書評王の島

池袋コミュニティ・カレッジで開講中の「書評の愉悦ブックレビュー」で王に選ばれた書評を紹介するブログです。

『東京四次元紀行』小田嶋隆著

 6月、小田嶋隆が病気のため65歳で亡くなった。コラムニストとして長きにわたり活躍した彼が、〈「本当のことを書く」という縛り〉を外して書いた物語を集めた本書『東京四次元紀行』には、「残骸−−新宿区」「地元−−江戸川区」といった具合にタイトルに区名を入れた23作のほか、8つの作品が収められている。序文には〈書くつもりでいる土地や街〉について〈私個人の体験や記憶の上に、新聞記事や、死んでしまった古い友人が残した逸話や、誰かから聞きかじった真偽不明の噂話が折り重なるようにして融合したアマルガム(混合物)のごときもの〉を〈原型を損なわないカタチで文章の中に再現するため〉にフィクションの要素を取り入れたとある。

 登場する人間のほうはというと、冒頭の新宿区から杉並区までの6作ではチンピラやくざの健二、その内縁の妻・静子、その娘の彩美がリレーされたりするし、文京区・葛飾区・品川区で続けて登場する七子がいたりはするものの、基本的には1作だけに登場するワンユース使い切りのキャラクター。この場所に、愛着がある者もいれば、囚われている者もいる。内面が描かれる人物の多くは、なにがしかの問題であったり、違和感をかかえている。そして、その思考のなりたちのどこかに小田嶋隆その人、本人の自称を借りれば「オダジマっぽい」においがある。

 たとえば「稼業−−渋谷区」に登場する大学生でモデルの仕事もしている瑠璃がこう述懐する。〈決してやむことのない減量圧力が、自分の情緒の安定に良くない影響を与えている。そのことを、彼女は強く自覚している。自分たちの業界の人間は、誰もが、日常的にいらだっている。その理由は、つまるところ、満足にものを食べていないからだ。あたしたちは、飢餓を稼業にしている。食べないことで糊口をしのいでいる。あたしたちは明らかに狂っている〉。この思考過程こそが著者ならではというか、時事のコラムでも世のさまざまな事象について「その理由」を、「つまるところ」を、考えさせてくれたのが小田嶋隆という書き手だった。

 純粋に文章の「芸」で読ませる作品もある。たとえば「見知らぬ赤子−−荒川区」では、山梨県の山村から東京に出てきて10年になる敏夫が、南千住の自宅に高3の妹の襲来を受ける。妊娠して行くところがないというのだが、彼女の言っていることがどこまで本当か嘘かがわからない。物語は、よくできた落とし話のように意外なところへ着地する。最近はあまりやってくれなくなったが、政治ネタではなく、雑文的なコラムで昔はこうした芸を見せてもらったものだ。

 評者自身が、小田嶋隆のコラムのどこに惹かれていたかといえば、彼が徹底して「個」であろうとしたところではないかと思う。いや「個」でしかないじゃないかという諦念といったほうがいいかもしれない。心をひとつにとか、友情・努力・勝利とかが苦手なだけじゃない。〈誰もが世界でたったひとつの花なのだ〉とか、そういう言葉につるっと丸め込まれることにガマンがならないところだ。本書でも「はぐれたレンガ−−目黒区」で、大学生・佐知子が自分自身を〈壁の中の部材の一つとしてうまくはまりこむことのできないレンガ〉だと考えている。レンガのたとえは英国のロックバンド、ピンク・フロイドのヒット曲「Another Brick in the Wall」からの引用だが、著者の自己認識でもあっただろう。かつてコラムの中でもこの歌詞を〈狷介不屈にしてパンクな極上のフレーズ〉として紹介している。

  遺作となってしまった本作だが、つまるところじつに「オダジマっぽい」仕上がりだ。「現実」という不自由に縛られずに、自分らしくあろうとした結果がこの作品群なのだ。時事のコラムは急速に古びていくことを運命づけられているけれど、希代の文章書きであった小田嶋隆の本質が何だったのかを、本書はこの先も鮮度を失わずに読み手に伝えてくれるに違いない。

2022年6月書評王:山口裕之

いちファンとしていまの気持ちを書き留めておかないと、というつもりで絞り出したもので、あまり点がもらえるとは思っていなかったところ、小田嶋隆という書き手を知らない人からもいい点をもらえたのはありがたく感じました。書いたのちに元総理大臣暗殺事件が起こり、さっそく小田嶋隆存命ならばどんなものを書いてくれただろうと、あらためて喪失感を覚えます。