書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

『くじ』シャーリイ・ジャクスン(深町眞理子訳)

くじ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

書いた人: 鈴木隆詩 2016年12月書評王
フリーライター(主にアニメ音楽)

 

 シャーリイ・ジャクスンの短編「くじ」が雑誌ニューヨーカーに掲載されたのは、一九四八年のこと。その衝撃的な内容に、編集部には読者からの非難が殺到したという。

 物語の舞台は、人口が三百人ほどの小さな村。子供から大人まで全員が集まって、一人だけが当たるくじが引かれる。これは毎年六月二十七日に必ず行われる恒例行事だった。

 冒頭、くじ引きの始まりを待つ少年たちがポケットに石を詰めこむ、奇妙な描写がある。「北の村じゃあ、もうくじ引きはやめべえかとという話が出とるそうだが」と村人にささやかれた長老のワーナーは、「阿呆どもじゃ」と一蹴する。ワーナーによれば、くじ引きをやめることは、文明生活を捨てて洞窟に住むことに等しいらしい。

 くじはまず、当たりの一族を選び、次にその一族の中から当たりの個人を選ぶ段取りになっている。亭主が当たりを引いてしまった中年女のテシーが、仕切り役のサマーズ氏に向かって、「あんたはうちのひとに好きなだけの時間をやんなかった。あんなのフェアじゃない!」と叫ぶ。ここまで話が進むと、くじの当たりとは大いなる不運なのだと分かってきて、少年たちのポケットを満たしている石が、恐ろしい意味を持ち始めるのだった。

「こんな(野蛮で暴力的な)儀式を行なっている村が実在するのか?」という読者からの問いかけに、「私はただ物語を書いただけ」と応えたというシャーリイ・ジャクスン。一九一六年にロサンゼルスで生まれ、一九六五年に亡くなったこの作家は、人間の悪意、心の中に忍ばせている暗い感情を描き続けた。「くじ」は彼女の代表的な短編で、それを含む短編集『くじ』が、この度、文庫化。親本の発刊は一九六四年というから、日本でも半世紀を生き抜いている作品集ということになる。悪意とは、それほどに読者を引きつける題材なのだ。
村の決まり事であり、伝統行事だからというだけの理由で、村人たちが“当たり”に向かって、むき出しの暴力性を発するという、社会的な悪意をテーマにしている「くじ」。だが実は、この短編集の他の作品は、「くじ」とは趣を異にする。日常に潜む、もっと個人的で、明らかな暴力性を伴わない、悪意かどうかも判然としない、黒よりも灰色に近い負の感情が、紙に薄墨を落とすようにじわりと広がっていくのが、短編集『くじ』全体の妙味なのだ。

 たとえば、「背教者」。
 主人公は、都会から移り住み、田舎暮らしを始めたウォルポール夫人。ある日、お宅の飼い犬がウチの鶏を噛み殺したという、匿名の電話を受ける。「いったん鶏を殺す癖がついたら、犬にそれをやめさせる方法ってのは、ないんだそうですよ」「あの犬をどうにかなさらなきゃいけません」と電話の主。

 この出来事は一気に地域中に知れ渡って、ウォルポール夫人はどこで誰と会っても、犬を殺すように諭され、果ては学校から帰ってきた自分の娘と息子までが、無邪気に言い放つのだった。「レイディーや、おまえは悪い犬だよ。いまに射殺されるからね」「(罰として付けた首輪の)とんがった釘が、レイディーの首をちょんぎっちゃうんだ」

 自分の夫や子供、愛想のいい隣人、身なりのいい婦人といった生活者たちが、本人も無自覚なままに見せる、ふとした暴力性や悪意、差別意識。その負の感情が山と盛られたこの短編集は、読者に何をもたらすか? それが意外と心の自浄効果だったりするから、面白い。フィクションの悪意に浸れば浸るほど、自分の中にある澱みが消えていくような気がするのだ。気がするだけで、実際は、腹黒い自分は何も変わっていないかもしれないが――。

 「私はただ物語を書いただけ」

 一編を読み終える度に、作者のあの言葉が頭の中にそっと響く。

 

くじ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

くじ (ハヤカワ・ミステリ文庫)