書評王の島

トヨザキ社長こと豊﨑由美さんが池袋コミュニティカレッジで開講している「書評の愉悦ブックレビュー」。そこで書評王に選ばれた書評を紹介するブログです。

『百年の散歩』多和田葉子(新潮社)

 

百年の散歩

書いた人:鈴木隆詩  2017年5月書評王
フリーライター

 〈自分は孤独だと認めてしまうのは気持ちがいい。春だからこそできること。孤独だなんて最悪の敗北宣言ではあるけれど。友達が見つからなかった、恋人が見つからなかった、家族が作れなかった、仕事がない、住むところがない。そうなっても誰もじろじろ見たりしないから、平気で歩き回れるのが大都市だ〉。

 ベルリンで暮らす日本人の「わたし」が、一人、街を歩き回る小説、『百年の散歩』。長年住んでいるはずの街なのに、この小説には「わたし」の顔なじみの住人たちは、一切登場しない。 〈匿名の体になりたくてわざわざ都会の、しかも自分の住んでいない地区をうろうろする〉という「わたし」。おそらく、彼女には行きつけの店のいくつかがあり、友達が集まる場所があるのだろうが、それはこの物語から、そっと排除されている。

 その代わり、「わたし」は人名が付けられている通りや広場を歩く。カント通り、カール・マルクス通り、マルティン・ルター通り、レネー・シンテニス広場、ローザ・ルクセンブルク通りなどなど。いずれもこの街に関わりのある思想家、芸術家たちだ。レネー・シンテニスは二度の世界大戦の時代を生きた女性彫刻家。金熊賞銀熊賞で有名なベルリン映画祭の、トロフィーの熊の作者である。〈街路の名前になっている人には、命をかけて戦争に反対したという業績の人が多いから、彼女もそうだったのかもしれない。どんな一生を送った人か知りたいけれど、すぐに調べてしまうのではもったいない。今日こそが調べる日だという日が来るまで名前だけを大事に抱きしめていたい〉。「わたし」は、街を歩きながら、こんなふうにベルリンの百年に触れる。知り合いに会うことがない散策だが、どの通りにも、街を(思索や芸術によって)作ってきた、今はもうこの世界にはいない人たちの息吹がある。

 「つまづきの石」というものの存在も、恥ずかしながら、この小説で初めて知った。小さな花屋の店先を見て、冗談めかしてマフィアが不正資金浄化のために営んでいる店かも、と考えていた「わたし」は、〈全く別のものが視界に入って、脳内の話題が豹変した〉。それが、つまづきの石。ナチス・ドイツの犠牲になった人が住んでいた場所の路面に設置されている十センチ四方の真鍮板だ。〈マンフレッド・ライス、1926年生まれ。殺されたのは1942年、アウシュビッツ〉と、「わたし」は板に刻まれた文字を読む。このプロジェクトは一九九三年にケルンで始まり、今はヨーロッパ中に広まっているという。

 もちろん、「わたし」は街を歩きながら、歴史を振り返っているだけではない。街で見かけた人たちに、この人はナタリー、この人はジャンヌと勝手に名前を付け、時にはその人の過去のストーリーまで妄想してしまう。小ぎれいな店よりも、どこかアヤシイ店に心惹かれて、ついふらふらと入っていく。バナナ・パンを出す店の女主人とのやり取りは、好きな箇所だ。〈「美味しい?」と訊かれ、食べられないこともない、と答えるのも失礼なので、無機質な「はい」で答えると、「今日初めて作ったの。自分でも味見してないから、美味しいかどうか自信なかったの」と言う〉。でも、残さず食べる。

 また、トイレのドアを開けると、そこは百年前の教室で、本を読んでいた子供たちに一斉に視線を向けられる、なんていう不思議も起こる。「わたし」の想像力の中では、百年のベルリンの全ての時が同時に存在していて、彼女はそこを自由自在に行き来する。
 「わたし」は一人きりで街を歩きながら、「あの人」のことを考え続ける。「あの人」とはいつも、街のどこかで落ち合う約束をしているのだが、それはなかなか果たされないのだ。いったい誰なのか。最後にその謎が明かされ、小説は春の爽やかな孤独に包まれて終わる。

 

百年の散歩

百年の散歩