書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

『インヴェンション・オブ・サウンド』チャック・パラニューク著 池田真紀子訳

 物語を支配しているのは静寂だ。だが、それは呻吟を歯を喰いしばって封じ、慟哭の涙さえ涸れた果てにもたらされている。
 『インヴェンション・オブ・サウンド』は、今やカルト的人気を誇る、ブラッド・ピット主演、デヴィッド・フィンチャー監督の映画『ファイト・クラブ』(1999年)の原作者チャック・パラニュークの、実に18年ぶりの邦訳となる新刊である。
 本作の主たる登場人物はふたり。彼らの不穏な気配に満ちた日々が交互に語られる。ひとりは本物としか思えない真に迫った悲鳴を供給することで、ハリウッドにおける確固たる地位を築く音響効果技師(フォーリー・アーティスト)のミッツィ・アイヴズ。
 CGのおかげで〈映画の質は年々向上〉しているが、それに比して音響の世界では〈雷鳴は薄い鉄板〉、コウモリの羽ばたきは〈開閉を繰り返す雨傘〉で、〈制作現場はいまだ中世に取り残されている〉のだという。そうした中、まるでオーダーメイドのように場面にピタリと合い、強く感情を揺さぶる音を産みだすミッツィの音源のコレクションは、数多のプロデューサー垂涎の的だ。
 しかし、若き成功者であるはずの彼女は、常に朦朧として記憶も定まらず、アルコールと鎮静剤とセックスを救命具に、かろうじて現実世界を漂っている。
 もうひとりは、17年前行方不明になった最愛の娘を捜して、日夜児童性愛者のダークウェブのサーフィンを続けるゲイツ・フォスター。あの日なぜ、7歳だった娘を見失ってしまったのか。激しい自責の念は憤怒に形を変え、娘を手にかけたかもしれない犯罪者どもを叩き潰すことが目的にすり替わり、いかがわしいサイトで見かけたと断じた相手に対して、見境なく攻撃を仕掛ける。仕事も家族も友人も、もはや現実世界で失くすことを恐れるものなど、彼には何もないのだ。
 一見、何の共通点も見当たらないふたりだが、実は、〝記憶″を軸に反転した相似形を為している。
 同じく音響効果の技師で、音によって世界を再構築することができると信じていた父への思慕を断ち切り、自身の記憶を忘却の彼方に追いやろうともがくミッツィ。娘と過ごした7年間の記憶にその身を沈め、些細なエピソードまでも執拗に語り再生することで、苦しみに満ちた現実を遠ざけようとするフォスター。
 ふたつの相似を為す世界が少しずつ近づき、ついにその悲嘆が、その憤怒がひとつの奔流となったとき、静寂を破り世界が絶叫をあげる。
 真実はどれか。味方は誰か。伏線が張り巡らされた緻密なプロット。油断してはならない。一つのセリフも読み飛ばせない。
 『ファイト・クラブ』を復刊させたくて早川書房に入社し、〈パラニュークの伝道のために生きている〉という編集者が手掛けた本作は、パラニューク再起動を鮮烈に記念する圧倒的傑作である。

2023年3月書評王:関根弥生

本当に久しぶりの、そして1200字では初めての書評王。とても嬉しいです。先月の課題『破果』書評を3000字に書き直すという、トヨザキ社長からの宿題もあり、約1か月間どっぷり書評漬けの日々は、苦しくもあり(8割)楽しくもあり(2割)。番外編はご笑納いただければ幸いです。

 

ここから番外編↓↓

※当記事執筆者である関根さんが、前回課題本の書評をブラッシュアップして再提出、見事に高評価を獲得されました。祝書評王ということで同時掲載いたします(編集)

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『破果』ク・ビョンモ著 小山内園子訳

 どんな職業に就いていても、だれもがいつかは老いと向き合わなければならない。ク・ビョンモによる長編小説『破果』は65歳の女性殺し屋を主人公とする異色のノワールだ。
 爪角(チョガク)は「防疫業」に携わって45年になる。彼女が駆除しているのは、ネズミやゴキブリではない。誰かにとって都合が悪い人間を、依頼を受けて職業的に始末してきた。組織の創立メンバーとして室員からは「大おば様」と呼ばれ、若手の有望株・トゥからは「バアちゃん」扱いされ、引退への圧力を感じることもあるが、現場にこだわり続けている。幸せな未来を夢みたり、穏やかな老後を計画したりといった想像力を持っていては、このような稼業を続け、生き残っては来られなかった。彼女が〈防疫業を始めてからの人生は現在進行形ではなく、いわばずっと〈現在停止形〉だった〉のだ。
 日常的にトレーニングを欠かさず、殺しの技術も、年齢に似合わない筋肉や反射神経もある。だが、老いからは逃れられない。つい1か月程前、仕事中にかつての自分では考えられない致命的なミスをして背中に怪我を負っただけではなく、組織の息のかかっていない市井の若い医師に助けられ、互いの秘密を共有する関係になってしまったのだ。職業的習性から、自分の弱みを掴まれたも同然の彼のことをその家族状況まで調べるうちに、人の情らしきものとは無縁だったはずの自身のなかに〈若葉のような心〉があったことを発見する爪角。かつて自分を殺し屋として作り上げた男から「お前も俺も、守らなきゃならないものは、もうつくらないことにしよう」と言われ、その言葉のとおりに生きてきた彼女の時間が、今になって動き始める。
 ストーリーがすすむにつれ、爪角の過酷な生い立ちや「防疫業」に従事するようになった経緯がじょじょに明らかになる。一方で、陸軍特殊部隊出身という経歴を持つトゥが、どうしてことあるごとに爪角につっかかってくるのか、その理由については読み手にしか知らされない。訳者あとがきによれば、本書は2013年に刊行されたときにはさほど話題にならなかったが〈韓国フェミニズムの勃興の中、「こういう女性の物語を読みたかった」と、いわば読者に召還されるかたちで〉話題になった作品だという。この物語は単純に老いと若さの対立ではなく、過去を消してきた女の目覚めと、過去にとらわれている男のあがき、その交錯を描いているとも読めるだろう。
 痛む背中、拾うともなく同居している老犬、修理もできないほど古びて調子の悪い冷蔵庫、その中でぐずぐずに腐り落ちてしまった桃。覆い被さってくる「老い」の描写が重ねられるが、同時にこれまでの人生で凝り固まった考え方からの解放も本書では描かれている。暗殺場面のディテールや、終盤に配された殺し屋対決の躍動感は、まさに「韓国ノワール」映画そのもの。高齢者の定義は65歳以上とされているが、それぐらいではまだまだおとなしくしてはいられないと思わせる元気なエンターテインメント作品なのだ。

 

2023年2月書評王:山口裕之
最初は「苦手だね、特に小さな文字が♪」と歌うCMを評の頭に入れてたのですが、たいへん不評で削りました。たしかに、ない方がいい。人に読んで貰うのは、大事。

『ビューティフルからビューティフルへ』日比野コレコ著

 ワールドカップ、日本代表初のベスト8なるかと盛り上がった本大会、ルールもわからず観戦していたが、すぐに夢中になった。選手の体の動きがすごい。まさにバネのごとく筋肉を収縮させて走る、倒れそうな角度に傾いてシュートを打つ、空中で仲間同士ぶつかり合って喜び合う。こんなふうに自由に体を動かせたらどんなに楽しいだろう、と思った。
 さて昨年、ピッチの上の選手のように、ページの上で言葉が躍動する小説が登場した。過去には綿矢りさや宇佐見りんを輩出した新人賞である文藝賞の受賞作、日比野コレコの『ビューティフルからビューティフルへ』だ。
 謎の老女ことばぁの元に集う高校生3人。親にネグレクトされても期待に応えようと必死に勉強するナナ、性的であることから逃れられない体を疎みつつ誰かに熱烈な恋情を向けて絶望を切り抜ける静、リーダー格の幼馴染の受け売りばかりで中身のない自分に焦るビルE。3人交互の自分語りで構成された、どんな生も腕ずくで肯定してみせるような力強い小説なのだが、言葉の使い方がアクロバティックですごい。例えば、静の語り。
〈あーあ、好きな人から足を洗うなんてことは、一体全体ありえるのだろうか。そうして、死ぬ、生きる、の二択を、さけるチーズみたいに切り裂け! あるはずだよ、道は♡ 雪崩のように道はあるはずだよ。〉
「好きな人」というプラスの言葉を、「あーあ」という投げやりな感動詞と、やくざ稼業等に対して使う「足を洗う」という慣用句、つまりマイナスの言葉2つで挟むことによりイメージを反転させたと思ったら、生死の重い選択に対して手軽なつまみの比喩を用い、小さなそのつまみから、ダイナミックに雪崩の道を出現させる。こんなふうに自由に言葉を使えたらどんなに楽しいだろう、と思う。
 著者の日比野コレコは2003年生まれ、受賞時18歳、とても若い。だが幼い頃から図書館で毎回数十冊を借りてきた読書家なうえ、広告のコピーから都々逸まで、興味の対象はじつに幅広いという。本作中には、彼女が意識的、無意識的に採集したフレーズがちりばめられている。
 例えば〈でも、こんな軽い女のなかにある重い内臓を忘るるな、と、せめても椅子とか軋ませてみる。〉という文は、「おとうとよ忘るるなかれ天翔ける鳥たちおもき内臓もつを」という伊藤一彦の短歌を下敷きにしている。ザ・ブルーハーツの歌詞や、「~in the building」などラップ特有の言い回しを使った箇所もある。気になる表現の元ネタを探したり、知らない言葉の意味を調べたりするのも面白い。
 本作で不思議なのは、独特な表現なのに、直感的に意味がわかる、ということだ。
 例えば、〈自分の人生のあらゆる一場面を重ねて束状にしたとき、それを焼き鳥の串みたいにビューティホゥが貫いていてほしい。〉という一文。読んでいて、全身を光が駆け抜けるような感覚があり、人生を肯定することへの切実な欲求を感じた。
 辞書を引けば、「焼き鳥」も「貫く」も「beautiful」も意味が載っている。でもそれだけでは「焼き鳥の串みたいに貫く」がどんなふうかわからないし、「ビューティホゥ」は「美しい」と何が違うかわからない。文章から辞書以上のイメージを感じ取れるとしたらそれは、鶏肉に串を突き刺す手元を見たことがあるからだし、誰かが、美しい、でも、ビューティフル、でもなく、ビューティホゥ!、と感動する声を聞いたことがあるからだろう。
 そうした経験を、言葉は呼び覚ます。本作の文章は、そうして呼び覚まされる、体に染みついたイメージを自在につなぎ合わせることで、理解できる、でも未体験の〈感じ〉を味わわせてくれる。
 著者日比野コレコが今後どんな作品を書くのかは、次のワールドカップの試合と同じく予想がつかない。でも4年後、8年後、それがあると思うだけでどきどきする。

 

2023年1月書評王:肱岡千泰
翻訳をしています。講座には昨年の夏から参加しています。書評を書く難しさを身をもって知り、書評を読む楽しさが何倍にもなりました。

『ウォンバットのうんちはなぜ、四角いのか?』高野光太郎著

 久々に夢中になれる生き物本に出合った。日本で初めてウォンバットに特化した書籍だ。本書をひもときながら、「良い生き物本」の条件を考えてみた。数多の一般読者向けの生き物本のうち、手に取って読み通すだけでなく、人にも勧めたくなる物にはどんな魅力があるのだろう。
 まずは何といっても表紙のインパクト。著者曰く〈甘栗むいちゃいました〉のような黒い瞳、わずかに口角が上がった愛嬌のある顔、丸みを帯びた身体にとがった爪。帯を外すと書名になった四角いうんちまで、木原未沙紀の精緻なイラストで再現されている。ジャケ買い必至のかわいさだ。
 読者の手に届いたら、次は読ませる力。多くの人にわかりやすくその生き物の情報を伝えるのは当然の基本。その生態が変わっていればいるほど興味を引いてくれる。
 一見地味な風貌のウォンバットの生態はギャップ萌えのレベルだ。あんなに丸っこくてのっそりしていそうなのに、短距離ならウサイン・ボルト並の駿足だとか、鋼鉄のように硬いお尻で巣穴の入り口に蓋をするとか、お尻と巣穴の隙間に頭を突っ込んだ天敵である肉食獣の頭を、天井に打ちつけて頭蓋骨を砕いて死に至らせるとか、穏やかじゃない。
 そしてうんち!書中に掲載されたうんちの写真はまさに直方体。四角いうんちを排出する身体のしくみや、そもそも四角いうんちが必要な理由は本書でじっくり読んでもらうとして、著者の恩師であるオーストラリアの研究者が、はるばる太平洋を挟んでアメリカの生態力学、流体力学の専門家と連携してこの謎を解いたこと。それが2019年のイグノーベル賞を受賞したこと。専門家たちの英知を結集してふざけたようにも思える研究を重ねることが、ウォンバットを深く知り、ひいてはその保全につながること。ユーモアを忘れずに、真摯に研究に取り組む情熱に胸が熱くなる。
 生き物本を読む読者にとって重要なことがもう一つある。扱われる生き物や、それをとりまく状況に対する筆者のスタンスだ。著者の態度や考えが一貫していればこそ、読者は安心してその本を読める。ウォンバット愛に満ちた本書の半ばで、〈僕は個人的に人間と野生生物との「絆」や「友情」と言ったものが嫌いです〉と言う一節を読んで安心したし、著者に対する信頼も増した。
 もちろん、長期間観察の対象となる個体にはそれなりの思い入れを持つし、かわいいと感じている。でも、著者のふるまいには常にウォンバット優先の距離が保たれている。その姿勢に共感できれば、さらに楽しめる。
 往々にして、読者は生き物本にもストーリーを求めてしまう。その点でも、本書は満足度が高い。日本育ちの著者が、海外に住みたい、という単純な理由でタスマニア大学に入学したこと。語学や勉強で苦労を重ねた末、ウォンバットをダニによる疥癬という感染症から救うプロジェクトに出合ったこと。途中で別の道に進みかけながら、ひょんなきっかけで研究の道に戻ったこと。中高生であれば、自分の将来を考えるうえでの大きい刺激になるだろうし、年長者なら、自分にかなえられなかった夢を追う若者の成長譚に目を細めるかもしれない。
 最後に特筆すべき大きい魅力は、本書に書かれた多くの内容が他の書籍からの流用でなく、ウォンバット研究に関わる英語論文や自身の経験を多く取り入れた独自の情報であること。入門書としてわかりやすい、読みやすいこの一冊。その陰には一研究者によるしっかりした裏付けがある。
 本書を読んだ後で著者のTwitterを見れば、〈来週は生きたダニを使った実験をするのでめちゃくちゃ楽しみである〉なんてツイートに、うん、うんとうなずいてしまうぐらい、著者に共感できるようになる。さわやかな読後感の残る良書だ。

 

2022年12月書評王:田仲真記子
今年中に国内でウォンバットを見られる長野県茶臼山動物園大阪府池田市五月山動物園を訪れることが当面の目標です。来年の目標はオーストラリアでウォンバットを見ること、かな。行けるかな。

 

『フォレスト・ダーク』ニコール・クラウス著 広瀬恭子訳

 ニューヨークに暮らす68歳のエプスティーンは、何事にも精力的に立ち向かい、弁護士としての成功と円満な家庭を築いてきた。しかし両親が亡くなった頃から、不思議な行動をとるようになる。長年連れ添った妻にあらかたの財産を渡して離婚し、友人と共同経営する法律事務所を引退して、高価な美術品のコレクションを次々と手放し始めたのだ。
 同じくニューヨーク在住の〈わたし〉は39歳の女性。夫とは長らく心を通わせていない。作家として国際的知名度を得たが、新作の構想が浮かばずに不眠症気味だ。鬱々とした毎日を過ごすある日、異なる二つの場所に自分が同時にいる感覚を経験。そして、自分が現実だと思っている今の暮らしはすべて夢ではないか、と感じるようになる。
 長編小説『フォレスト・ダーク』の主人公であるエプスティーンと〈わたし〉には、ニューヨーク在住である以外にもいくつかの共通点がある。ユダヤ系であること。イスラエルの都市テルアビブにゆかりがあり、何度も訪れていること。そして、今までの習慣を逸脱する行動だ。計画を立てて着実に実行するのが得意なはずの〈わたし〉は、真夜中に荷造りを始めて衝動的にテルアビブに向かう。言葉で思考を明晰化するタイプのエプスティーンもテルアビブに旅立つが、到着後、ニューヨークで知り合ったラビ(ユダヤ教の聖職者)に招待され、乗り気でもないのになぜか安息日の集まりに出かけていく。
 作者ニコール・クラウスの長編デビュー作は、13歳以降の記憶をなくした36歳の男性が過去を探して試行錯誤する『2/3の不在』。第2作『ヒストリー・オブ・ラヴ』では、14歳のアルマが、1冊の本に登場する自分と同じ名前の少女を見つけようとする。いずれも変種の“自分探し”めいた物語だ。2000年代に流行したこの言葉は、今や辞書にも掲載されており、例えば『デジタル広辞苑』では「それまでの自分の生き方、居場所を脱出して新しい自分の生き方、居場所を求めること」と定義されている。
 主人公の二人も一見、自分探しの旅に出たように感じられる。ただイスラエルでは、積極的に新しい生き方や居場所を求めるというよりは、他人の思惑で思いがけない方向へ運ばれていく。自分探しでなく、むしろ“自分なくし”に突入していくのだ。エプスティーンは、安息日の集まりでラビの娘と出会ったことをきっかけに、映画制作に200万ドル出資することになる。そして〈わたし〉は、親戚の紹介で知り合った初老の男から重大な頼み事をされるが、受けるかどうか決めきれないうちにある事件が起こり、砂漠に建つ一軒家に置き去りにされるのだ。
 作者によれば、本作のタイトル『フォレスト・ダーク』は、ルネサンス期に活躍した詩人、ダンテの『神曲――地獄篇』の訳文からとったものだという。〈人生の旅の半ば/気づけば暗い森(フォレスト・ダーク)のなか/まっすぐ進む道は失われて〉という一節だ。暗い森で自分をなくしていく二人の主人公。そこに、イスラエルと意外なつながりをもつユダヤ系作家フランツ・カフカの「自分なくし奇譚」も絡んで、予測のつかないストーリーが展開する。
 自分なくしは、「ゆるキャラ」ブームの仕掛け人としても知られるイラストレーター、みうらじゅんの造語。エッセイ集『さよなら私』でみうらは、〈“自分”ってやつを無くしていけば(自分に)向いている場所も増える〉と自分なくしの効用を説く。〈わたし〉とエプスティーンは、暗い森での自分なくしで何を得たのか。二人の旅は交錯するのか。
 ちなみに、〈わたし〉の名前は作者と同じニコール。訳者あとがきによれぱ、自伝的な物語ではないそうだが、作者が主人公たちを通じて自分を森に追い込み、きらめく何かをつかんだことは間違いない。「ザ・ニューヨーカー」などアメリカの各媒体で本作が高評価を受けた所以は、そこにあるのだろう。

 

 

  2022年11月書評王:田中夏代

書評講座歴2年。ビジネス系・教育系のライターとして活動しています。本作『フォレスト・ダーク』もそうですが、「読者の数だけ解釈がある」タイプの小説に出会えたときは、うれしくてニマニマしてしまいます。
 

【作家紹介シリーズ】 ジョン・アーヴィング

 2021年11月、ジョン・アーヴィングFacebookに投稿した。自分の最後の長篇は、2022年10月刊行になるだろう、と。1942年生まれのアーヴィングは今年80歳。『神秘大通り』から7年、15作目の長篇、”The Last Chairlift”は10月18日に刊行される。ハードカバーで912ページの大長篇だ。同作の日本語訳が近い将来刊行されることを願いつつ、彼の主要作を振り返ってみよう。
 1980年代に米国文学に触れ始めた多くの読者にとって、アーヴィングは特別な位置を占める。長大な物語。一風変わった登場人物。ユーモアと悲しみで感情をゆさぶり、作品世界に没頭させる描写の豊潤さ。
 デビュー作『熊を放つ』は、その後の作品の萌芽が随所にみられるみずみずしい一冊。1968年、アイオワ大学の修士論文として書かれたという。日本では彼を敬愛する村上春樹訳が刊行されている。
 続く二作では、二組の男女の夫婦交換小説『158ポンドの結婚』より、曲がりくねった尿道を持つ主人公の青春物語『ウォーターメソッドマン』がいい。彼と愛息コルムが海辺で交流する場面は、父と子の姿を書き続けたアーヴィング作品中でも、ひときわ美しい。
 1978年、四作目の『ガープの世界』が大ベストセラーとなり、アーヴィングの世界的な人気を決定づけた。奇妙な出自の主人公ガープ。女性運動家としてまつり上げられる母。ふたりも、周囲の人間の多くも体や心の複雑な傷を抱え、作品にはセックスと虐待と死があふれる。それなのになぜ読後感がこんなに温かいのだろう。
 「開いてる窓の外で立ち止まるなよ」―つらいことがあっても窓から飛び降りずに生き延びよう、という切実なメッセージを込めた『ホテル・ニューハンプシャー』までの五作で、デビューから13年かけて、アーヴィングは国内外での評価と人気を確立した。
 続く中期の三作では、テーマの幅、物語の豊潤さ、緻密さで飛躍を見せた。1985年の『サイダー・ハウス・ルール』は非合法だった時代の堕胎を扱う。米国最高裁が女性の人工中絶権を認めた判決を破棄した今、改めて手に取られるべき作品だ。もちろん、物語としての完成度も高い。
  米国では『ガープ』を超える人気という『オウエンのために祈りを』は、ベトナム戦争ケネディ大統領暗殺など、60年代のアメリカがギュッと詰まって、何よりオウエンと語り手ジョニーの友情物語として美しい。最後の一ページまで読者をつかんで離さない緊張感あふれる構成の傑作だ。一転、インドを舞台に探偵小説風の味付けでコメディタッチの『サーカスの息子』は楽しく読める。
 1998年以降の六作でもアーヴィングらしさは健在だ。『未亡人の一年』ならアムステルダムの元警官ハリー。『第四の手』で手の移植手術を行う外科医ゼイジャック。『また会う日まで』の体中を入れ墨で覆われた父親、ウィリアム。『あの川のほとりで』の木樵のケッチャム。『ひとりの体で』の図書館司書、ミス・フロスト。『神秘大通り』の主人公フワン・ディエゴ。語り尽くせないほど魅力的な登場人物が豊かな物語を彩る。
  正直、近作から『ガープ』や『オウエン』のときのような驚きを得ることは少ない。だが、半世紀以上にわたって数多くの大長篇を刊行し、読者を夢中にしてきたアーヴィングの、物語を生み続ける想像力と、それを緻密な構成の作品にまとめ上げるエネルギーと言ったら。彼が多くの読者にとって別格の特別な作家であるゆえんだ。
  長篇作家アーヴィングの短篇は『ピギー・スニード救う話』所収の作品ぐらい。実は冒頭のFacebookの投稿で、彼は言っているのだ、「今後も中篇は書くけれど」と。これからは80代のアーヴィングによる短めの作品が読めるかもしれない。それをおおいに楽しみにしよう。

 

2022年10月書評王:田仲真記子
一か月かけてジョン・アーヴィング全作品を再読するのは至福の体験でした。改めて圧倒されました。

 

 

 

『水平線』滝口悠生著

 2020年夏、38歳のフリーライター横多平が父島行きのフェリーに乗る。東京から父島まではおよそ1000キロ、まる24時間の船旅だ。島に向かうきっかけとなったのは、八木皆子と名乗る人物からのメールだった。冒頭の挨拶はいつも「おーい、横多くん」。八木皆子は横多の祖母の妹だが、硫黄島から疎開した後に蒸発して以来行方知れずになっている。仮に生きていたとしても、今はもう90代だ。メールによれば、皆子はいま父島に住んでいるという。
 横多の妹で、パン屋で店長をしている三森来未(両親の離婚で苗字が異なる)のもとには、三森忍と名乗る男から電話がある。忍は来未の祖父の血の繋がらない弟で、どこか呑気な喋り方をする。「パンなんか長いこと食ってないなあ」。しかし、忍はとうの昔に硫黄島で戦死したはずだった。
 死者から届く謎めいたふたつの声。だが物語は、現代の兄妹の視点から硫黄島や先祖の過去に迫るという方向には進まない。『水平線』の世界では、生きている者だけでなく、死んでいる者にも等しく語る権利が与えられ、「今」は電話やメールでたやすく死者と繋がり、過去と現在、この世とあの世がゆるやかに交錯する。視点を担う人物が次々と交代しながら、硫黄島にルーツを持つ四世代の物語が展開されていく。
 太平洋戦争末期、硫黄島の住民は強制的に内地に送られたが、16歳以上の男たちは軍属として島に残り、その多くが命を落とした。イクと皆子の姉妹、和美、達身、忍の三兄弟、イクと達身と同級生の重ルは、2020年に30代の横多平と三森来未の祖父母世代にあたり、みな硫黄島で生まれ育った。戦争は彼らの人生を一変させた。和美はサトウキビを搾る締機で手の指を潰して徴兵を逃れ、妻のイク、幼い息子とともに南伊豆に疎開した。達身と忍と重ルは硫黄島に残り、戦死した。15歳の忍は疎開対象のはずだったが、なぜか島に残る羽目になった。
 戦争において、人は意味もなくただ死んでいく。一人ひとりが生きていた時間は一瞬で消えてしまう。〈人間死ぬときは簡単だ。簡単な死なんてないなんてのは、死ななかった奴が死んだ奴をあとから思い出すときに思うことで、死ぬときは簡単に死ぬ。簡単さの極まったところにあるのが死だ。一瞬でころっと死ぬ。一瞬前まで笑ってた奴が、次の瞬間に死んでいる〉。『水平線』が目を向けるのは、戦争に巻き込まれた硫黄島の島民たちが送っていた生の豊かさであり、それは生者の口を借りるのではなく、死者たちによって直接語られる。小説という表現形式の可能性を最大限に活用した自在の語りのおかげで、語る視点の数だけそれぞれの世界が存在していたことが、読者には自然に理解できる。
 青年学校に進む前、裁縫が得意なイクは同級生の達身と重ルの制服を縫い、自分が縫ったとわかるように「子どもの笑顔みたいな刺繍」の徴をつける。〈新しい制服を着たふたりが並んで帰ってきたのを見つけたイクは、ふたりの肩を叩いて立ち止まらせると、上着の裾をまくった。そこにはたしかにイクの徴があった。それから後ろ向きにして足を開かせ、お尻を突き出させて見ると、股のところにもイクのつけた徴があった〉。島民らの他愛もないやりとりや、一人ひとりの目から見た島の情景や家族の風貌、胸に去来する些細な感情の断片。そうした人生の細部がとにかく愛おしく魅力的だ。語りの声に耳を澄ますことで読者は彼らの内側に潜り込み、遠く隔たった硫黄島にいつの間にか連れて行かれる。
 物語の最後にこんな台詞がある。〈その身軽な体で、次はどこに行くの? まだまだ私はあなたの話が聞きたいよ。あなたにもっと話してほしいよ〉。私もまた、『水平線』の揺蕩うような語りの海にいつまでも身を委ねていたくなった。小説を読むことの愉悦を存分に味わえる傑作。

2022年9月書評王:齋藤匠

この夏から書評講座に参加しました。普段は会社員をしながら文芸翻訳をしています。いろんな本や書評との出会いがこれから楽しみです。

水平線

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