書評王の島

池袋コミュニティ・カレッジで開講中の「書評の愉悦ブックレビュー」で王に選ばれた書評を紹介するブログです。

『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』川本直著

 「日本企業はイノベーション創出力が弱い」とよく言われるが、その一因として担い手の不足が挙げられる。イノベーション人材というと、ゼロから新しいアイデアを発想する「0→1人材」に注目が集まりやすいが、それだけでは、新しいものを生み出し、変革を起こすのは難しい。アイデアを実用に落とし込む「1→10人材」も不可欠なのだ。
 小説も、新しい世界を創出するという意味で一種のイノベーションといえるだろう。文芸評論家の川本直による小説デビュー作『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』は、二人のイノベーターによる、創作をめぐる葛藤の物語とも読める。主人公はアメリカ人男性ジュリアン・バトラーと、ジュリアンの同性愛パートナーであるジョージ・ジョン。十代の頃に、全寮制の寄宿学校で同室になった二人は恋に落ちる。その後、恋愛関係でなくなっても、ジュリアンが五十代で亡くなるまで二人は共に生きた。
 ジュリアンは、アメリカで同性愛がタブーだった一九四〇年代に、男性同士の恋愛を描いた小説を書いて海外でデビュー。同性愛をモチーフとした作品を精力的に発表する一方で、過激な発言や華美な女装、トルーマン・カポーティなど有名人との親交でメディアを賑わせた。パートナーのジョージは、寡黙で、ごく限られた友人にしか心を許さず、文芸誌の編集者としてキャリアを積んだのちに文芸評論家として書物と向き合う生活を送った。
 本書では、ジュリアンとジョージの最大の秘密が描かれる。きっかけは、ジュリアンが小説を書き始めたことだった。完成した作品を読んだジョージは、〈文体が酷い。(中略)結末も取ってつけたようだ〉と感じ、気がつくと文章を書き換え始めていた。寄宿学校時代にジョージは、ジュリアンが課題用に書く稚拙な文章を整えてやっていた。その延長線のつもりで行ったのだ。「0→1」タイプであるジュリアンの創作物を、「1→10」のジョージが作品として完成させたわけだ。
 これを知ったジュリアンは泣いて怒りをぶつけるが、すぐ〈「やっぱりジョージが書き換えた方がよかったかも」〉と機嫌を直し、「自分名義の小説として発表する」と宣言する。作品は『二つの愛』という書名で出版される。こうして、進め方は作品ごとに違うものの「メディアに出るのはジュリアン、作品を形にするのはジョージ」という創作スタイルが構築される。ジョージは晩年、手記で真実を発表。それを川本直が翻訳し、考察と共にまとめたのが本書『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』というわけだ。
「1→10」のジョージは、「自分がいなければ小説は成り立たない」という自尊心を抱いている。それは、有名作家となったジュリアンに対するコンプレックスの裏返しでもある。しかし、共犯歴が二十年に及ぶ頃、ジュリアンは完成形に近い作品のアイデアを音声で残す。録音を聴いたジョージは、内容の革新性に〈文字起こしすればそのまま小説になる〉と感じる。そして書き上がった『終末』に関して、ジュリアンは出版交渉もプロモーションも一人でやってのけた。ジョージは〈ジュリアンはもう私を必要としていない〉と打ちのめされる。「0→1」のはずだったジュリアンが、アイデア想起から運用までを一人でこなせる「0→10」になっていたからだ。
 自分の能力にプライドを持つのは大切なことだ。しかしそれは、「他人を下に見る」という感情と紙一重でもある。ジョージは、ジュリアンという天才を支配しようとするあまり、純度の高い矜持を忘れてしまった。相手へのリスペクトを保ちながら意見をぶつけ合い、質の高いイノベーションを起こすのは本当に難しいことだと気づかされる。
 さて、“訳者”の川本直は明らかに「0→10」タイプだ。その理由は、本書を一読すればわかる。豊穣な作品世界を最大限に楽しむために、どうかネットで事前に情報を漁ったりせず、できれば帯の文言も読まずに、川本によるイノベーションを体験してほしい。

2021年12月書評王:田中夏代
教育やビジネスの分野で活動するライターです。書評講座歴1年。普段手に取らない本との出合いが急増し、刺激を受けまくっています。