書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

『吞み込まれた男』エドワード・ケアリー著 古屋美登里訳

 二〇二〇年にEテレ「100分de名著」で『ピノッキオの冒険』が取り上げられた。朗読は俳優の伊藤沙莉さんで、ちょっと鼻にかかっただみ声のやんちゃな様がピノッキオにぴったりで素晴らしかった。のだが、番組を見て何より驚いたのは、イタリアの「子ども新聞」に発表した当時(一八八一年)、連載の第十五章でピノッキオは死に、そこで続きが掲載されなかったので読者からの手紙が殺到したという事実。その後、実は生きていましたと連載が再開されたということだった。しかも解説の和田忠彦氏によると、ピノッキオが死んだ(しかも首つり!)のは、作者コッローディが借金を返し終えてやる気をなくしたかららしい。そんないいかげんな!
 だが、そんないいかげんな感じが『ピノッキオの冒険』の面白いところでもある。現にうちの幼児に読み聞かせてみたら夢中になって続きをせがむ。場当たり的なピノッキオの行動は小さい子どもたちの行動そのもの。
 一方で、登場人物たちにとってはいい迷惑で、おおかたの主要キャラクターが散々な目に遭う。ピノッキオに忠告をしたコオロギは木づちで殺され、彼の命を救い事あるごとに助けてくれる仙女は何度も裏切られる。そして生みの親ジュゼッペじいさんは、いなくなったピノッキオを探しに小舟で海に乗り出し、巨大魚に吞み込まれてしまうのだが、その後じいさんがどうなったかは全く語られず、再会まで二年が経過してしまうのだ。
 この二年間の空白を有り余る想像力と創造力で埋めたのが、英国出身の作家で、イラストレーター、彫塑家でもあるエドワード・ケアリーの『呑み込まれた男』である。
 まず本を手に取ったらぱらぱらとめくってみてほしい。たくさんの挿絵とオブジェの写真が掲載されている。これらすべて作者の手によるものだ。ピノッキオにまつわる文化活動を支援している財団から依頼を受けてオブジェを作ることになった彼は〈たったひとりで闇のなかで過ごすとなったら、自分ならどうするだろう、どうやって過ごすだろう、きっと何かを作るはずだ、大工なのだから〉と巨大魚の腹の中にいた二年間に作ったかもしれない作品を制作し、それから物語を創作したのである。
 物語は、ジュゼッペによる手記という形の十五の章とエピローグから成っている。第一章では、巨大魚の腹の中にいるらしいジュゼッペが、どうやって食べ物と灯りと寝床を手に入れ、手記をつづるようになったかが語られる。そして本来真っ暗闇でひとりぼっちの状況で正気を保ち生き延びる手段として、文字を書き記すことと、作品を制作するということが切実な意味を持って行われていくのだ。
 彼には後悔がある。自分が生み出したピノッキオから〈バッボ〉と呼ばれたとき、うろたえ拒否したのだ。バッボ、それはこどもが使う「お父ちゃん」という意味。彼はピノッキオを〈木でできた怪物〉〈あってはならない生命〉と思ってねじを取り付けフックから吊り下げてしまう。人間じゃないのにベッドなんか必要ないということだ。
 〈むすこだよ、バッボ。ぼくはむすこなんだよ〉と訴えるピノッキオが切ない。こうも言う。〈あなたがいのちをあたえたのなら、ぼくはそのいのちをうけとるよ。そしていのちとつきあっていくよ〉。これはすべてのこどもの代弁だ。こどもはこんな風には話せないかもしれないけれど、私たち大人から、命を受け取り付き合ってくれているのだ。
 無論ジュゼッペも気づいている。手記の中で自分自身の父との来し方を振り返りながら、ピノッキオに贖罪したいと願うのだ。
 この小説を、ピノッキオは知る必要がないしこどもたちは知る必要がない。けれど、大人たちには必要で、命と向き合うときに大切なことが描かれている。大人のための童話なのである。

 

2022年8月書評王:山田麻紀子


2012年から書評講座に参加していますが、途中出産・育児でのお休みを経て、コロナ禍の中どさくさに紛れて復帰しました。書評王をいただけてとても嬉しいです。