書評王の島

トヨザキ社長こと豊﨑由美さんが池袋コミュニティカレッジで開講している「書評の愉悦ブックレビュー」。そこで書評王に選ばれた書評を紹介するブログです。

エンリーケ・ビラ=マタス『パリに終わりはこない』書評

パリに終わりはこない


書いた人:鈴木隆詩  2017年10月度トヨザキ社長賞
フリーライター。最近はさぼってばかりいます。

 

 〈私がデュラスの屋根裏部屋でしていたのは、基本的にヘミングウェイが『移動祝祭日』で語っているような作家生活だった。〉
 これはエンリーケ・ビラ=マタスが二〇〇三年に発表し、今年邦訳が出た小説『パリに終わりはこない』の序盤に出てくる一文で、これだけで小説全体を説明しきっている。

 「私」とは誰か? 『パリに終わりはこない』の主人公であり、作者自身と重なり合う人物だ。「私」は二十代だった一九七四年にパリに行き、最初の小説『教養ある女暗殺者』を書きながら二年を過ごした。これはビラ=マタス本人の経歴と、ほぼ同じである。
 デュラスとは誰か? 『愛人 ラマン』などで知られる小説家であり、脚本家、映画監督としても活躍したマルグリット・デュラスだ。「私」にとっては、月百フランの家賃を何ヶ月も滞納することを許してくれた家主であり、小説を書くための十三の心得を、ありがたくも授けてくれた先人だった。

 では、〈ヘミングウェイが『移動祝祭日』で語っているような作家生活〉とは?

 『移動祝祭日』はヘミングウェイが、パリで過ごした二十代の六年間を、晩年になって振り返った作品だ。二十二歳のヘミングウェイは妻を伴ってパリに渡り、新聞記者をしながら最初の小説の刊行を目指した。そして、ガートルート・スタイン、スコット・フィッツジェラルドエズラ・パウンドらたくさんの作家や芸術家と親交した。
 〈もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ〉というのが、その序文(高見浩訳/新潮文庫版)。叙情に満ちた作品で、最後の章のタイトルは「There Is Never Any End to Paris」、つまり「パリに終わりはない」だ。

 「私」は、そんなパリに憧れて移り住み、ヘミングウェイみたいに小説家を目指しながら、ヘミングウェイみたいにさまざまな作家や芸術家と付き合って、後年、作家として何冊も小説を著してから、ヘミングウェイみたいに若かったパリ時代を回想する。では、『パリに終わりはこない』は『移動祝祭日』みたいな作品なのかというと、そこは違う。バルセロナに住む「私」が三日間続く講演としてパリ時代を語る、という体裁で書かれているからだ。ビラ=マタスは、ヘミングウェイのように一直線に過去を振り返ってはいない。「私」という自分によく似た主人公を立て、講演という虚構の行為をさせている。

 そのことでまず、パリ時代の若かった自分に対するアイロニカルな視点が立ち上がってくる。「あの頃の自分、こんなだったんですよ、どう、笑っちゃうでしょ?」的な一歩引いた冷静さは、人前で自分語りをする時の作法である。その上で、絶妙な語り口による、自虐的な笑いの奥から立ち上がる青春の苦味や、今は失われてしまったきらめきに、聴衆は(そして読者は)共感させられる。

 だが、小説内にいる聴衆はともかく、その外にいる我々読者が忘れてはいけないことは、「私」が語る体験談はまったくの作り話である可能性がおおいにあるということだ。『パリに終わりはこない』には、たくさんの著名人が登場して、「私」と言葉を交わしていくが、それが「三日間の講演」を面白くするための味つけではないという証拠は、どこにも提示されていない。「私」がおびただしく引用する古今の作家の言葉に導かれ、全てがビラ=マタスの頭の中で組み立てられている出来事なのかもしれないと疑うと、この小説のもう一つの面白さが立ち上がってくる。

 作家の頭の中で、郷愁と混ざり合いながら、現実とは違う広がりを見せるパリ。「私」はこう言っている。〈リアリスティックな作家が現実を忠実に写し取りながら、結果的にそれを一層貧相なものにしてしまっているのを見ると、思わず笑ってしまう〉。

 

パリに終わりはこない

パリに終わりはこない

 

 

 

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パトリシア・ハイスミス『見知らぬ乗客』書評

 

見知らぬ乗客 (河出文庫)

書いた人:山口裕之 2017年11月書評王
講座では学生時代からのあだ名の「ルー」で呼んでもらってます。冬はNBAとNFLのテレビ観戦で忙しいです。今年はNYニックスの調子がよくてご機嫌。NYジャイアンツ、お前はダメだ。

 


〈そこでわたしは一夜にして"サスペンス"作家となったわけだが、わたし自身は『見知らぬ乗客』をカテゴライズするつもりはなく、単に面白い小説だと思っていた〉。別名義で書いた『プライス・オブ・ソルト』(のちに『キャロル』と改題)がのちに本人名義で出たときのあとがき(※1)に、パトリシア・ハイスミスはこう記している。彼女の第1長編『見知らぬ乗客』は、1950年の刊行後すぐにヒッチコックが映画化の権利を取得。翌年公開された映画は、たくみなカメラワークと先の読めないシナリオによって、緊張感が持続しつづける"サスペンス映画"の傑作とされている。ところが原作はまるで違う。筋も相当違うのだが、何より作品の焦点が「サスペンス」とはおよそ異なるところに当てられているのだ。
 新鋭の建築家である29歳のガイは、長距離列車のなかで富豪のどら息子である25歳のブルーノと出会う。馴れ馴れしく自分のコンパートメントにガイを連れ込んだブルーノは、ガイが離婚協議中の不貞の妻を憎んでいることを聞き出す。かねてより殺人にあこがれを抱き、小遣いほしさとマザコンのあまり父親を殺す算段を練っていたブルーノは、ガイにひとつの思いつきを提案する。「殺す相手を交換したらどうでしょう? ぼくはあなたの奥さんを殺し、あなたはぼくの親父を殺す。ほら、ぼくたちはこの列車で会っただけだから、知り合いだってことはだれにも知られてない! 完璧なアリバイだ!」
 ヒッチコックが気に入ったのは、のちに「交換殺人」という類型にまでなるこのアイデアだったのかもしれない。頼まれもしないのにブルーノがガイの妻を先回りして殺害し、もうひとつの約束の履行を迫るというところまでは映画・原作とも共通だ。しかし、映画では善をガイに、悪をブルーノに単純に割り当てているのに対して、原作ではガイの良心はそれほど楽をさせてもらえない。
「交換殺人」のキモは、殺人を犯す者どうしに接点や取引が見えないというところにある。なのにブルーノは終始、ストーカーさながらにガイにつきまとう。安全を考えればその行動は、とても合理的とは思えない。ところが、なぜかガイはそんなブルーノを究極のところ突き放すことができない。本来は理性的なタイプなのに、ブルーノの偏執的なまでの思い込みに巻き込まれるように選択ミスを重ね、悪の領域へ踏み込んでいってしまうガイの行動もまた、非合理なのである。
 本作に先立つこと5年前に発表され、ハイスミスの"実質的な文壇デビュー作"とされる「ヒロイン」という短編がある(※2)。家庭で愛に恵まれず、それがゆえに奉公先の女主人に気に入ってもらいたいと狂おしく願う21歳の保母ルシール。〈いざというときにあたしがどんなに役に立つか証明して〉みせたいと思った彼女は、その思いあまって「いざというとき」を自分で起こしてしまう。ブルーノは、この娘の写しとも言える。ブルーノがガイの妻を殺したのは、かわりに自分の父親を殺してほしいという打算よりも、そうすればガイに気に入ってもらえると思い込んだからだ。ガイがブルーノを拒絶しきれないどころか、だんだんとブルーノとのあいだに〈神聖で侵すことのできない〉秘密を共有しているとまで思うようになったのは、一見理解しがたい彼の行動の奥底に、その切実な欲求を認めたからにほかならない。
 本作を〈単に面白い小説だと思っていた〉ハイスミス自身は、どこにその面白さを感じていたのだろうか。おそらく、なぜ人は特定の状況下で非合理的な行動をとってしまうのかという点に向けられていたのではないか。「交換殺人」は、いわばその状況をつくるための道具となっているに過ぎない。緻密な心理描写によって、いつの間にか登場人物だけではなく読者をも、その非合理にからめとってしまうところに、複雑かつ大いなる魅力がある作品なのである。
※1 河出文庫『キャロル』(柿沼瑛子・訳)に収録
※2 ハヤカワ・ミステリ文庫『11の物語』に収録

 

 

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陳浩基『13・67』書評

13・67

書いた人:田仲真記子 2017年11月度ゲスト賞
2017年8月から書評講座生。いまいちばん楽しみなのは12月の閻連科の来日。

 未知の作家の作品が当たりだった時の高揚感は何物にも代えがたい。ここ数年、中国語圏にかかわる小説とはそんなうれしい出会いが多かった。閻連科の『愉楽』、東山彰良の『流』、呉明益の『歩道橋の魔術師』そして甘耀明の『鬼殺し』。いずれも作品の持つ熱量が圧倒的で、息苦しさや閉塞感、了見の狭さを感じることのない、風通しの良い作品ばかりだ。
 さて『13・67』である。『歩道橋の魔術師』で知った天野健太郎訳であることからほのかな期待を抱きつつ、6作の中篇が逆年代記の形式で時代をさかのぼるという構成や、なにより読みつけないミステリーを楽しめるか、という疑問も胸にページをめくる。そんな不安は杞憂に終わり、序盤から小説世界に取り込まれ、結末まで読み進めた時ふわっと体温が上がるような「お気に入りを見つけた」感覚に捕らえられた。中国、台湾に続き香港にもこんなにおもしろい小説があったとは!今年のトップ5に入る快作だ。
 幕開けの「黒と白のあいだの真実」の舞台は2013年、主人公のクワン警視は末期がんで昏睡状態。脳波計測器の助けを借りて「YES」、「NO」の意思表示しかできない、という人を食った設定だ。もう一人の主人公である弟子のロー警部が担当する香港の名門一族の総裁殺害事件は、70ページあまりの中で二転三転、目まぐるしい展開を見せる。正直、この調子で6篇読み続けるのはつらいかな、と感じるほど。
 続く「任侠のジレンマ」では2003年、クワンは定年後、特別捜査顧問として、香港マフィアの抗争がからむ人気アイドルの殺害事件を解決する。「クワンのいちばん長い日」と「テミスの天秤」は、凶悪犯兄弟の逮捕劇と後年の脱走事件が主題である。「テミスの天秤」ではふたりの逮捕をめぐる撃ち合いの末、一般人の被害者を出す。この時のクワンは「正義」と「大義」をめぐって身を切るような判断をすることになる。
 1977年、イギリス人少年の誘拐事件をテーマにした「借りた場所に」を経て、最終篇「借りた時間に」の舞台は1967年。ここで一転語り手は身寄りのない青年「私」になる。「私」はアチャと呼ばれる若手の警察官とともに、爆弾テロ事件解決に向けて奔走する。事件の終息後、アチャは「私」から「顔色を真っ青に」するようなきつい言葉を告げられる。後の時代を舞台にする6篇の中で、登場人物が常に思い出し、自分の戒めとすることになったであろう言葉だ。さらに最後の一段落を読むに至って、私はこれまで展開されてきた物語の意味を再考し、登場人物たちの人生や、人が大人になること、時間が人を変えることに思いをめぐらした。さらにわいてくるそれらの疑問を確認するために、第一篇に立ち返ることになった。
 冒頭で死の床にあったクワンは順を追って若返り、本題の謎解きのかたわら触れられる逸話を通じて、その人物像に肉付けがされていく。各篇のエピソードが後年のクワンにどんな影響を及ぼしたのか、思い返しながら読むことで、本作の味わいはいっそう深まる。後半見えてくるクワンの若さゆえの未熟さは、危なげである以上に彼の魅力をいや増す。警察内部の内通やいさかいにまみれながら「正義」を貫こうとする彼の成長譚をたどるのは、ミステリーやアクションを追う以上にひきつけられる読みどころである。
 帯に示された香港のこの50年の激動を見るにつけ、その混沌の中で、知力と精神力の限りを尽くし、たくましく、地に足をつけて生き切ったクワンの物語に心を奪われ、一気に駆け抜けるように読み終えた。

13・67

13・67

 

 

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ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』池央耿訳

星を継ぐもの (創元SF文庫)

書いた人:和田M 2017年10月書評王
最近読んで面白かったのはサルトルユダヤ人』。
ホーガンは『造物主の掟』もいいですよね。

 

 あらゆる分野の科学用語で埋め尽くされたハードSF、ジェイムズ・P・ホーガンの処女作『星を継ぐもの』を、まごうかたなき傑作“ミステリ”であると喝破したのは、ミステリ/映画評論家の故瀬戸川猛資氏だ。〈こういう種類の小説を、ぼくらは本格推理小説と呼んでいるのではあるまいか〉と、《ミステリマガジン》誌上の連載で絶賛した。
 たとえば、ひとつの事件について六人が独自の推理を披露する『毒入りチョコレート事件』(アントニイ・バークリー著)というミステリがある。すでに起こってしまった事件を調査し、推理をめぐらせて真相を明らかにする、という筋立ては本書とよく似ている。本書でも、究明すべき出来事はすべて手の触れられない遠い過去に属しており、語られるのはその痕跡の発見とそこから導かれる推論だけだからだ。進行中の現在においては積極的な事象がひとつとして起こらない、いわばきわめて静的な構造である。
 簡にして要を得た裏表紙のあらすじにはこうある。〈月面で発見された真紅の宇宙服をまとった死体。だが綿密な調査の結果、驚くべき事実が判明する。死体はどの月面基地の所属でもなければ、ましてやこの世界の住人でもなかった。彼は五万年前に死亡していたのだ!(後略)〉。〈彼〉はチャーリー、その種族はルナリアンと名付けられた。その時代に月へ行けるほどの文明を築いたルナリアンはいったいどこからやってきたのか。
 科学者たちがチャーリーの体や所持品の分析を進めるなかで開かれたある日の会議、ここが最初の読みどころだ。ルナリアンの起源について議論が百出、生物学者ダンチェッカーは「チャーリー=地球人」説を唱える。根拠はチャーリー自身。体の構造、体組織、すべて地球人とほぼ同じで、別々の進化の系列からこれほど似た種が生まれることは確率的に考えられないという。しかし、地球上でそんな文明の跡が見つかっていないのも事実。この点をいくら指摘されても、すでに体系化された理論に固執するダンチェッカーはまるで取り合わず、議論は停滞の気配を見せる。それを後ろのほうで見ていたのが、本作の主人公ヴィクター・ハントだった。調査に欠かせない分析機器の発明者として技術的な支援をしていたハントは、すでにいろいろな方面から情報を得ていた。そこで彼は、あるひとつの資料についての仮説を述べる。それ自体はささやかな発見だが、本題はここから。ハントはその小さな発見を各分野で個別に判明していた事実と付きあわせ、そこから数々の重大な成果が生まれる可能性を示唆してみせる。思ってもみなかった補助線に刺激を受け、会議は一気に白熱する――。発見と推論が互いの触媒となって高まりあうさまに科学の醍醐味を見てもいいし、理屈の応酬を高度な口げんかとしてただただ楽しんでもいい。本書が差し出すのはそのような快楽だ。活劇は必要ない。
 矛盾のとばりの奥深くに隠された過去はなかなか姿を現さないが、推理の光が、ついにその輪郭を明瞭に描き出す。ふいに現れるこのヴィジョン、立ち会ってそれを見たものは誰もいないこの情景の力強さと鮮やかさ。失われた情景をそれ以外の可能性はありえないという説得力をもって復元する、こういう語りのスタイルこそがミステリの十八番なのだ。
 ところで、物語最後のどんでん返しとなる驚愕の真相にたどりついたのは、それまで科学者集団の司令塔として活躍してきたハントではなく、ダンチェッカーだった。私はここに、著者ホーガンの懐の深さを感じる。科学の発展には、ダンチェッカーのような教条的で堅実な知性が欠かせない。その背後には「それなしで説明できるなら余計な要素を持ち込むな」という科学の鉄則があり、一方で、もしどうしても説明がつかないとなればそれまで有効だった理論でも疑わなければならない。その用意が彼にはあった。タイプの違うふたつの頭脳に見事なタッグを組ませたのは、科学に対する著者の敬意と信頼ではなかったか。 

星を継ぐもの (創元SF文庫)

星を継ぐもの (創元SF文庫)

 

 

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テジュ・コール『オープン・シティ』小磯洋光訳

 

オープン・シティ (新潮クレスト・ブックス)

書いた人:長瀬海(ながせ・かい)2017年9月書評王
ライター・書評家(これまでの仕事リスト → http://nagasekai.tumblr.com)。
ツイッターID: @LongSea 
メールアドレス:nagase0902アットマークgmail.com

 

 ナイジェリア系アメリカ移民作家テジュ・コールの『オープン・シティ』を読んでいて、ふと、思い出したのは近代日本の小説家・永井荷風だ。荷風は街を歩くのが好きだった。明治の東京に散見される江戸の残り香を嗅ぎながら、ひたすら歩き続けるのを趣味とした。

〈市街の美観は散々に破壊されてゐた東京中で、河を渡つて行く彼の場末の一角ばかりは、到る処の、淋しい悲しい裏町の眺望の中に、衰残と零落の、云尽くし得ぬ純粋、一致、調和の美が味はれた。〉

 これは荷風の短編「深川の唄」の一節だ。荷風は、歩くことで、じぶんの想念に入り込む。〈寂しい悲しい裏町の眺望の中〉に没入することで、いわば、想念の散歩に耽るのだ。

『オープン・シティ』の語り手〈私〉もまた、ニューヨークの市街を歩き回りながら、それがやがて想念の散歩へと移ろいで行く。〈黄昏の散歩は私の欲求を満たしてくれた。決め事が多く精神を締めつける職場から解き放ってくれた。(中略)嬉しいことに街は仕事と正反対だった。何かを決めるということ(中略)はさほど重要ではなく、自由の感覚を思い出させてくれたのだ。〉精神科で働く語り手は五感を研ぎ澄ませながら、ニューヨークじゅうのブロックを歩く。目にした光景が一つの思念を生み、それがまた新しい想念につながる。読者は〈私〉のそんな〈自由な感覚〉に翻弄されながらも、それも悪くないな、と思いつつページを繰る。例えば、地下鉄の駅のホームへと人々が駆け下りていくのを目にする場面。そこで〈私〉は次のように想う。

〈全人類が本能に逆行して死へと突き動かされ、移動式の地下墓地に突進している気がした。地上で私は、それぞれの孤独のうちに暮らす数えきれない他者と生きている。一方、地下鉄の車内では見知らぬ人間と密着しながら居場所と息をする空間を求め、人を押しやり、人に押しやられている。そこでは誰もが、気付いていないトラウマを再現し、孤独を深めているのだ。〉

 地下鉄に吸い込まれる人の群れが死と連関して想起される。〈移動式の地下墓地〉はそこに埋没されるサラリーマン、学生、ホームレスといった〈孤独のうちに暮らす数えきれない〉人々の〈孤独を深めている〉要塞なのだ。

 〈孤独〉というのは、本書のなかの最頻出ワードの一つだ。それは、〈私〉じしんが、深い〈孤独〉を抱え込んだ人間の一人であることに起因しているのだろう。ナイジェリアから移住してきた語り手は、父を失い、母と別れ、無意識の裡に祖母を探している。想念の散歩は、自己の歴史を掘り下げ、それは世界史的な虐殺の史実、戦争の記憶へとつながっていく。こうした暴力的な過去が、現在に呼び起こされると、〈私〉の孤立した生はより一層深まって読者の前に現れる。

 しかし、〈私〉が独りぼっちかというと決してそういうわけではない。大学時代の恩師、かつて恋人だった女性、広いニューヨークで偶然再会した旧友の姉。〈私〉の想念の散歩は、彼女・彼らの思い出と絡まりあい、物語を複層的に奏でていく。ナイジェリアからの移民として、マイノリティの立場に立つ語り手が紡ぐストーリーは、そうやって融和する過去と現実の中で、加害者の世界と被害者の世界が次々と表象されていくのだ。特に、20章で、とある人物が閉ざされた思い出の蓋を開ける時、読者は驚かずにはいられないのである。

 日本の近代における戯作小説家であり遊歩者でもあった永井荷風も、思えばまた、孤独の夢想者だった。それゆえに荷風は、例えば代表作『あめりか物語』の中で、渡米先のニューヨークを歩き回り、想念の散歩を繰り広げたのだった。テジュ・コールの物語には、似たような趣きがある。かつて悲劇的な経験をした街——本書ではそれはグラウンドゼロの跡ととして現れる——で深呼吸した瞬間に感じる、空気の重さが、そのまま物語の重さになること。それは孤独で自由な夢想者のなせる技なのだ。

オープン・シティ (新潮クレスト・ブックス)

オープン・シティ (新潮クレスト・ブックス)

 

 

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川崎徹『あなたが子供だった頃、わたしはもう大人だった』

あなたが子供だった頃、わたしはもう大人だった

書いた人:豊崎由美(とよざきゆみ)2017年8月書評王
1961年生まれのライター・書評家。最新刊は大森望との共著『村上春樹騎士団長殺し」メッタ斬り!』(河出書房新社)。

 

 

〈自分が十歳小学四年生で、嬉々として橋から列車目がけて石を投じる子供じみた悪遊びに取りつかれていた頃、この人はすでに二十二歳で会社勤めをし、好き合った者が社内にいて、週の半分は相手の部屋に泊まる半同棲を、大人の生活をしていたのだと考えることはあった〉

 川崎徹の最新長篇『あなたが子供だった頃、わたしはもう大人だった』は、平山とユキコさんという老夫婦の物語だ。十二歳年上なのは平山ではなく、ユキコさんのほう。〈急行で四十五分、さらにそこから地下鉄乗り継いで会社に行くような〉東京郊外の街に出来た建売の家を買って長年住んでいるものの、駅から家に続く急勾配の坂道が、老いた足腰には堪えるようになっている。
 二人はよくお喋りをする。日々の他愛ない話や、過去の出来事について、観た映画について、王選手と長嶋選手について、お互いの老いについて、話ははずむ。でも、二人の記憶は時に行き違う。家の近くまでバスが通るはずだという不動産屋の話を信じて実印を押したのはどちらだったかとか、かつて交わした会話で互いがどんな言葉を発したかとか、自分で仕入れたつもりだった豆知識が実は相手に教えられたものだったとか。しかし、これは老いた証拠というわけでもない。記憶とは若い時分からそうしたもので、覚え違いに気づいて小さく笑いあったり、憮然としたりすることが、誰かと共に生きる歓びなのだということを、平山とユキコさんの、生真面目さとユーモアが同居する会話が教えてくれるのだ。
 平山の父が半年分の小遣いをはたいて買ったのに、強風にあおられて飛ばしてしまった深緑色のボルサリーノを、車輪に巻き込んだまま走り抜けた列車。列車めがけて漬け物石を投じた八百屋の姉妹。列車に体当たりして死んだ町の名士。網棚に置き去られた赤ん坊。高校の山岳部の再興を託された新米教師の木川田。体を鍛えるべく鉄下駄で校庭を走る木川田を撮った八ミリのショートフィルム作品で、コンクールの銀賞を勝ち取った平山ら写真部の部員。後年、日本で十本の指に入る登山家としてヒマラヤで死んだ木川田。結婚の報告にきた平山を内股ですとんと投げ飛ばした、ユキコさんの柔道五段の父。電車の中で、流れる景色を見ながら涙を流した見知らぬ男。
 時折家にやってくるたぬきと、お菓子をつまみながらソファで並んでテレビを見るような人、ユキコさんとの静かな生活と会話が呼び水となって、平山の過去を形作った人々や記憶の像がゆっくりと焦点を結んで、現在進行形の物語の中に混ざっていく。その融通無碍な語り口こそが、川崎徹作品の真骨頂だ。 〈何ごとにせよ気づくのは常に後になってからだ。いまさら遅い、手の打ちようのない頃ようやく事の芯が見えてくる。それは四十年五十年経てすっかり出来事を忘れた頃、長い無沙汰の詫びもなく不意に戻って取り逃がした意味を気づかせる。姿を露わにした事の芯は時の経過にも拘わらず古びてはおらず、半日前のことのようにみずみずしい〉
 併録されている、今から十二年前に出たものの、長らく読めないままだった中篇『彼女は長い間猫に話しかけた』も一緒に読めば、川崎徹にとって記憶のメカニズムがいかに重要なモチーフかがよくわかるはずだ。とことん静かなのに、心の深いところまで響く声が心地好い、この素晴らしい二篇に接して、川崎徹がCMディレクターだったことを思い出す人はいないはず。ここにいるのは、一人の優れた小説家だからだ。

 

あなたが子供だった頃、わたしはもう大人だった

あなたが子供だった頃、わたしはもう大人だった

 

 

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宮内悠介『あとは野となれ大和撫子』(KADOKAWA)

あとは野となれ大和撫子

書いた人:和田M 2017年7月書評王
最近読んで面白かったのはデイヴィッド・ロッジ『恋愛療法』。


 宮内悠介が飛ばしている。第1回創元SF短編賞を機縁に2011年にデビューした宮内は、応募と落選を繰り返したそれまでの十年間の鬱憤を晴らすかのように、現代性と問題提起を含んだ野心作を矢継ぎ早に発表している。デビュー当初こそ、ジャンル性の強い東京創元社早川書房の媒体を活躍の舞台にしていたが、その実力はすぐに知れ渡り、近年は新潮社、文藝春秋など大手から引っ張りだこだ。最新作となる本作も『文芸カドカワ』での連載をまとめたもの。
〈この国の名は、アラルスタン。――かつて、アラル海と呼ばれた場所だ。〉
 アラル海中央アジアにある湖で、その面積は世界第四位。ところが旧ソ連の灌漑事業により河川からの流入量が激減し、大部分が干上がってしまった。その塩の大地に、周辺のマイノリティや難民が集まってきてできた新興国がアラルスタン、そういう設定だ。アラルスタンは架空の国だが、アラル海が灌漑で五分の一ほどに縮小したのは事実。後者のほうをフィクションらしく感じてしまうのは評者の無知が理由だが、そんな嘘みたいなほんとの話を取り込んで架空国家の領土にしてしまうのが彼らしい。日本製の少女型ロボットが落下するという奇天烈なモチーフでつながった連作短編集『ヨハネスブルグの天使たち』でも、象徴性を帯びた実在の建造物を墜落の舞台に選んでいた。宮内は、現実に存在するある種のひずみから虚構の糸を紡ぎ出す。
 物語は、ODAの仕事で日本からアラルスタンにやってきた父親とその家族の朝食のシーンから始まる。ささやかな団欒をウズベキスタン軍の空爆が襲う。かろうじて瓦礫から助け出されたのは五歳の娘ナツキだけだった。立ち尽くすナツキの頭上を軍用ヘリや無人機が飛び交う。〈そのどれが敵か味方かもわからない。あるいは、どちらの陣営も、ナツキにとっては敵であるのかもしれなかった〉。政争か信仰か利潤か、空爆をもたらしたのがなんであったとしても、それが少女の両親を殺した。背後の力学ごと、少女はそれを憎むだろう。しかしなんの因果か15年後、彼女は政権の中枢に座って国家運営に携わることになる。ナツキとともに国を担う女性たちもみな同様の悲惨な過去を持っている。その彼女たちが、避けがたく誰かを傷つける立場に身を置く、という枠組みがこの作品の肝だろう。
 劣悪な環境ゆえそれを変えられる技術者が中心となった〈最初の七人〉の国造り、ハレムから少女たちの高等教育機関へと姿を変えた〈後宮〉、メキシコのサパティスタを連想させる、話の通じる過激派〈アラルスタン・イスラム運動〉などの魅力的な道具立てと、中央アジアの複雑な地政学ソ連時代の負の遺産といった、事実に基づく背景が絡み合う。
 こう書くとどうも堅く響くが、実際の語り口はきわめて軽い。いつものクールな文体とも『スペース金融道』で披露したコメディタッチとも違う。ナツキたちの会話はお笑いの掛け合いのようだし、ハリウッド映画さながらの派手な見せ場もある。これらと事態のシリアスさとのきわどいバランスが賛否を呼びそうだが、そう考えると、各章のあとに置かれる日本人旅行者のブログ「ママチャリで世界一周」の役割は小さくない。本編にも顔を出すバックパッカーの書くこのブログの、いかにもありそうなノリが、緩衝材として効いている。
 アラル海の縮小は「20世紀最大の環境破壊」とも呼ばれる。その形容が偽善、よくいっても一面的な見方に過ぎないことをナツキは学ぶ。それはリベラルなお題目を糾弾する真のリベラリストの視線に近い。四肢欠損というハンデと引き換えに碁の才能を開花させる少女を創出したデビュー作「盤上の夜」以来、中途半端を排して人間の可能性と限界を問う作者の姿勢は一貫している。直木賞芥川賞をはじめ、エンタメ、純文学両方の賞にノミネートされる宮内は、本作でさらに幅広い読者を獲得しそうだが、ものごとを深く突き詰めて物語に昇華させるセンスで、今後もその出自を示し続けてほしい。

あとは野となれ大和撫子

あとは野となれ大和撫子

 

 

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