書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

『未来散歩練習』パク・ソルメ著 斎藤真理子訳

 かかとを浮かせて、その分だけ少し詩に近づいたような軽やかな文体で、1990年頃と思われる時期の中学生スミと、現在の物書きの〈私〉、人生のいっときを釜山で暮らす二人の物語が交互に語られる。二人はそれぞれ日常のなかで、時空や虚実の境を越えて他者と混じり合い、過去をまといながら未来に滲んでいくように見える。

 スミは、蔚山で父親の事業が失敗し、一時的に釜山にある母親の実家に身を寄せている。そうした事情はあるものの、ごく普通の中学生といえ、同じクラスのジョンスンと図書館に行って他愛ないおしゃべりをし、遠い外国で働く大人の自分を夢見たりしている。

 そこへある日、祖母が刑務所から出てきた〈ユンミ姉さん〉を連れてきて、一緒に暮らすことになる。姉さんは〈前に龍頭山公園近くのアメリカ文化院に放火して捕まった中の一人〉だった。スミは事件の詳細を知らないし、誰も直接語りはしないが、姉さんのやせた体から放たれる池の水みたいな匂いや、姉さんが変な行動をしたら報告するように言う担任の先生の言葉や、姉さんの背中を撫でる旅先の小さくて固い皺のある手からさまざまなものを感じ取る。そしてそれらがスミの中から溢れ出したとき、自分の目の前の出来事がすべてだった彼女の世界観が変わりはじめる。

 1980年、朝鮮半島の釜山とはちょうど反対側にある都市光州で、民主化を求めて蜂起した学生や市民を軍部が武力制圧し、多数の犠牲者を出した光州事件が起きた。ユンミ姉さんが関わっていた〈釜山アメリカ文化院放火事件〉とは、1982年、大学生のグループが、こうした韓国軍部の独裁を容認しつづけたアメリカの責任を問い、釜山にあるアメリカ文化院に火を放った事件である。死傷者を出し、主導者は死刑判決を受けた。

 この放火事件を接点としてスミの物語とつながるもう一つの物語の主人公〈私〉は、現在のソウルで会社員をしつつ、ときどき原稿を書くために釜山に滞在する物書きだ。銭湯での出会いを縁に、60代の実業家女性チェ・ミョンファンがもつ古いマンションの一室を借り、少しずつ日用品を買いそろえながら、彼女と食事をしたりテレビで映画を見たりし、知り合いのような友人のような関係の輪を広げて、釜山の街になじんでいく。

 事件後のまだ濃密な空気を肌で感じるスミとは違い、〈私〉は数十年経った釜山の街を歩き、物書きらしい想像力で、同じ道を歩いて新しい世界を夢見た学生たちのことを、デパートの六階からビラをまいた男性のことを、会社の窓際に立って文化院から噴き上がる煙を眺めた若き日のチェ・ミョンファンのことを、その人の中に入り込むようにして思い描く。

 現在は近現代歴史館となった旧文化院の階段を下りながら、〈私〉は放火した人たちについてこんなふうに思う。〈現在と未来について考える人たち 来たるべきものについて絶えず考え、現在にあってそれを飽きずに探し求める人々は、すでに未来を生きていると思った。絶えず時間を注視し、来たるべきものに没頭し、人々の顔から何かを読み取ろうとする人々は、来たるべきと信じるそのことを、練習を通してもう生きているのだと。〉

〈放火した人たち〉は、建物を破壊し結果的に人も殺し、その行いは全面的に肯定できるものではもちろんないだろう。でも、スミと〈私〉の物語は、彼らのテロリスト的側面ではなく、彼らがものを食べて街を歩き家で眠る一個人であることや、彼らが理想の未来を信じ実現しようとしていたことに目を向けさせる。『未来散歩練習』のなかで誰かが信じる未来のイメージは、柔らかな光に満ちている。ふと思う。今の自分は、火を放つほど強く、光の未来を信じることができるだろうか。

 著者パク・ソルメは、1985年光州生まれ。邦訳にはほかに、日本オリジナル短編集『もう死んでいる十二人の女たちと』(斎藤真理子訳、白水社)があり、その中の「じゃあ、何を歌うんだ」も光州事件を扱っている。

 

2023年10月書評王:肱岡千泰

 あいだにお休みをはさみましたが、書評講座に通いはじめて一年と数カ月。同じ本でもつづけて複数回読むと、全然印象がちがって驚きます。今回の本は、本文から引用箇所候補をパソコンで抜き書きしていると、文字を打つ手が楽しくなるほどリズムの美しい文章でした。