書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

『センチメンタルな旅』荒木経惟(河出書房新社)

センチメンタルな旅

書いた人:三星円(みほしまどか) 2016年8月書評王
シングルマザーの三振法務博士。昼は会社員、夜はときどきコラムや書評を書いています。
三星 円 (@mihoshi_m) | Twitter
ブログ:http://www.mihoshiblog.com/

 

ぬらりとした昏い水面に浮かぶ簡素な木の舟。
舟床に敷かれたゴザの上で女の人がひとり、身体を丸めて横たわっている。 
女の人は目を閉じている。眠っているのか、狸寝入りなのか。
それとも死んでいるのか。
ギンガムチェックフレアスカートがふわりと彼女の足を覆い、見えるのはつま先だけ。
チェックの色は何色かわからない。白と黒の濃淡だけでその写真は表現されている。


 荒木経惟が1971年に1000部限定で自費出版した写真集『センチメンタルな旅』が、2016年3月に河出書房新社からオリジナル版と同じく108枚すべて収めて完全復刻された。日本でも有数の有名写真集のひとつだが、オリジナル版は希少価値から極めて高額な値がつけられ、新潮社から出されている『センチメンタルな旅・冬の旅』にはダイジェスト版しか収められていなかった現状において、完全復刻版の発売は「天才アラーキー」ファンにとって驚きと喜びをもって迎えられた。

 私が荒木経惟の写真を「荒木経惟の写真だ」と認識したのは、美容雑誌『VOCE』に掲載されていた荒木の連載においてだった。数枚の写真と彼のエッセイが見開き2ページで雑誌の後ろの方に載っていた。ぱらぱらと雑誌をめくっていると、女性器が目に飛び込んできた。どきりとしてページを戻すと、それは女性器ではなく薄く開けた女性の目をアップで撮り、縦向きにしたものだった。私はまじまじとその目を見つめた。目の端をふちどるまつ毛は陰毛にしか見えなかった。その横のページにはたしか蘭の花のめしべを大写しにしたものが掲載されており、それもふっと見ると性器にしか見えなかった。女性の目も蘭の花も、もちろん目にしたことはある。ところがカメラでそれらを切り取ることにより、見えているものは同じでも、違う意味を創出できる人がいる。そのことに衝撃を受けた。そしてなにより、それらの写真は美しかった。

 それから荒木経惟の写真展に行くようになり、気に入った写真集があれば購入することもあったが、荒木は写真集の刊行点数がたいへん多いカメラマンであり、私家版も含めると400冊以上の写真集を発表しているので、なかなか全部の写真集を購入することは難しく、私家版も多いのでそもそも手にすることも困難な写真集もたくさんあった。

 復刻版とはいえ、美術展でしか見ることのできなかった『センチメンタルな旅』を手元に置けるのは嬉しい。本書は妻・陽子との4泊5日の新婚旅行を撮ったものである。表紙には結婚式の際に撮ったと思われるスーツ姿の荒木とウェディングドレス姿の陽子を写したワイド版サイズのモノクロ写真が一枚、白い和紙張りの装丁のなかに収まっている。表紙をめくると、「私写真家宣言」が序文として手書きで書かれている。

〈これはそこいらの嘘写真とはちがいます.この「センチメンタルな旅」は私の愛であり写真家決心なのです.自分の新婚旅行を撮影したから直実写真だぞ!といっているのではありません.写真家としての出発点を愛にし、たまたま私小説からはじまったにすぎないのです.もっとも私の場合ずーっと私小説になると思います.私小説こそ最も写真に近いと思っているからです.〉

 カメラマンとしてデビューして間もない45年前に書かれたものだが、昨日荒木が書いたと言われても信じてしまいそうなほど一貫した態度に驚く。さらにページをめくると、ものうげな様子で電車の椅子に座る陽子、裸でホテルのベッドに座り煙草を吸う陽子、京都や福岡の街の風景が続き、おそらく荒木の写真のなかでももっとも有名な柳川の川下りの舟のなかで丸まって眠る陽子の写真が現れる。最後の方には荒木とセックスする陽子の姿がそのまま写し出されている。陽子と荒木の信頼関係に胸を打たれる。これは確かに私小説だ。