書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

『破果』ク・ビョンモ著 小山内園子訳

 どんな職業に就いていても、だれもがいつかは老いと向き合わなければならない。ク・ビョンモによる長編小説『破果』は65歳の女性殺し屋を主人公とする異色のノワールだ。
 爪角(チョガク)は「防疫業」に携わって45年になる。彼女が駆除しているのは、ネズミやゴキブリではない。誰かにとって都合が悪い人間を、依頼を受けて職業的に始末してきた。組織の創立メンバーとして室員からは「大おば様」と呼ばれ、若手の有望株・トゥからは「バアちゃん」扱いされ、引退への圧力を感じることもあるが、現場にこだわり続けている。幸せな未来を夢みたり、穏やかな老後を計画したりといった想像力を持っていては、このような稼業を続け、生き残っては来られなかった。彼女が〈防疫業を始めてからの人生は現在進行形ではなく、いわばずっと〈現在停止形〉だった〉のだ。
 日常的にトレーニングを欠かさず、殺しの技術も、年齢に似合わない筋肉や反射神経もある。だが、老いからは逃れられない。つい1か月程前、仕事中にかつての自分では考えられない致命的なミスをして背中に怪我を負っただけではなく、組織の息のかかっていない市井の若い医師に助けられ、互いの秘密を共有する関係になってしまったのだ。職業的習性から、自分の弱みを掴まれたも同然の彼のことをその家族状況まで調べるうちに、人の情らしきものとは無縁だったはずの自身のなかに〈若葉のような心〉があったことを発見する爪角。かつて自分を殺し屋として作り上げた男から「お前も俺も、守らなきゃならないものは、もうつくらないことにしよう」と言われ、その言葉のとおりに生きてきた彼女の時間が、今になって動き始める。
 ストーリーがすすむにつれ、爪角の過酷な生い立ちや「防疫業」に従事するようになった経緯がじょじょに明らかになる。一方で、陸軍特殊部隊出身という経歴を持つトゥが、どうしてことあるごとに爪角につっかかってくるのか、その理由については読み手にしか知らされない。訳者あとがきによれば、本書は2013年に刊行されたときにはさほど話題にならなかったが〈韓国フェミニズムの勃興の中、「こういう女性の物語を読みたかった」と、いわば読者に召還されるかたちで〉話題になった作品だという。この物語は単純に老いと若さの対立ではなく、過去を消してきた女の目覚めと、過去にとらわれている男のあがき、その交錯を描いているとも読めるだろう。
 痛む背中、拾うともなく同居している老犬、修理もできないほど古びて調子の悪い冷蔵庫、その中でぐずぐずに腐り落ちてしまった桃。覆い被さってくる「老い」の描写が重ねられるが、同時にこれまでの人生で凝り固まった考え方からの解放も本書では描かれている。暗殺場面のディテールや、終盤に配された殺し屋対決の躍動感は、まさに「韓国ノワール」映画そのもの。高齢者の定義は65歳以上とされているが、それぐらいではまだまだおとなしくしてはいられないと思わせる元気なエンターテインメント作品なのだ。

 

2023年2月書評王:山口裕之
最初は「苦手だね、特に小さな文字が♪」と歌うCMを評の頭に入れてたのですが、たいへん不評で削りました。たしかに、ない方がいい。人に読んで貰うのは、大事。