書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

【作家紹介シリーズ】リュドミラ・ウリツカヤ

 現代ロシアを代表する女性作家、リュドミラ・ウリツカヤの『緑の天幕』が刊行された。分厚い大長篇に二の足を踏むあなたに、ウリツカヤ三段階攻略法を伝授しよう。

 ノーベル文学賞候補とも目されるウリツカヤの小説は、奇をてらったものではない。市井の人を、子どもから老人まで性別を問わず、分け隔てなくあざやかに造形し、豊かな物語を構築する。心温まる優しさだけでなく、ユーモラスな毒を交えて。

 手始めには、ウラジーミル・リュバロフのキモかわいい絵が添えられた短篇集『子供時代』がいい。遠縁の老女と暮らす姉妹が、お使いのお金を落として途方に暮れる「キャベツの奇跡」。少年がひと夏を田舎のおじいさんの作業場で過ごす「釘」。1949年のモスクワらしき町を舞台に、第二次大戦後の困難な時代を生きる子供たちを、1943年生まれの作者が郷愁を込めて描いた佳品そろいだ。

 その他の短篇集には、性がにおい立つ少女たちを書いた『それぞれの少女時代』と、嘘をつく女たちのエピソードから、女の切実さが見えてくる『女が嘘をつくとき』がある。

 短篇をクリアして中篇に進むなら『ソーネチカ』。ウリツカヤ作品中日本で最も親しまれているだろう、1992年発表の出世作だ。

 読書好きで地味なソーネチカは、第二次大戦中、年上の画家と結婚する。時がたち、自宅に住ませてあげた娘の友人が夫の愛人になってしまった後も、ソーネチカは彼らと一緒に暮らし、周囲の人への柔らかな愛情を持ち続ける。ウリツカヤの手にかかると、現実離れしたそのてん末が必然に思えて、ソーネチカの奇跡のような生き方に心を打たれる。

 もう一作の中篇『陽気なお葬式』は、ニューヨークに住む亡命ロシア人画家が主人公で、『ソーネチカ』のにぎやかな変奏曲と言える。

 短篇や中篇でウリツカヤ沼にはまった読者に喜ばしいことに、彼女の長篇は、日本で三作も刊行されている。なかでも代表作と言えるのが、実在の人物をモデルにした『通訳ダニエル・シュタイン』だ。

 第二次大戦中、ユダヤ人としての出自を隠してナチスの通訳を務めたダニエルは、ユダヤ人300人のゲットーからの逃亡を手引きした。彼は戦後イスラエルに渡り、カトリック神父として布教に生きる。その一生が、一人称の語りや周囲の人々の証言など、様々な視点から語られる。純粋無垢なのに一筋縄でいかないダニエル。史実を踏まえ、愛、寛容、宗教をテーマにした大きな物語だ。

 一方、ロシア・ブッカー賞を受賞した『クコツキイの症例』では、スターリン時代のモスクワを舞台に、産婦人科医クコツキイ一家がすれ違い、壊れていくさまが綴られる。

 そして『緑の天幕』。1953年、スターリンの死から、ソ連崩壊後の90年代までを、モスクワで育った六人の男女を軸に追った大河小説だ。中心となる男女の一生は前半に駆け足で語られ、その後は同時代の人々のエピソードが幾層にも重ねられる。30ある各章には、独立した短篇として楽しめるものも多いが、点在する登場人物たちのつながりをたどりながら読めば、さらに時代を俯瞰する感覚に浸ることができる。

 文学や思想が統制された時代に、作中の人々は身の危険にさらされても、貪欲に書物を求め、芸術に触れる喜びを堪能した。この容易に言い尽くせない混とんとした半世紀を記すには、100人以上の人物と700ページの長さが必要だったのだろう。

 『通訳ダニエル・シュタイン』の作中には、ウリツカヤからエージェントへの書簡が挟まれる。そこで書かれる創作中の苦闘を読めば、短篇から長篇まで、ひとりひとりの人物に目を配り、作家としての想像力をつぎ込んで、彼らの生きかた、感じかたに寄り添いながら、物語を作り上げているからこそ、彼女の作品に外れがないのだと感じる。その人物造形こそ、彼女の豊かな文学世界の中心にある。

 

2022年2月:田仲真記子

1月はウリツカヤを読みまくり、ウリツカヤのことばかり考えて過ごしました。幸せでした。