書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

『続きと始まり』柴崎友香著

 出来事がおこったときはよくわからず、振り返ってはじめて見えてくるものがある。それも、思ったよりたくさん。柴崎友香の新作長編『続きと始まり』は、そんなことに気づかせてくれる。
 視点人物は三人。石原優子は三十代後半。夫の実家のある滋賀県で、雑貨や日用品を扱う会社のパートとして働きつつ、子供二人を育てている。小坂圭太郎は三十三歳。調理師免許を持ち、東京の居酒屋で働いている。五歳年上の貴美子との間に四歳の娘がいる。柳本れいは四十六歳。一昨年に五年間つき合った人と別れた。東京でフリーの写真家として活動する傍ら、知人の女性が木造二階建ての自宅ではじめた写真館を手伝っている。
「1 二〇二〇年三月 石原優子」から始まり、「2 二〇二〇年五月 小坂圭太郎」「3 二〇二〇年七月 柳本れい」と、順番に語り手が替わっていく構成。二三か月おきに二〇二二年二月まで続き、ぐるっと四周した最後に全員が語り手となる「13 いつかの二月とまたいつかの二月」が置かれている。
 各章に年月はあるが、登場人物たちの回想には、阪神淡路大震災東日本大震災の時期も含まれる。緊急事態宣言やまん延防止など、今となっては“思い出す”言葉も登場するものの、地震やウイルスの危機を本書は直接には描かない。あのとき人がどんなことを思い、口にし、ふるまったのか。その日常を、非日常を、静かに振り返るのだ。
 年齢も仕事も家族構成も違う三人だが、彼らが考えること、感じることは、コロナ禍という状況で、それぞれの立場を超えて響き合う。たとえば家族からの心ない言葉。「優子ちゃんはしっかり結婚して、孫も産んでくれて、ほんまに親孝行でうらやましいわ、って言われたわ」という母に、優子は〈「孫」を産んだんとちゃうわ、わたしの子供やっちゅうねん〉と頭の中で毒づく。圭太郎は両親から「子供が生まれたのはよかったよ。でも、男の子じゃないだろ」「お前は馬鹿か! 家が絶えていいっていうのか!」という言葉を浴びせられ、頭の中が〈一瞬空洞に〉なる。そんなとき気の利いた返しもできず、ひとまずその場を納めようとしてしまうのも、優子や圭太郎に限らず誰にでも身に覚えがあることだろう。
 私たちは忘れっぽい。だから振り返る意味がある。優子と同僚の河田さんとの会話が象徴的だ。「なんか時間の感覚おかしくなってるよね」「あのときはまだ、感染者がいるとかいないとか、そんな感じやったのが信じられないですね。マスクとトイレットペーパーを必死で探してたとか」「もう忘れそうやな。二年しか経ってないのに。まだ続いてるのに」「なにも終わらないのに、次々始まって、忘れていくばっかりで」。
 三人は互いを認識してはいないが、ノーベル賞を受賞したポーランドの詩人・シンボルスカの詩によって結びつけられている。以前、とあるイベントで詩に出会い、現在の状況下で三人三様に思い出すのだ。詩集のタイトルは『終わりと始まり』。作中で紹介される「一目惚れ」という詩は〈始まりはすべて/続きにすぎない/そして出来事の書はいつも/途中のページが開けられている〉と結ばれている。
「どうすれば良かったのかわかるのは、いつもそれが過ぎたあとだよね」――複数の人物が同じように口にするこの言葉は、しかし悔恨やあきらめを意味しない。物語の終わりに、れいが振り返る。〈誰かがちゃんとやってくれると思っていた。世の中はだんだんよくなってきてるとこもあるよねと言うときに、苦しんできた人や変えようとしてきた人のことをそれほど切実に考えてはいなかった。いつかのあのニュースやできごとが今のこのことにつながっていて、いつかのあのできごとはもっと前の別のことにつながっていたと、自分が実際に経験してやっとわかりはじめた〉。
 私たちはみな、過去の続きを生きている。現在は未来に続いている。その当たり前のような真実を、振り返ることの意味を、そしてこれからの始め方を、読み手ひとり一人に問う作品だ。

2024年1月書評王:山口裕之

がんばって解題しようとするとするりと逃げられてしまうなぁと感じて、順番を考えつつ材料だけを置いていく、料理レシピのような書評になりました。ぜひ読んで、自分なりの解釈をつくってほしい本です。

他人の読書が気になる人にお薦めしたい3冊の「本の本」

 自分以外の人がどのように本を読んでいるかというのは、基本的に分からない。A「あの本読んだ?」B「読んだ!面白かった!」A「面白かったよねー」といった会話が交わされたとしても、AとBが感じた面白さは全然違うかもしれない。私が書評や評論を好んで読むのは、「他人がどのように本を読んでいるのか」が知りたいから、という理由も大きい。 

 2023年は「信頼できる読み手」による、本についての本が豊作だった。その一冊が、書評家豊﨑由美の「QJWeb クイック・ジャパン ウェブ」での連載をまとめた『時評書評-忖度なしのブックガイド』(教育評論社)だ。2020年から2023年初頭の時事ネタに絡めて小説を紹介する凝った形式の書評集で、 Webに掲載された順に章が並べられているが、そのスピード感にまず驚かされる。例えば訃報に接し石原慎太郎の個人的ベスト3作品を解説する「私なりの追悼・石原慎太郎」は、石原慎太郎が亡くなったのが2022年2月1日で、Webへ記事が掲載されたのが2月6日だ。時評書評の名は伊達ではない。 
 取り上げられるトピックはロシアによるウクライナ侵攻といった世界的なニュースから、Twitter(現X)で起きた糸井重里氏の炎上事件といったニッチな話題まで幅広い。編集者の箕輪厚介氏のセクハラ問題を取り上げた回では、箕輪氏の愚行から作家渡辺淳一による女性の口説き方指南書『欲情の作法』(幻冬舎)を思い起こす。そこから帝政ローマ時代のオウィディウスの『恋の技法』(樋口勝彦訳、平凡社)との共通点を見出し、17世紀のモラリスト文学者ラ・ロシュフコー箴言を用いて諫める、というアクロバティックに繋がる本の星座に舌を巻く。読書中に別の本が浮かぶことは誰でもよくあると思うが、読書量と文学に対する熱量によって磨き上げられた関連付けは、読んでいるだけで心躍る。箱根駅伝の青学チームやワールドカップサッカー日本代表など、その年活躍した競技のチームメンバーになぞらえて今年のベスト小説を発表しているのも楽しい。豊﨑氏の書評の技を思う存分味わえる一冊だ。 

 『時評書評』が主に平成・令和に刊行された小説を紹介する本である一方、文芸評論家の斎藤美奈子による『出世と恋愛-近代文学で読む男と女』は、明治・大正時代の近代小説を読み解く本だ。近代の青春小説は「告白できない男たち」の物語で、恋愛小説は「死に急ぐ女たち」の物語でみんな同じだ、と序章から喝破する。青春小説の例として夏目漱石三四郎』や武者小路実篤『友情』などを挙げ、男性主人公たちが軒並み失恋する陰に隠れたモチーフを炙り出していく手つきは、小説の骨格を読み取るレントゲン技師のように鮮やかだ。
 恋愛小説では、片山恭一『世界の中心で愛を叫ぶ』や住野よる『君の膵臓を食べたい』などの悲恋ものの先駆けとして徳富蘆花『不如帰』を挙げ、そのほか伊藤佐千夫『野菊の墓』などを例にとり、なぜいつも死ぬのは女なのかという謎に迫る。〈私だって、べつに死にたくて死んだわけじゃないないのよ。持続可能な恋愛が描けない無能な作家と、消えてくれたほうがありがたい自己チューな男と、悲恋好きの読者のおかげで殺されたのよ〉という死んだ歴代ヒロインの代弁に思わず吹き出してしまう。文体やストーリーを超えて見えてくる近代小説の骨格は、令和の今でもしぶとく残っていることに気づかされる。斎藤の過去作『モダンガール論』(文春文庫)も併せて読むと、さらに明治から昭和までの小説の骨格が良く見えるようになるので、こちらもおすすめしたい。 

 豊崎由美氏と斎藤美奈子氏は長年私の「信頼できる読み手」だったが、ずっと気になる読み手がいた。長年ニューヨーク・タイムズの書評を担当していたミチコ・カクタニだ。人気ドラマ『セックス・アンド・ザ・シティ』には主人公でライターのキャリーが初めて本を出版した際、カクタニの書評を読んで落ち込むシーンがある。 辛辣で有名で、彼女の書評が翻訳されたら読んでみたいと思っていたが、初の邦訳書評集『エクス・リブリス』(橘明美訳、集英社)が今年上梓され、その願いが叶った。
 蔵書票というタイトルの通り、カクタニのお気に入りやお薦めの本が100冊以上セレクトされた400ページものボリュームがある書評集だ。選ばれている書籍はマニアックなものではなく、八割方邦訳されているので海外文学好きな人なら読んだことがある本が何冊かは見つかるだろう。どれだけ辛口な書評なのだろうとおそるおそる繙くと、本人セレクトとあってどの本も賛辞が並び少し拍子抜けしたが、本の勘所を押さえた断定調が癖になる。例えばマーガレット・アトウッド侍女の物語』の書評は〈ディストピア小説の名作は、過去と未来の両方を視野に入れている〉との一文から始まる。その通り。ガルシア・マルケスの『百年の孤独』は〈突きつめて言うなら、ガルシア=マルケスの作品の中心を占めているのは政治だけでなく、時間と記憶と愛である〉とまとめる。端的な文章に唸らされる。

 信頼できる読み手がどのように本を読んでいるのかを垣間見て、自分の読みの浅さを痛感したり、ぴったりくる言葉を見つけて「そうそう!」と嬉しくなったり。書評や評論を読むことは、私にとって小説をさらに楽しく読むための合法ピーピングなのだ。

 

 

 

 

2023年12月書評王:三星

6年ぶりに書評講座に復帰して、書評王を獲れたので嬉しいです!しかも書評講座の師匠でもある豊崎由美さんの新刊を紹介した書評で獲得できたので、喜びもひとしお。昨年からライターとしても活動を始めました。書評のご依頼お待ちしてます!

mihoshi.madoka001@gmail.com

『ふぞろいの林檎たちⅤ 男たちの旅路〈オートバイ〉 山田太一未発表シナリオ集』 山田太一著

 名シナリオとよい料理レシピには共通点がある。どちらも文字を追いながら作品を脳内で創り上げることができるところだ。レシピを読めば味や見た目、食感、匂い、温度をイメージできるのと同じように、物語に引き込まれる時間の中で、目の奥にモニターが浮かび、俳優たちが勝手にドラマを演じ始めてくれるのだ。
 そんな名レシピ……ではなくシナリオ作品が、執筆から数十年を経て公開された。作者は山田太一向田邦子倉本聰と共に1970年代から’80年代にかけてのテレビドラマ黄金期を担った脚本家だ。きっかけをつくったのは、文学紹介者の頭木弘樹だった。頭木はこの大御所シナリオライターの全作品に関するインタビューを2017年から行っているのだが、山田邸の書庫で諸事情で映像化に至らなかった多くの未発表シナリオを発見したそうだ。うち数作品が今回、『ふぞろいの林檎たちⅤ 男たちの旅路〈オートバイ〉 山田太一未発表シナリオ集』として1冊にまとめられたのだ。
 収録作品は、松竹勤務時代に初めて書いた習作「殺人者を求む」、2時間サスペンス枠を想定した「今は港にいる二人」、NHKで放映された人気シリーズドラマ「男たちの旅路」第4部の第2話として書かれた〈オートバイ〉、そして「ふぞろいの林檎たちⅤ」(前・後編)だ。巻頭には、山田による「ボツ」という表題のエッセイも掲載されている。
 「男たちの旅路〈オートバイ〉」では、特攻隊の生き残りの警備員(鶴田浩二)とぶつかり合う若手警備員として、今や“ザ・相棒”の水谷豊がキャスティングされているのが目を引く。水谷は第3部まで「男たち~」シリーズにレギュラー出演していたが、初の主演ドラマ「熱中時代」が決まっていたため続投できなくなり、シナリオはお蔵入りになったという。この作品も「今は港に~」も「殺人者を求む」も、題材はともかく、テーマは決して古びていない。
 山田ファンにとって感涙ものは「ふぞろいの林檎たちⅤ」だろう。1983年から’97年まで4シリーズにわたってTBS系列で放映された8人の男女による群像劇「ふぞろいの林檎たち」は、その後のドラマに大きな影響を与えた作品。学歴コンプレックスやパワハラ、自分探しなど普遍的なトピックを詰め込んだ内容はもちろん、サザンオールスターズの曲が全編に流れる演出も人気を呼んだ。特に、1983年放映のⅠ(学生編)と’85年のⅡ(新社会人編)は大きな話題になった。
 ただ、「ふぞろい」シリーズに関して、心にモヤモヤを残す人は多いのではないだろうか。というのも、ⅠとⅡでは8人が一堂に会して感情をぶつけ合うシーンがひとつの見せ場になっていたのだが、ⅢとⅣではこの「集合シーン」がほとんど見られなかったからだ。そしてⅣ以降、シリーズ新作が放映されることはなかった。
 そこへ今回現れたのが、2003年頃に執筆された幻のⅤ。「林檎たち」は40代になっており、仲手川良雄(中井貴一)と水野陽子(手塚理美)が婚活パーティでばったり再会するところからドラマが始まる。驚きのカップルが誕生したり、あの人とあの人が元サヤに戻ったり、風来坊的だったメンバーが堅実に働いていたり。意外な展開もありながら、クライマックスで8人が集まる場面はしっかり押さえてあり、十二分に満足させてくれる。往年の視聴者は、これでやっと「ふぞろい」が完結した、と安心できるはずだ。
 Ⅴのシナリオ完成から20年が経ち、主演俳優たちは現在50代後半から70代。当時のキャストでのⅤ映像化は叶わないだろう。でも、悪いことばかりではない。優れたレシピから料理を想像して楽しむように、読者は既存の映像に縛られることなく。時任三郎石原真理子(現・石原真理)をいい感じの40代に仕立てたり、なんならまったく別の俳優をあてたりして、自分だけの「ふぞろい」を脳内で創れるからだ。例えば西寺実柳沢慎吾)役をディーン・フジオカに、なんて無茶振りも想像上なら問題なし。映像に縛られず自由に空想して楽しめるのは、山田氏には申し訳ないが怪我の功名、いや「ボツ」の功名だろう。

 

 

2023年11月書評王:田中夏代
書評王をいただいた直後、山田太一さんの死去が発表され喪失感でいっぱいに…。脚本家教室の最前列で山田さんの特別講義を聴いた時間を思い出します。1980年代刊行の長編小説『異人たちとの夏』がイギリスで映画化され、2024年春に日本でも「異人たち」として公開予定。頭木弘樹氏による全作品インタビュー本も、国書刊行会から遠からず出版される模様。じっくり味わいたいと思います。

『未来散歩練習』パク・ソルメ著 斎藤真理子訳

 かかとを浮かせて、その分だけ少し詩に近づいたような軽やかな文体で、1990年頃と思われる時期の中学生スミと、現在の物書きの〈私〉、人生のいっときを釜山で暮らす二人の物語が交互に語られる。二人はそれぞれ日常のなかで、時空や虚実の境を越えて他者と混じり合い、過去をまといながら未来に滲んでいくように見える。

 スミは、蔚山で父親の事業が失敗し、一時的に釜山にある母親の実家に身を寄せている。そうした事情はあるものの、ごく普通の中学生といえ、同じクラスのジョンスンと図書館に行って他愛ないおしゃべりをし、遠い外国で働く大人の自分を夢見たりしている。

 そこへある日、祖母が刑務所から出てきた〈ユンミ姉さん〉を連れてきて、一緒に暮らすことになる。姉さんは〈前に龍頭山公園近くのアメリカ文化院に放火して捕まった中の一人〉だった。スミは事件の詳細を知らないし、誰も直接語りはしないが、姉さんのやせた体から放たれる池の水みたいな匂いや、姉さんが変な行動をしたら報告するように言う担任の先生の言葉や、姉さんの背中を撫でる旅先の小さくて固い皺のある手からさまざまなものを感じ取る。そしてそれらがスミの中から溢れ出したとき、自分の目の前の出来事がすべてだった彼女の世界観が変わりはじめる。

 1980年、朝鮮半島の釜山とはちょうど反対側にある都市光州で、民主化を求めて蜂起した学生や市民を軍部が武力制圧し、多数の犠牲者を出した光州事件が起きた。ユンミ姉さんが関わっていた〈釜山アメリカ文化院放火事件〉とは、1982年、大学生のグループが、こうした韓国軍部の独裁を容認しつづけたアメリカの責任を問い、釜山にあるアメリカ文化院に火を放った事件である。死傷者を出し、主導者は死刑判決を受けた。

 この放火事件を接点としてスミの物語とつながるもう一つの物語の主人公〈私〉は、現在のソウルで会社員をしつつ、ときどき原稿を書くために釜山に滞在する物書きだ。銭湯での出会いを縁に、60代の実業家女性チェ・ミョンファンがもつ古いマンションの一室を借り、少しずつ日用品を買いそろえながら、彼女と食事をしたりテレビで映画を見たりし、知り合いのような友人のような関係の輪を広げて、釜山の街になじんでいく。

 事件後のまだ濃密な空気を肌で感じるスミとは違い、〈私〉は数十年経った釜山の街を歩き、物書きらしい想像力で、同じ道を歩いて新しい世界を夢見た学生たちのことを、デパートの六階からビラをまいた男性のことを、会社の窓際に立って文化院から噴き上がる煙を眺めた若き日のチェ・ミョンファンのことを、その人の中に入り込むようにして思い描く。

 現在は近現代歴史館となった旧文化院の階段を下りながら、〈私〉は放火した人たちについてこんなふうに思う。〈現在と未来について考える人たち 来たるべきものについて絶えず考え、現在にあってそれを飽きずに探し求める人々は、すでに未来を生きていると思った。絶えず時間を注視し、来たるべきものに没頭し、人々の顔から何かを読み取ろうとする人々は、来たるべきと信じるそのことを、練習を通してもう生きているのだと。〉

〈放火した人たち〉は、建物を破壊し結果的に人も殺し、その行いは全面的に肯定できるものではもちろんないだろう。でも、スミと〈私〉の物語は、彼らのテロリスト的側面ではなく、彼らがものを食べて街を歩き家で眠る一個人であることや、彼らが理想の未来を信じ実現しようとしていたことに目を向けさせる。『未来散歩練習』のなかで誰かが信じる未来のイメージは、柔らかな光に満ちている。ふと思う。今の自分は、火を放つほど強く、光の未来を信じることができるだろうか。

 著者パク・ソルメは、1985年光州生まれ。邦訳にはほかに、日本オリジナル短編集『もう死んでいる十二人の女たちと』(斎藤真理子訳、白水社)があり、その中の「じゃあ、何を歌うんだ」も光州事件を扱っている。

 

2023年10月書評王:肱岡千泰

 あいだにお休みをはさみましたが、書評講座に通いはじめて一年と数カ月。同じ本でもつづけて複数回読むと、全然印象がちがって驚きます。今回の本は、本文から引用箇所候補をパソコンで抜き書きしていると、文字を打つ手が楽しくなるほどリズムの美しい文章でした。

『ラウリ・クースクを探して』宮内悠介著

 優れた建築家が自然の地形を生かして美しい建物を建てるように、世界の歴史と現実を土台に見事な虚構を組み立てるのが宮内悠介という作家だ。『あとは野となれ大和撫子』(2017)では、環境破壊によって干上がった中央アジアの湖の上に架空の国を興し、少女たちが政治の舵取りをする活劇を展開した。『遠い他国でひょんと死ぬるや』(2020)では、フィリピンを舞台に民族紛争・宗教対立・テロなどさまざまな問題を取り込みつつ、竹内浩三という実在の詩人の足跡をたどることで太平洋戦争の記憶を掘り起こした。新作『ラウリ・クースクを探して』が足場とするのはバルト三国のうちのひとつ、旧ソ連から独立し、近年では電子政府の先進事例が注目されている人口130万人の小国、エストニアだ。
 ソ連時代、1977年にのちにエストニア共和国首都となるタリン近郊の村に生まれたラウリ・クースクは、幼少期から数字だけに強い興味を示す子どもだった。学校に入学しても仲間はずれ状態だったのだが、教室にКУВТ(KUVT)という電子計算機がやってきたとき、彼の運命が大きく変わる。
 冷戦期、規制により西側の高性能計算機を輸入できないソ連は、代わりにホビー用の8ビット機を輸入し、コピーして、さまざまな分野で、宇宙開発にさえ活用した。КУВТはヤマハ製のMSX機・YIS503のローカライズ品で、約7000台が輸入され、90年代初めまで学校で使われたという。機械技師の父が手に入れたTRS-80という計算機にすでに親しんでいたラウリは、先生からもプログラムの才能を認められ、КУВТで次々と自作のゲームをつくるようになる。作品はコンペティションにも出され、3等になった。メダルもうれしかったが、ラウリは1等作品の星空のスクロールに、そのプログラム的美しさに心を奪われる。作者はレニングラード在住のイヴァン・イヴァーノフ・クルグロフ。ラウリと同じ十歳の少年だった。
 ラウリとイヴァンはのちに運命的な出会いを果たす。進学先でカーテャという同い年の女子生徒も加わり、何をするのも一緒というチームとなった3人。初めて自分の居場所を見つけたラウリは精力的にプログラミングに取り組み、イヴァンとКУВТのコンペティションで競い合う。ところがソ連から独立しようとするエストニアの政治運動が、やがて3人の関係に大きな亀裂をもたらして――。
 本作の語り手はラウリではない。物語の大枠は、エストニア人の通訳をつれた「わたし」による手記だ。彼は現在時点にいて、過去のラウリを知る人を取材し、伝記を書こうとしている。この工夫によって、読み手はラウリという人物が歴史の中に実在したかのような錯覚に陥る。語り手は一体何者なのか、そしてラウリにたどり着くことができるのか。宮内は謎をたくみに配置して、本書を成長小説としても、青春小説としても、一種のミステリーとしても読めるように仕組んでいる。
 2002年から電子IDカードの発行を始めたエストニア。現在では国民のIDカード保有率は98%を超え、あらゆる行政手続きが電子化されている。どうしてそれが可能になったのか。ラウリにКУВТを使う許可を与え、卒業したのちも励まし続けたライライという教授が同国独立以来の理念を訴える。「この国は小さく、隣にはロシアがある。いつまた占領されるかもわからない」しかし「領土を失っても、国と国民のデータさえあれば、いつでも、どこからでも国は再興できる」「わたしたちは、情報空間に不死を作る」と宣言するのだ。独立を維持するため領土にこだわらず、電子で国民をつなぐことに注力してきたエストニアという国の覚悟が、本作の背骨にある。
 コンピュータに魅せられ、プログラミングを通じて友情を育み、歴史の荒波に翻弄されたひとりの人間を描くことで、世界の来し方行く末に思いを至らせる。宮内が虚構の土台として描き出す「現実」の豊かさとスケールに、いつもながら脱帽するのである。

※MSX機:子供に買い与えられる安価なコンピュータとして構想された、米マイクロソフト社と日本のアスキー社による共通規格「MSX」(1983年)に準拠した電子計算機。当時はパソコンではなくマイコンが一般名称。

2023年9月書評王:山口裕之

あぁ、懐かしのMSX。当時MZ-700というグラフィックメモリのないマイコンユーザーだった自分としては、うらやましい機体でした。字数制限のなかで、どうしても削りたくなかったのは「YIS503」「TRS-80」という機種名です。

 

【作家紹介シリーズ】石田夏穂

 デビュー作『我が友、スミス』(2021年)で第166回、2023年『我が手の太陽』で第169回芥川賞候補となった石田夏穂。1991年埼玉県生まれ、東京工業大学工学部卒。プラント建設会社の社員としての顔もある。今回、惜しくも受賞はならなかったが、私はこの作家を信頼している。相性がいいといってもいい。賞を取るかどうかはわからないが、今後もいい作品を書いてくれるだろうと思うのだ。
 石田作品でまず目を引くのは、ディテールの描写力だ。『我が友、スミス』は会社員の女性がボディビルにはまっていくという内容だが、読者の多くには馴染みのないだろう業界独特の環境、慣習、思考様式といった「異世界描写」が非常に巧みで、スルスルと作品に入り込んでいける。『我が手の太陽』では主人公である溶接工の手元の作業や、安全のために職業倫理として求められる行動が、緻密にストーリーに組み込まれている。
 描写は具体的で、端的だ。〈身体は、いちばん正直な他人だ。身体を酷使することによる思考のシャットダウン。私は日に日に強靱になっていく身体は元より、この真空地帯に淫したのだった〉(『我が友、スミス』)、〈配管溶接ではまずこの開先と呼ばれる配管の縁を、溶接できる状態まで加工する必要がある。具体的には「V形」にする必要があり、こうすると配管の内部まで入熱しやすくなるのだ。炒める前にソーセージに切り込みを入れるようなものだ〉(『我が手の太陽』)といった具合。言葉の選び方にもセンスがある。スミスマシン(軌道が固定されているタイプのバーベル・マシン)のような筋トレ界の用語、スパッタ(火花として飛び散る金属屑)やキュウクロ(クロム9%含有の鋼材)といった溶接業界用語など、その世界の空気を濃密に含んでいる言葉を作品内に上手に取り込み、かつ注に逃げずに本文で説明する。それが、読みやすさとテンポのよさに貢献している。
 文章にユーモアがあるのもいい。とくに笑える作品といえば『ケチる貴方』だ。語り手は重度の冷え性の女性で、人にはわかってもらえないがなかなかハードモードな人生を送っている。シャワーを浴びる際にも〈冷水の間、素っ裸の私は片手にシャワーヘッドを持ちながら自分から限界まで遠ざけるという妙な体勢になっている。毒蛇を捕まえたから、早く籠を持ってこいと言わんばかりだ〉だし、〈食事は温活の中核とされるが、その心はものを食べると食事誘発性熱産生なる戒名じみた現象が発生するからだ。が、星五つの激辛カレーを食べても私は辛い辛いと苦しむだけで、汗の一つもかかない〉といった描写にも、自分を客観視できる人のボケというか、真顔で冗談を言うタイプのおかしみがある。
 石田のこれまでの作品の主人公には、なにがしか「ゆずれないもの」がある。ボディビルの大会で「女らしさ」を要求され、審査されることに納得できない私(『我が友、スミス』)。劇的に冷え性を改善する方法を発見したのに、どうしても超えられない一線がある私(『ケチる貴方』)。太い脚が何よりのコンプレックスで、収入のすべてを費やして脂肪吸引を繰り返す私(「その周囲、五十八センチ」(※))。理不尽な理由で人事部に自分を異動させた会社への復讐のため、新卒採用の基準にとあるルールを厳しく適用する私(『黄金比の縁』)。初の男性主人公となる『我が手の太陽』では、溶接工としての腕に誇りを持ち、自分の職能を自分の価値そのものだと信じている男が、その信念ゆえにアイデンティティの危機を迎える。共通するのは、どこか真面目で、融通が利かない、ごまかして生きていくのが上手じゃないやつらだということ。だからこそ「ゆずれないもの」があるのだ。この作家への信頼は、自分もまた同様に不器用なやつら界の一員だという自覚があるからかもしれない。石田夏穂なら、生きづらい世の中を懸命に生きる仲間を、これからも描いてくれるに違いないと思っているのだ。

 

 

(※)「その周囲、五十八センチ」収録

 

 

2023年8月書評王:山口裕之
サマソニ大阪に初参戦してきました。暑かった。死ぬかと思った。でも、「この場に立ち会った」みたいな達成感がやっぱたまらんですね。

酷暑でエアコンが壊れた人にお薦めする3冊

 え~、今年7月の平均気温が45年ぶりに記録を更新し、観測史上最高となったそうで。そんな最中に我が家のエアコンが壊れ、絶望している読楽亭評之輔でございます。
 せめてもの涼を求めんと、怪談やホラー、ゴースト・ストーリー等々読み漁りまして。その中でも、体感温度マイナス5度をお約束しますのが『呪物蒐集録』。オカルトコレクター田中俊行さんの私的コレクション54品を、写真と共にその来歴や生じた異変を紹介する禍々しさ満載の1冊。
 京都のとある屋敷跡で、死者を撮影した奇妙な写真と一緒に見つかった〈鵺(ぬえ)の手〉や、遺灰を原料にしたタイのミイラ型人形〈クマントーン〉など、民間信仰の呪物もおどろおどろしいですが、脳天から足先まで全身に釘を打ち込まれた人形からは、宗教でも習俗でもない、生々しい個人的な怨嗟が迫ってまいります。秀逸な帯の惹句〈見るだけで障る〉に偽りなし、なんでございます。
 しかし、見た目が焼焦げた亀の甲羅みたいな、チベット高僧の頭蓋骨〈カパーラ〉を、〈たまに被って一緒になるというか、この人の記憶が蘇るように〉するけど〈ちょっとまだわかんないな〉と笑って語る著者の感性の方が、わたくしには怖いんですがね。
 怪談師としても定評のある、田中俊行さんの代表作「あべこべ」は、夜釣りに出かけたカップルが怪異に遭遇するってぇ話。これが死装束は左前に着せるなど、この世とあの世を隔てるための〈逆さ事〉に材を採ったものであることを教えてくれるのは、伝承文学を専門として國學院大學で教鞭を執る伊藤龍平さんの『怪談の仕掛け』。
 深夜、実在しないはずの駅で降りた〈はすみさん〉の身に起きた異変を伝え、2004年に〈2ちゃんねる〉を騒がせた「きさらぎ駅」が、なぜ現在もインターネットで流布される〈ネットロア〉の金字塔となり得たのか。
 大蛇が舐めていた草を懐に忍ばせて、蕎麦の食べ比べに挑みたる清兵衛。暫くの後様子を見に行くと、座敷にはうず高く積まれた蕎麦と羽織だけが残されていたという落語「そば清」などを題材に、極めて真面目に〈怪談〉のメカニズムを解き明かしてくれるんでございます。仕組みがわかっちまうんじゃ興醒めかと思いきや、いえいえ、怪異というものの奥深さに、体感温度マイナス3度は確実。
 と、ここまで計8度体感温度を下げてみましたが、湿度の国日本だけではまだまだ暑い。1900年に英国の孤島で実際に起きた、灯台守3人の失踪事件を元に描かれた『光を灯す男たち』でぐっと冷やしてまいりましょう。本作は文芸ミステリでありながら、極上のゴースト・ストーリーでもあるのでございます。
 1972年12月、英国コーンウォールのメイデン・ロック灯台。8週間の勤務を終え休暇に入る灯台守の交代員と補給品を乗せた船の乗組員が見たのは、内側から施錠された扉と食事の用意が整った食卓、そして同じ時刻で止まった二つの時計。海に囲まれ、船でなければ行き来のできない灯台から、なぜ、どうやって灯台守たちは姿を消したのか。事件か事故か。調査は行われたものの真相は不明なまま、死亡と判断された3人の男たち。
 ところが20年後、残された家族や恋人の元に、一人の作家が訪ねてきて取材を始めたことで、止まっていた時計が動き出します。
 物語は1972年と1992年を行き来し、新しい光を当てることで、各々が抱える秘密と思惑が、次第に明らかになっていくのでございます。美しい文章で綴られる謎解きと、来る日も来る日も風が吹き荒れ、見渡す限り青灰色の冷たい海が、しばし酷暑を忘れさせてくれること間違いなし。体感温度マイナス7度をお約束いたします。
 ですがねぇ、一体いつからこんなに地球が暑くなっちまったのか、それがわたくしにとってはいち番の謎かもしれません。お後がよろしいようで。

2023年8月書評王:関根弥生

3冊書評での書評王は初。流した汗の量だけ喜びもひとしおです。読書好きの落語家が、寄席演芸専門雑誌の書評欄「読楽亭評之輔のお薦め本コーナー」で書いているという設定です。