書評王の島

池袋コミュニティ・カレッジで開講中の「書評の愉悦ブックレビュー」で王に選ばれた書評を紹介するブログです。

『息吹』テッド・チャン著/大森 望 訳

 わたくし読楽亭評之輔(どくらくていひょうのすけ)と申します。どうぞお見知りおきを願います。
 え~、ありがたいことにわたくしもお客様から「待ってました」なんてお声をいただくことがあるんですが、いやいや「待ってました」たぁ、こういうことだ!って本がこのほど出まして。それが〈当代最高の短編SF作家〉の呼び声高いテッド・チャンさんの『息吹』。なにしろ日本では2003年に初の短編集『あなたの人生の物語』が刊行されて以来、待ちも待ったり16年。ようやくの2冊目とあいなりました。
 ちなみに、エイリアンと言語学者の邂逅を描いた前作品集の表題作「あなたの―」は、2017年に「メッセージ」のタイトルで映画化されておりまして、SFファンのみならずジャンルを越えてチャンさんの名前を広く知らしめるきっかけとなった作品でございますので、ご存じの方もいらっしゃるかもしれません。
 ん?たった2冊で〈当代最高〉とは大げさじゃないか?これ訳者の大森望さんがあとがきに書いておられるんですがね、いえ心配はご無用。1967年生まれのチャンさんですが、1990年に天へ向けて築かれる伝説の塔を坑夫の視点で描いた「バビロンの塔」でデビューを飾って以来、サイエンス・ライターとの二足の草鞋を履き続けておられまして、これまでに発表されたのはわずかに中短編計18篇のみ。にもかかわらずネビュラ賞ヒューゴー賞、英国SF協会賞、星雲賞SFマガジン読者賞等々、両手両足の指を使っても足りないくらいの堂々の受賞歴。その筆力は各方面から折り紙付きなのでございます。
 SFって前提になる理論がわからないとつまらない、とおっしゃる向きも心配ご無用。前作品集もそうでしたが、本作品集でも巻末にチャンさんと訳者による丁寧な作品解説が付されていますので、執筆の契機など興味深いエピソードも楽しみつつ、設定への理解を深める一助となってくれるはず。
 此度の『息吹』に収められたのは9篇。「もし“あのとき”こうしていればその先の未来(=現在)は変わる」ことを前提として書かれたのがいわゆる〈歴史改変SF〉ですが、それを根底から覆す〈未来を変えることはできない〉過去への切ないタイムトラベルを『千夜一夜物語』になぞらえて語る「商人と錬金術師の門」。みなさまご存じのように、落語の「死神」という演目に人の命の火がろうそくに灯されている場面がございますが、このろうそくの長さを知ってもなお人はその結末に向かって歩いていくことができるのか、と問いかけられるのです。
 デジタル生物〈ディジエント〉の年代記を通してAIへの教育と人間との関係性が描かれる「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」。黙々と掃除するRoombaを「愛い奴」と感じてせっせとごみを吐き出させてケアをする最近のわたくしには非常に近しい未来でございます。
 子どもの頃のケンカでは「いつ言った?何時何分何秒!?」なんて言いあったものですが、全ての行動が〈デジタル記憶〉によって記録され、それに答えることも可能となる「偽りのない事実、偽りのない気持ち」の世界。記憶とは何か、正確性と引き換えにされるものは何なのか。科学やテクノロジーは人との関係性の中にあってこそ。科学の在り方を描くことは人を描くことに他ならないのだと思います。
 とにもかくにも、9篇いずれも16年分の期待を裏切らない逸品揃いであることは間違いなし。
 日本人で初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士は、子どもたちに向けた「詩と科学」の中で、一見対極にあるように見えるこの両者が実は近しく、〈二つの道はときどき思いがけなく交差することさえあるのである〉と書いているのですが、テッド・チャンさんはその見事な〈交差〉を描いて魅せてくれる稀有な作家と言えましょう。

2020年1月書評王:関根弥生

春風亭一之輔さんの落語を聴きにいきました。とても、とても面白かったです。

息吹

息吹