書評王の島

トヨザキ社長こと豊﨑由美さんが池袋コミュニティカレッジで開講している「書評の愉悦ブックレビュー」。そこで書評王に選ばれた書評を紹介するブログです。

町屋良平『しき』書評

しき

書いた人:小林紗千子 2018年9月書評王
船橋で司書をしています。電子書籍リーダーがほしい。


 
 町屋良平の描く若者たちは、それぞれに感じやすくざわめく心と身体を持て余している。2016年に文藝賞を受賞したデビュー作『青が破れる』ではボクシング、今作ではダンスが持て余した何かを発散させるすべとなるのだが、彼らは決して強いボクサーでもなければ才能豊かなダンサーでもない。そこが良い。『しき』は平凡な若者のきらめきを描いた、好感度高めの青春小説だ。
 主人公は<かれ>こと、クラスでは<ヒエラルキーの内側にすら入れない>存在の星崎。反抗期真っ只中の弟と母親の口論に悩まされ、毎夜公園で“テトロドトキサイザ2号踊ってみた”という動画を見てダンスの練習をしている。踊っているとき、踊りのことを考えているとき、かれは無敵だ。本気で<画面に映っている動画の、粒子よりこまかく、すべらかな動きを、ものにしたい>のだ。ちなみにこの動画は実在のもので、見ると想像以上にレベルの高いダンスとキレのあるダンサーたちの動きに目を奪われる。地味キャラ星崎、本当に踊れるのか?
 <実際に練習しているときより、あたまのなかで踊っているときのほうが、なんとなくうまくおどれているきがする>という星崎は、ダンスする時の身体感覚を自分の中で消化できず、衝動のまま踊っている。同じクラスで、女子のノリに馴染めないグループにいる樋口凛への淡い恋心は、自分の中で言語化できていない。言葉と身体、感情の結びつきがスムーズにいかない思春期の心情がそのままに、視点に揺らぎのあるユニークな三人称で語られていく。必要以上にひらがなを多用した抜け感のある文体に紛れて、彼らの言葉はときおり鋭く真実を突いてくる。
 学校では同じ中学出身の坂田、徳島から転校してきた草野と共にお昼を過ごす星崎だが、ダンスへの熱い思いは幼なじみにしか話さない。このワケありな幼なじみ、つくもの存在がいい。河原で暮らし、もちろん学校には行ってない彼は世間から見たらはみ出しものだが、そこらへんを星崎は深く追求しない。学校でも家庭でもない外部の人間関係だが、星崎を決定的に成長させるのは、つくもである。彼に子供ができた、という告白をきっかけに、へなちょこだけど本気の殴り合いをして絶交する二人。踊りに集中できなくなるほど思い悩んで、はじめて星崎は<いまのこの感情、感覚、わからなさこそをことばにしたい。表現したい>という強い意志を持つ。
 春には衝動のみで踊っていた<かれ>が、冬になる頃には自らの考えで動き、踊る。そしてまた春が巡ってくる頃、一年前とは違う景色が広がっている。伸び盛りな彼らの「しき」は、大人の目から見ると眩しくて懐かしい。
 作中には親の離婚や友達の鬱など、ままならない現実も多々出てくる。だが星崎を中心とした登場人物の、高二らしいどこか呑気な軽さによって、作品全体を取り巻く空気は明るい。悩みながらも、わからないことはわからない、と書けるような潔さがこの小説にはあるのだ。阿波踊りの名手である地元の友人、杉尾に憧れていた草野と踊ることになり、一人から二人へと踊りの同調が広がっていく経緯も青春小説らしい爽やかさに満ちている。そして一見ドライに見える若者たちの、行間に隠された素直な熱さが滲み出るようなラストも心地よい。
 『青が破れる』では三島賞候補、今作『しき』は芥川賞候補作となったことでも知られる町屋良平。かつて文藝賞受賞時のインタビューで「どういう文章をつかって物語をつくると一番小説として生きてくるのか」を考えている、と語っていたように、彼の描く物語は文体や語り口がバラエティに富んでいる。しかし作品の根底に共通する、特別な何かを持たない人々を適切な温度感で肯定する姿勢に救われる人は多いはずだ。世代を問わず全力でおすすめできる、今後も要注目の作家である。

しき

しき

 

 

ジョセ・ルイス・ペイショット 『ガルヴェイアスの犬』書評

ガルヴェイアスの犬 (新潮クレスト・ブックス)

書いた人:田仲真記子 2018年9月社長賞
大好きなタダジュンさん装画の作品で社長賞!格別にうれしいです。

 

 

 1984年1月、宇宙の果てを高速で出発した「名のない物」は、標的のポルトガルの小さな村ガルヴェイアスを捕らえて大爆発し、原っぱにあいた巨大な穴の中央に横たわる。灼熱を放ち、周囲を強い硫黄臭で充満させて。現代ポルトガルを代表する作家の一人、ジョセ・ルイス・ペイショットの長編の派手な冒頭だ。
 村人を巻き込んだSF活劇を期待した読者は肩すかしを食らう。村の住人は日々の生活に忙しくて、「名のない物」の存在をいつの間にか忘れてしまうのだから。唯一、硫黄の臭いだけは、村にしつこくただよい続ける。そう、この本の装画のからし色がかった黄色は、村の空気を可視化したようだ。
 実際に展開するのは、村の住人をめぐる悲喜劇の数々。日本の同時代を20年はさかのぼったような古くささと猥雑さに満ちた村。住人は行儀が悪く、粗野なパワーが溢れる。
 ≪パンツをすねまで下ろし、彼女はしゃがんでビニール袋に狙いを定めていた≫という文で始まる章がある。亭主の浮気を知ったローザは、ビニール袋に回収して10日分冷凍した便を、まとめて缶に入れ水でこねる。浮気相手のジョアナを見つけると、わしづかみにした粘土状のそれを顔に投げつけ、缶の中身をぶちまける。二人は取っ組み合いの末、汚物まみれで留置場に入れられる。本のページから汚物の臭いが立ち上るような、思わず顔をしかめる強烈な展開だ。
 この話には後日談がある。ローザとジョアナはこの後二週間足らずで肉体関係を結ぶようになるのだ。恐るべしローザ。ジョアナとのセックスの後は亭主バレッテの番。帰宅するなりズボンを下したバレッテのブーツの臭い、靴下の臭い、尻の臭い、肛門の臭い、性器の先にこびりついた小便の臭い、鼻をつまむような臭いに囲まれてローザは夫と交わる。
 こんな調子でとにかくたくさんの人が登場し、ときにもの悲しく、ときに強烈なエピソードを連ねる。小さな村のことだ。誰が誰と寝ているのか、親戚どうしなのか、誰が雇い主で誰が使用人なのか。村の住人はそこらじゅうで関わりあっている。
 仕事を引退した老人コルダト、その家政婦をしながら、老人に頼まれて添い寝する中年の寡婦ジュリア、母の形見のネックレスを大学生の姪アナ・ラケルにあげてしまうコルダト、そして、アナ・ラケルが想うジュリアの息子のジャシントが女性を誤って射殺する悲劇。
 それだけでは平板になりそうな村の描写のアクセントとなるのが二部構成の第二部の冒頭、郵便配達人ジョアキン・ジャネイロの逸話である。彼は年に一度休暇で村を離れる。村人の誰も知らない、アフリカの家族を訪れるために。
 20年近く前、独立を求めるアフリカ植民地との戦争のさなか、従軍中の派遣先でアリスと知り合い子を設けた彼は、毎年ギニアで家族と時間を過ごし、故郷の話を家族や近所の人に披露する。≪ジョアキン・ジャネイロの言葉を通すと、ガルヴェイアスはとても広い場所になった≫。村のしがない郵便配達人のロマンチックな秘密。彼がアフリカの家族や近所の人に語るとき、ガルヴェイアスはおとぎ話の舞台のように見えてくる。この逸話によって、この小説の視野は一気に広がりを見せる。
 さまざまなエピソードの末、最終章で村人は唐突に「名もない物」を思い出す。彼らはそれに団結して立ち向かうのか、その飛来物の謎は明かされるのか。正直な話、硫黄の臭いも凌駕する強烈な臭いに満ちた村の人々の物語を堪能した後では、もはやそんな顛末はどうでもよくなってしまう。村の異変に我先に気づきながらも自らの生活は変えない、いや変えようのなかった犬たちのように、大爆発も、痴話げんかも、全部まとめて凝視し続けるのも、この小説の愉しみかただ。

 

ガルヴェイアスの犬 (新潮クレスト・ブックス)

ガルヴェイアスの犬 (新潮クレスト・ブックス)

 

 

ドナルド・E・ウェストレイク『さらば、シェヘラザード』書評

さらば、シェヘラザード (ドーキー・アーカイヴ)

 

書いた人:白石 秀太(しらいし しゅうた) 2018年8月度書評王
同志社大学文学部美学芸術学科卒。会社員

 

 まず誰が何をする話かを手短にいってしまうとポルノ小説のゴーストライターがタイプライターを打っているだけの話である。では何を書いているのかというと本来あるべきエロ話ではなくてムダ話である。そんなポルノ用の使えない原稿が収められたのが『さらば、シェヘラザード』である。まじである。

 原稿の書き手はエドウィン・トップリス。今までに28本の作品を書き上げてきた。分量は一律250ページで、1日あたり25ページを毎月10日間だけ集中して書けばよかった。ところが29作目となる今月はどうだ。スケベなイマジネーションが湧き出てこない。気づけば作品と無関係のたわごとで25ページを埋めてしまっていた。仕切り直しで再び章番号「1」を打ち、続けた一行目が〈タイトルが思い浮かばない。〉やっぱりだめである。

 こうして締め切り10日前から書かれ始めた新作ポルノの第1章が繰り返されていく。ご丁寧にページ番号も「25」をめくると再び「1」とふってある。気になって仕方ないのか、本文ではたびたび残りの日数も記されるので「時間内に脱出せよ! 第一章から、スランプから」という全作家戦慄のタイムリミットものだ。と、いえなくもない。ただ一日の作業量の限度とは天変地異がおきても変わらないもので、エドウィンは途中で「あ、無理だ」と悟ってしまうのだが。

 ムダ話から明らかになるのは〈いちばん楽な潮流に乗ってただけ〉といわざるをえない半生だ。興味があるという理由だけで目標もなく文学を専攻し、子供ができたからという理由だけで結婚し、ギャラが良いからという理由だけでゴーストライターになった。そして現在、夫婦関係はマンネリ化、ポルノ以外のジャンルに挑戦するも撃沈、締め切りには5冊連続で遅れていてエージェントから突きつけられた最後通牒。つまりにっちもさっちもいかなくなったのは今月どころか人生まるごとで、そんなやるせない日々への不満、妄想、失望が原稿に吐き出されていくのだ。

 物書きの道を選んだのが運の尽き。夢も希望もなく、たとえ不向きであっても物語を生み続けないと食っていけない現状をエドウィンはこう表現する。〈あとすこしのところで人間になれずに、まったく得体の知れないものとして生きることを強いられている、泳ぐ場所のない哀れな腐った魚だ〉と。

 もちろん小説のほうも書くには書く。でもいつのまにか妻への愚痴にスライドしていたりと、実生活の悩みが邪魔して続かない。ならばと実体験からネタを絞り出して濡れ場を書いてみたら気が滅入っただけ。もがけばもがくほど創作と現実の泥沼に溺れてくのだ。6度の書き直しを経てなんとか第2章に突入するのだが、先行きが明るくなるはずもなく。

 話が進まないのが作品の醍醐味というだけでも異色だが、ポルノの創作技法を自ら解説するというメタフィクション要素があるだけでなく、メタフィクションについても話が及ぶので、もうメタメタな怪作といえよう。

 作者のドナルド・E・ウェストレイクには多くの人気作があり、リチャード・スターク名義では冷徹な犯罪者「悪党パーカー」シリーズを、タッカー・コウ名義では過去の過ちに苦しむ元刑事「ミッチ・トビン」シリーズを、そして本名では才能はあるが運は無い強盗「ドートマンダー」シリーズを発表している。そう、氏の多彩な著作の中でも今作『さらシェヘ』の珍品ぶりはかなりのものなのだ。

 とはいっても、脇役に至るまで登場人物たちがやけに記憶に残ってしまうのはウェストレイクならでは。とくにエドウィンの妹へスターは、気楽に生きるLSD常用者にして100歳のような達観ぶりの21歳。登場回数は少ないのに存在感があり、憧憬の念をもって描かれる。そのことからもエドウィンがいかに心の底から、家庭不和のネタ切れゴーストライターという生き地獄からおさらばしたいのか、しみじみと伝わってくるのである。

 

 

多和田葉子『地球にちりばめられて』書評

地球にちりばめられて

書いた人:田仲真記子 2018年7月書評王
この夏は飯嶋和一ブームが来る予感です。

 前作にあたる作者の2017年の作品『百年の散歩』に、ドイツに亡命したウイグル人ジャーナリストがミュンヘンで串焼き羊肉を売って暮らしている、という話を引き合いに出し、「もしも将来日本が独裁政治に蝕まれることになったら、ベルリンに亡命して寿司屋をやる人も出てくるんだろうか」と主人公が語る一節がある。『地球にちりばめられて』の発想は、ここから始まったのかもしれない。それは多和田葉子の手にかかるとこんなに軽やかで豊かな物語になる。
 舞台はデンマークの首都コペンハーゲン言語学を研究する大学院生のクヌートが、「中国大陸とポリネシアの間に浮かぶ列島」で生まれ育ち、一年の予定でヨーロッパに留学し、あと二か月で帰国という時に、自分の国が消えてしまったというHirukoをテレビで見るところから始まる。北欧の三か国語を勉強し、スカンジナビアの人ならだいたい理解できるパンスカ、という自作の言葉を話す彼女に強く興味をひかれたクヌートは、テレビ局の仲介でHirukoに対面する。
 この二人を中心に、インド出身の青年で女性として生きることを決めたアカッシュ、鮨職人Tenzo、彼に心惹かれるノラ、そしてもう一人の鮨職人Susanooが入れ替わりで一人称の語りを続ける。中心となるのは、Hirukoが母語で話せる相手を探す旅である。ドイツのトリアー、スウェーデンオスロー、フランスのアルルと、行く先々に語り手の多くが同行する。
 旅の行方とともに小説の読みどころとなるのは、全篇にちりばめられた言葉遊びや想像力を喚起する表現の数々だ。作者の文章は読者の脳を刺激して言葉に対する感度を高めてくれるから、読み手は五感を総動員して作品を味わうことになる。「(デンマーク語は)発音がとても柔らかいので、難しい。柔らかいものばかり食べるようにして発音の努力をしている。」とか、「これからテンゾと会って話せると思うと、脳の池がかきまぜられて、これまで底に沈んでいた単語が水面に浮かび上がってくる」なんて具合に。
「消滅したHirukoの生まれた国」に対する登場人物たちの見解もおもしろい。自分の意見を提案し続ける若者は評価されず、「出る杭は打たれる」という諺があって、出る杭を打つ腕を鍛えるために「もぐら叩き」というゲームが開発された、とか、電車がひどく混んでいる状態を「スシズメ」と呼ぶ、と語ったうえで、さすが鮨の国だ。本当にうらやましい。とまとめる箇所など、日本人なら自虐的なネタに苦笑してしまう。
 国の消滅は自国人にとっては衝撃的な大事件だが、Hirukoに対する周囲の反応は様々だ。その国の存在さえ知らない人もいるし、ひとりヨーロッパに取り残された彼女を皆が同情するわけではない。たとえばいま、日本人の多くがシリアの現状をどれだけ理解しているか、その国の難民と対峙したらどう反応するか、と想像してみると、本作の描写も戯画化されたものには感じられない。
 作中、主人公は現実を率直に受け止め、難民として、というより地球人として生きることを選ぶ。それが物語の前提になっていることが、作品の明るさの源だ。またクヌートとの恋が温かく居心地がいいからだろうか、物語に悲壮感はなく、読後はふわっとした高揚感に包まれる。一行の旅がまだまだ続くことを予感させる結末も楽しい。
 何よりこの小説は、独裁政治に蝕まれつつある、かろうじて消滅していない極東の島国に生きる読者に、どこで、誰と、どう生きていても、いくらかの好奇心と好きな人、好きなもの、壁のない心があれば、世界は大きく開ける、という抜群の開放感を感じさせてくれる。それが境を越え続けてきた作家の声で語られると、「壁」は文字通り敷居をまたぐように難なく取り払える、と思えるようになるのだ。

 

地球にちりばめられて

地球にちりばめられて

 

 

移民について考えたいあなたにおすすめしたい3冊

書いた人:長澤敦子 2018年6月書評王

 ・『地球にちりばめられて』 多和田葉子
 ・『マッドジャーマンズ ドイツ移民物語』 ビルギット・ヴァイエ
 ・『蒼氓』 石川達三

 

 米国人の定義について考えたことがある。様々な移民を受け入れ発展してきた彼の国ではアメリカ合衆国の住人なら「米国人」だ。沢山の具材が存在を主張しつつも、ボールに入るや「チャウダー」という一つの料理になるのと似ている。片や、中国人は世界各地に中華街を築き、どこへ行っても中国語を話し中華料理を食している。
 では、日本人はどうなのだろう。日本列島に住み日本語を話すほぼ単一民族。土地、言語、民族の三位一体だ。
 米国人は米国に居られなくなれば各々のルーツに戻ろうとするだろうし、中国人は中国本土から追われてもどこでだって中国人だ。だが、日本列島がなくなったら日本人はどうなってしまうのだろう?

 

地球にちりばめられて

地球にちりばめられて

 

  そんな疑問に応えてくれるのが『地球にちりばめられて』だ。本書は、欧州留学中に自分の国が消えてしまって帰れなくなり、デンマークで移民の子対象の語り部として働いているHirukoという女性を中心に展開する。彼女は北欧人なら聞けばだいたい意味が理解出来る手作り言語に、〈パンスカ〉と名付けこれを駆使しコミュニケーションに問題はない。しかし、失われた母語を求めて旅をする。そんな彼女と行動を共にするのが、デンマークで生まれ育った言語学者の卵や、グリーンランドエスキモー人、インド出身の学生といった面々。彼らには心の国境は存在しない。軽々と言語や文化の壁を乗り越える。
 本書には「日本」という単語は無く、Hirukoの母国は〈中国大陸とポリネシアの間に浮かぶ列島〉と表現されている。しかし、母語を探す旅の手掛かりになるのが「すしレストラン」だったり、寿司職人の名前がSusanooだったりで、これはもう間違いなく日本だろう。
先般、著者へのインタビュー記事が新聞に掲載されていた。「ドイツ社会に同化するのではなく、日本文化を持ち続けながら対話したい」と。彼女にとっての日本文化とは、古事記日本書紀(Hiruko/Susanoo)?代表的な日本料理はやっぱり寿司?と想像すると、結構ステレオタイプでどこかホッとする。
 ドイツを拠点に日独の言語で創作活動を続け、数々の日本の文学賞やドイツのクライスト賞までものにした著者だが、異国で暮らす苦労はあったのではないか。ましてや生きるために移民になった人たちには艱難辛苦が付き纏うだろう。

 

マッドジャーマンズ ドイツ移民物語

マッドジャーマンズ ドイツ移民物語

 

  多和田氏が推薦するドイツのコミック『マッドジャーマンズ』は、モザンビークから旧東独にやってきた若者たち三人の物語で、二〇一六年に最優秀独語コミック賞を受賞した。一九七五年にポルトガルから独立したモザンビークは内戦が絶えず、同じ社会主義国の東独に労働者を送り続けた。人種差別に耐えながら肉体労働に励んだ彼らは積み立てと称して給料を六十%も天引きされたがそれは全てモザンビーク政府の財布に入っていた。帰国してもマッドジャーマン(メイドインドイツ)と言われ居場所がない。内容は重いが、飾り気の無い絵の線が優しく愛おしく、すっと胸に入って来る逸品だ。

 

蒼氓(そうぼう) (秋田魁新報社)
 

 かつて日本にも人口問題解決の一方策として、政府がブラジル移民を奨励した時代があった。〈一九三〇年三月八日〉で始まる石川達三の『蒼氓』。第一回芥川賞受賞作の本書は三部構成で、第一部「蒼氓」は神戸の収容所に全国各地から集まって来た移民たちの乗船までの八日間を、第二部「南海航路」では船中での四十五日間を、第三部「声無き民」は到着後入植するまでの数日間を描いている。移民になったのは殆どが貧農階級。生まれて以来一度も夢を抱いたことが無い彼らに、〈海外雄飛の先駆者〉といった宣伝文句が夢を与えた。その夢は溺れる者が縋りつく藁だと知 っている。でも朝陽を受けて畑仕事に出掛ける男達、それを見送る女達の第三部のラストシーンが胸を打つ。〈ここはブラジル国の土でも日本人の土でもない。ただ多勢の各国人が寄り集まって平等に平和に暮らす元始的な共同部落〉。
 『地球にちりばめられて』のHirukoたちと形は違えどどこか似てはいまいか。

グレアム・スウィフト『マザリング・サンデー』

マザリング・サンデー (新潮クレスト・ブックス)


書いた人:和田M 
『ホライゾン・ゼロ・ドーン』(PS4)というゲームを5月だけで200時間以上やってしまいました。労災おりますか?


 まず、タイトルの「マザリング・サンデー」という言葉が気にかかる。母する日曜? 数ページ読み進めると〈母を訪う日曜〉という訳がある。年に一度のこの日、住み込みの使用人は半日の休暇をもらい、母親に会いに帰るという習慣が、イギリスにはあったらしい。
 時は1924年3月30日、〈人口の半分が奉公人であった時代〉のマザリング・サンデー。ニヴン家のメイドであるジェーンも半日の暇をもらうが、帰る家がない。孤児なのだ。屋敷の図書室の本を借りて、庭先で読書でもしようかと考えている。そこへ、ニヴン夫妻とも昵懇のシェリンガム夫妻の息子ポールから電話が。彼は、二週間後にエマ・ホブデイと結婚することが決まっている。どの屋敷からも使用人がいなくなるこの日、ホブデイ夫妻を含む三組の夫婦は一緒に外食をする予定だ。
「もうすぐつがいが出かけるから、うちに一人きりになる。十一時に、正面玄関へ」
 ポールのこの一言から、今作の核となる出来事が動き出す。22歳のジェーンと23歳のポールは、7年前から肉体関係を続けている。当然周囲には秘密だ。ジェーンはいつもどおり「たいへん失礼でございますが奥様、番号をお間違えです」と応じる。ポールが結婚すると、もう会えないだろう。最後の逢瀬。
 ジェーンが正面玄関に自転車を乗り付け、ポールがすかさず扉を開ける。ポールは自室で、うやうやしくジェーンの衣服を脱がせる。いつもは温室や雑木林で慌ただしく済ませているのに、今日は、主人と使用人の立場が入れ代わったようだ。倒錯的とも、たわいない遊びとも思える情事のひととき、これが最後といううら寂しさと、立場の違いがなければこうでもあっただろうという安らぎが混じり合ったような奇妙な時間が流れていく……。
 語りは、時系列に沿って順序よく進むわけではない。時間は行きつ戻りつする。戻ってから同じ情景を繰り返すこともあるが、最初とは違う情報を得たあとで、それは違った色味を帯びて映る。また、老境に達したジェーンがしばしば顔を出す。物語は、その後の出来事を踏まえた後年の回想という相からも語られるのだ。若い彼女も老いた彼女も、現実にはなかったことを頻繁に想像する(もしここにエマお嬢様が訪ねてきたら。もし避妊器具をわざと装着しなかったら)。これは同じ一日のバリエーションなのか? わずか数時間が無際限に引き延ばされていく不思議な語り口だ。
 後年のジェーンはインタビューを受けるような著名人になっている。また、当時のジェーンが読書によってメイドに似つかわしくない語彙を身につけていく様子も描かれている。そう、彼女は作家になる。言葉を自覚的に再学習することによって自分を世界に開いていく過程と、ポールとともに男女の関係を学んでいく時期は重なっている。そこには意味があると思う。“言葉”と“現実”を行き来することによって世界の解像度が高まるのだとして、ジェーンにとって“現実”の半分くらいはポールだった。そうして得られた世界像の全体には、この男性の存在が、彼との関係が、透かし絵のように写り込んでいるだろう。
 同じ著者の『ウォーターランド』(1983年)に、〈“いま、ここ”は、たいていは“いま”にも“ここ”にもない〉というセリフがある。歴史の勉強なんて意味ない、という生徒に語り手の教師が返す言葉だ。「いまを生きる」といえば聞こえはいいが、過去と未来にぎゅうぎゅう挟まれた現在をたしかに自分の手にしていると感じられる瞬間は多くない。ジェーンにとって、1924年3月30日がそういう時間だったのだ。しかしそれは〈死ぬまで説明することができない〉不可解な感覚によって得られた実感だった。その瞬間を、忘却の淵から、あるいはエゴイスティックな意味づけから救い出そうという試み、しかも、その瞬間を導いたすべて(未来の出来事まで含めたすべて)を凝視することで救い出そうとする試みが、本書には描かれている。タイトルが示しているのは、救うに値するこの特別な時間のことだ。

 

マザリング・サンデー (新潮クレスト・ブックス)

マザリング・サンデー (新潮クレスト・ブックス)

 

 

ジェローム・K・ジェローム『ボートの三人男 もちろん犬も』書評

ボートの三人男 もちろん犬も (光文社古典新訳文庫)

書いた人:村山弘明 2018年6月度書評王
書評講座に3年1ヶ月通って初の書評王です。奇跡!

 

 ひとは自分の都合のいいように物事を解釈しがちな動物である。それは十九世紀であろうと二十一世紀であろうと変わらない。
 『ボートの三人男』の舞台は、ロンドンとオックスフォードのあいだを流れる十九世紀後半のテムズ河だ。語り手である〈僕〉、友達のハリスとジョージ、そして犬のモンモランシーがテムズ河を上流に向かって漕ぎのぼる、ロードムービーならぬリバーストーリーだ。
 気分のすぐれない〈僕〉らは、その原因を“働きすぎ”によるものと結論付け、〈僕らに必要なのは休養だ〉と、テムズ河を二週間ほどボートで旅することにした。最も彼らがほんとうに休養が必要なのかは甚だ疑わしい。
 そんな彼らは、やることなすこと失敗だらけ。荷造りの段階でてんやわんやの騒ぎを起こす→当日みんな揃って朝寝坊→考え事をしていた〈僕〉のせいでボートが岸辺に乗り上げる→ボートに帆を張ろうとすればハリスとジョージが帆に巻き込まれて…。
 だめんず三人組のちょっとしたドタバタなエピソードがずっと続くのかと思いきや、ロマンティストな〈僕〉の夢想が美文体で語られたり、テムズ河周辺の歴史や街並みに関する旅行ガイドブックのような文章も差し挟まれたりする。そして、さすが歴史と伝統を重んじるイギリスだけあって、いまでも現存しているパブやレストランが登場するのも興味深い。また、印象的だったのは〈僕らの知性は消化器官に支配されている〉という言葉だ。〈ベーコンエッグを食べれば、胃袋は「働け!」〉だし〈ビーフステーキと黒ビールなら「眠れ!」〉なのだ。まさに〈僕らが働くのも、ものを考えるのも、胃袋の命令があればこそなの〉だ。
 さらにはこの本の冒頭には彼らが旅するテムズ河の地図が載っているのも嬉しい。その地図を眺めながら、実際にテムズ河をボートでのぼってみたい、なんて思っていたら、巻末の年譜によればこの小説がイギリスで出版された後、テムズ河でボートに乗る人が1.5倍になったという。21世紀の今ですらそう思うのだから、当時はそれはそれは一大ムーブメントだったのであろう。
 ボートを愛する〈僕〉は、蒸気船が鳴らす汽笛に我慢がならない。蒸気船を避けようともせず、知らんぷりをきめこむ。だが、友人の蒸気船に〈僕〉らのボートを曳いてもらうことになると、今度は前方から来る手漕ぎボートが邪魔で邪魔で仕方なくなる始末なのだ。あげくに〈人は河に出るとひどく短気になるようだ〉などと妙な持論を展開。しかし〈僕〉の気持ちは、わかる。わかってしまう。僕らは自分勝手な生き物なのだ。さらに〈こっちが働いているのに他の人間がのんべんだらりと座っているのを見ることほど、頭に来る経験はない〉だとか〈自分が起きているときに他人が寝ているのを見ると無性に腹が立ってくる〉というくだりは、大変に共感してしまう。
 この本に登場する〈僕〉たちの身勝手な考え方は、現代を生きる人たちとたいして違わない。その考えに共感したいわけではないが、心当たりはある。だからこそ、当時のイギリス人はもちろんのこと、いまでも読み継がれている古典なのだ。そしてこんな風に考えなくとも、ただただ楽しく読める一冊でもある。
 余談だが、訳者の解説によると本書はそもそも〈テムズ河の景観と歴史について語る『テムズの物語』という題名の書物だった〉そうなのだ。ところが、新婚旅行から帰ってきたばかりだった著者のジェロームは、幸せな心持ちのまま〈ユーモラスな息抜き〉の部分だけをとりあえず書いた。あとから〈景観と歴史〉も加えてはみたものの、当時の編集長にそのほとんどを削られてしまったのだという。でもこのテムズ河の史実を語る箇所、ユーモア溢れるドタバタの語り、そして〈僕〉の夢想という三つの異なる語りの混在が、なんとも言えない味わいを本書にもたらしている。

 

ボートの三人男 もちろん犬も (光文社古典新訳文庫)

ボートの三人男 もちろん犬も (光文社古典新訳文庫)