書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

フリオ・リャマサーレス『黄色い雨』木村榮一訳

黄色い雨 (河出文庫)

書いた人:小平智史  2017年4月 ゲスト栗原裕一郎
1985年生まれ。仕事では英会話の本を作ったりしています。

 

 二〇〇五年に刊行されたスペインの作家フリオ・リャマサーレスの『黄色い雨』が、短編二編を新たに加えた形で復刊された。表題作の舞台は、過疎化が進み住人が次々と出て行った僻村、アイニェーリェ村。語り手の男は、崩壊していく村に妻サビーナと、飼っている雌犬と共にとり残される。さらに冬のある朝、粉挽き小屋で〈目をかっと見開き、首が折れ曲がったような格好で機械の間に袋のようにぶら下がって、ゆらゆら揺れて〉いる、妻の変わり果てた姿を発見する。妻の自殺により、男はついに村に残された最後の人間になったのだ。
 手入れをする者のない畑や家々が荒れ果てていくことは避けようがないが、男は村を離れようとはしない。誰もいない村での生活を淡々と語るが、その語りは孤独な身の上を呪うものではなく、村の崩壊と自分の死をただ待ち受ける口調である。〈私はすべてに疲れきっていた〉と男は語る。〈もはや何かをしなければならないとか、何かをしたいという気持ちになれな〉いのだと。
 意外なことに、孤独な主人公を待つのは静寂に閉ざされた世界ではない。戦争に行ったきり戻らなかった息子の亡霊が家の中をうろつき、母の亡霊が、時には家族を引き連れて毎晩のように姿を現して台所の椅子に座っている。夜、〈錆びついた物が立てる音、黴が壁の中に入り込んで内側から腐らせていく音〉に耳を傾ける男は、ただの静寂ではなく、にぎやかな沈黙とでも呼べるものの中に身を置いているのだ。
 この小説は忘却と追憶についての物語でもある。〈霧と荒廃の中に消え去った記憶を守ろうとするのは、結局は新たな裏切り行為でしかないのだ〉と語る男には、忘却に抗おうという気すらない。にもかかわらず過去の出来事はしぶとく脳裏に浮かび続ける。〈ある物音を聞いたり、何かの匂いを嗅いだり、思ってもみないものが突然手に触れたりすると、時間が一気に溢れ出して、情け容赦なくわれわれに襲いかかり、稲妻のような激しい閃光で忘れたはずの記憶を照らし出す〉。
 そうした記憶をフィルターのように覆うのが、タイトルにもある〈黄色い雨〉だ。ある時、粉挽き小屋にいた男は〈突然黄色い雨が降り注いで、粉挽き小屋の窓と屋根を覆い尽く〉すのを見る。それはポプラの枯葉だった。黄色い雨は〈街道を消し去り、堰を埋め尽くし〉、忘却の象徴のように〈がらんとした部屋のようになった私の心の中にまで入りこんで〉くる。この作品は、忘却というものを何かが見えなくなることではなく、別の「色」に変わってしまうこととして描くのだ。
 目まぐるしい展開はほとんどないこの作品だが、〈黄色い雨〉に代表されるイメージの数々は印象的だ。例えばサビーナが死んだ途端、狂ったように花をつけるリンゴの木。村の光景が黄色く染まって見え、〈木々、水、雲、ハリエニシダ、そしてついには大地までが黒い色からだんだんサビーナの腐敗したリンゴの色に変わって〉いく際の幻覚めいた毒々しさ。独特の質感を備えた濃密なイメージが次々と展開される。
 この小説の語りは、過去を順序だった物語でなくイメージの断片のように提示する。主人公はなぜ自分や村がこうなってしまったのかについて論理的な説明をしようとはせず、ただ「見る」ことだけを続けようとし、その態度には生死を超越した感すらある。〈死が私の記憶と目を奪い取っても、何一つ変わりはしないだろう。そうなっても私の記憶と目は夜と肉体を越えて、過去を思い出し、ものを見つづけるだろう〉。その達観は、村を捨てて去った息子を思うときだけ心もち揺らぐようにも思えるのだが、その揺らぎがこの男の語りに生々しいリアリティーを与えている。本作は、死と崩壊の運命に向かって静かに歩む男の目を通して、妖しくも豊穣な世界の像を読者に提示するのである。

黄色い雨 (河出文庫)

黄色い雨 (河出文庫)