書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

『天使の恥部』マヌエル・プイグ(安藤哲行訳)

天使の恥部 (白水Uブックス)

書いた人:白石 秀太(しらいし しゅうた)2017年2月ゲスト倉本さおり賞
同志社大学文学部美学芸術学科卒。会社員

 

 サスペンス映画の傑作とされる『裏窓』は、ヒッチコック監督ならではの技巧も光る。足を骨折中の主人公が、暇つぶしに窓から向かいのアパートの住人を観察するシーン。
 引っ越してきたばかりの新婚夫婦。それを見て主人公の頬がゆるむ。
 下着姿でエクササイズをする女性。それを見て主人公の頬がゆるむ。
 見比べても同じような笑顔なのに、カットのつなぎ方だけで観客は「和んでいるなぁ」、「スケベだなぁ」とつい想像してしまう。一つの表情も観衆の心を掛け算するように編集すれば、とたんに表現は豊かになるのだ。
 マヌエル・プイグははじめ、映画監督を目指していた。ルネ・クレマン監督らのもとで映画製作を学んだのち文学に転向したが、土台にはやはり映画芸術があった。とくに三作目の『ブエノスアイレス事件』。全章の冒頭で映画のワンシーンを引用して、告白、通報の電話、警察の調書、速記メモまで多様な文章を、まるで映像編集のようにつないで記される犯罪小説でありながら、しかし浮上するのは事件の真相ではなく、一組の男女の虚しい愛と性の遍歴という別の表情なのだ。『裏窓』の笑顔のように、パラグラフごとの意味が多重化された小説だ。
 断片と断片が再構築されて生みだされる光景が、筋書きをさらりと飛び越える。その跳躍をプイグが彼方まで引き延ばしたのが『天使の恥部』だ。まずは話の軸からして、三つの異なる時空間を行きつ戻りつ進んでいく。だから主人公も三人だ。
 一人目は1936年のウィーン。郊外の屋敷に閉じ込められた大女優。二人目は1975年のメキシコ。病院で療養中のアナ。三人目は地軸変動で氷河期を迎えた未来の中央都市。性的医療事業に就くW218。彼女ら三人の運命が、会話、日記、三人称の語りの混合によって描かれる。
 大女優は、メスで胸を切り開かれるという悪夢に悩まされていた。すると夫から、亡くなった彼女の父親は人間の思考を読み取る実験をしていたと知らされて驚く。いっぽうアナは、不和になった夫と離婚し、娘も母親に預けてメキシコにいる。胸中を日記に綴りながら、一人称を〈わたしたち〉と書いていることに気づく。〈もしかすると、わたしは独りじゃない?〉。見舞いに来た友人からは、銀幕から消えたかの女優にそっくりだと指摘される。そしてW218は、何度も氷河期前の世界を夢で見る。そこにはなぜかいつも、ウィーンのあの大女優の姿があった。過去と未来、現実と夢をこえて、三人がシンクロしはじめる。
 別々の人生から重なるように聞こえてくるのは、生きることの息苦しさだ。男尊女卑の社会、コミュニケーションの断絶、恋人や家族との愛に対する不信感。悩み続けるアナが男性社会への怒りを日記にぶつけたとき、女優が悪夢にまで見たあの力が、時をこえてW218に現れる。三人が同じように切望した〈白馬の王子〉とついに出会えたW218は、男の心を読んだことである行動をおこす。並走していた彼女たちの運命が一つになって、自分の居場所を見つけるために。
 女優とアナ、W218は同一人物なのだろうか?なぜ夢や時間が錯綜するのか?明確な答えは用意されていないし、必要もない。この混濁もまた一つの現実なのだといわんばかりに、プイグは世界を再編集したのだ。
 複数の〈わたし〉、過去と未来、夢と現実。さらには三つの人生の中で、政治、陰謀、セックス、コンピュータ依存という要素も差し込まれる。映画のカットとはまた違った想像をかきたててくれる、断片の数々。そのピースが像を結ぶのはあなたの心の中だけで、他の読者にはない、あなただけの光景がきっと広がる。