書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

近松秋江『黒髪 他二篇』

黒髪―他二篇 (岩波文庫)

書いた人:藤井勉 2018年10月社長賞
共著『村上春樹の100曲』(立東舎)が発売中です。
http://rittorsha.jp/items/17317417.html

 

 ここ2年近く、盛り上がりを見せている文豪ブーム。アニメ『文豪ストレイドックス』と共に、その火付け役となったのが「文アル」こと『文豪とアルケミスト』です。イケメンキャラに転生した近代日本文学の作家たちをプレイヤーが操り、本の世界を破壊しようとする「侵蝕者」と戦うこのネットゲームにより、文豪たちが新たな人気を獲得しています。登場する文豪は随時追加され、現在50名ほど。登場していない作家は、まだたくさんいます。中でもゲームに加えてほしいと私の思う文豪が、近松秋江です。

 近松秋江は自らの女性遍歴を赤裸々に書いた私小説で名を上げ、自然主義を代表する作家の一人として20世紀前半に活躍しました。そんな近松の独特な個性を味わえる作品としておすすめなのが、「黒髪三部作」と呼ばれる短篇3つを収めた『黒髪 他二篇』です。

 表題作「黒髪」の主人公〈私〉は、京都で23、4歳の芸者に一目惚れ。芸者稼業から足を洗ってもらおうと、多額のお金を貢ぎます。東京に帰ってからも、こまめに手紙を書いて送ります。出会って4年目の初夏、〈私〉は久々に京都を訪れて彼女と再会します。すると、どうも相手の様子がおかしいのです。不機嫌そうな上に、一緒にいるところを人に見られるのを避けているようなのです。なぜかお座敷ではなく、女が母親と同居している家に招かれた〈私〉は、図々しくもそのまま居座り一ヶ月が経過。ある日、〈私〉は気付きます。まだ借金があるという割に、高価そうな服がたくさんあることに。それだけではありません。新調された仏壇を覗き、中に隠されていた写真を見つけるとそこには……。

 文アルでは、文豪たちに「銃」「弓」など得意な武器の属性が割り当てられています。近松の武器を何にするか考えると、ゲームに実装されていない特殊なものになりますが、「粘着テープ」がぴったりきます。女の家に平気で居座る、作者とほぼ同一人物である主人公のしつこさは、続く「狂乱」でより顕在化。帰省している隙に女に逃げられた〈私〉は、同じく姿を消していた彼女の母の居場所を突き止め、娘はどこにいるのかと詰問するもはぐらかされてしまいます。すると後日〈私〉の宿泊先に、女の親類に頼まれて来たという法律事務所の職員が現れます。娘は君が何度も送った脅迫めいた求愛の手紙により精神に異常を来している、関係を続けたければ慰謝料を出せと代理人の彼から迫られる〈私〉。相手の精神にダメージを与える粘着力は、戦闘では有効そうですが、こと恋愛においてはマイナスに働いていたのです。

 3篇目の「霜凍る宵」では女の転居先を訪れ、彼女の母に門前払いされてしまう〈私〉。すると夜中、〈今晩は今晩は今晩は今晩は〉と大声を上げながら家の扉を叩きます。それでも拒絶されると別の日に不法侵入を果たし、復縁するまではと座り込みを敢行。仲裁に入った隣家の主人に、女からの伝言を預かってきたと周りに聴こえないよう耳元で内容を伝えられると、〈主人の口から静かに吐き出す温かい息が軟かに耳朶を撫でるように触れるごとに、それが彼女自身の温かい口から漏れてくる優しい柔かい息のように感じられて、身体が、まるで甘い恋の電流に触れたように、ぞくぞくとした〉と、誰もがドン引きする心情を語ります。人気声優が声を担当しているのも文アルの魅力ですが、イメージダウンを厭わず近松役を引き受けてくれる声優のいることを願ってやみません。

 本書で作者の訴えたいこと、それは〈私〉=自分が女に捨てられた哀れな男だということです。なのに、読み進める内に読者の同情は薄れていくこと必至。一方で、どこまで〈私〉が醜態を晒すのか楽しみにもなってくるのが、面白いところです。ゲームでも戦闘そっちのけで失恋を愚痴り出す迷惑男キャラで登場したら、案外人気を集めると思うのですが。

※引用部分について、原本は旧字旧仮名ですが新字新仮名で表記しています。

黒髪―他二篇 (岩波文庫)

黒髪―他二篇 (岩波文庫)