書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

グレアム・スウィフト『マザリング・サンデー』

マザリング・サンデー (新潮クレスト・ブックス)
書いた人:和田M 
『ホライゾン・ゼロ・ドーン』(PS4)というゲームを5月だけで200時間以上やってしまいました。労災おりますか?


 まず、タイトルの「マザリング・サンデー」という言葉が気にかかる。母する日曜? 数ページ読み進めると〈母を訪う日曜〉という訳がある。年に一度のこの日、住み込みの使用人は半日の休暇をもらい、母親に会いに帰るという習慣が、イギリスにはあったらしい。
 時は1924年3月30日、〈人口の半分が奉公人であった時代〉のマザリング・サンデー。ニヴン家のメイドであるジェーンも半日の暇をもらうが、帰る家がない。孤児なのだ。屋敷の図書室の本を借りて、庭先で読書でもしようかと考えている。そこへ、ニヴン夫妻とも昵懇のシェリンガム夫妻の息子ポールから電話が。彼は、二週間後にエマ・ホブデイと結婚することが決まっている。どの屋敷からも使用人がいなくなるこの日、ホブデイ夫妻を含む三組の夫婦は一緒に外食をする予定だ。
「もうすぐつがいが出かけるから、うちに一人きりになる。十一時に、正面玄関へ」
 ポールのこの一言から、今作の核となる出来事が動き出す。22歳のジェーンと23歳のポールは、7年前から肉体関係を続けている。当然周囲には秘密だ。ジェーンはいつもどおり「たいへん失礼でございますが奥様、番号をお間違えです」と応じる。ポールが結婚すると、もう会えないだろう。最後の逢瀬。
 ジェーンが正面玄関に自転車を乗り付け、ポールがすかさず扉を開ける。ポールは自室で、うやうやしくジェーンの衣服を脱がせる。いつもは温室や雑木林で慌ただしく済ませているのに、今日は、主人と使用人の立場が入れ代わったようだ。倒錯的とも、たわいない遊びとも思える情事のひととき、これが最後といううら寂しさと、立場の違いがなければこうでもあっただろうという安らぎが混じり合ったような奇妙な時間が流れていく……。
 語りは、時系列に沿って順序よく進むわけではない。時間は行きつ戻りつする。戻ってから同じ情景を繰り返すこともあるが、最初とは違う情報を得たあとで、それは違った色味を帯びて映る。また、老境に達したジェーンがしばしば顔を出す。物語は、その後の出来事を踏まえた後年の回想という相からも語られるのだ。若い彼女も老いた彼女も、現実にはなかったことを頻繁に想像する(もしここにエマお嬢様が訪ねてきたら。もし避妊器具をわざと装着しなかったら)。これは同じ一日のバリエーションなのか? わずか数時間が無際限に引き延ばされていく不思議な語り口だ。
 後年のジェーンはインタビューを受けるような著名人になっている。また、当時のジェーンが読書によってメイドに似つかわしくない語彙を身につけていく様子も描かれている。そう、彼女は作家になる。言葉を自覚的に再学習することによって自分を世界に開いていく過程と、ポールとともに男女の関係を学んでいく時期は重なっている。そこには意味があると思う。“言葉”と“現実”を行き来することによって世界の解像度が高まるのだとして、ジェーンにとって“現実”の半分くらいはポールだった。そうして得られた世界像の全体には、この男性の存在が、彼との関係が、透かし絵のように写り込んでいるだろう。
 同じ著者の『ウォーターランド』(1983年)に、〈“いま、ここ”は、たいていは“いま”にも“ここ”にもない〉というセリフがある。歴史の勉強なんて意味ない、という生徒に語り手の教師が返す言葉だ。「いまを生きる」といえば聞こえはいいが、過去と未来にぎゅうぎゅう挟まれた現在をたしかに自分の手にしていると感じられる瞬間は多くない。ジェーンにとって、1924年3月30日がそういう時間だったのだ。しかしそれは〈死ぬまで説明することができない〉不可解な感覚によって得られた実感だった。その瞬間を、忘却の淵から、あるいはエゴイスティックな意味づけから救い出そうという試み、しかも、その瞬間を導いたすべて(未来の出来事まで含めたすべて)を凝視することで救い出そうとする試みが、本書には描かれている。タイトルが示しているのは、救うに値するこの特別な時間のことだ。

 

マザリング・サンデー (新潮クレスト・ブックス)

マザリング・サンデー (新潮クレスト・ブックス)