書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

多和田葉子『地球にちりばめられて』書評

地球にちりばめられて

書いた人:田仲真記子 2018年7月書評王
この夏は飯嶋和一ブームが来る予感です。

 前作にあたる作者の2017年の作品『百年の散歩』に、ドイツに亡命したウイグル人ジャーナリストがミュンヘンで串焼き羊肉を売って暮らしている、という話を引き合いに出し、「もしも将来日本が独裁政治に蝕まれることになったら、ベルリンに亡命して寿司屋をやる人も出てくるんだろうか」と主人公が語る一節がある。『地球にちりばめられて』の発想は、ここから始まったのかもしれない。それは多和田葉子の手にかかるとこんなに軽やかで豊かな物語になる。
 舞台はデンマークの首都コペンハーゲン言語学を研究する大学院生のクヌートが、「中国大陸とポリネシアの間に浮かぶ列島」で生まれ育ち、一年の予定でヨーロッパに留学し、あと二か月で帰国という時に、自分の国が消えてしまったというHirukoをテレビで見るところから始まる。北欧の三か国語を勉強し、スカンジナビアの人ならだいたい理解できるパンスカ、という自作の言葉を話す彼女に強く興味をひかれたクヌートは、テレビ局の仲介でHirukoに対面する。
 この二人を中心に、インド出身の青年で女性として生きることを決めたアカッシュ、鮨職人Tenzo、彼に心惹かれるノラ、そしてもう一人の鮨職人Susanooが入れ替わりで一人称の語りを続ける。中心となるのは、Hirukoが母語で話せる相手を探す旅である。ドイツのトリアー、スウェーデンオスロー、フランスのアルルと、行く先々に語り手の多くが同行する。
 旅の行方とともに小説の読みどころとなるのは、全篇にちりばめられた言葉遊びや想像力を喚起する表現の数々だ。作者の文章は読者の脳を刺激して言葉に対する感度を高めてくれるから、読み手は五感を総動員して作品を味わうことになる。「(デンマーク語は)発音がとても柔らかいので、難しい。柔らかいものばかり食べるようにして発音の努力をしている。」とか、「これからテンゾと会って話せると思うと、脳の池がかきまぜられて、これまで底に沈んでいた単語が水面に浮かび上がってくる」なんて具合に。
「消滅したHirukoの生まれた国」に対する登場人物たちの見解もおもしろい。自分の意見を提案し続ける若者は評価されず、「出る杭は打たれる」という諺があって、出る杭を打つ腕を鍛えるために「もぐら叩き」というゲームが開発された、とか、電車がひどく混んでいる状態を「スシズメ」と呼ぶ、と語ったうえで、さすが鮨の国だ。本当にうらやましい。とまとめる箇所など、日本人なら自虐的なネタに苦笑してしまう。
 国の消滅は自国人にとっては衝撃的な大事件だが、Hirukoに対する周囲の反応は様々だ。その国の存在さえ知らない人もいるし、ひとりヨーロッパに取り残された彼女を皆が同情するわけではない。たとえばいま、日本人の多くがシリアの現状をどれだけ理解しているか、その国の難民と対峙したらどう反応するか、と想像してみると、本作の描写も戯画化されたものには感じられない。
 作中、主人公は現実を率直に受け止め、難民として、というより地球人として生きることを選ぶ。それが物語の前提になっていることが、作品の明るさの源だ。またクヌートとの恋が温かく居心地がいいからだろうか、物語に悲壮感はなく、読後はふわっとした高揚感に包まれる。一行の旅がまだまだ続くことを予感させる結末も楽しい。
 何よりこの小説は、独裁政治に蝕まれつつある、かろうじて消滅していない極東の島国に生きる読者に、どこで、誰と、どう生きていても、いくらかの好奇心と好きな人、好きなもの、壁のない心があれば、世界は大きく開ける、という抜群の開放感を感じさせてくれる。それが境を越え続けてきた作家の声で語られると、「壁」は文字通り敷居をまたぐように難なく取り払える、と思えるようになるのだ。

 

地球にちりばめられて

地球にちりばめられて

 

 

移民について考えたいあなたにおすすめしたい3冊

書いた人:長澤敦子 2018年6月書評王

 ・『地球にちりばめられて』 多和田葉子
 ・『マッドジャーマンズ ドイツ移民物語』 ビルギット・ヴァイエ
 ・『蒼氓』 石川達三

 

 米国人の定義について考えたことがある。様々な移民を受け入れ発展してきた彼の国ではアメリカ合衆国の住人なら「米国人」だ。沢山の具材が存在を主張しつつも、ボールに入るや「チャウダー」という一つの料理になるのと似ている。片や、中国人は世界各地に中華街を築き、どこへ行っても中国語を話し中華料理を食している。
 では、日本人はどうなのだろう。日本列島に住み日本語を話すほぼ単一民族。土地、言語、民族の三位一体だ。
 米国人は米国に居られなくなれば各々のルーツに戻ろうとするだろうし、中国人は中国本土から追われてもどこでだって中国人だ。だが、日本列島がなくなったら日本人はどうなってしまうのだろう?

 

地球にちりばめられて

地球にちりばめられて

 

  そんな疑問に応えてくれるのが『地球にちりばめられて』だ。本書は、欧州留学中に自分の国が消えてしまって帰れなくなり、デンマークで移民の子対象の語り部として働いているHirukoという女性を中心に展開する。彼女は北欧人なら聞けばだいたい意味が理解出来る手作り言語に、〈パンスカ〉と名付けこれを駆使しコミュニケーションに問題はない。しかし、失われた母語を求めて旅をする。そんな彼女と行動を共にするのが、デンマークで生まれ育った言語学者の卵や、グリーンランドエスキモー人、インド出身の学生といった面々。彼らには心の国境は存在しない。軽々と言語や文化の壁を乗り越える。
 本書には「日本」という単語は無く、Hirukoの母国は〈中国大陸とポリネシアの間に浮かぶ列島〉と表現されている。しかし、母語を探す旅の手掛かりになるのが「すしレストラン」だったり、寿司職人の名前がSusanooだったりで、これはもう間違いなく日本だろう。
先般、著者へのインタビュー記事が新聞に掲載されていた。「ドイツ社会に同化するのではなく、日本文化を持ち続けながら対話したい」と。彼女にとっての日本文化とは、古事記日本書紀(Hiruko/Susanoo)?代表的な日本料理はやっぱり寿司?と想像すると、結構ステレオタイプでどこかホッとする。
 ドイツを拠点に日独の言語で創作活動を続け、数々の日本の文学賞やドイツのクライスト賞までものにした著者だが、異国で暮らす苦労はあったのではないか。ましてや生きるために移民になった人たちには艱難辛苦が付き纏うだろう。

 

マッドジャーマンズ ドイツ移民物語

マッドジャーマンズ ドイツ移民物語

 

  多和田氏が推薦するドイツのコミック『マッドジャーマンズ』は、モザンビークから旧東独にやってきた若者たち三人の物語で、二〇一六年に最優秀独語コミック賞を受賞した。一九七五年にポルトガルから独立したモザンビークは内戦が絶えず、同じ社会主義国の東独に労働者を送り続けた。人種差別に耐えながら肉体労働に励んだ彼らは積み立てと称して給料を六十%も天引きされたがそれは全てモザンビーク政府の財布に入っていた。帰国してもマッドジャーマン(メイドインドイツ)と言われ居場所がない。内容は重いが、飾り気の無い絵の線が優しく愛おしく、すっと胸に入って来る逸品だ。

 

蒼氓(そうぼう) (秋田魁新報社)
 

 かつて日本にも人口問題解決の一方策として、政府がブラジル移民を奨励した時代があった。〈一九三〇年三月八日〉で始まる石川達三の『蒼氓』。第一回芥川賞受賞作の本書は三部構成で、第一部「蒼氓」は神戸の収容所に全国各地から集まって来た移民たちの乗船までの八日間を、第二部「南海航路」では船中での四十五日間を、第三部「声無き民」は到着後入植するまでの数日間を描いている。移民になったのは殆どが貧農階級。生まれて以来一度も夢を抱いたことが無い彼らに、〈海外雄飛の先駆者〉といった宣伝文句が夢を与えた。その夢は溺れる者が縋りつく藁だと知 っている。でも朝陽を受けて畑仕事に出掛ける男達、それを見送る女達の第三部のラストシーンが胸を打つ。〈ここはブラジル国の土でも日本人の土でもない。ただ多勢の各国人が寄り集まって平等に平和に暮らす元始的な共同部落〉。
 『地球にちりばめられて』のHirukoたちと形は違えどどこか似てはいまいか。

グレアム・スウィフト『マザリング・サンデー』

マザリング・サンデー (新潮クレスト・ブックス)
書いた人:和田M 
『ホライゾン・ゼロ・ドーン』(PS4)というゲームを5月だけで200時間以上やってしまいました。労災おりますか?


 まず、タイトルの「マザリング・サンデー」という言葉が気にかかる。母する日曜? 数ページ読み進めると〈母を訪う日曜〉という訳がある。年に一度のこの日、住み込みの使用人は半日の休暇をもらい、母親に会いに帰るという習慣が、イギリスにはあったらしい。
 時は1924年3月30日、〈人口の半分が奉公人であった時代〉のマザリング・サンデー。ニヴン家のメイドであるジェーンも半日の暇をもらうが、帰る家がない。孤児なのだ。屋敷の図書室の本を借りて、庭先で読書でもしようかと考えている。そこへ、ニヴン夫妻とも昵懇のシェリンガム夫妻の息子ポールから電話が。彼は、二週間後にエマ・ホブデイと結婚することが決まっている。どの屋敷からも使用人がいなくなるこの日、ホブデイ夫妻を含む三組の夫婦は一緒に外食をする予定だ。
「もうすぐつがいが出かけるから、うちに一人きりになる。十一時に、正面玄関へ」
 ポールのこの一言から、今作の核となる出来事が動き出す。22歳のジェーンと23歳のポールは、7年前から肉体関係を続けている。当然周囲には秘密だ。ジェーンはいつもどおり「たいへん失礼でございますが奥様、番号をお間違えです」と応じる。ポールが結婚すると、もう会えないだろう。最後の逢瀬。
 ジェーンが正面玄関に自転車を乗り付け、ポールがすかさず扉を開ける。ポールは自室で、うやうやしくジェーンの衣服を脱がせる。いつもは温室や雑木林で慌ただしく済ませているのに、今日は、主人と使用人の立場が入れ代わったようだ。倒錯的とも、たわいない遊びとも思える情事のひととき、これが最後といううら寂しさと、立場の違いがなければこうでもあっただろうという安らぎが混じり合ったような奇妙な時間が流れていく……。
 語りは、時系列に沿って順序よく進むわけではない。時間は行きつ戻りつする。戻ってから同じ情景を繰り返すこともあるが、最初とは違う情報を得たあとで、それは違った色味を帯びて映る。また、老境に達したジェーンがしばしば顔を出す。物語は、その後の出来事を踏まえた後年の回想という相からも語られるのだ。若い彼女も老いた彼女も、現実にはなかったことを頻繁に想像する(もしここにエマお嬢様が訪ねてきたら。もし避妊器具をわざと装着しなかったら)。これは同じ一日のバリエーションなのか? わずか数時間が無際限に引き延ばされていく不思議な語り口だ。
 後年のジェーンはインタビューを受けるような著名人になっている。また、当時のジェーンが読書によってメイドに似つかわしくない語彙を身につけていく様子も描かれている。そう、彼女は作家になる。言葉を自覚的に再学習することによって自分を世界に開いていく過程と、ポールとともに男女の関係を学んでいく時期は重なっている。そこには意味があると思う。“言葉”と“現実”を行き来することによって世界の解像度が高まるのだとして、ジェーンにとって“現実”の半分くらいはポールだった。そうして得られた世界像の全体には、この男性の存在が、彼との関係が、透かし絵のように写り込んでいるだろう。
 同じ著者の『ウォーターランド』(1983年)に、〈“いま、ここ”は、たいていは“いま”にも“ここ”にもない〉というセリフがある。歴史の勉強なんて意味ない、という生徒に語り手の教師が返す言葉だ。「いまを生きる」といえば聞こえはいいが、過去と未来にぎゅうぎゅう挟まれた現在をたしかに自分の手にしていると感じられる瞬間は多くない。ジェーンにとって、1924年3月30日がそういう時間だったのだ。しかしそれは〈死ぬまで説明することができない〉不可解な感覚によって得られた実感だった。その瞬間を、忘却の淵から、あるいはエゴイスティックな意味づけから救い出そうという試み、しかも、その瞬間を導いたすべて(未来の出来事まで含めたすべて)を凝視することで救い出そうとする試みが、本書には描かれている。タイトルが示しているのは、救うに値するこの特別な時間のことだ。

 

マザリング・サンデー (新潮クレスト・ブックス)

マザリング・サンデー (新潮クレスト・ブックス)

 

 

ジェローム・K・ジェローム『ボートの三人男 もちろん犬も』書評

ボートの三人男 もちろん犬も (光文社古典新訳文庫)

書いた人:村山弘明 2018年6月度書評王
書評講座に3年1ヶ月通って初の書評王です。奇跡!

 

 ひとは自分の都合のいいように物事を解釈しがちな動物である。それは十九世紀であろうと二十一世紀であろうと変わらない。
 『ボートの三人男』の舞台は、ロンドンとオックスフォードのあいだを流れる十九世紀後半のテムズ河だ。語り手である〈僕〉、友達のハリスとジョージ、そして犬のモンモランシーがテムズ河を上流に向かって漕ぎのぼる、ロードムービーならぬリバーストーリーだ。
 気分のすぐれない〈僕〉らは、その原因を“働きすぎ”によるものと結論付け、〈僕らに必要なのは休養だ〉と、テムズ河を二週間ほどボートで旅することにした。最も彼らがほんとうに休養が必要なのかは甚だ疑わしい。
 そんな彼らは、やることなすこと失敗だらけ。荷造りの段階でてんやわんやの騒ぎを起こす→当日みんな揃って朝寝坊→考え事をしていた〈僕〉のせいでボートが岸辺に乗り上げる→ボートに帆を張ろうとすればハリスとジョージが帆に巻き込まれて…。
 だめんず三人組のちょっとしたドタバタなエピソードがずっと続くのかと思いきや、ロマンティストな〈僕〉の夢想が美文体で語られたり、テムズ河周辺の歴史や街並みに関する旅行ガイドブックのような文章も差し挟まれたりする。そして、さすが歴史と伝統を重んじるイギリスだけあって、いまでも現存しているパブやレストランが登場するのも興味深い。また、印象的だったのは〈僕らの知性は消化器官に支配されている〉という言葉だ。〈ベーコンエッグを食べれば、胃袋は「働け!」〉だし〈ビーフステーキと黒ビールなら「眠れ!」〉なのだ。まさに〈僕らが働くのも、ものを考えるのも、胃袋の命令があればこそなの〉だ。
 さらにはこの本の冒頭には彼らが旅するテムズ河の地図が載っているのも嬉しい。その地図を眺めながら、実際にテムズ河をボートでのぼってみたい、なんて思っていたら、巻末の年譜によればこの小説がイギリスで出版された後、テムズ河でボートに乗る人が1.5倍になったという。21世紀の今ですらそう思うのだから、当時はそれはそれは一大ムーブメントだったのであろう。
 ボートを愛する〈僕〉は、蒸気船が鳴らす汽笛に我慢がならない。蒸気船を避けようともせず、知らんぷりをきめこむ。だが、友人の蒸気船に〈僕〉らのボートを曳いてもらうことになると、今度は前方から来る手漕ぎボートが邪魔で邪魔で仕方なくなる始末なのだ。あげくに〈人は河に出るとひどく短気になるようだ〉などと妙な持論を展開。しかし〈僕〉の気持ちは、わかる。わかってしまう。僕らは自分勝手な生き物なのだ。さらに〈こっちが働いているのに他の人間がのんべんだらりと座っているのを見ることほど、頭に来る経験はない〉だとか〈自分が起きているときに他人が寝ているのを見ると無性に腹が立ってくる〉というくだりは、大変に共感してしまう。
 この本に登場する〈僕〉たちの身勝手な考え方は、現代を生きる人たちとたいして違わない。その考えに共感したいわけではないが、心当たりはある。だからこそ、当時のイギリス人はもちろんのこと、いまでも読み継がれている古典なのだ。そしてこんな風に考えなくとも、ただただ楽しく読める一冊でもある。
 余談だが、訳者の解説によると本書はそもそも〈テムズ河の景観と歴史について語る『テムズの物語』という題名の書物だった〉そうなのだ。ところが、新婚旅行から帰ってきたばかりだった著者のジェロームは、幸せな心持ちのまま〈ユーモラスな息抜き〉の部分だけをとりあえず書いた。あとから〈景観と歴史〉も加えてはみたものの、当時の編集長にそのほとんどを削られてしまったのだという。でもこのテムズ河の史実を語る箇所、ユーモア溢れるドタバタの語り、そして〈僕〉の夢想という三つの異なる語りの混在が、なんとも言えない味わいを本書にもたらしている。

 

ボートの三人男 もちろん犬も (光文社古典新訳文庫)

ボートの三人男 もちろん犬も (光文社古典新訳文庫)

 

 

アキール・シャルマ『ファミリー・ライフ』

ファミリー・ライフ (新潮クレスト・ブックス)

書いた人:小平智史 2018年度5月書評王
最近は句会をやりたいです。

 

 一九七〇年代の終わり頃、『ファミリー・ライフ』の主人公である八歳の少年アジェは、インドのデリーから一家で米国へ移り住む。兄は猛勉強の末、入学を希望する理科高校の試験に見事合格。だが喜びもつかの間、事故で脳に損傷を受け、意思の疎通もままならない寝たきり状態になってしまう。一家にとって、いつ終わるとも知れない長い介護生活が始まる。
 この作品はかなりの部分で作者アキール・シャルマの体験をもとにしている。シャルマもまた、インドのデリーで生まれて八歳で渡米。大学で創作を学んだのちに投資銀行に勤めつつ、二〇〇〇年に長編デビュー作を刊行した。『ファミリー・ライフ』は二〇一四年に発表された第二長編。作者自身、脳に損傷を負った兄を長く介護した経験をもつ。
 本作は語り手アジェのつらさだけでなく不正直さや身勝手さも容赦なく描く。彼が兄ビルジュの事故を知って涙するのは《ビルジュはこれから入院することになるのに、僕は普段と変わりばえのしない一日を過ごしただけ》と思うからだし、学校の友達にはビルジュをスポーツ万能で弟思いの理想の兄に仕立て上げて話す。ガールフレンドにキスしてもらうために《慰めてほしいというようにビルジュの病気のことをほのめかし》さえする。
 しかしそれでアジェの悲しみが否定されるわけではもちろんない。《息ができなくなるくらい激しく泣きじゃくるのもしばしばだった。そんな時、僕は自分から抜け出した。僕は歩きながら喘いでいる。と同時に、僕自身の不幸が僕のそばを歩きながら、僕のなかに戻れるよう、呼吸が静まるのを待っているのがわかった。》夢中で泣いて悲しみから逃れても、それは一時のことにすぎないのだ。
 アジェはとにかくよく喋る。学校の友達が嘘だらけの兄自慢にうんざりしてくると、こんどは介護の詳細を生々しく聞かせて相手を辟易させる。反応を示さない兄にさえ話しかける。《一日中、何もしてないよね。(…)「僕は学校に行かなくちゃいけないし、勉強してテストを受けなくちゃいけない」。喋れば喋るほど怖くなっていった。》解決になるわけでもないのに、駆り立てられるようにアジェは喋る。
 そんなアジェに、言葉との別の付き合い方を教えてくれるのが、作家ヘミングウェイだ。有名作家を読んだふりしたい見栄っ張りのアジェは、ヘミングウェイ本人の作品ではなく彼に関する伝記や評論ばかり読むうちに、小説家になりたいと思うようになる。ヘミングウェイの特徴がシンプルな文体なのを知って、《作家になっても、すごく上手な書き手である必要はない。いい生活を送るにはそこそこのものが書けていれば十分なのだ》と曲解するくだりは可笑しい。
 アジェはついにヘミングウェイ本人の作品を読む。すると評論で読んだことが作品の内容とつながり、《不意に立ち上がったときのような、頭がすっきりとして、部屋がぐっと広がって感じられるような》感覚をもつ。達観や心の平穏といった類の救済とは無縁の本作にあって、読書へのすこし変わったアプローチによって主人公の《世界の見え方が変わ》るこの一節は、短いあいだながら開放感にあふれた部分と言ってよい。
 それからアジェは自分の物語を書きだす。だからといって彼が急に人間的な成長を遂げるわけではないし、作品の終盤では、アジェが心にかかえた問題はほとんど解決のしようがないことが示唆されている。本作は、一筋の縫い目のようにまっすぐ問題の解決へと向かう物語ではなく、悲しみも喜びも可笑しさもない交ぜに、さまざまな種類の経験が入り組んでできた複雑なパッチワークだ。兄の事故にしてもヘミングウェイとの出会いにしても「その後」の時間はずっと続いて行くのだし、その時間を複雑さを損なうことなく描いていることが、この小説では肝心なのである。

ファミリー・ライフ (新潮クレスト・ブックス)

ファミリー・ライフ (新潮クレスト・ブックス)

 

 

 

便秘で悩み苦しむ人におすすめしたい3冊

書いた人:林亮子 2018年5月度書評王
韓国のドラマ、小説、映画が好きな30代。時折「ダ・ヴィンチニュース」(https://ddnavi.com)に書評記事を書いています。
Twitterアカウント:@ahirudada

 

・パク・ミンギュ「ヤクルトおばさん」(『カステラ』所収、ヒョン・ジェフン/訳、クレイン)
鹿島茂『モンフォーコンの鼠』(文藝春秋
伊藤比呂美『犬心』(文春文庫)

 

 出したいのに出ない不快感、出そうで出ない残便感、ある時突然襲う腹痛……一難去ってまた一難。乳酸菌?食物繊維?適度な運動?そんなものとっくに全て試している。それでもなお出ないから便秘はつらいのだ。そんな〈便秘族〉の皆さんのために、物語を読むことで自律神経を刺激し、大腸のぜん動運動を促そうというのが今回の目的である。
 パク・ミンギュの短編「ヤクルトおばさん」は、実際に評者が読んでいる最中に便意を催し、この書評を書くきっかけとなった作品だ。
 便秘で苦しむ語り手の〈僕〉。2週間経っても1ヶ月経っても、なんと3ヶ月経っても、一向に出る気配はない。トイレでいきむ際のお供は、友人に借りた〈『お笑い経済学』〉なる本。市場経済の真実が皮肉をもって語られており、読み進めていくと突如〈ヤクルトおばさん〉なる謎の存在が出てきて――。果たして〈僕〉の便秘は解消されるのか。注目すべきは、“こんなに便秘に苦しむ人間の心境に寄り添った小説はないのでは?”ってくらい便秘族に響く表現があちこちに散りばめてあること。〈憶えておいてもらいたい。あんたたちがどこで何をしていようが、今、ここに便が出なくて苦しんでいる一人の人間がいるってことをな〉は大腸に響いた。

 

カステラ

カステラ

 

 

  「ヤクルトおばさん」の〈僕〉はトイレで本を読みながら排便しようとしたが、そもそも現代を生きる我々の排便環境は恵まれている。そう思うことで便意を促すのにおすすめなのが鹿島茂の“一大汚物処理施設スペクタクル巨編”、『モンフォーコンの鼠』だ。
 19世紀、下水道も整備されていなかった時代のパリ。郊外にあるモンフォーコンには、市民の糞尿と、移動や運搬のために使った大量の廃馬がうず高く積まれ、悪臭を放っていた。更にその大量の汚物からは夥しい数の鼠が生まれ、パリ市民の脅威となることは時間の問題。おまけにパリの地下には、空想社会主義フーリエ一派が怪しいユートピアを作り上げていて……。公衆衛生学者パラン・デュ・シャトレ、警視総監アンリ・ジスケ、小説家バルザックなど、実在の人物がフィクションの世界を縦横無尽に走り回ることになる。
 19世紀パリだのバルザックだのフーリエ主義だのが出てくると、「フランスの歴史に詳しくないし……」などと肛門がきゅっと固く締まりそうだが、身構える必要はない。本作は、いってみれば、鹿島茂による渾身の“おふざけ小説”なのである。ミステリ、アクション、ホラー、エロ、何でもあり。仏文化学者としての確かな知識に裏付けられた描写と確かな“モンフォーコン愛”があるからこそ、読者にとって楽しめるものと成り得ているのだ。疾風怒濤のエンターテイメントに身を任せながら、この現代日本の広くキレイな個室で思う存分いきめる幸せを噛み締めよ。そうすれば大腸も反応してくれるかも。

 

モンフォーコンの鼠

モンフォーコンの鼠

 

 

 ……え?作者渾身の素晴らしい文学作品を排便に利用するな?作者に失礼だ?いやそれはあなた、うんこに対するリスペクトが足りないよ。もしかしたら、“うんこ=臭い、汚い”と忌み嫌ってばかりいるから、大腸の動きも固くなるんじゃないのか。そんな人には、伊藤比呂美『犬心』をすすめたい。本作は、筆者とその家族とペットたちの、世話と介護の日々を綴ったエッセイ集だ。本作には実によくうんこが出てくるのだが、単なるドタバタ奮闘記と思うことなかれ。〈シモの世話おそるるに足らずと、大海原に向かって足を踏ん張って立っているような気分である〉と綴るまでに至る筆者の生活は、排泄と向き合うことの大切さを教えてくれる。読後、〈排泄は、生きざまそのものだ〉との筆者の思いを噛み締めずにはいられない。

 

犬心 (文春文庫)

犬心 (文春文庫)

 

 

  以上3冊を紹介したが、評者としてはこれからも、便秘に効能のある作品を探求していきたい。そこで、今回紹介した作品を読んでみて、実際に排便に変化があったかどうか、感想をお寄せいただければ幸いである。

 

 

ケーシー高峰にお薦めしたい3作

書いた人:藤井勉 2018年4月度書評王
共著で参加しています『村上春樹の100曲』(立東舎)が6月15日に発売されます。
http://rittorsha.jp/items/17317417.html

 

■ノーマン・ロック『雪男たちの国』(柴田元幸 訳、河出書房新社
藤枝静男「空気頭」(『田紳有楽 空気頭』所収 、講談社文芸文庫
■『病短編小説集』(石塚久郎 監訳、平凡社ライブラリー

 

 拝啓 春の日差しも心地よい今日この頃、ご健勝にてお過ごしのこととお喜び申し上げます。さて、1月26日にご出演されたテレビ朝日報道ステーション」を拝見し、私の思いをぜひお伝えしたいと筆をとりました。日本の絶景を地元出身の有名人が紹介する企画で、山形県「玉簾の滝」をレポートするケーシーさん。滝の紹介もそこそこに、下ネタを連発されていましたね。なのに、滝の魅力は十分こちらに伝わってきました。深夜の雪山にポツンと立つケーシーさんと、背後に広がる滝の雄大さのコントラストが実に見事だったからです。
 画面を見ながら、ノーマン・ロック『雪男たちの国』のことが頭に浮かびました。1913年に南極大陸探検隊に参加したという、アメリカ人建築家ジョージ・ベルデン。精神病院で亡くなった彼の日誌を作家のノーマン・ロックが発見・編集したこの本は、ノンフィクションというより幻想小説という分類がふさわしい探検記です。ベルデン曰く、〈私たちの旅の目的地は、物質としては存在しない〉。基地を建設するとか、探検隊がどんな任務を持っているのかも作中で定かではありません。彼らが何をするのかといえば、影は凍るのか議論したり、雪上に現われた幻の女性を追いかけたり、空想上の雪男を抱きかかえてワルツを踊り出したりするのです。
 そんな南極をさまよう探検隊の人々が抱く虚無感や幻想から、雪と氷に覆われた世界の厳しさや美しさが浮かびあがります。南極の景色をユニークな方法で伝えるこの本を、ケーシーさんにロケのことを思い出しながら読んでほしいなと考えていました。

雪男たちの国

雪男たちの国

 

  それにしても雪まみれで、自分の状況を「玉簾の滝」と引っ掛けての〈パンティの中がタマスダレになってます〉なんてダジャレで表現する、辛さを見せない姿勢には感銘を受けました。飄々とふざけるケーシーさんの姿から連想したのが、藤枝静男の中篇「空気頭」です。作者兼語り手の〈私〉が〈私はこれから私の「私小説」を書いてみたいと思う〉と宣言して、物語は始まります。長年結核を病みヒステリー気味な妻との生活が綴られた私小説かと思いきや、話は意外な展開をみせます。彼女の身を案じる〈私〉は、ある病の影響で性欲を抑えきれずに浮気を重ねていたのです。しかも〈私〉は浮気相手の若い女性をセックスで圧倒するために中国糞尿学を研究し、人糞を加工した精力増進剤を製造。その開発に至るまでの道のりが語られます。シリアスになりきれない、なろうとしない自分を作品で滑稽に描く作者の姿勢は、ケーシーさんにも共感いただけるはずです。

田紳有楽・空気頭 (講談社文芸文庫)

田紳有楽・空気頭 (講談社文芸文庫)

 

  「報道ステーション」ではロケの腕前を堪能させていただきましたが、ケーシーさんといえばやはり医療漫談。「病」がテーマの小説を集めたアンソロジー『病短編小説集』が2016年に刊行された時には、きっとケーシーさんのネタ作りの参考になるだろうと生意気ながら思っていました。収録されている短編は、一口に病気といっても切り口が作者によって様々。同じ不眠症でもヘミングウェイ「清潔な、明かりのちょうどいい場所」の主人公は暗闇を恐れて夜も営業するカフェに居場所を求め、フィッツジェラルド「眠っては覚め」の主人公は寝床で起きたまま悪夢を妄想したりと、病気への向き合い方が異なります。アップダイク「ある「ハンセン病患者」の日記から」は、乾癬症で皮膚がボロボロであるコンプレックスをバネに成功を収めた陶芸家が主人公。最新の医療技術で皮膚が完治すると、彼の創作意欲は突如落ち込んでしまうのです。

病(やまい)短編小説集 (平凡社ライブラリー)

病(やまい)短編小説集 (平凡社ライブラリー)

 

 病気のネガティブなイメージを覆したり別の側面を映し出すおもしろさが、本書のそしてケーシーさんの漫談の魅力だと私は思います。不謹慎だろうとこういうものにお金を払って行くぞ、応援していくぞという気持ちを胸に、日々仕事に励んでおります。ご多忙と存じますが、ご自愛専一にますますのご活躍をお祈り申し上げます。敬具