことしてきた歴史を直視させるための作品なんだから、コレ。
初読:そのためなら不自然でも仕方ないと?
再読:不自然が積極的に必要なんだ。ジムでなきゃダメなんだ。これが黒人でも例外的に教育をちゃんと受けた人がいて、という話にはできない。ジムだけじゃなく、黒人のなかでもかなりの部分はバカのフリをしていたんだというところまで持ってきて、初めて作品に意味が生まれる。
初読:もうそれ開き直りじゃん。
再読:ジム(黒人)の身にもなってみろってこと。そうでもないとわかんねぇだろ、現代人(おれたち)にはさ。
初読:アメリカ文学の名作とされながら、当時の言葉遣いや偏見がモロに出てるせいで問題視されがちな作品だからこそ、盤面ひっくり返すための梃子になるってことか。
再読:差別や偏見と闘うために、小説にしか出来ないことがある。本作は、いや時代を考えれば本家こそ、そういう作品なんだよ。

2025年8月書評王:山口裕之

 書評では削りましたが、ジムとハックがいかだでミシシッピ川を下る間、着替えをしている描写がないので、実はすごい臭いになっていたんじゃないかということが一番気になりました。

『ゾンビ回収婦』小砂川チト著

 必死になって床の血しぶきをぬぐう。このホテルにきて、主観的には数年が経つ。その間、飲まず食わずでひたすらバラバラに破壊されたゾンビの身体を拾い集め、清掃をしている。〈わたしはこのホテルの、たったひとりの掃除婦。あるいは、ゾンビ回収婦。〉
 第175回芥川龍之介賞を受賞した小砂川チト『ゾンビ回収婦』は、冒頭から抜群のスピード感で読者を異世界へと引きずり込む。
 AIによって職を奪われ、夫にも家出された30代女性〈わたし〉は、夫の部屋に残されたVRヘッドセットをおそるおそる装着したとたん、別の意識として目覚める。そこはまさに墜落しようとしているヘリコプターの中だった。アウトブレイクの発生した町にヘリは不時着。その残骸をあとにして、たどり着いたのは雪山に建つ巨大なロッジ風の建物〈グランド口唇期ホテル〉。ここで〈わたし〉はゲーム内のNPC(ノン・プレイヤー・キャラクター)として、ゾンビパーツ回収および館内清掃をただひとりで担うことになる。
 意識はゲーム世界にあっても、肉体は〈わたし〉の部屋にある。初めてヘッドセットを外したとき、現実世界での肉体感覚を喪失していて、たった八畳のリビングを〈亡者のようにさまよ〉った末やっとのことでトイレにたどりつく場面は、ゲーム世界の引力と、そのあやうさを雄弁に物語る。〈わたし〉にとって、すでにどちらが現実かは自明ではない。
 単行本で160ページの本作は、短いプロローグのあとに1~4と題された章で構成されている。うち2章がもっとも長く、全体の半分を占めている。〈わたし〉の感覚ではゲーム内で九年が経過していても、現実世界ではおそらく数日から長くても数週間ほどのできごとだ。時系列は意図的に組み替えられている。〈わたし〉がなぜNPCの業務を代行するようになったのか、その理由が明かされるのは第2章の中盤。ゲームの製作者らしき人物が現れ、世界の構造が見えてくるのは、その終盤だ。ただ、謎だけでひっぱる物語ではない。現実の問題がゲーム世界へ投影されている、そのやり方がユニークなのだ。
 現実で仕事を失った〈わたし〉は、ゲーム内では追い立てられるように働きづめに働いている。しかし、完璧に仕事をこなしても誰からも褒めてもらえないことに鬱屈を感じてもいる。このゲーム内で、ゾンビは個々にAIが組み込まれていて「役を演じて」いる。その安定稼働のためにカウンセリングが実施されていて、NPCになりすました〈わたし〉もゾンビのあとについて診察室のドアを開けるのだが――。ここで交わされる対話こそが、本作のコアといってもいいかもしれない。
〈わたし〉はゲーム世界にいくつもの現実世界の感情を持ち込んでいる。AIに復讐したいという気持ち、仕事で評価されたいという気持ち、そして、わたしがわたしである意味があってほしいという気持ち。特別に目をかけていたゾンビ個体が射殺されたあと、彼と自分とを重ね合わせて〈わたし〉は嘆く。〈どう考えても、どこまでいっても、わたしたちはたがいに置換されうる命だ。かけがえのないの反対だ、ありふれた、汎用型の、とるにたらない――存在だ〉〈いったい――いったいこの困難さは、〈わたし〉を運用していくにあたって生じるこの途方もないくるしさはなんだというのか。世界の中心はこの場所だと、主要人物はわれわれでしかないのだと、われわれがそう言わないのなら、はたしてほかの誰が言ってくれるだろうか?〉 一見無個性なゾンビばかりの世界で、〈わたし〉の抱える問題はより鮮明な色を帯びる。
 AIに仕事が奪われる、という表面的な現象の先に何があるか。人間らしさが不完全さの言い換えにすぎなくなったとき、人間に残されるものは何か。現実世界と虚構の世界を、脳は区別できるのか。できないとしたら、現実の価値とは何なのか。現代的な問いが凝縮されている、いま読む意味のある作品だ。

2026年6月書評王:山口裕之

 『Left 4 Dead』(2009年発売)というサバイバルホラーゲームをすこしかじっておりまして。もしかしたら、作者的にはもっとモダンなゾンビゲームを想定していたかもですが、自分としてはあぁあれかぁという感じ。これに限らず、ゾンビ世界観が読み手にインストールされているかどうかで結構読み心地が違うなぁと思うのですが、芥川賞がとうとうゾンビOKということになったのは、ちょっとうれしかったり。ゾンビは現代人の基礎教養です。

『蒲団』田山花袋著

 田山花袋本人がモデルとされ、私小説の祖ともいわれる『蒲団』。フェティッシュな面ばかり取り沙汰されるが、単に不倫妄想を描いた作品と評することには違和感がある。

 主人公は、30代半ばを迎えた文学者・時雄。既婚者で子供も3人もうけたが妻とは倦怠期。仕事にも精が出せず日々悶々としている。そんな折、19歳の美しくハイカラな女学生・芳子が時雄に弟子入りしたいと懇願してくる。退屈な日々に突如舞い降りた麗しき女神。時雄はすっかり心を奪われてしまう。

 違和感を覚えるのはここ、時雄と芳子の出会いの場面だ。鬱屈とした中年男の時雄と、キラキラ女学生の芳子の描写があまりに対照的なのだ。もし不倫で憂さ晴らしするなら、手近で手頃な、御しやすそうな女で済まそうとするはず。しかし、時雄の前に現れた芳子はどこかファンタジーで、時雄が向ける思いもまた偶像崇拝に近く感じる。そして気付いた。あ、これ、不倫の恋じゃなくて、アイドルに沼ったオタクだわ。評者もドルオタだからピンときた。なんだ、時雄(=花袋?)、こちら側の人間だったのか。

 例えば時雄は最初、所詮文学をやろうなんて女は不器量に違いないと偏見を持つ。しかし、実際の芳子は通行人が振り返るほどの魅力的な容姿をしているし、文才もある。まるで「どうせ地下アイドルなんて…」とバカにしていたのに実際ライブで見たら「めちゃ歌上手い!ダンス上手い!何よりビジュがいい!」となってズブズブ沼るオタクそのものである。

 さて、芳子を弟子として迎え入れた時雄は、すぐに手を出したりなんかせず、しっかり師匠として振る舞う。要するにええカッコしたいのである。文学について偉そうに講釈を垂れるのはまあいいが、さらに「明治の世の女たるものかくあるべし」ということまで言って聞かせるのだ。余計なお世話である。まるで特典会でアイドルに説教する厄介オタクそのもの。こういうオタクは実際存在して、評者の知人オタクA氏も「ライブの後は必ずダンスの出来について意見してあげてるんですよ!」と得意げに宣っている。鼻につくので最近距離を置くことにした。

 話を戻して時雄と芳子だが、ついに時雄の心をかき乱す事件が起きる。芳子の男バレである。相手は芳子と同年代の学生・田中くん。当然時雄は嫉妬の炎を燃やすが、表向きは〈温情な保護者〉として2人の仲を応援する体でいる。 しかし実際は〈接吻の痕、性欲の痕が何処に顕れておりはせぬか〉、つまり肉体関係を持っていないか2人の手紙まで調べ出す始末。まるで好きなアイドルと共演者のインスタグラムを舐め回すようにチェックし、やれ匂わせだなんだと大騒ぎしたがる厄介オタクそのものである。

 どこをどう考えても芳子の気持ちは田中くんにあるのだが、時雄は〈(自分と)語り合う胸の轟、相見る眼の光、その底には確かに凄じい暴風が潜んでいたのである〉と、芳子も自分を想っているかのように解釈する。そんな時雄の姿は、評者の知人オタクB氏に重なる。B氏は沼っていたアイドルYちゃんが男バレした際「もう現場行くのやめる。Yちゃんが俺の顔見たら、絶対泣くと思うから」と宣った。時雄といいB氏といい、どうしてそこまで妄想を肥大化できるのか。

 芳子との別れを迎えた時雄は、いよいよあの「芳子の蒲団で残り香クンカクンカ」行動に移る。オタクがアイドルからオタ卒するときの儀式は様々だ。買い集めたグッズを切り刻むでもいい、数千枚のチェキを燃やすでもいい、時雄の場合、ただ傍に芳子の蒲団があった。それだけだ。

 本作は私小説どころか、ドルオタ小説の祖として今こそ、令和の世に放たれるべきなのである。

2026年7月書評王:林亮子  

 カルチャー誌に載せる想定で書きました。主人公・時雄(花袋自身?)がもし今の世に転生したら、なかなか楽しいアイドルオタクライフをエンジョイするかもしれません。書評では厄介なオタクの話ばかり書いてしまいましたが、基本的にアイドルオタクの皆さんは優しくていい人たちです!いつも大変お世話になっております!