書評王の島

池袋コミュニティ・カレッジで開講中の「書評の愉悦ブックレビュー」で王に選ばれた書評を紹介するブログです。

『黄金列車』佐藤亜紀著

 巷で〝公務員″といえば、官僚主義・縦割り・非効率等々のネガティブワードとがっちりスクラムを組んでいるのが常である。いや、待たれよ!肩を落とすのはまだ早い。緻密なプロットと圧倒的な筆力で知られる佐藤亜紀が、史実を基にして戦時下の官僚たちの奮闘を描いた最新作『黄金列車』には、そんな負のイメージを払拭する〝公務員″が登場するのだ。 

 舞台は第二次世界大戦末期のハンガリー。目の前に連合軍、背後にはロシア軍が迫り、もはや誰の目にも敗戦が明らかになった1944年12月、政府はユダヤ人から没収した財宝を退避させるべく、首都ブタペシュトからオーストリアへ向かう〈黄金列車〉を秘密裏に仕立てる。各地で容赦なく奪われた金塊、金貨、宝石類に時計、陶器、燭台、絨毯から結婚指輪、下着、金歯に至るまでユダヤ人たちの生活を形づくっていたありとあらゆるものが集められ、査定され分類されて貨車に積み込まれる。その運行と財宝の管理を任されたのが〈ユダヤ資産管理委員会〉の官僚たちだった。

 自国の道義は〈とっくの昔に破綻している〉うえ、保身と私腹を肥やすことしか頭にない委員長トルディ大佐の指揮下におかれ窮地に立たされた部下たちは、〈倫理と職務の板挟み〉になりながらも一路オーストリアを目指す。

 次長のアヴァルはまだ若く物腰柔らかだが、度胸の据わった激戦地の元市長だ。省庁の裏も表も知り尽くし、ふてぶてしさを湛える参事官のミンゴヴィッツ。一流のタイプの腕を持つクールなナプコリ。そして大蔵省勤続30年で現場を担当するバログ。彼らは銃や大砲ではなく、法規の知識や詳細なリスト作成、内部決裁等の煩雑な事務手続き、そして必要とあらば賄賂を握らせることも辞さない肉を斬らせて骨を断つ交渉術などを武器に、道中の数々のトラブルや財宝を狙う襲撃、恫喝(今で言うところの〝不当要求″)等々をかわしていく。

 そのうえ列車には貨物のみならず、やっかいな政府高官らや幼い子どもを含む家族も同乗しており、総勢180余名の部屋割りから食事の確保、停車地での宿の手配など膨大な雑務もこなすのだ。我々も災害時の避難所対応などを想定すれば、戦乱の中でそれがどれほどの困難を伴う業務であったか容易に想像できるだろう。

 バログの視点で綴られる本作は、いわゆる職業小説や痛快な冒険譚とも読めるが、しかしそれだけではない。オーストリアを目指す逃避行と並走するようにもう一つの物語が語られるのだ。5か月前、バログの妻カタリンは自宅アパートの窓から転落して亡くなった。事故か、それとも。間断なく流れ込んでくる記憶によって、読者は彼の〈頭がおかしくなるのではないかと不安になるほどの悲しみ〉を共有することになる。カタリンとの出会い、プロポーズ。週末のピクニック。カタリンの友人マルギットと結婚したユダヤ人の同僚ヴァイスラーの〈鷹揚な気持ちのいい笑顔〉。転居するはずだった瀟洒な庭のついたヴィラ。これまでに喪ってきたものを一つひとつたどるうちに、バログはある結論にたどり着く。

 政治哲学者ハンナ・アーレントは、ホロコーストを推進した責任者アイヒマンの裁判を通じて、思考することを放棄し、組織の歯車と化すことで誰もが容易に巨悪に加担してしまう恐ろしさを指して〈悪の凡庸さ〉と評したが、バログたちはそれと好対照をなすのだ。彼らは考えることを手放さない。法律は誰のためにあるのか。人々の幸せを守るためのものではなかったのか。平穏な生活を、友人を、家族を、未来を、仮借なく奪い去る戦争の虚しさを前にしてもなお、国に、法に仕える自分たちの仕事の根源的な意味を問い続けるのだ。

 最後にバログが出した結論とは何であったのか。すべての公務員必読の書である。 

2019年12月書評王:関根弥生

公務員向け雑誌を想定媒体にして書きました。

 黄金列車

黄金列車

  • 作者:佐藤 亜紀
  • 発売日: 2019/10/31
  • メディア: 単行本