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書評王の島

トヨザキ社長こと豊﨑由美さんが池袋コミュニティカレッジで開講している「書評の愉悦ブックレビュー」。そこで書評王に選ばれた書評を紹介するブログです。

フリオ・リャマサーレス『黄色い雨』木村榮一訳

黄色い雨 (河出文庫)

書いた人:小平智史  2017年4月 ゲスト栗原裕一郎
1985年生まれ。仕事では英会話の本を作ったりしています。

 

 二〇〇五年に刊行されたスペインの作家フリオ・リャマサーレスの『黄色い雨』が、短編二編を新たに加えた形で復刊された。表題作の舞台は、過疎化が進み住人が次々と出て行った僻村、アイニェーリェ村。語り手の男は、崩壊していく村に妻サビーナと、飼っている雌犬と共にとり残される。さらに冬のある朝、粉挽き小屋で〈目をかっと見開き、首が折れ曲がったような格好で機械の間に袋のようにぶら下がって、ゆらゆら揺れて〉いる、妻の変わり果てた姿を発見する。妻の自殺により、男はついに村に残された最後の人間になったのだ。
 手入れをする者のない畑や家々が荒れ果てていくことは避けようがないが、男は村を離れようとはしない。誰もいない村での生活を淡々と語るが、その語りは孤独な身の上を呪うものではなく、村の崩壊と自分の死をただ待ち受ける口調である。〈私はすべてに疲れきっていた〉と男は語る。〈もはや何かをしなければならないとか、何かをしたいという気持ちになれな〉いのだと。
 意外なことに、孤独な主人公を待つのは静寂に閉ざされた世界ではない。戦争に行ったきり戻らなかった息子の亡霊が家の中をうろつき、母の亡霊が、時には家族を引き連れて毎晩のように姿を現して台所の椅子に座っている。夜、〈錆びついた物が立てる音、黴が壁の中に入り込んで内側から腐らせていく音〉に耳を傾ける男は、ただの静寂ではなく、にぎやかな沈黙とでも呼べるものの中に身を置いているのだ。
 この小説は忘却と追憶についての物語でもある。〈霧と荒廃の中に消え去った記憶を守ろうとするのは、結局は新たな裏切り行為でしかないのだ〉と語る男には、忘却に抗おうという気すらない。にもかかわらず過去の出来事はしぶとく脳裏に浮かび続ける。〈ある物音を聞いたり、何かの匂いを嗅いだり、思ってもみないものが突然手に触れたりすると、時間が一気に溢れ出して、情け容赦なくわれわれに襲いかかり、稲妻のような激しい閃光で忘れたはずの記憶を照らし出す〉。
 そうした記憶をフィルターのように覆うのが、タイトルにもある〈黄色い雨〉だ。ある時、粉挽き小屋にいた男は〈突然黄色い雨が降り注いで、粉挽き小屋の窓と屋根を覆い尽く〉すのを見る。それはポプラの枯葉だった。黄色い雨は〈街道を消し去り、堰を埋め尽くし〉、忘却の象徴のように〈がらんとした部屋のようになった私の心の中にまで入りこんで〉くる。この作品は、忘却というものを何かが見えなくなることではなく、別の「色」に変わってしまうこととして描くのだ。
 目まぐるしい展開はほとんどないこの作品だが、〈黄色い雨〉に代表されるイメージの数々は印象的だ。例えばサビーナが死んだ途端、狂ったように花をつけるリンゴの木。村の光景が黄色く染まって見え、〈木々、水、雲、ハリエニシダ、そしてついには大地までが黒い色からだんだんサビーナの腐敗したリンゴの色に変わって〉いく際の幻覚めいた毒々しさ。独特の質感を備えた濃密なイメージが次々と展開される。
 この小説の語りは、過去を順序だった物語でなくイメージの断片のように提示する。主人公はなぜ自分や村がこうなってしまったのかについて論理的な説明をしようとはせず、ただ「見る」ことだけを続けようとし、その態度には生死を超越した感すらある。〈死が私の記憶と目を奪い取っても、何一つ変わりはしないだろう。そうなっても私の記憶と目は夜と肉体を越えて、過去を思い出し、ものを見つづけるだろう〉。その達観は、村を捨てて去った息子を思うときだけ心もち揺らぐようにも思えるのだが、その揺らぎがこの男の語りに生々しいリアリティーを与えている。本作は、死と崩壊の運命に向かって静かに歩む男の目を通して、妖しくも豊穣な世界の像を読者に提示するのである。

黄色い雨 (河出文庫)

黄色い雨 (河出文庫)

 

 

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『こびとが打ち上げた小さなボール』チョ・セヒ(斎藤真理子訳)

こびとが打ち上げた小さなボール

書いた人:豊崎由美(とよざきゆみ)2017年4月書評王

1961年生まれのライター・書評家。最新刊は大森望との共著『「騎士団長殺し」メッタ斬り!』(河出書房新社)。

 

 

 日本の翻訳界で手薄なのがアジア文学。多くの日本人は名誉白人をきどっているというか、近隣諸国をひとつ下に見たがるところがあり、その欧米敬拝根性ゆえに中国や韓国、東南アジアの小説に食指を動かさない傾向があるからではないかと、わたしは疑っている。ところが、ここ数年、新潮社の「クレスト・ブックス」シリーズ、白水社の「エクス・リブリス」シリーズを中心に、日本の読書界にとってはマージナルな存在だったアジア文学の良書が次々と翻訳されるようになって嬉しい限り。おかげで、チョ・セヒが1978年に発表した連作短篇集(のスタイルを取った長篇小説ともいえる)『こびとが打ち上げた小さなボール』も、思いがけず日本語で読めるようになったのである。「思いがけず」というのも、この小説、言葉の自主規制はなはだしい日本では翻訳困難な単語がバンバン放たれる過激な内容になっているからだ。  なんせ冒頭の1篇が、〈せむし〉と〈いざり〉が自分たちの家を取り壊しておいて、相場より低い額の保証金しか払わなかった業者の男を襲う話。で、最後に置かれた1篇も、同じコンビが、自分たちを置き去りにした見世物で人寄せする移動薬売りを、殺意をもって追いかける話。この、グロテスクな詩情を湛え、かつシニカルな笑いを呼ぶ寓話のような2つの物語と、間に挟まれたリアリズム寄りの10篇の舞台になっているのは、朴正煕による軍事独裁政権下、知識人が次々と連行され、資本家によって労働者が搾取される一方だった1970年代の韓国なのである。  スムーズに水も出てこない家に住み、世の中の不公平さに苛立ちを覚えている中産階級の専業主婦シネが、〈こびと〉に水道を修理してもらい、自分もまた彼の仲間なのだということに思い当たる「やいば」。学生運動に身を投じ、精神を失調させたシネの弟の物語「陸橋の上で」。特権階級の父親に敷かれたレールに反発を覚える受験生が、自分でものを考え、曇りのない目で社会を見ることを学んでいく「軌道回転」と「機械都市」。巨大企業グループ一族に属する青年の目を通し、持てる者の残酷さを活写する「トゲウオが僕の網にやってくる」。  当時、北朝鮮よりも貧しかった韓国の経済成長を第一義にかかげた朴正煕政権による急激な都市開発によって、生を蹂躙されていくスラムの住人たちをはじめ、さまざまな立場にある人物を登場させることで、民衆苦難の時代を立体化させるこの小説の中心にいるのが、スラムの住人代表といえる〈こびと〉一家だ。長男ヨンス、次男ヨンホ、長女ヨンヒそれぞれの視点から、家族のために懸命に働いてきた愛情豊かで辛抱強い〈こびと〉の、報われなかった一生を描く表題作。資本家から人間として扱われない理不尽な状況下、勉強会を開き、組合を結成したヨンスが、静かに怒りを内に育てていく過程を描いた「ウンガン労働者家族の生計費」と「過ちは神にもある」。  描かれていることのほとんどは、読んでいてギョッとするほど苛烈で過激で過酷。でも、イメージ喚起力の高い、時に詩的とすらいってもいい文章が、この小説を貫く悲しみに繊細な表情と普遍性を与え、日本人のわたしからも深いレベルにおける共感を引き出す。つまり、韓国文学を超えて世界文学になっている作品なのだ。  作中で重要なエピソードとして語られる「こびとが打ち上げた小さなボール」にまつわる出来事。「小さなボール」とは一体何を意味するのか。わたしは、〈こびと〉がわが子や祖国に託す未来ではないかと受け取る者だが、解釈は読者一人ひとりに任されている。この小説が本国でベストセラーになり、ロングセラーとして読まれ続けているのは、今もなお「小さなボール」に心を寄り添わせる人たちがいるということの証左だ。そんな韓国の読書界を、わたしはリスペクトする。 

 

こびとが打ち上げた小さなボール

こびとが打ち上げた小さなボール

 

 

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『模範郷』リービ英雄

模範郷

書いた人:藤井勉 2017年3月書評王

会社員、共著に『村上春樹を音楽で読み解く』(日本文芸社)。
「エキレビ!」でレビューを書いております。
http://www.excite.co.jp/News/review/author/kawaibuchou/

 

 

 リービ英雄8年ぶりの作品集となる本書は、4つの短篇を収めている。全篇を通じて主人公となるのは、リービ英雄という名の作家の〈ぼく〉だ。冒頭を飾る表題作「模範郷」で〈ぼく〉は、現地の日本語教師に招かれて台湾を訪れる。目的は子供の頃に住んでいた家の跡を見つけること。〈実感のない故郷には帰りたくない〉と長らく帰郷をためらっていた〈ぼく〉だが、地方都市・台中の郊外にある故郷・模範郷へと52年ぶりに向かう。

 本書を私小説として括るのは簡単だが、実は様々な側面がある。たとえば「模範郷」は、優れた紀行文でもある。植民地時代に日本人が建設した模範郷は、日本家屋の建ち並ぶ町だった。ところがマンションやコンビニが建てられた今、当時の面影はない。それでも作者は町の区画から想像力を駆使して、かつて見た風景を再現する。狭い路地の側溝を見つけて、突然こみあげる〈ここだった〉という感覚。〈I give to you〉という歌詞と共に脳裏に浮かぶ、大きな平屋の自宅に流れる音楽と母の姿。後に現実となる、家族との別離の予感。蘇ってくる記憶に感情を乱して、顔を涙で濡らす〈ぼく〉。読者が知るのは、模範郷の記憶だけではない。自分の見た景色がもはや戻ってこないという喪失感をも、追体験していくのだ。

 さらに本書は、小説を書けなくなった作家の物語として読むこともできる。〈ぼく〉は自身が評論対象である本を手に取り、〈帯には「移動と越境の作家」といういつものぼくのキーワードが書かれている〉と、主題としてきた言葉に飽きていることを隠さない。〈小説は、すでに書きつくした〉と、創作意欲を失ってしまったことも隠さない。根底には2011年の春に芽生えた、作家としての無力感と倦怠があった。「模範郷」で台湾を訪問した頃の〈ぼく〉は、多くの死を乗り越えて再び小説を書く動機を探していた。

 第2篇「宣教師学校五十年史」では、通っていた台湾の宣教師学校を訪ねる〈ぼく〉。場所を移転し真新しい校舎となった学校に、感慨はない。それよりも、購入した宣教師学校の五十年史『通常でない絆』を読んで心を動かされる。中国で生まれ、内戦で台湾に逃れてきた白人の卒業生たちが拙い英語で書いた回想文。そこに〈ぼく〉は故郷中国への愛着を読み取り、彼らの見た大陸の風景に思いを馳せる。第3篇「ゴーイング・ネイティブ」では、1938年に『大地』でノーベル賞を受賞したアメリカ人作家パール・バックの評伝を読む。中国で生まれ育った彼女が中国人の視点から、英語で小説を書いた先見性に〈ぼく〉は驚きを覚える。だけど彼らに対して、ある疑問が頭から離れない。〈なぜ、中国語で書かなかったのか〉と。その答えを考察する中で、外国語で小説を書く意義を再発見していく。そんな書く動機を模索する過程で主人公の語る言葉は、そのまま作者の創作論として読むこともできる。

 こうした多様な形式から連想されるのが、台湾文学の歴史だ。清朝・日本・中国国民党と統治者が変わるごとに、漢語・台湾語・日本語・中国語と使用する言語は変わり、郷土文学・反共文学・モダニズム文学・原住民文学などさまざまなジャンルの作品が書かれてきた。エッセイ集『日本語を書く部屋』(2001年刊)の中で、〈ぼくは家族崩壊というアメリカ文学のテーマと、歴史という中国文学のテーマを、近代日本文学の主流を成してきた私小説の文体の中で織りなそうとした〉と書いたリービ英雄。彼が台湾文学の多様性という新たなテーマを手に入れるきっかけが、第4篇「未舗装のまま」の結末には描かれている。本書は作者に縁の深かった国とこれまで取り上げてきたテーマがすべて味わえる上に、台湾という新境地を切り拓いた作品として記憶されるに違いない重要な一冊だ。

模範郷

模範郷

 

 

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『天使の恥部』マヌエル・プイグ(安藤哲行訳)

天使の恥部 (白水Uブックス)

書いた人:白石 秀太(しらいし しゅうた)2017年2月ゲスト倉本さおり賞
同志社大学文学部美学芸術学科卒。会社員

 

 

 サスペンス映画の傑作とされる『裏窓』は、ヒッチコック監督ならではの技巧も光る。足を骨折中の主人公が、暇つぶしに窓から向かいのアパートの住人を観察するシーン。
 引っ越してきたばかりの新婚夫婦。それを見て主人公の頬がゆるむ。
 下着姿でエクササイズをする女性。それを見て主人公の頬がゆるむ。
 見比べても同じような笑顔なのに、カットのつなぎ方だけで観客は「和んでいるなぁ」、「スケベだなぁ」とつい想像してしまう。一つの表情も観衆の心を掛け算するように編集すれば、とたんに表現は豊かになるのだ。
 マヌエル・プイグははじめ、映画監督を目指していた。ルネ・クレマン監督らのもとで映画製作を学んだのち文学に転向したが、土台にはやはり映画芸術があった。とくに三作目の『ブエノスアイレス事件』。全章の冒頭で映画のワンシーンを引用して、告白、通報の電話、警察の調書、速記メモまで多様な文章を、まるで映像編集のようにつないで記される犯罪小説でありながら、しかし浮上するのは事件の真相ではなく、一組の男女の虚しい愛と性の遍歴という別の表情なのだ。『裏窓』の笑顔のように、パラグラフごとの意味が多重化された小説だ。
 断片と断片が再構築されて生みだされる光景が、筋書きをさらりと飛び越える。その跳躍をプイグが彼方まで引き延ばしたのが『天使の恥部』だ。まずは話の軸からして、三つの異なる時空間を行きつ戻りつ進んでいく。だから主人公も三人だ。
 一人目は1936年のウィーン。郊外の屋敷に閉じ込められた大女優。二人目は1975年のメキシコ。病院で療養中のアナ。三人目は地軸変動で氷河期を迎えた未来の中央都市。性的医療事業に就くW218。彼女ら三人の運命が、会話、日記、三人称の語りの混合によって描かれる。
 大女優は、メスで胸を切り開かれるという悪夢に悩まされていた。すると夫から、亡くなった彼女の父親は人間の思考を読み取る実験をしていたと知らされて驚く。いっぽうアナは、不和になった夫と離婚し、娘も母親に預けてメキシコにいる。胸中を日記に綴りながら、一人称を〈わたしたち〉と書いていることに気づく。〈もしかすると、わたしは独りじゃない?〉。見舞いに来た友人からは、銀幕から消えたかの女優にそっくりだと指摘される。そしてW218は、何度も氷河期前の世界を夢で見る。そこにはなぜかいつも、ウィーンのあの大女優の姿があった。過去と未来、現実と夢をこえて、三人がシンクロしはじめる。
 別々の人生から重なるように聞こえてくるのは、生きることの息苦しさだ。男尊女卑の社会、コミュニケーションの断絶、恋人や家族との愛に対する不信感。悩み続けるアナが男性社会への怒りを日記にぶつけたとき、女優が悪夢にまで見たあの力が、時をこえてW218に現れる。三人が同じように切望した〈白馬の王子〉とついに出会えたW218は、男の心を読んだことである行動をおこす。並走していた彼女たちの運命が一つになって、自分の居場所を見つけるために。
 女優とアナ、W218は同一人物なのだろうか?なぜ夢や時間が錯綜するのか?明確な答えは用意されていないし、必要もない。この混濁もまた一つの現実なのだといわんばかりに、プイグは世界を再編集したのだ。
 複数の〈わたし〉、過去と未来、夢と現実。さらには三つの人生の中で、政治、陰謀、セックス、コンピュータ依存という要素も差し込まれる。映画のカットとはまた違った想像をかきたててくれる、断片の数々。そのピースが像を結ぶのはあなたの心の中だけで、他の読者にはない、あなただけの光景がきっと広がる。

 

 

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『ブラインド・マッサージ』畢飛宇(飯塚容 訳)

ブラインド・マッサージ (エクス・リブリス)

書いた人:倉本さおり  2017年2月書評王

ライター、書評家。『週刊現代』『週刊SPA!』『TV Bros.』などの週刊誌や新聞各紙、『すばる』『新潮』『文藝』『文學界』などの文芸誌に寄稿。「週刊読書人文芸時評担当(2015年)、『週刊金曜日』書評委員、『小説トリッパークロスレビュー担当のほか、『週刊新潮』誌上にて「ベストセラー街道をゆく!」連載中。共著に『世界の8大文学賞 受賞作から読み解く現代小説の今』(立東舎)。

 

 

 生まれつき目が見えない者がいれば、徐々に視力を失った者もいる。逆境にもめげず結婚願望に身を焦がす勇敢な女たちがいれば、美人と聞いただけで新人スタッフにガチ恋してしまうプライドの高い経営者、はては初恋をこじらせて風俗にどハマりする寡黙なイケメンだっている。

 盲人たちの青春、といえばすわりがいいかもしれないが、この群像劇が描く軌跡はどこまでもいびつで不揃いだ。善意と欺瞞は紙一重だし、友情は損得勘定に左右され、愛が報われる機会はけっこう少ない。にもかかわらず、そこで提示される図は、ある種の完全さを備えて現れるのだ――それは、私たちが「世界」を眺める時に、いつだってこぼれ落ちてしまうものと関係がある。

 舞台は南京、手に職をつけた盲人たちの集うマッサージセンター。タイプの異なる二人の店長の下、経営はおおむね安定している。ところがスタッフ同士のしょっぱい確執をきっかけに、絶妙なバランスを保っていたはずの日常が冗談のように崩れていく。

 並べられた文字を追うごとに読み手を激しく揺さぶるのは、身体感覚の驚くべき豊かさと濃やかさ、なによりも鮮やかさだろう。たとえば彼らの駆使する整体術。ひとたび尻のツボを押さえれば、たちまち骨格からバラバラにほどけ、しなやかな筋肉がすみずみまで喜びの声をあげる。そして視覚以外の五感を総動員させて味わう、恋人たちの甘やかな気配。彼らの恋愛は慎み深く、粘り強い。自由がきかないからこそ、手をつなぎ合って、ひたすら一緒に待つのだ。そうやって互いに相手を守りながら、相手を抱き続け、キスをし続ける――はたしてこれ以上に必要なことが「恋愛」にあるだろうか?

 だが、この作者は、盲人の世界をいたずらに美化するような、つまらない愚行など犯さない。どんなに感性が鋭くても、彼らには「見えない」以上、健常者から――すなわち社会から一方的に「見られる」ことで保障される存在なのだ。彼らの人生は一種の博打の様相をなす。成功すればどうにか搾取されずに済むし、失敗すれば愛や仕事や信頼を簡単に失う。彼ら自身の意志の力が反映される余地はごくわずかしかない。

〈盲人の人生は、インターネットの中の人生に似ている。健常者が必要なときにクリックすると、盲人が現れる〉――作中、店長のひとりは心の内でこう自嘲する。だが病院のラストシーンにおいて、その言葉の真意は逆説的な形で再現されるのだ。瞬間、盲人と健常者は立場をくるりと入れ替え、私たちは「見られる」存在――つまり「世界」の中へと改めて取り込まれる。私たちが取りこぼしてきたものをまるごと回収して突きつける、なんと見事な幕切れか。

 本書の盲人たちは、私たちにとって「異端者」であると感じさせない。それはなにも、彼らが欲深で生臭く、正直で愚かしい姿をさらしていることのみに起因するのではない。まさしく彼らの視線が、「私たち」を内側から捉え直す機能を果たしているからなのだ。

 

ブラインド・マッサージ (エクス・リブリス)

ブラインド・マッサージ (エクス・リブリス)

 

 

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『すべての見えない光』アンソニー・ドーア(藤井 光 訳)

すべての見えない光 (新潮クレスト・ブックス)

書いた人:森田純 2017年1月書評王
1972年生まれ。海が近い山奥で暮らしています。ビール&おつまみ大好き、居酒屋大好き。

 

 〈縦に細長く、中心には渦巻き状の貝を立てたような螺旋階段がある〉高くほっそりとした、幅の狭い6階建ての家。少女が愛した貝のようである。その建物があるフランス北西部の、海に面した〈壁のなかの街〉サン・マロ。城塞に囲まれ、石造りの建物が並ぶ迷路の街並は、少年が愛したラジオの回路のようである。物語はここから“発信”される。

 少女マリーはサン・マロから400キロ離れたパリのアパルトマンで父親と二人暮らし。背が高く金褐色の髪でそばかす顔。先天性の白内障で6歳で完全に視力を失う。父親は国立自然史博物館の錠前主任として働き、居住エリアを縮小した模型を作り、盲目の娘に〈何度もその模型に指を走らせ、あちこちの家や通りの角度を判別〉させていた。同じ頃、少年ヴェルナーは8歳で、パリから北東に500キロ離れたドイツの炭坑製鉄地帯で、妹と孤児院にいた。アルザス出身で修道女の先生が母親代わり。フランス語の子守唄を聴いて育つ。もじゃもじゃで雪のような白い髪と空色の目を持ち、年齢の割に小柄なヴェルナー。15歳になると、父親が命を落とした炭坑で働かなくてはならなかった。

 マリーは父親の職場で時々、軟体動物専門家の研究室に預けられ、そこで〈一生を海面で過ごす、目の見えない巻貝〉など様々な貝殻に出会う。マリーの手は貝たちの〈空洞になった突起、硬い渦巻き、深い開口部〉に触れ、〈なにかに本当の意味で触れることは、それを愛することだ〉と学んでいく。一方、ヴェルナーはごみの山から壊れたラジオを拾い修理し、イヤホンから聞こえる言葉や音楽に触れる。〈跳ねまわる電子の経路、混みあう都市を抜ける道のような信号の連鎖〉を思い描きながらラジオを修理。ラジオから聞こえる音の中で、彼のお気に入りで人生を方向づけたのは、若い男性がフランス語で話す光についての番組だった。

 〈数学的に言えば、光はすべて目に見えないのだよ〉。

 第二次世界大戦。戦争がふたりの人生をサン・マロまで運ぶ。12歳のマリーは爆撃を受けたパリから逃れて、父親とともに大叔父エティエンヌがいるサン・マロに辿りつく。エティエンヌは第一次世界大戦で心を病み、6階建ての家にひきこもり、〈この、奇妙で、狭い家のなかに、何十年も隠れている〉。マリーの父親がサン・マロの模型も作り、この細長い家自体も模型の一部になる。4年の歳月が流れ、マリーは模型の家を訳あってサン・マロの街から外している。ヴェルナーは14歳で難関の国家政治教育学校に合格したため炭坑で働かずに済み、その後16歳でドイツ国防軍に入隊。技師として不法電波を見つけ出す任務に就き、2年後サン・マロに辿り着く。そして海沿いにある細長い家を見上げることになる。

 本作は2015年度のピュリツァー賞を受賞。すでに短編作家として著名だった作者が10年の歳月をかけて完成させた長編である。丁寧に描かれる多くの登場人物はもとより、幾つかの“物”もふたりをつなげる重要な役割を担う。〈炎の海〉という伝説のダイアモンド、桃の缶、小洞窟の門の鍵、衣裳ダンスの奥の引き戸、家の形をした木製の立体パズル。それらが物語に奥行きを与えていく。

 サン・マロにおける1944年8月を中心に、マリーとヴェルナーの人生がほぼ交互に語られ、パリとドイツを行き来し、過去から1944年に何度もつながっていく。物語を読み進めるうちに〈模型の町を指で歩き回〉るマリーと、〈電子の道筋を指でなぞ〉りラジオの音を拾うヴェルナーが重なっていくのである。ヴェルナーに〈ラジオの声は、彼の夢を織りなす織り機を与えてくれた〉。彼がどこで何を“受信”するのか。戦時下という暗い状況の中、ふたりのつながりはほんの一瞬であっても確かに光を放ち、読者の胸を打つ。目には見えないきらめきを、ゆっくりと指先で辿るように味わいたい作品である。

 

すべての見えない光 (新潮クレスト・ブックス)

すべての見えない光 (新潮クレスト・ブックス)

 

 

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『くじ』シャーリイ・ジャクスン(深町眞理子訳)

くじ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

書いた人: 鈴木隆詩 2016年12月書評王
フリーライター(主にアニメ音楽)

 

 シャーリイ・ジャクスンの短編「くじ」が雑誌ニューヨーカーに掲載されたのは、一九四八年のこと。その衝撃的な内容に、編集部には読者からの非難が殺到したという。

 物語の舞台は、人口が三百人ほどの小さな村。子供から大人まで全員が集まって、一人だけが当たるくじが引かれる。これは毎年六月二十七日に必ず行われる恒例行事だった。

 冒頭、くじ引きの始まりを待つ少年たちがポケットに石を詰めこむ、奇妙な描写がある。「北の村じゃあ、もうくじ引きはやめべえかとという話が出とるそうだが」と村人にささやかれた長老のワーナーは、「阿呆どもじゃ」と一蹴する。ワーナーによれば、くじ引きをやめることは、文明生活を捨てて洞窟に住むことに等しいらしい。

 くじはまず、当たりの一族を選び、次にその一族の中から当たりの個人を選ぶ段取りになっている。亭主が当たりを引いてしまった中年女のテシーが、仕切り役のサマーズ氏に向かって、「あんたはうちのひとに好きなだけの時間をやんなかった。あんなのフェアじゃない!」と叫ぶ。ここまで話が進むと、くじの当たりとは大いなる不運なのだと分かってきて、少年たちのポケットを満たしている石が、恐ろしい意味を持ち始めるのだった。

「こんな(野蛮で暴力的な)儀式を行なっている村が実在するのか?」という読者からの問いかけに、「私はただ物語を書いただけ」と応えたというシャーリイ・ジャクスン。一九一六年にロサンゼルスで生まれ、一九六五年に亡くなったこの作家は、人間の悪意、心の中に忍ばせている暗い感情を描き続けた。「くじ」は彼女の代表的な短編で、それを含む短編集『くじ』が、この度、文庫化。親本の発刊は一九六四年というから、日本でも半世紀を生き抜いている作品集ということになる。悪意とは、それほどに読者を引きつける題材なのだ。
村の決まり事であり、伝統行事だからというだけの理由で、村人たちが“当たり”に向かって、むき出しの暴力性を発するという、社会的な悪意をテーマにしている「くじ」。だが実は、この短編集の他の作品は、「くじ」とは趣を異にする。日常に潜む、もっと個人的で、明らかな暴力性を伴わない、悪意かどうかも判然としない、黒よりも灰色に近い負の感情が、紙に薄墨を落とすようにじわりと広がっていくのが、短編集『くじ』全体の妙味なのだ。

 たとえば、「背教者」。
 主人公は、都会から移り住み、田舎暮らしを始めたウォルポール夫人。ある日、お宅の飼い犬がウチの鶏を噛み殺したという、匿名の電話を受ける。「いったん鶏を殺す癖がついたら、犬にそれをやめさせる方法ってのは、ないんだそうですよ」「あの犬をどうにかなさらなきゃいけません」と電話の主。

 この出来事は一気に地域中に知れ渡って、ウォルポール夫人はどこで誰と会っても、犬を殺すように諭され、果ては学校から帰ってきた自分の娘と息子までが、無邪気に言い放つのだった。「レイディーや、おまえは悪い犬だよ。いまに射殺されるからね」「(罰として付けた首輪の)とんがった釘が、レイディーの首をちょんぎっちゃうんだ」

 自分の夫や子供、愛想のいい隣人、身なりのいい婦人といった生活者たちが、本人も無自覚なままに見せる、ふとした暴力性や悪意、差別意識。その負の感情が山と盛られたこの短編集は、読者に何をもたらすか? それが意外と心の自浄効果だったりするから、面白い。フィクションの悪意に浸れば浸るほど、自分の中にある澱みが消えていくような気がするのだ。気がするだけで、実際は、腹黒い自分は何も変わっていないかもしれないが──。

 「私はただ物語を書いただけ」

 一編を読み終える度に、作者のあの言葉が頭の中にそっと響く。

 

くじ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

くじ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

 

 

 

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