書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

近松秋江『黒髪』書評

黒髪

書いた人:山口裕之 2018年10月ゲスト賞
講座では学生時代からのあだ名の「ルー」で呼んでもらってます。カレーは食べるのも作るのも好きですが、どちらもルゥを使わないのが好みです。


「情痴文学」といっても『黒髪』には色っぽいことは一切書かれていない。ほぼ純度100パーセントのストーカー小説だ。そしてそれ以上に、一人称小説における「私」のあり方について、考えさせられる作品なのだ。
〈私〉は、27歳になる京の芸妓に思いを寄せている。東京から金を送って4、5年にもなるが、なかなか逢えない。それでも女の心は自分にあると思い込んでいる。〈私〉自身の描写はほとんどない。年齢も職業も服装さえも。一方で6節仕立て、原稿用紙でいえば全部で64~65枚程度の作品の、最初の1節はまるまる女の容姿の描写に費やされている。〈本当の背はそう高くないのに、ちょっと見て高く思われるのは身体の形がいかにもすらりとして意気に出来ているからであった〉〈白い額に、いかつくないほどに濃い一の字を描いている眉毛は、さながら白沙青松ともいいたいくらい、秀でて見えた〉この女のことなら、いくらでも書ける、という風情である。あくまでも容姿中心の話ではあるのだが。
 第2節で〈私〉は女を訪ねて京都を訪れている。ところが女は家を〈一時仕舞ってしまった〉と手紙で伝えてきている。どうやって逢うつもりだろうと思って続きを読むと、第3節で1年前の思い出にさかのぼる。で、ここから先はずっと「1年前の話」なのだ。小説がひとまずの「現時点」である第2節の場面に戻るのは、なんと続編に持ち越される。『黒髪』が書かれたのは大正11年。そもそもが同年発表の『狂乱』『霜凍る宵』とひと続きの話の話であり、3部作というよりも、3つまとめてひとつの長編として読まれるべきものらしい。
 本稿の最初に「純度100パーセントのストーカー小説」と書いたが、じつは『黒髪』にはその片鱗程度しか出てこない。〈私〉が本領を発揮するのは続く2作。『狂乱』では女の転居先を調べるためにもとの家の周囲を聞きまわり、臭いを嗅ぎつけるやすなわちアポなし訪問し、同居する女の母親からけんもほろろにあしらわれてもめげずに、遠い親類に預けたという話を信じて三重県との境にあるような山の中まで脚で探し続ける。続く『霜凍る宵』ではさらにエスカレートして、女の母のあとをつけるとか、その家の塀に上って中を伺うとか、ちょっとした隙を見つけて家の中に上がり込むとか……今なら警察呼ばれても文句は言えないところである。
 要するに、商売の女性に入れあげて、自分こそが将来を誓った男だと信じ込み、姿を隠した相手の迷惑を顧みず追いかけ続けるイタイ話なのだが、読み心地は不思議に悪くない。どころか、かなり笑える。それというのも、だいたい当の女がいいように〈私〉をあしらっているのが、読者にはきちんとわかるように書かれているのだ。知らぬは〈私〉ばかりなり……というところではたと気づく。そもそも「痴情に溺れる〈私〉」を赤裸々に描くためには「冷静な〈私〉」が必要ではないか、と。
 たとえば『霜凍る宵』で出てくる(女の)隣家の老婆が〈私〉を諭す場面。〈「茶屋の行燈には何と書いておす、え、金を取ると書いておす。(中略)向うは人を騙さにゃ商売が成り立ちまへん。それを知って騙されるのはこちらの不覚。それをまた騙されんようでは、遊びに往ても面白うない。(中略)……どこのどなたはんかまだお名前も知りまへんが、こりゃあ、わるい御量見や」〉。こんな痛い忠告を聞く「耳」を、少なくとも作家の〈私〉は持っていたということになる。
 本書で描かれる〈私〉の姿がみっともなければみっともないほど、それを作品として描くことができた作家としての〈私〉への信頼が増していく――こうした不思議な回路で、この作品は成り立っているのだ。いわば「信頼できない語り手」と背中合わせの「信頼できる作者」。『黒髪』で見られるの女のつれなさや、その裏に隠された事情についても続く2作で明らかになるので、一作だけで終わらせずぜひ先を続けて読んでほしい。

黒髪

黒髪

狂乱

狂乱

霜凍る宵

霜凍る宵