書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

『クララとお日さま』カズオ・イシグロ著 土屋政雄訳

 カズオ・イシグロノーベル賞受賞後初の、6年ぶりの新作。『クララとお日さま』の語り手クララは、太陽光を栄養源とするB2型第四世代の女子AF(人工親友)。子供の最良のパートナーとなるために開発された高価なロボットだ。クララは「推定十四歳半」の聡明で病弱な少女・ジョジーと運命的な出会いを果たし、都会の店からとある地方の彼女の家に買われていく。
 AFには個体ごとに個性があり、クララは型落ちではあるが、観察力と学習意欲に特に優れていると、販売店の店長はジョジーの母親に力説する。クララもそれは自覚しており、ジョジーはもちろん、周辺のあらゆるもの、たとえばその母や幼なじみなど、自分の目に入る人間の感情や行動の理由について常に観察し、学び続ける。すべてはジョジーのためであり、自分の存在全体で彼女に尽くしたいと願っている。それがクララが考える、もしくはクララに与えられた、AFとしての使命であり存在理由だからだ。
 クララの特別な学習能力は、ロボットとしてはとんでもないものを自身にもたらしている。信仰心だ。死んだように見えた〈物乞いの人と連れの犬〉が、日の光とともに「生き返った」のを店のショーウィンドーから目撃したクララは、〈お日さま〉がAF同様、人間にも〈栄養〉を与えられるのだと信じ込む。だからこそ、自分の何もかもを犠牲にしてもいいから、その特別な力を体の弱いジョジーのために使ってほしいと〈お日さま〉に「祈る」。この「祈り」がもたらすものとは?
 一方で、子供用に知性あるロボットが与えられているような世界で、人間の側に影響がないはずがない。直接的な言及はないが、多くの仕事がロボットに〈置き換え〉られ、高度な知的労働者でさえ失業している。おそらくは「ロボットでは代替できない仕事」をするため、もしかすると「ロボットにしかできないような仕事」をするために、人間も「ありのまま」ではいられない。ロボットによるプレッシャーは大人よりも子どもにより大きな影を落としている。クララの視点の外に立てば、ジョジーの健康を害し、追い詰めているのは、クララ自身であるとも言える。謙虚でけなげで礼儀正しく、あたたかな語りのムードの裏側で、イシグロは語り手・クララには自覚できない、もしくは自覚することを禁じられた、この残酷な構図を読み手に突きつける。
 AIの進化によるディストピア(with AIの時代)を描いているとも、現実の格差社会に対する批判であるとも読める本作だが、究極のところ「人間とは何か」という問いを発しているのだと考える。「ありのまま」ではいられなくなった世界で、それでも人間を人間たらしめている、個人を個人たらしめている〈特別なもの〉はあるのか。あるとすれば、それはどこにあるのか。クララはさいごに自分なりの結論を語ってくれるのだが、あなたは納得できるだろうか。評者は、ロボットであるクララにこそ、人間の想定を超えた〈特別なもの〉が生まれたのではないかと、考えてしまうのだが。 

2021年4月書評王:山口裕之
カズオ・イシグロはネタばらし警察が多そうなので、とくに気をつけたつもりなのですが、書き終わってから、直接的なネタバレよりもっとヤバイかもと不安になったり。ぜひ、読んだ人どうしで話をしてみたい作品ですね。

クララとお日さま

クララとお日さま

 

『ペインティッド・バード』イェジー・コジンスキ 著 西成彦 訳

 1936年、ナチスドイツの侵攻がせまる東欧で、6歳の「ぼく」は「せめて子どもは無事に」と願った親によって、遠い田舎村へと疎開させられる。仲介者を経て魔女じみた老婆のもとへ預けられた「ぼく」だったが、わずか数ヶ月後、彼女は死んでしまう。オリーブ色の肌に黒髪という見た目により、周囲から「ぼく」はジプシーあるいはユダヤ人の子とみなされる。ナチスドイツにとっては根絶やしするべき存在であり、かくまったことがドイツ人に知られれば、個人だけでなく共同体ごとひどい目に遭う。自分が何者かを証明することができず、頼るべきものを失った少年は、荒野でひとりで生きることもできず、村から村へと放浪することになる。
 ある村で「ぼく」を引き取った男は、野生の鳥をつかまえ金持ちに売ることを生業としている。鬱屈がたまると彼は、つかまえた鳥にペンキを塗って「ぼく」に握らせ、上空の群れに放てと命じる。ペンキを塗られた鳥は、群れの仲間から激しくついばまれ、目をえぐられて地に落ちる。「ぼく」もこのペンキを塗られた鳥同様、行く先々の村で虐待されつづける。4年あまりのあいだ、繰り返し、繰り返し。
 1933年、ポーランドユダヤ人の両親のもとに生まれた著者コシンスキは、ホロコーストを逃れるために幼少時に田舎へと預けられたが、そのときのトラウマのために5年間にわたって口がきけなくなったという。戦後に両親と再会した彼は障害者学校で教育を受け、二十代前半でワルシャワポーランド科学アカデミーで職を得るも、1957年、冷戦下のポーランドを脱出。南米を転々とした後にアメリカへと渡った。とされているが、このプロフィールはまったくの虚構の可能性すらある。いくつかのノンフィクション作品を発表したのち、『ペインティッド・バード』を発表したのは1965年のことである。
 ホロコースト・サバイバーによる自伝的作品として受け止められた本作は、賞賛と酷評の両方を得る。著者にはのちにねつ造疑惑や盗作疑惑、ゴーストライター疑惑も投げかけられたが、その後も謎多き作家として作品を発表。1991年、57歳で、自宅にて睡眠薬を飲んだうえでビニール袋を被って自死している。
 作品中の「ぼく」が受ける数々の残酷な仕打ち、「ぼく」が目撃する人々の性的な退廃ぶりは、当時としても衝撃的な告発としてとらえられたに違いない。それというのも、本作において弱者を責め苛むのは、多くの場合ナチスでもソ連軍でもなく、貧しい村々の、普通の男女だからだ。
 粉屋のおやじは、妻との不貞を疑った作男の少年の目にスプーンを突っ込み、両方の目玉をえぐり出す。妻たちは、亭主を誘惑した女を、よってたかってリンチしたうえに、股間にガラス瓶をぶち込み、蹴り殺す。「ぼく」は理由もなく暴力を受け、犬をけしかけられ、村人によって肥溜めのなかに放り込まれて死にかけたあげくに声を失う。この作品が読み手にもたらす居心地悪さは、戦時下における一時的な狂気ではなく、レイシズムといえるほどのものでもない、もっと根源的でいつどこにでもある弱者に対する人間の暴力性・加虐性が執拗に描かれていることに起因しているのだ。
 本書は2011年刊行だが、1972年に角川書店から『異端の鳥』(青木日出夫訳)という題で先行訳がある。2019年にチェコ人の監督によって製作された映画が、日本でも翌年公開され話題となった。事実をもとにしているのか、歴史の悲劇を利用した創作に過ぎないのかで物議を醸した本作だが、毀誉褒貶を超えて、発表以来50年以上を経た今でも力を失っていない。人間の認めたくない一面について正視せよと迫るこの作品が「本物」なのか「偽物」なのか――それはフィクションなのかノンフィクションなのかとは、また別の問題なのである。

2021年2月書評王:山口裕之

映画の予告編を見たときは「こんな金をもらっても観たくないような、主人公が苦しい目に遭うだけの映画、よくつくったな」と思ったのですが、書評を書いてから「ああ、あれか」と思い出したのでした。本は、映画ほど苦しい気持ちにならないの、なんででしょうね。

ペインティッド・バード (東欧の想像力)

ペインティッド・バード (東欧の想像力)

 

『さようならアルルカン/白い少女たち 氷室冴子初期作品集』

 1976年創刊の集英社コバルト文庫は、少女向けエンターテインメント小説の老舗レーベルとして、これまで多くの作家やヒット作を世に送り出してきた。看板作家のひとりである氷室冴子は、1980年刊行の『クララ白書』で少女の口語一人称によるコメディ路線を開拓し、さらには「ジュニア小説」と呼ばれていたジャンルに自覚的に「少女小説」という用語を持ち込むなど、女子向け読み物に変革をもたらした功労者である。
 『なんて素敵にジャパネスク』の大ヒットなどで一時代を築いた氷室冴子だが、その作品の多くは品切れとなっており、紙版での入手が難しくなって久しい。コバルト文庫の電子化が進んだことで氷室作品の多くは購入可能とはなったものの、紙書籍での復刊は長らく叶わずにいた。それだけに、2020年12月に集英社から単行本というかたちで『さようならアルルカン/白い少女たち 氷室冴子初期作品集』が刊行されたことは、ひとつの画期であった。
 氷室冴子初期作品集には、1977年発表の新人賞受賞作「さようならアルルカン」と、1978年刊行のコバルト文庫デビュー長編小説「白い少女たち」という最初期を代表する2作に加えて、雑誌『小説ジュニア』に1978年から80年にかけて発表された書籍未収録短編4作も収められている。
 バラエティに富んだ作品群のなかでも、とりわけ鮮烈な読後感を残すのは「さようならアルルカン」だ。物語は主人公の「わたし」と真琴という二人の少女を中心に、小学6年生から高校時代までを描く。正義感が強く、教師に意見する事もいとわない真琴の姿に「わたし」は一方的に憧れ、彼女を見つめ続けていた。だが真琴はある出来事をきっかけにかつての面影を失い、幻滅した「わたし」は<さようなら アルルカン>と記した決別の手紙を彼女に送りつけ、別々の高校に進む。だが「わたし」は真琴が忘れられず、中学時代の図書カードをたよりに彼女の読書歴を追いかけていた。そんな二人が思わぬ形で再会を果たし、<未知のものをうかがい知りたい。それは、広い意味での愛の始まりかもしれない>という、新しい友情への予感をもって物語は締めくくられる。
 学校を舞台に少女の自意識を掘り下げる本作には、同じ感性を共有できる少年との絆や、同性である真琴に対する憧憬など、<広い意味での愛>が描かれている。「わたし」と真琴の間にある感情は恋愛ではなく、けれども緊張感をはらんだ二人の関係性にはほのかなエロティシズムが漂い、この作品を独特のトーンに染めあげていく。少女の友愛は氷室冴子の作品世界に通底するテーマであり、「さようならアルルカン」はその原点をみずみずしく伝えてくれる。
 シリアス路線の表題作に対して、短編小説4作にはシリアスからコメディへという変化が刻まれており、作風の模索という観点からも興味深い。詩人として活動する男性教諭への憧れと幻滅を描く「あなたへの挽歌」や、中学生の失恋という身近なモチーフをテーマにした「悲しみ・つづれ織り」は、思春期の少女の繊細かつ潔癖な感情に迫る氷室の最初期路線を踏襲する。それに対して「おしゃべり」ではユーモアの萌芽が見られ、「私と彼女」では少女二人の突然の同居生活がいきいきとした口語一人称で綴られる。「私と彼女」はのちに刊行される男女同居コメディ『雑居時代』の原型とも呼べる作品で、ポップかつハイテンションな作風は初期作品集のなかでも異彩を放つ。
 氷室冴子の仕事はコバルト文庫での小説執筆のみならず、女性の生き方や親子関係に言及したフェミニズム的なエッセイ集や、宝塚歌劇団をモデルにしたマンガ原作など、多岐にわたる。その幅広い活動を貫くのが、女性に対するやさしい眼差し、そして「少女」というモチーフに対する強い関心なのだ。さまざまな形で少女の世界を描き続けた氷室冴子の作品に、今後も光が当てられることを期待したい。

2021年3月書評王:嵯峨景子

かつて『氷室冴子とその時代』という本を出したほど思い入れの深い作家なので、氷室作品の書評で書評王をいただけて光栄です。初期作品集には解説がついていないので、その補足になるよう作家のキャリアや作品の背景を丁寧に説明してみました。

評者プロフィール:ライター・書評家。日々本を読んだり書いたり取材したり。最新刊『大人だって読みたい! 少女小説ガイド』(時事通信出版局)も好評発売中です。Twitter:@k_saga 

氷室冴子とその時代

氷室冴子とその時代

2020年に読んだ私的ベスト3

 新型コロナウイルス感染症の流行に翻弄された、2020年のプロレス界と私。生観戦のできない緊急事態宣言期間中に、プロレスへの関心を保つ助けとなったのが、『玉袋筋太郎のプロレスラーと飲ろうぜ』(白夜書房)だった。

玉袋筋太郎のプロレスラーと飲ろうぜ

玉袋筋太郎のプロレスラーと飲ろうぜ

  芸人・玉袋筋太郎が、構成作家椎名基樹とプロレスライター・堀江ガンツと共に、ゲストのプロレスラーたちと酒を飲みながらそのレスラー人生を掘り下げていく本書。登場するレスラーは、酒の入った状態で皆ぶっちゃけまくる。
 たとえば、1997年に女子プロレス界初の三冠王者となった井上京子。所属していた全日本女子プロレスのギャラ未払いに7ヶ月気づかないまま試合をしていたというエピソードにはじまり、若手時代に給料が安すぎてティッシュを食べて飢えを凌ぎ最近久しぶりに食べたら昔より甘い味のした話や、一緒に酒を飲んでいた先輩レスラーのブル中野が朝方に試合用のメイクと髪型のまま自動販売機の横で寝ていた話や、会社に内緒で学生プロレスの練習に参加してプロにはない技術を研究していた話など、彼女がシャンパンをあおりながら語るエピソードはそれぞれに面白さの質も違うから、読んでいて飽きがこない。
 なにより、ホスト役の玉袋が井上に〈もうたまんねえな。惚れちゃうね〉と漏らすように、最後にはどのゲストのことも好きになり、試合を見てみたいという気持ちにさせてくれるのが本書最大の魅力なのである。
 緊急事態宣言が解除されると、通常の興行も徐々に再開となる。そこで気になったのが、外国人選手たちの不在だ。日本人選手にはない身体能力やパフォーマンス力を持つ彼らのいない興行に物足りなさを感じ、入国制限が緩和されると、わざわざ隔離期間を経て参戦してくれることに頭の下がる思いだった。


 日本マット界で活躍したレジェンドレスラー10人の知られざる素顔と晩年を綴った斎藤文彦忘れじの外国人レスラー伝』 (集英社新書)は、そんなコロナ禍でも世界を股にかけて闘う外国人レスラーたちの心理を窺い知る手掛かりとなる一冊だ。

忘れじの外国人レスラー伝 (集英社新書)

忘れじの外国人レスラー伝 (集英社新書)

  • 作者:斎藤 文彦
  • 発売日: 2020/11/17
  • メディア: 新書

  一つの団体に定着すると勝ち続けて戦う相手がいなくなり飽きられるからと、世界各地をスポット参戦で周り続けた “大巨人”アンドレ・ザ・ジャイアント。1975年にアントニオ猪木と60分フルタイムドローの激闘を繰り広げてから24年後、レスリングジムのコーチとして招かれて60歳で日本に引っ越してきた”人間風車ビル・ロビンソンなど、登場するレジェンドレスラーたちに共通するのが、一箇所に落ち着くことなく移動し続けることを厭わない性分だ。
 この性分は今の外国人レスラーたちにも脈々と受け継がれ、コロナに対する不安をも乗り越えて日本まで来ているのではないかと想像したくなる。
 声を張り上げ、密になってなんぼの競技であるプロレスは、2021年どんな展開を見せていくのか。どの団体も、感染者の発生による対戦カードの変更やライバル・因縁ストーリーの中断といった可能性を常に抱え、不確定要素の多いことは間違いない。


 『捻くれ者の生き抜き方』(日貿出版社)で、どんなテーマを持って試合に臨むのか、なぜこの技をこのタイミングで出すのかといった「整合性」の重要さを説き、〈プロレスの「適正」は、プロレスのことを考え続けられること〉だと記す著者のフリーレスラー・鈴木秀樹。この選手はコロナ禍のプロレス界において、イレギュラーな状況でもぶれずに力を発揮することで、頭一つ抜ける存在となりそうだ。

捻くれ者の生き抜き方

捻くれ者の生き抜き方

  • 作者:鈴木秀樹
  • 発売日: 2020/10/24
  • メディア: 単行本

  彼がフリーランスのレスラーとして生き抜く秘訣を語る本書には、ギャラ交渉における金額の算出方法やSNSとの付き合い方、団体やスポンサーとの関係性など、ビジネス書かと思うようなパートも含まれている。そんなプロレス本っぽくない一面にも、お決まりの展開を嫌うファイトスタイルの鈴木秀樹らしさが表れていていい。

 

2021年1月書評王:藤井勉
リアルサウンド ブック」で書評を書いております。
https://realsound.jp/tag/%e8%97%a4%e4%ba%95%e5%8b%89
共著『村上春樹の100曲』(立東舎)が発売中です。
http://rittorsha.jp/items/17317417.html

『言語の七番目の機能』ローラン・ビネ著 高橋啓訳

てえへんだ、てえへんだご隠居さん。
 まあ落ち着きなさいよ、八っつぁん。いったい何がそんなに大変なんだい。
 この前ご隠居さんに教えてもらった面白れぇ本があったじゃないですか。え―っと「斬新な手法の歴史小説として驚愕と熱狂を巻き起こした-」。
 おや、私が教えたそのまんまじゃないか。ローラン・ビネの『HHhH』(*1) だろ。ナチスの高官で非情な〈金髪の野獣〉と恐れられたハイドリヒの暗殺事件を題材に、〈執念深く神経質なまでに〉私見を除いて史実だけを忠実に再現する手法で、読者はまるでその現場に居合わせているような緊迫感を共有していくんだが、最後の最後に…いやぁ、あれは強く心を揺さぶられる傑作だったねぇ。
 それそれ。そのビネさんの邦訳第2作目となる『言語の七番目の機能』がついに出たんですよ。
 ―とまぁ、長屋の粗忽者の代表格八っつぁんと知恵者の象徴ご隠居風に始めさせていただきました、読楽亭評之輔でございます。
 え~改めてご紹介いたします。ときは1980年。フランスの哲学者にして記号学者のロラン・バルトが、翌年に大統領選を控えたミッテランとの昼食会からの帰り道、小型トラックに轢かれ亡くなりました。と、ここまでは史実そのまま。バルトについての〈最も詳細な伝記〉である『ロラン・バルト伝』(*2)でも、事故当時身分証を身につけていなかったなど幾つか不審な点はあったものの最終的には事故死と判断されたとあります。にも関わらずビネさんは、実はバルトは本作のタイトル〈言葉の七番目の機能〉をめぐる陰謀によって殺されたのだというのでございます。え、あんなに史実しか認めないとおっしゃっていたじゃあないですか。前作とは真逆のアプローチですかい、と言いたくなるのはほんの一瞬。荒唐無稽万歳。これが滅法面白いのでございます。
 バルト謀殺にはどうやら彼の専門分野である記号学が関係し、おまけに誰もが血眼になって奪い合う〈言語の七番目の機能〉の謎も解く必要があるらしい。というわけで、この捜査を拝命したのが、強面で少々品位には欠けますが判断力行動力は抜群の仏総合情報局のジャック・バイヤール警視。そして記号学の指南役として巻き込まれたのが、若き大学講師シモン・エルゾク。青白い顔をして頼りなさそうなシモン君ですが、初対面でバイヤールの身元や過去を鮮やかに推理してみせる場面は、かの名探偵ホームズとワトソン博士の出会いを彷彿とさせ、ビネさんの言う〈日常生活に溢れているものを文学のように解読する〉記号学の面目躍如といったところ。
 この即席バディのふたりがパリ、ボローニャ、NY州イサカ、ヴェネツィアナポリを駆け巡って、『007』のジェームズ・ボンドばりのカーチェイスや、秘密結社〈ロゴス・クラブ〉では言葉を武器に知の格闘技をやってのけ、スリルとサスペンスてんこ盛り官能シーンもありありの、ど派手な冒険活劇を繰り広げるのです。イタリアの記号学の大家ウンベルト・エーコも重要な役どころで登場し、彼が1980年に発表した中世イタリアの修道院での連続殺人ミステリー『薔薇の名前』(*3)へのオマージュが本作のそこここに見受けられるのも一興なんでございます。
 また、ミシェル・フーコーソレルスクリステヴァジャック・デリダ等々、フレンチ・セオリーと呼ばれた哲学運動における実在のスター級の面々による、政治や哲学、思想、歴史等々について交わされる饒舌で闊達な議論は本作の白眉ともいうべきところ。後に仏大統領となったミッテランは作中で〈真の権力は言語(ランガージュ)ですよ〉と言ってのけていますが、政治や落語の世界に限らず、言語が持つ計り知れない力を改めて実感できる作品なのでございます。老婆心ながら、最後の最後まで気が抜けませんのでご用心を、そして、変化していく語り手にもご注目あれと申し添えて本日は失礼いたします。お後がよろしいようで。


*1『HHhH‐プラハ、1942年』ローラン・ビネ著 2013年 東京創元社
*2『ロラン・バルト伝』ルイ=ジャン・カルヴェ著 1993年 みすず書房
*3『薔薇の名前ウンベルト・エーコ著 1990年 東京創元社 

 

2020年11月書評王:関根弥生

読書(特に海外文学)好きの落語家が、寄席演芸専門雑誌の書評欄「読楽亭評之輔のお薦め本コーナー」で書いているという設定です。どうぞごひいきに。

 

『白い病』カレル・チャペック著 阿部賢一 訳

 世界で四千万人の命を奪ったスペイン風邪は、第一次世界大戦の終息に影響したとも、また第二次世界大戦の火種にもなったともされている。いま猛威を振るっている新型コロナウイルスは、世界を、社会を、どのように変えるのだろうか。
 パンデミックが及ぼす影響を考えようとするとき、非常に興味深い作品の新訳が刊行された。「ロボット」の語源ともなった作品でも知られるチェコの国民的作家、カレル・チャペック(1890~1938)が1937年に発表した戯曲『白い病』だ。
 今まさに隣国に侵略戦争を仕掛けようとしているヨーロッパの独裁国家で、ある病が〈雪崩のように広がっている〉。〈白い病〉と呼ばれるその病気は、45歳もしくは50歳以上の人間に感染し、数ヶ月のうちに死に至らしめる。予防法も治療法もなく、すでに500万人が亡くなった。国の枢密顧問官を務めるジーゲリウス教授の病院でもなすすべがなかったところへ、名もなき町医者・ガレーンが現れ、この病院で臨床試験をさせてくれと訴える。治療費の払えない患者だけを集めた病室で奇跡的な治療成果をあげた彼だったが、一方で金持ち、権力者は診ようとせず、肝心の薬についての情報も渡さない。集まった記者に、彼は告げる。〈こう書いてください……この薬を入手できるのは……二度と、二度と、二度と戦争をしないと誓う民族だけだと〉。
 病気を人質に戦争放棄を訴える〈ユートピア的な脅迫〉者。「あなたは、人が亡くなるのを放っておくのですか?」と問う記者に、「では、人々が殺し合いをするのを、あなたは放っておくのか?」とガレーンは答える。権力者は脅し、なだめ、すかして治療法を明かすように説得するが、ガレーンは頑なに聞き入れない。そうこうするうち、軍需産業のトップも病に罹患し、ついにこの国の統治者にして戦争を主導する元帥にまで病の手が伸びる。元帥の選択は、民族の勝利か、それとも命か。
 第二次世界大戦前夜、ナチス支配下の隣国ドイツからの圧力が日に日に強まるなかで発表された本作は、プラハの貴族劇場で初演が行われ、単行本としてもわずか二年で九版を重ねたという。この新訳は、新型コロナウイルス感染拡大のさなかに訳者のウェブサイトで数場ずつ公開され、それが版元の目にとまっての緊急出版となった。戯曲とはいえ非常に読みやすい訳で、ボリュームも文庫で150ページほど。いまこのタイミングで、いま生きている日本語で読めることに感謝したい。
 80年以上前に発表されたこの作品が今日に響くのは、疫病がもたらす「分断」を描いているからだ。親世代は死の恐怖におびえて〈恒久平和〉を求めるが、この病に冒されることのない若者たちは上の世代の退場によって職を得られるのを期待し、〈正義は我々の側にある〉という元帥の演説に魅惑されて戦争を求めている。2020年のこの世界でも、おもに貧しい者が犠牲となり、必死の努力をつづける医療従事者がいる一方で、「GOTO」で「無限くら寿司」を満喫する人、果ては人気取りをしたり税金を私物化したりするチャンスと考えているのではと勘ぐってしまう政治家さえいる。疫病は、世界の構造を無残に浮き彫りにするのだ。
 本作は〈反ファシズムのメッセージを鮮明にする作品として読まれてきた〉と訳者後書きにある。ファシズムは独裁者ひとりだけに責があるものではなく、行動に伴う責任を積極的に為政者に預け、「正義」の名の下に「敵」を排除する喜びに身を任せ、集団への帰属感に陶酔する「群衆」がいてはじめて完成するものだということが、近年の研究で明らかになってきている。本作の結末は、じつは独裁者ではなく、「群衆」が決定している。新型コロナウイルスがもたらすものが何になるか。それは私たち一人ひとりの意思と選択にかかっているのだということも、この作品は伝えようとしているのかもしれない。

2020年12月書評王:山口裕之

書評講座14年生になりました。今年のおせちはローソン100円ストアでどれだけ揃えられるかにチャレンジする予定。

白い病 (岩波文庫)

白い病 (岩波文庫)

『突囲表演』残雪 著 近藤直子 訳

聞き手(以下「聞」):こんにちは。書評人生相談です。まずご年齢をお聞かせ下さい。
相談者(以下「相」):私の年齢より、われらが五香街によそからやってきたX女史のそれについてお話しましょう。
聞:X女史?
相:全長5キロそこそこの街に、X女史は夫と子供の三人でやってきました。煎り豆屋を営み、年齢は22〜50歳位まで<少なくともしめて二十八通りの意見>があるのです。
聞:それは気になりますね。
相:容姿がセクシーという人もいれば、首筋に老いが見られるとか戸籍を見たという証言も。煎り豆屋の仕事の傍ら、怪しげな巫術に夢中で、そのX女史がQ男史とW不倫であることがわが街全体の関心事となっています。
聞:Q男史はどういう方ですか?
相:よき夫よき父です。妻と子供ふたり、絵に書いたような心温まる家庭だったのですが、X女史の罠にハマり、突然ゴムまりをつきまくる奇行も目立つようになりました。
聞:ところで今回のお悩みは?
相:私は今回の姦通事件について人々から証言を聞き出し、街の会議にかけてさらに検証しています。私は<幾多の試練を経た個性と才気溢れる現代芸術家として>、この出来事を丁寧に書き留めています。街に入り込んだ異分子であるX女史は、住民たちが尾行したり噂話をしてもどこ吹く風という様子。そんな彼女を盲信したり、今回の桃色事件を追っかける輩がおります。一方で、この問題を特別視してしまうと<まるでわれわれが彼らを重視し、問題にしているようで、ふたりをかえって大物にしてしまうではないか>と危惧する住民もおり、<われわれの生活が彼らを中心に置き、われわれの歴史が彼らによって創造されたような具合になってしまう>と危機感を覚えています。
聞:なるほど。今日は“あなたの心に付箋をつけます”でおなじみの、マダムポストイット先生にお越し頂きました。
マダムポストイット(以下「マ」):あなたの話、ちょっと不可解なのね。あなた、本当にその街を愛しているの?ひいては自分自身を愛することができているのかしら。
相:なんのことですか?わが五香街は<整然たる秩序の在り処>であり、<多種多様な思想観念と個体を受け入れてきた組織>で、相手を徐々に同化させていく、実に他人に寛大で懐の深い愛すべき街です。そして私は<一貫して公正な立場から、このことの発端について客観的な描写をしたい>と考えてきただけです。しかしX女史の<無法きわまるやり口には、みなはらわたが煮えくり返り、今に思い知らせたい>と。彼女はわれわれの、古来からの優美で伝統的な言葉、例えば<業余文化生活>のことも、あんな露骨な言い方をして。この街の文化を冒涜している!
マ:あなた自身の中に、この街を誇らしく思うしかない、どこか切羽詰まった感情を読み取ってしまうんです。X女史がどうのQ男史がどうのというのは表面上の理由でしかない。むしろ彼らに対しての憧れにも似た、自身に対する問いかけにも似た・・。
相:いや、これはどこまでいってもX女史という人物の問題なんです。
マ:あなたは、とても優秀ですばらしいと自負しているにもかかわらず、誰にも認めてもらったことがないんじゃない?
相:それはX女史のほうです。彼女は私のような天才を攻撃する意見を言うけれど、それは<心の底で常に、いつか人々に承認されたい、天才と肩を並べたいと思っているから>なんです。なんなんですか、わが街の恥をさらしてまで相談したというのに。
マ:己の内面を素直に見つめないと、この事件を延々と書き続ける事になるでしょうね。
聞:はい、とても良い場所に付箋をつけて頂きました。ちなみに<業余文化生活>って?
相:「一発やる」ことだよ!

 

2020年11月書評王:森田純
いずれにせよパンケーキと人生相談が好きなんじゃないでしょうか。

 

突囲表演 (河出文庫)

突囲表演 (河出文庫)

  • 作者:残雪
  • 発売日: 2020/09/05
  • メディア: 文庫