書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

『インヴェンション・オブ・サウンド』チャック・パラニューク著 池田真紀子訳

 物語を支配しているのは静寂だ。だが、それは呻吟を歯を喰いしばって封じ、慟哭の涙さえ涸れた果てにもたらされている。
 『インヴェンション・オブ・サウンド』は、今やカルト的人気を誇る、ブラッド・ピット主演、デヴィッド・フィンチャー監督の映画『ファイト・クラブ』(1999年)の原作者チャック・パラニュークの、実に18年ぶりの邦訳となる新刊である。
 本作の主たる登場人物はふたり。彼らの不穏な気配に満ちた日々が交互に語られる。ひとりは本物としか思えない真に迫った悲鳴を供給することで、ハリウッドにおける確固たる地位を築く音響効果技師(フォーリー・アーティスト)のミッツィ・アイヴズ。
 CGのおかげで〈映画の質は年々向上〉しているが、それに比して音響の世界では〈雷鳴は薄い鉄板〉、コウモリの羽ばたきは〈開閉を繰り返す雨傘〉で、〈制作現場はいまだ中世に取り残されている〉のだという。そうした中、まるでオーダーメイドのように場面にピタリと合い、強く感情を揺さぶる音を産みだすミッツィの音源のコレクションは、数多のプロデューサー垂涎の的だ。
 しかし、若き成功者であるはずの彼女は、常に朦朧として記憶も定まらず、アルコールと鎮静剤とセックスを救命具に、かろうじて現実世界を漂っている。
 もうひとりは、17年前行方不明になった最愛の娘を捜して、日夜児童性愛者のダークウェブのサーフィンを続けるゲイツ・フォスター。あの日なぜ、7歳だった娘を見失ってしまったのか。激しい自責の念は憤怒に形を変え、娘を手にかけたかもしれない犯罪者どもを叩き潰すことが目的にすり替わり、いかがわしいサイトで見かけたと断じた相手に対して、見境なく攻撃を仕掛ける。仕事も家族も友人も、もはや現実世界で失くすことを恐れるものなど、彼には何もないのだ。
 一見、何の共通点も見当たらないふたりだが、実は、〝記憶″を軸に反転した相似形を為している。
 同じく音響効果の技師で、音によって世界を再構築することができると信じていた父への思慕を断ち切り、自身の記憶を忘却の彼方に追いやろうともがくミッツィ。娘と過ごした7年間の記憶にその身を沈め、些細なエピソードまでも執拗に語り再生することで、苦しみに満ちた現実を遠ざけようとするフォスター。
 ふたつの相似を為す世界が少しずつ近づき、ついにその悲嘆が、その憤怒がひとつの奔流となったとき、静寂を破り世界が絶叫をあげる。
 真実はどれか。味方は誰か。伏線が張り巡らされた緻密なプロット。油断してはならない。一つのセリフも読み飛ばせない。
 『ファイト・クラブ』を復刊させたくて早川書房に入社し、〈パラニュークの伝道のために生きている〉という編集者が手掛けた本作は、パラニューク再起動を鮮烈に記念する圧倒的傑作である。

2023年3月書評王:関根弥生

本当に久しぶりの、そして1200字では初めての書評王。とても嬉しいです。先月の課題『破果』書評を3000字に書き直すという、トヨザキ社長からの宿題もあり、約1か月間どっぷり書評漬けの日々は、苦しくもあり(8割)楽しくもあり(2割)。番外編はご笑納いただければ幸いです。

 

ここから番外編↓↓

※当記事執筆者である関根さんが、前回課題本の書評をブラッシュアップして再提出、見事に高評価を獲得されました。祝書評王ということで同時掲載いたします(編集)

『破果』ク・ビョンモ著 小山内園子訳

司会:みなさん、こんにちは。この度は「【女性限定】おひとりさま終活セミナー」にご参加いただき、誠にありがとうございます。本セミナーは、小説等をテキストに、誇り高く美しい逝き方を説いて、カリスマ的人気を博していらっしゃる、エンディングプラン・コンサルタントの仕舞(しまい)結(ゆう)先生を講師にお迎えしております。超高齢化社会を迎えた今、自らのエンディングをデザインするのに、何歳からでも早すぎるということはございません。では、実り多き時間となりますよう、仕舞先生よろしくお願いします。

コンサルタント:ただいまご紹介にあずかりました、仕舞結でございます。本日は韓国の人気作家ク・ビョンモの、長編としては邦訳2作目となる『破果』*1をテキストに、誇り高いエンディングとは何か、一緒に学んでまいりましょう。

参加者A:あらすじ担当のAです。仕舞先生のセミナーは、これで5回目の参加です。『破果』の冒頭、満員電車の中で若い妊婦にしつこく絡む初老の男を、鮮やかに始末したのが主人公の爪角(チョガク)。若かりし頃はさぞやと思わせる片鱗を残しつつ、一見どこにでもいそうな小柄で華奢な女性ですが、長年〈防疫〉と呼ばれる殺しを生業にして名を馳せ、65歳を迎えた今もなお現役を続ける天涯孤独のおひとりさまです。職業柄とはいえ常に死を意識しており、万が一のときの準備は万全。〈防疫〉の報酬はほぼエージェンシーに預けていて、相当の貯蓄があるものと思われます。〈爪角〉はコードネームですが、ネイルアートなど自分を飾ることには関心がなく、人間関係も必要最小限。硬い殻で自分を覆っている彼女に徐々に変化が訪れたのは-

参加者B:(Aを遮って)電車内の妊婦に絡んできた男は本当に●●●●●●(編集部伏字)でムカムカしました。韓国では2016年に江南駅近くで、若い女性が面識のない男に殺される、ミソジニー女性嫌悪)殺人が起きたじゃないですか!それに-

参加者C:(Bに被せて)日本でも2021年の小田急線車内での刺傷事件は〝勝ち組″に見えたというだけで女子大学生が標的にされて、フェミサイド(性別を理由にした殺人)の可能性が指摘されましたよね。だから私は、爪角が女性でしかも高齢者という、見くびられやすい立ち位置を武器に、油断する相手を〈防疫〉する姿に溜飲が下がる思いでした。

コ:お二人のお怒りごもっともですが、話を少し戻しますと、爪角は第一線で仕事を続け、緊張感のある生活と潤沢な経済力という、孤高の死を迎えるにあたって大切な要素を併せ持っているわけです。貯蓄は、孤高の死と孤独死を分けるポイントと言っても過言ではありません。なぜなら-

参加者D:あの、私は…(は?聞こえないんですけど~ざわつく会場)わ、私は昔から心配性で、死を迎えることも怖くて堪らないんです。だから、先生のセミナーに参加すれば、どう対処したらいいのか教えていただけると思って、初めて参加しました。爪角さんは、同じ〈防疫〉エージェンシーの若い同僚トゥが、やけに年寄り扱いして絡んでくるのも軽くいなしたりして、カッコいいなぁと思いましたけど、私にはこんな生き方はとてもできそうにありません。それに…来月のテキスト『ある行旅死亡人の物語』*2も読んだのですが、そしたら余計に不安になりました。お、お金なんていくらあったって、全然安心できないじゃないですか!(急な大声に一同唖然)尼崎市のアパートで亡くなった女性は、身元も不明のまま孤独に逝ったじゃないですか。40年も同じアパートに住んでいたのに!現金で3400万円も手元にあったのに!これがノンフィクションだなんて、私は、私は…(取り乱すⅮさん)。

参加者E:私も興味があって先に読みました。〈行旅死亡人〉って〈身元不明で引き取り手のいない遺体〉の法律用語で、死亡場所となった地方自治体が、身体の特徴や所持品などの身元判明に繋がりそうな情報を、「官報」に掲載することが法的に定められているんです。『ある-』はこの「官報」の記事に興味を持った共同通信社の二人の記者が、わずかな遺品を手がかりに、彼女の身元解明に奔走するノンフィクションなんですよね。私は仕事で、毎日「官報」をチェックするんですが、この元になった2020年の記事を覚えているんです。〈身長約133㎝、右手指全欠損、現金34,821,350円〉って、強烈なインパクトでしたから。北朝鮮のスパイ説まで飛び出す中、身元判明までこぎつけるってすごいと思いました。同時に、人が生きてきた軌跡は、そう簡単に失われはしないんだなとも思ったんです。

参加者F:私は夫に先立たれたおひとりさまです。一度〝家制度″に組み込まれた女性は、自分の老後や最期さえ自分の意志で選ぶことは難しいと感じてます。だからこそ、爪角の潔い覚悟に貫かれた死への向かい方に憧れます。それに〈行旅死亡人〉の彼女にとって死は、もしかしたら自由や解放だったかもしれません。Dさん、あなたを見てると、夫や姑のことを絶対だと思っていた自分を思い出すの。先生に全てを委ねてはだめよ。自分の頭で考えるって大事なのよね。ほら、福島の村でお米を作ってた子たちが歌っていたでしょ。(一同:?)〈おまえのオールを預けるな〉って。

一同:「宙船(そらふね)」*3~?!

コ:『ある―』については、改めて来月じっくり取り組みましょう。Aさん、気を取り直して『破果』の続きをお願いします。

A:あ、はい。誇り高く人生の終末期に向かっていると思われた爪角でしたが、老犬を拾い〈無用(ムヨン)〉と名付けて飼い始めた辺りから、完璧に見えた彼女のエンディングプランに危険信号が灯ります。任務中に大怪我を負ったことで、古ぼけた地域病院で若き医師カン博士と出会うのですが、それが皮肉にも、彼女の生涯を賭した闘いへと繋がっていくのです。

コ:〈無用〉がやたらと甘えたりしない、〈個人主義的な生活に最適化された愛犬〉だとしても、わたくしならお勧めはしませんね。カン博士にしても〈無用〉にしても、新しいつながりなんてもう作らない方がいいのです。所詮人はひとり。傍らにパートナーや子どもがいたとしても、旅立つときは皆ひとりなのですから、必要以上に恐れず―

参加者G:そうでしょうか。

コ:はい?

G:誰のことも近づけず、誰にも心を開かずにこの世界からそっと消えるだけ。爪角は、本当にそう望んできたのでしょうか。爪角の重い記憶の扉が少しだけ開いたその隙間から見えるのは、自分以外の誰かを大切に想い始めたら、それが弱みになってしまうような世界で生き抜くしかなかった、やせっぽちの少女の姿ではなかったですか?それは死への覚悟というよりも、哀しい諦観からきていただけではないですか。私たちが目指す最期ってそういうものなのでしょうか。爪角の頑なさを少しだけ緩ませて、自分の想いに忠実な生き方を受け入れさせたのが〝老い″ならば、私はそんな風に年老いていくのも悪くないと感じたのです。

司会:え~残念ながらお時間となりました。本セミナーの内容は雑誌掲載の他、アーカイブ配信も行いますので、ぜひコメントください。

(終活セミナーを採録して婦人誌に掲載・アーカイブ配信を想定しています。)

*1 『破果』ク・ビョンモ著 小山内園子訳 岩波書店 2022.12

*2 『ある行旅死亡人の物語』武田惇志・伊藤亜衣著 毎日新聞出版 2022.11

*3 「宙船(そらふね)」中島みゆき作詞・作曲 TOKIO 2006リリース