書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

【作家紹介シリーズ】石田夏穂

 デビュー作『我が友、スミス』(2021年)で第166回、2023年『我が手の太陽』で第169回芥川賞候補となった石田夏穂。1991年埼玉県生まれ、東京工業大学工学部卒。プラント建設会社の社員としての顔もある。今回、惜しくも受賞はならなかったが、私はこの作家を信頼している。相性がいいといってもいい。賞を取るかどうかはわからないが、今後もいい作品を書いてくれるだろうと思うのだ。
 石田作品でまず目を引くのは、ディテールの描写力だ。『我が友、スミス』は会社員の女性がボディビルにはまっていくという内容だが、読者の多くには馴染みのないだろう業界独特の環境、慣習、思考様式といった「異世界描写」が非常に巧みで、スルスルと作品に入り込んでいける。『我が手の太陽』では主人公である溶接工の手元の作業や、安全のために職業倫理として求められる行動が、緻密にストーリーに組み込まれている。
 描写は具体的で、端的だ。〈身体は、いちばん正直な他人だ。身体を酷使することによる思考のシャットダウン。私は日に日に強靱になっていく身体は元より、この真空地帯に淫したのだった〉(『我が友、スミス』)、〈配管溶接ではまずこの開先と呼ばれる配管の縁を、溶接できる状態まで加工する必要がある。具体的には「V形」にする必要があり、こうすると配管の内部まで入熱しやすくなるのだ。炒める前にソーセージに切り込みを入れるようなものだ〉(『我が手の太陽』)といった具合。言葉の選び方にもセンスがある。スミスマシン(軌道が固定されているタイプのバーベル・マシン)のような筋トレ界の用語、スパッタ(火花として飛び散る金属屑)やキュウクロ(クロム9%含有の鋼材)といった溶接業界用語など、その世界の空気を濃密に含んでいる言葉を作品内に上手に取り込み、かつ注に逃げずに本文で説明する。それが、読みやすさとテンポのよさに貢献している。
 文章にユーモアがあるのもいい。とくに笑える作品といえば『ケチる貴方』だ。語り手は重度の冷え性の女性で、人にはわかってもらえないがなかなかハードモードな人生を送っている。シャワーを浴びる際にも〈冷水の間、素っ裸の私は片手にシャワーヘッドを持ちながら自分から限界まで遠ざけるという妙な体勢になっている。毒蛇を捕まえたから、早く籠を持ってこいと言わんばかりだ〉だし、〈食事は温活の中核とされるが、その心はものを食べると食事誘発性熱産生なる戒名じみた現象が発生するからだ。が、星五つの激辛カレーを食べても私は辛い辛いと苦しむだけで、汗の一つもかかない〉といった描写にも、自分を客観視できる人のボケというか、真顔で冗談を言うタイプのおかしみがある。
 石田のこれまでの作品の主人公には、なにがしか「ゆずれないもの」がある。ボディビルの大会で「女らしさ」を要求され、審査されることに納得できない私(『我が友、スミス』)。劇的に冷え性を改善する方法を発見したのに、どうしても超えられない一線がある私(『ケチる貴方』)。太い脚が何よりのコンプレックスで、収入のすべてを費やして脂肪吸引を繰り返す私(「その周囲、五十八センチ」(※))。理不尽な理由で人事部に自分を異動させた会社への復讐のため、新卒採用の基準にとあるルールを厳しく適用する私(『黄金比の縁』)。初の男性主人公となる『我が手の太陽』では、溶接工としての腕に誇りを持ち、自分の職能を自分の価値そのものだと信じている男が、その信念ゆえにアイデンティティの危機を迎える。共通するのは、どこか真面目で、融通が利かない、ごまかして生きていくのが上手じゃないやつらだということ。だからこそ「ゆずれないもの」があるのだ。この作家への信頼は、自分もまた同様に不器用なやつら界の一員だという自覚があるからかもしれない。石田夏穂なら、生きづらい世の中を懸命に生きる仲間を、これからも描いてくれるに違いないと思っているのだ。

 

 

(※)「その周囲、五十八センチ」収録

 

 

2023年8月書評王:山口裕之
サマソニ大阪に初参戦してきました。暑かった。死ぬかと思った。でも、「この場に立ち会った」みたいな達成感がやっぱたまらんですね。

酷暑でエアコンが壊れた人にお薦めする3冊

 え~、今年7月の平均気温が45年ぶりに記録を更新し、観測史上最高となったそうで。そんな最中に我が家のエアコンが壊れ、絶望している読楽亭評之輔でございます。
 せめてもの涼を求めんと、怪談やホラー、ゴースト・ストーリー等々読み漁りまして。その中でも、体感温度マイナス5度をお約束しますのが『呪物蒐集録』。オカルトコレクター田中俊行さんの私的コレクション54品を、写真と共にその来歴や生じた異変を紹介する禍々しさ満載の1冊。
 京都のとある屋敷跡で、死者を撮影した奇妙な写真と一緒に見つかった〈鵺(ぬえ)の手〉や、遺灰を原料にしたタイのミイラ型人形〈クマントーン〉など、民間信仰の呪物もおどろおどろしいですが、脳天から足先まで全身に釘を打ち込まれた人形からは、宗教でも習俗でもない、生々しい個人的な怨嗟が迫ってまいります。秀逸な帯の惹句〈見るだけで障る〉に偽りなし、なんでございます。
 しかし、見た目が焼焦げた亀の甲羅みたいな、チベット高僧の頭蓋骨〈カパーラ〉を、〈たまに被って一緒になるというか、この人の記憶が蘇るように〉するけど〈ちょっとまだわかんないな〉と笑って語る著者の感性の方が、わたくしには怖いんですがね。
 怪談師としても定評のある、田中俊行さんの代表作「あべこべ」は、夜釣りに出かけたカップルが怪異に遭遇するってぇ話。これが死装束は左前に着せるなど、この世とあの世を隔てるための〈逆さ事〉に材を採ったものであることを教えてくれるのは、伝承文学を専門として國學院大學で教鞭を執る伊藤龍平さんの『怪談の仕掛け』。
 深夜、実在しないはずの駅で降りた〈はすみさん〉の身に起きた異変を伝え、2004年に〈2ちゃんねる〉を騒がせた「きさらぎ駅」が、なぜ現在もインターネットで流布される〈ネットロア〉の金字塔となり得たのか。
 大蛇が舐めていた草を懐に忍ばせて、蕎麦の食べ比べに挑みたる清兵衛。暫くの後様子を見に行くと、座敷にはうず高く積まれた蕎麦と羽織だけが残されていたという落語「そば清」などを題材に、極めて真面目に〈怪談〉のメカニズムを解き明かしてくれるんでございます。仕組みがわかっちまうんじゃ興醒めかと思いきや、いえいえ、怪異というものの奥深さに、体感温度マイナス3度は確実。
 と、ここまで計8度体感温度を下げてみましたが、湿度の国日本だけではまだまだ暑い。1900年に英国の孤島で実際に起きた、灯台守3人の失踪事件を元に描かれた『光を灯す男たち』でぐっと冷やしてまいりましょう。本作は文芸ミステリでありながら、極上のゴースト・ストーリーでもあるのでございます。
 1972年12月、英国コーンウォールのメイデン・ロック灯台。8週間の勤務を終え休暇に入る灯台守の交代員と補給品を乗せた船の乗組員が見たのは、内側から施錠された扉と食事の用意が整った食卓、そして同じ時刻で止まった二つの時計。海に囲まれ、船でなければ行き来のできない灯台から、なぜ、どうやって灯台守たちは姿を消したのか。事件か事故か。調査は行われたものの真相は不明なまま、死亡と判断された3人の男たち。
 ところが20年後、残された家族や恋人の元に、一人の作家が訪ねてきて取材を始めたことで、止まっていた時計が動き出します。
 物語は1972年と1992年を行き来し、新しい光を当てることで、各々が抱える秘密と思惑が、次第に明らかになっていくのでございます。美しい文章で綴られる謎解きと、来る日も来る日も風が吹き荒れ、見渡す限り青灰色の冷たい海が、しばし酷暑を忘れさせてくれること間違いなし。体感温度マイナス7度をお約束いたします。
 ですがねぇ、一体いつからこんなに地球が暑くなっちまったのか、それがわたくしにとってはいち番の謎かもしれません。お後がよろしいようで。

2023年8月書評王:関根弥生

3冊書評での書評王は初。流した汗の量だけ喜びもひとしおです。読書好きの落語家が、寄席演芸専門雑誌の書評欄「読楽亭評之輔のお薦め本コーナー」で書いているという設定です。

『自称詞〈僕〉の歴史』友田健太郎著

〈俺〉〈私〉〈僕〉。英語ではすべて「I」なのに、日本語では役割が異なる。さらにこの3語について、とくに男性は使い分けを社会的に訓練される。〈俺〉は私的領域でしか使わない、公的な場では〈私〉を使うべきだと。しかし〈僕〉は? 公的ではないが、私的に限るとも言えない。学生っぽいが、大人でも使う。〈鵺のような言葉〉である〈僕〉が、どこから来てどう広まったのか、そして日本社会にどんな影響を及ぼしてきたのかを明らかにするのが『自称詞〈僕〉の歴史』だ。
 一見、つかみ所がなさそうな〈僕〉の正体に挑む著者・友田健太郎は新聞社勤務後、ニューヨーク州立大学バッファロー校で経済学修士号を取得。経済・文藝・演劇評論などを経たのちに、日本政治思想史研究に転じ、日本語教師としての顔もある。訳書に、徳川幕府と地方大名が互いに「演技」することで政治的安定が保たれていたとする米国人研究者の論考『泰平を演じる——徳川期日本の政治空間と「公然の秘密」』(ルーク・S・ロバーツ著/岩波書店)があるが、これが専門書にとどまらない非常に興味深い読み物になっているのには、訳者の貢献があるに違いない。本書の視点・論点の新鮮さにも、友田のユニークな経歴が影響しているのかもしれない。
 鵺をつかまえるにあたり、著者は広い網と深い網、両方を用意した。第1章「〈僕〉という問題」は広いほうの網だ。近年の使用例から、〈俺〉〈私〉が〈いわば「純日本的な自称詞」〉であるのに対し、〈僕〉は〈我〉〈小生〉などと同じく中国からきた「漢語自称詞」であることが示される。ではそもそも〈僕〉が最初に使われたのはいつか? 『古事記』に使用例があると明かされるのが第2章。荒ぶる神・スサノヲノミコトが〈僕〉を使ったというのは意外だった。ところが平安時代以降その使用例は激減し、復活するのは江戸時代。儒教的価値観の浸透のもと、〈身分制度の桎梏を離れた友情を示す言葉〉として〈僕〉が再び使われ始めた。第5章では「白浪五人男」「三人吉三」など多くの名作を残した河竹黙阿弥の歌舞伎台本をはじめ、坪内逍遙夏目漱石といった文豪、アナーキスト大杉栄、「道程」(僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る)の詩人・高村光太郎、『僕って何』の三田誠広、そして村上春樹にいたるまでの用例を追究。明治から現代にかけて、〈僕〉は〈エリートの自称詞〉から〈自由な個人〉のものへと変わっていく。終章では、〈僕〉から排斥されている側、女性や性的マイノリティと自称詞の関係が、文化的・社会的側面からも考察される。
「古代から江戸時代後期まで」と「明治から現代」という広い網。そのはざまのわずかな期間である幕末に、深い網が仕掛けられている。第3章・第4章は吉田松陰と弟子たちの関係性に〈僕〉がいかに重要な役割を果たしたのかという論考であり、本書のなかでもっとも描写の密度が高まるパートだ。
 高杉晋作久坂玄瑞伊藤博文といった重要人物を輩出した松下村塾の主宰・吉田松陰。彼は30年足らずの生涯で、膨大な数の書簡を残した。著者が分析に使用した848本の書簡のうち、〈僕〉が使われていたのは349本にものぼる。身分社会の江戸時代で〈対等な男子同士の絆〉を作り出す〈僕〉というマジックワードの威力を、誰よりも熟知して使いこなしたのが吉田松陰という男だった。その影響力は弟子たちどうしの関係にも及び、ひいては明治以降の身分社会の崩壊にまでつながっていった。友田は彼らの生涯を書簡から呼び起こし、生々しく描く。〈私〉でも〈俺〉でもない、〈僕〉ならではのドラマがここにある。
 自称詞は、とくに〈僕〉は、使える人、使える場面を選ぶ。だからこそ、その時代に生きた人特有の、意味と意図が見いだせるのだと言えるかもしれない。膨大な用例をもとに、ひとつの言葉の持つ力を明らかにした本書。友田自身、研究を始めて以来、〈僕〉は〈その使用場面などを強く意識するようになり、気軽に使える言葉ではなくなった〉という。自称詞〈僕〉という覗き穴を通じて古代から現代日本社会までを見通す、いま読んで面白く、おそらくこの著者にしか書けない1冊だ。

 

2023年7月書評王:山口裕之 

無自覚に会社でも〈僕〉を使ってしまいがちなダメな大人です。でも、手紙とかメールとかでは「僕」って使わないんですよね。言葉は生きている、ということをあらためて考えさせてくれる1冊でした。

乳がんになった人にもなっていない人にもお薦めしたい3冊

 20年ほど前、38歳で乳がんを患った。右乳房の切除と同時再建、半年の抗がん剤治療後は再発、転移なく安泰に過ごしている。
 乳がんは罹患者が多いが生存率も高い。ただし術後10年は転移の可能性があるし、遠隔転移が見つかると完治は難しい。総じて穏やかながんだが長期間死の可能性とつきあわなくてはいけないのが怖い。そんな病気と他の患者がどう対峙してきたかにも興味はあって、乳がんに関わる書籍は多く手に取った。そうして読んだ中から3冊お薦めしよう。
 『歌に私は泣くだらう』の著者は歌人で細胞生物学者永田和宏。妻で歌人河野裕子が2010年に乳がんで亡くなるまでの10年間の闘病記だ。随所に配されたふたりの短歌には痛切な感情が込められる。死の前日に河野が詠んだ最後の一首を引いてみよう。
 手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が
 病の間もずっと歌とともにあった河野。精神の均衡を崩し、永田にその頃の私にとって、島尾敏雄の『死の棘』ほど身につまされる小説はなかった〉と言わせるほど夫を攻撃した河野。ゆっくりと精神状態が回復した後、転移から死に至るまでの2年。まさに波乱万丈のドラマだ。妻を愛し、見守り続けた永田の身を切るような渾身の一冊は、多くの読者を得て文庫化され版を重ねている。
 でも、再発なく生きている者の気楽さゆえかもしれないが、本書のドラマチックな筆致に、自分の治療経験とはだいぶ違うなあ、と感じたのは事実。だから西加奈子の『くもをさがす』を読んで安心した。そこには共感できる体験がいくつもあったから。
 本書はコロナ禍のカナダで乳がんと診断された西の治療の記録だ。乳房の切除に抵抗がなかったこと。乳首の要否についての考察。「闘病」という言葉を使わず、あくまで治療と考えたこと。
 カナダの医師や看護師の対応はカジュアルで(著者が彼らの英語を関西弁に訳していることも奏功している)、むやみに深刻ぶったりしない。一方で患者自身に考えさせ、判断を迫る局面が多い。〈押し付けがましくない献身や、肯定的な態度〉の医療従事者の下で治療を受けた著者を、評者はうらやんだ。
 がんの発覚から治療期間まで、彼女とともにあった本や音楽がそこここに引用されているのもいい。〈間違いなく救いであったと言えるのが、読むことだった〉と言うことばは、読者の気持ちにまっすぐ響いてくる。
 でも(とあえてまた言う)、これからも乳がん患者必読の書となるだろう西の一冊を差し置いて、評者が再読を重ねる作品は別にある。2019年に42歳で亡くなった哲学者宮野真生子が、乳がん転移後の最期の日々に、人類学者の磯野真穂と交わした往復書簡集、『急に具合が悪くなる』だ。4月29日の1便から7月1日の10便まで、ふたりは宮野の病と死をまっすぐに見つめ、たった2か月間と思えぬ濃密さで、考え、書き続けた。
 乳がん発覚時に「全部見極めてやる」とつぶやいたという宮野は、その言葉通り、最期まで考え、記すことをやめなかった。
 標準治療に従順に従うこと、運命論にあらがうこと、主治医と向き合うこと。数々の選択を迫られることの重荷。民間治療の誘惑。「がん患者」というステレオタイプにはめ込まれることに抵抗し続けた宮野。彼女の重く鋭い言葉を受けとめ、対話を続けた磯野。
 軽い言葉になってしまうけれど、つらい、怖い、苦しい現実から目をそらさないふたりの姿はとにかくかっこよくて、自分が次に病を得たときの目標になった。人はこんなふうに生き切ることができるのだ、と。
 病との向き合い方は、向き合えずに逃げることも含めて、ひとりひとり異なるし、単一の正解はない。書くことのプロフェッショナルたちによる3冊は、どれも誠実で真摯な言葉に満ちている。

2023年6月書評王:田仲真記子
今年は仕事、休養、読書と優先順位を決めて、いつもよりゆったり読書してます。それはそれで味わい深いです。

 

『われら闇より天を見る』クリス・ウィタカ―著 鈴木恵訳

  お馴染み、読楽亭評之輔でございます。
 え~〈子は鎹(かすがい)〉なぞと申します。鎹ってのはDIYが趣味の方はご存じでしょうが、木材と木材を繋ぎとめるのに使う、コの字型の釘でございますな。
 古典落語の演目「子は鎹」は、腕はいいが酒癖の悪い大工の熊に、カミさんが愛想を尽かして息子を連れて出て行っちまった後、改心した熊の奴がピタッと酒を止めて真面目に働くこと3年。偶然息子に再会したのを幸い、カミさんの状況をあれこれ聞き出し、めでたく元の鞘に収まったって人情噺なんですがね。でもねぇ、いろんな鎹の形があるんでしょうが、その役回りを子どもに被せるな、大人の始末は大人がつけろ、と言いたくなるわけなんでございます。
 と申しますのも、此度ご紹介いたします『われら闇より天を見る』の、主な視点人物の一人である勇敢な少女が背負わされる、その荷のまぁ重いことといったら。
 物語の舞台は、アメリカはカリフォルニア州ケープ・ヘイヴン。夏の間は絶景に魅せられた別荘族が押しかけるものの、それ以外は閑散として、住民は昔からの知り合いばかりという小さな町。ここで30年前、7歳の少女シシ―が命を落とし、シシ―の姉で当時15歳のスターが付き合っていた同級生ヴィンセントが逮捕されるという事件が起きたのでございます。 
 逮捕の決め手となったのが、ヴィンセントの親友で、現在はこの町の警察署長を務めるウォークの証言。以来彼は、他の道はなかったのかと己を責め続け、一方スターは、誰にもその父親の名を明かさぬまま、13歳の娘ダッチェスと5歳の息子ロビンをシングルマザーとしてなんとか育ててはいるものの、薬とアルコールが手放せない危うい日々を送っています。
 ウォークとスター、そしてヴィンセントにとって、15歳だったあの日世界が暗転し、〈未来を弾き飛ばされて〉時が止まったままなのです。
 そんな中で、母親譲りの美しく華奢な容姿ながら、もつれた髪と綻びの目立つ服を纏って孤軍奮闘するダッチェス。度を越した飲酒で意識を失ったスターのためには救急車を呼び、溺愛する弟を守るためなら、底意地の悪いことを仕掛けてくる奴ぁ容赦なく叩きのめしてやるんでございますよ。
 自分の家庭環境が〈普通〉ではないことに、とっくに気づいている彼女の矜持をかろうじて支えているのは、母方の先祖に、銀行強盗でありながら手下達を家族のように養ったてぇ見上げた義賊、恐れを知らない無法者がいたという事実のみ。だから彼女は事あるごとに〈あたしは無法者のダッチェス・デイ・ラドリー〉だと名乗るのです。自身を奮い立たせ、配られてしまった〈勝ち目のない手〉をひっくり返そうとするように。これだけが自分を現実に繋ぎとめる鎹なのだというように。
 しかし、ヴィンセントが刑期を終え町に帰ってきたのを機に、止まっていた時計が再び動き出すと、そこからはもう悪手に次ぐ悪手、悲劇のドミノ倒しが始まるのでございます。
 著者のクリス・ウィタカ―さんは、前作『消えた子供』*1でも3歳の子どもの失踪事件を通して、封印された想いや贖罪など、見かけ通りのはずがない人間の本質を描き出し、2017年英国推理作家協会賞最優秀新人賞を射止めました。
 そして、本作では前作とも通底するテーマをより深く鮮やかに抉ってみせ、2021年英国推理作家協会賞最優秀長篇賞を受賞、日本では「このミステリーがすごい!2023年版」*2を始め、名だたるミステリランキングを総なめにしたわけでございます。
 これはジュブナイル小説としても出色ですが、やはりミステリの神髄である〝Who done it?″についても高く評価されたからこその快挙でございましょう。登場人物各々にとって、現実に繋ぎとめる鎹となったものは何であったのか、考え合わせながら読むのもまた一興なんでございます。お後がよろしいようで。

 *1『消えた子供-トールオークスの秘密-』クリス・ウィタカ―著 峯村利哉訳 
   集英社文庫 2018年
 *2「このミステリーがすごい!2023年版」宝島社

 

 

 

 

2023年5月ゲスト賞:関根弥生

読書(特に海外文学)好きの落語家が、寄席演芸専門誌の書評欄に連載しているという設定で書いています。ミステリにも古典芸能にも造詣の深い杉江松恋さんのゲスト賞は、まさに僥倖。精進いたします。

『鉄道小説』乗代雄介/温又柔/澤村伊智/滝口悠生/能町みね子

 短編小説に与えられる今年の川端康成賞が滝口悠生の「反対方向行き」に決まった。今はもうこの世にはいない祖父・竹春の家がある宇都宮に向かうために、渋谷駅から湘南新宿ラインに乗り込んだ三〇代の女性・なつめ。しかしその電車の行き先は反対方向の小田原で、途中で間違いに気づいたなつめは、それでも降りようとせず、南へと進むに身を任せる。その間、彼女の脳裏には竹春をはじめとする家族とのあれこれの記憶が甦ってくるのだった。
 ということでこの作品は、二〇一三年に雑誌「新潮」に発表され、最初の作品集の表題作となった「寝相」の続編なのである。「寝相」は二十七歳のなつめが、宇都宮の自宅でボヤ騒ぎを起こした竹春を引き取るような形で、東京での二人の同居生活が始まる話だった。そして今ではなつめは四〇に手が届く歳になって夫もいれば娘もいて、竹春が他界してから七年の時間が流れていた。
 作者は鉄道にちなんだ短編を依頼され、湘南新宿ラインを題材にすることを思いついた。それでまずは実際に乗ってみようと小田原行きに乗り込んだら、逆方向の宇都宮方面に住んでいる知り合いのような感覚で、「寝相」の登場人物たちを思い出したのだという。首都圏の人間ならわかると思うが、湘南新宿ラインは走行距離がものすごく長い。車内で物思いにふける時間はたくさんある。ランダムに紐解かれる記憶は時間の壁を越えてすべてが並列化し、自由でユーモラスで少々問題も抱えている家族たちが、なつめの頭の中で活き活きと動き回る。これぞ滝口作品という時間と人の描かれ方がここにもある。
 「反対方向行き」の初出は文芸誌ではなく、アンソロジーだ。『鉄道小説』というタイトルで、滝口ほか、乗代雄介、温又柔、澤村伊智、能町みね子が短編を書き下ろした。版元は時刻表や雑誌「旅の手帖」を発行している交通新聞社。鉄道開業一五〇年を記念した「鉄道文芸プロジェクト」の一環として、昨年十月に刊行された。
 乗代雄介の「犬馬と鎌ケ谷大仏」は新京成線鎌ヶ谷大仏駅近くに住む二十代の男性と年老いた飼い犬を主人公にした、電車に乗る場面のない鉄道小説。彼らの散歩の遍歴が、新京成線と沿線の街の成り立ちに重なっていく。千葉県の西側を縦断する新京成線は、旧陸軍の鉄道部隊が訓練で敷いた線路がルーツという変わった成り立ちの路線だ。
 温又柔の「ぼくと母の国々」は作者が以前暮らした山手線の恵比寿駅周辺を舞台に、台湾と日本というこの人ならではのテーマを鉄道に絡めて書いていく。澤村伊智の「行かなかった遊園地と非心霊写真」は阪急電鉄宝塚線沿線を舞台にしたホラー仕立ての作品だ。
 滝口の「反対方向行き」はこれら三作に続いて掲載されていて、この流れで読むと鉄道小説としての味わいが濃くなり、作中に登場する交通新聞社の時刻表の印象も強まった。
 そして最後の能町みね子「青森トラム」が一番の労作だった。東京生まれの若い女性・亜由葉が青森に住む漫画家の伯母・華子の家に居候し、新しい土地で〈自分探し〉をする話で新味には欠けるが、作者はこの作品のために現実にはないトラム(路面電車)と市営地下鉄を生み出し、青森市の歴史も創作して、札幌を越える人口を持ち先進的な文化を花開かせた大都市に仕立て上げた。一日乗車券を手にトラムに乗り込む亜由葉とともに、一種のユートピアとして描かれる青森の街を巡るだけで楽しい作品だ。
 交通新聞社が手掛けるサイト「トレたび」には各作者のインタビューが掲載され、本書を味わう格好の手引きとなっている。唯一、能町だけは空想地図作家の今和泉隆行との対談で、しかも全四回という長さ。二人は「青森トラム」における青森市の細密な空想地図を完成させていく。
 鉄道は小説の書き手の想像力をどのように刺激するか。その良質な答えがここに。

2023年5月書評王:鈴木隆

『鉄道小説』の単行本は箱入りで、しかも箱の中央が四角に切り抜かれているのです。それは電車の車窓をイメージしたとのこと。版元の気合いがめちゃめちゃ入っていて、ちょっとお高いのですが、買ってよかったなと思った本でした。書評王も久々で嬉しいです。

【作家紹介シリーズ】赤染晶子

 読書の醍醐味の一つに「この埋もれた名作をよくぞ刊行してくれた!」と出版社に拍手を送りたくなる作品との出会いがある。

 palmbooksという小さな出版社が2022年12月、記念すべき第一号として刊行した赤染晶子のエッセイ集『じゃむパンの日』。刊行当初からその面白すぎる中身に魅了される人が続出し、先日ついに7刷を達成。文芸誌や新聞紙に2006年から2011年の間に連載されたエッセイをまとめた本作は、かつて一世を風靡した漫画家さくらももこによるエッセイ集『もものかんづめ』を彷彿とさせる。それだけ日常を切り取る視点の鋭さとユーモアセンスの高さを備えた作品なのである。

 1編2〜3頁、全部で55編もあるが、そのどれもが個性的で、一度読めばタイトルを見ただけでどんな話か思い出せてしまうほど。「夏の葬式」「安全運転」「君の名は」……こうしたタイトルの話がまさかあんなオチになるとは!
 エッセイの他に翻訳家・岸本佐知子との交換日記が収録されているのだが、これがまた抱腹絶倒モノ。岸本さんに〈赤染さんの芸人としての底力を感じました〉と言わしめた程のギャグセンスを堪能いただきたい。まさに「東のももかん、西のじゃむパン」とでも言うべき傑作なのである。

 じゃむパンで「こんな面白い作品書く作家がいたなんて」と読者を驚かせた勢いそのままに、今年初めには2010年の芥川賞受賞作『乙女の密告』が新潮社から文庫で復刊。本作は関西の外国語大学に通う女子大学生たちと『アンネ・フランクの日記』をつなぎ、見事に融合させた作品だ。匿名の密告によりゲシュタポに拘束されたアンネと、関西の外国語大学で教授と女子学生にまつわる黒い噂に振り回される〈乙女〉たちがリンクする。ユダヤ人迫害と日本の女子大学生を同列に論じるなんてと言われるかもしれないが、そこに説得力を持たせている点が小説家としての赤染晶子の力量なのだ。

 『乙女の密告』は舞台を関西としているが、赤染作品を語る上で外せないキーワードが「京都」だ。本人も〈小説の舞台を必ず京都にしている〉(『じゃむパンの日』所収「影の町」)と書いているように、その小説世界は生まれ育った京都をベースに描かれている。
 2004年の文學界新人賞受賞作「初子さん」(『うつつ・うつら』(文藝春秋)所収)では、京都の田舎町の空気を水銀に例えた。外の人間から見れば〈いつまでも美しい水に見える〉古都・京都は〈本当は水銀〉だという。水銀は腐らないから〈いつまでもきらきらと澄んだ水のように輝いている〉。その実、中では〈田舎ののどかさとは違う、どろりとした空気〉が流れている。主人公の初子さんは、昭和50年代の京都に流れる水銀の中で、洋裁一筋で暮らす。〈夢だけ追っていてはだめよ〉〈あんたは独り身やから苦しいねん〉としたり顔で声かけしてくる周囲に戸惑いつつも、水銀の重苦しさに負けまいと懸命に生きていく。

 他にも、『WANTED!!かい人21面相』(文藝春秋)所収の短編「少女煙草」では〈京都一の美人だった〉綾小路夫人に成りすまそうと必死になる家政婦・いも子を、同「恋もみじ」では、京都のじゅうたん工場を舞台に恋に恋い焦がれる女工たちの日々を描く。夢と現の狭間をたゆたうような、なんとも幻想的な2編。かと思えば表題作「WANTED‼かい人21面相」では、かの有名なグリコ・森永事件をベースに、得体の知れない事件に翻弄される女子高生たちの日常をユーモアたっぷりに描いた。いずれの作品にも、根底にはデビュー作と同じどろりとした水銀が流れている。

 今後も赤染晶子が京都を通して人間を描くとしたらどんな物語が生まれただろうか。だがそれを知る術はない。2017年、42歳という若さで世を去ったからだ。新作が出ないということは、もしかしたら傑作の数々がこのまま忘れ去られていた可能性もある。そこにpalmbooksが光を当てた。京都で培われた唯一無二の視点と芸人顔負けのユーモアを併せ持つ赤染文学。『じゃむパンの日』『乙女の密告』以外は絶版のため、これから全作品の復刊を期待したい。

 

2023年4月書評王:林亮子
書評講座に通い始めてちょうど10年が経ちました。その記念すべき回で書評王に選んでいただき本当に嬉しいです。講座は毎回新鮮で、発見があって、勉強になって、めちゃめちゃ楽しい!トヨザキ社長、受講生の皆様いつもありがとうございます。