書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

『パルプ』チャールズ・ブコウスキー(筑摩書房、柴田元幸訳)

パルプ (ちくま文庫)

書いた人:長瀬海(ながせ・かい)2016年9月書評王
ライター・書評家(これまでの仕事リスト → http://nagasekai.tumblr.com)。
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メールアドレス:nagase0902アットマークgmail.com

 

 

 ニューヨークの古本屋では、店主が腕利きであればあるほど、棚にポール・オースターチャールズ・ブコウスキーの作品が並んでいない。それは品揃えが悪いということではなくて、盗難防止のためにカウンターの下に隠してあるからだ。前者は一番売れ行きが良いため。後者は、いまだ衰えることのないその狂信的な人気と、ブコウスキーを愛する者の懐の貧しさゆえ。そんなことを以前、翻訳家の柴田元幸がどこかで書いていた。

 今やブコウスキーは、酒とセックスに溺れながらも、ドライでシニカルな視線を人間そのものあるいは彼じしんに向け続けた作家として知られている。けれども、その作品のふしぶしには極上のユーモアが込められていて、人間が生きる社会の愚かさをこそ描いたが、ビートニクの小説家たちのように、そこに新たな物語をぶつけて「抵抗」することを作家としての至上命題としなかった。父親からの虐待の日々、友情とは無縁だった孤独な少年期を描いた『くそったれ! 少年時代』。セックス、ドラッグ、喧嘩の毎日に明け暮れる飲んだくれの主人公たちを通じて、生の脆さ、死の軽薄さを描いた短編集『町でいちばんの美女』。彼は、あくまでも、ドヤ街のうらびれた路地裏で完結するような敗北の物語を描き続けたのだった。

 さて、『パルプ』はブコウスキーが遺した最後の長編小説だ。カリフォルニアのある街に事務所を構える探偵、ニック・ビレーンのもとへ一本の電話がかかってくる。「セリーヌをつかまえてほしいのよ」そう、『夜の果てへの旅』で名を馳せ、1960年代半ばに没したフランスの小説家、セリーヌである。依頼人は死の貴婦人と名乗る、とびっきりの美女。彼女に命じられるままに街の古本屋へ向かうと……いた、セリーヌが! そんな謎めいた事件(?)を皮切りに、ニックのもとに次々とヘンテコな依頼が舞い込んでくる。赤い雀を捕まえてくれ、自分につきまとう宇宙人をどうにかしてくれ、挙げ句の果てには、今度はセリーヌから死の貴婦人の正体を突き止めろと言われる始末。ニックの日常が、いや、人生そのものが狂気の渦に巻き込まれていく。

 さらに追い討ちをかけるように、ニックの事務所には日夜、不穏なノックの音が鳴り響く。滞納している家賃を催促する大家、ギャンブルで積み重ねた借金の取り立て屋、赤い雀の正体を知るというペテン師たち。絶望的な状況に追い込まれながらも、しかし、ニックは勇敢に立ち向かっていく。その先にあるのがたとえ、敗北でも。

 「雨(レイン)はもう止んでいたが、痛み(ペイン)はまだ残っていた。それに、肌寒くなってきて、何もかも、濡れた屁みたいな匂いがした」

 ニックは孤独だ。長年付き添った奥さんにも逃げられ、部屋でひとり安酒を飲んではグラスを壁に叩きつけている。「濡れた屁みたいな匂い」のする彼の生き様を、しかし、ブコウスキーは哀しいものとして描かない。彼はニックの後ろ姿を、永遠の負け犬という極めて無様で滑稽なものとして腹を抱えて笑ってやってくれと言わんばかりに描き上げるのだ。

 それもこれも著者の人生観がニックの上に投影されているからだろう。今年の七月に邦訳が刊行されたばかりのブコウスキーの未公開作品集『ワインの染みがついたノートからの断片』のなかに、常に勝者たらんとしたヘミングウェイに向かって次のように書いた文章がある。「アーネストは間違って理解していた。人は負けるために生まれてきたのだ。(中略)人は敗北し、打ち砕かれ、負けて、負けて、負けて、叩き潰されるのだ。」

 負け犬の美学。いや、負け犬に美学なんてものはない。あるのは怒りと、惨めさと、そんなおのれを笑える勇気だけだ。ニックは言う。「今日はツキがない。今週はツキがない。今月は。今年は。この人生は。ふん。」時を経ても錆びつくことのない負け犬の物語を読んで、ぜひとも腹を抱えて笑ってやってほしい。

 

パルプ (ちくま文庫)

パルプ (ちくま文庫)