書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

川上弘美『森へ行きましょう』書評

森へ行きましょう

書いた人:松嶋文乃 2018年1月ゲスト賞
元国語の教員。好きな教材は前田愛「ベルリン1888」。

 

 『蛇を踏む』で芥川賞を受賞し、代表作『センセイの鞄』『真鶴』等で、女性の繊細な心理を半歩引いた視点で描いてきた川上弘美の新作。試しに、読み始める前にカバーを外してみる。すると本の背を中心として、二匹の馬がそれぞれ左右に分かれて鬱蒼とした森に分け入って行くイラストが目に飛び込んでくる。これこそ、この作品のイメージ図だ。本作は、留津・ルツという同じ名前を持ち、別の世界を生きる女性が主人公。同じ境遇に生まれながら、いつの間にか別の方向へと舵を切り、全く異なる人生を歩んでいる二人の人生が年代を追って交互に語られる。そんなパラレルワールドを描いた意欲作だ。

 私達が皆そうであるように、留津もルツも喜びを見つけたり、ままならない思いを抱えたりしながら、日々生活している。2人の誕生から60歳までを描いたこの小説を読みながら、読者は自身と同じ年代の留津・ルツをつい自分と比較しながら読んでしまうのではないだろうか。30代の私は、その年で結婚している留津としていないルツ、それぞれの生活や思いを興味深く観察した。この頃の二人の様子を少しレポートしてみよう。

 幼い頃から引っ込み思案で真面目な留津は、既に見合い結婚して子供がいる。私が驚いたのは、新婚初夜に合い鍵を使って新居に居座っていた姑。夫は気に入らない事があると「留津はぼくが嫌いなの?」という台詞を脅し文句のように繰り返すお子ちゃまだ。挙げ句の果てに夫の不倫を知り、一層気持ちが冷めてゆく留津。私だったらこんな結婚生活、心底ごめんだ。一方、研究の仕事に夢中でサバサバした性格のルツは結婚に全く関心がない。初めて結婚を意識した同棲相手とは、その浮気現場を目撃しての最悪の別れ方。その後、結婚しないまま40歳を手前に職場の上司と「絶賛不倫中」。私だったらこちらもご免こうむりたい。留津の娘が言うように「ほかの道を選んでたら、違う人になったかもしれない」が、どちらを選んでも手放しで幸福とは言えない。しかし、彼女達はたくましい。二人ともそれぞれ20代、30代に失恋のショックで一晩中まんじりともしなかった経験をしているが、その時に彼女たちがイメージするのが「森」。辛い思いをしても、「森」の奥へ奥へと彼女たちは進もうとする。ちなみに、留津が大学の文芸部で書いた習作の題は「森へ行きましょう」だった。一体そこには何があるのだろう。進むという選択肢しかない「森」とはまさに人生そのもの。そこではこの先何が起こるのか分からず、自分がどう変わっていくかも分からない。恐怖もあるが、期待もある。こう考える二人の精神的境地は、性格も生活も全く異なるにも関わらず、〝シンクロ〟しているのだ。

 二人の〝シンクロ〟は他にもある。ルツが小学生から書いている「なんでも帳」。その時々の思いがつぶやかれている。例えば、初キスは「くちびる、たよりなし」。一方の留津も、40代で「雑多」というパソコンファイルに日々感じたことを断片的に書き始める。例えば、夫は「ケツの穴、小さし」。二人とも自分を「まぬけ」と書く一致も興味深い。〝書くこと〟は、はかなく消えてしまう時々の思いを刻みつけること。虚飾のない今の自分を客観的に見つめること。それは、人生の「森」を迷いつつも楽しみながら生きている二人にとって、一種の道しるべのような役割を果たしているのだ。

 そう、人生の道程は違っても、根っこの部分でやはり留津とルツはつながっている。読み終えたら、もう一度カバーを外した背表紙を見てほしい。中心から左右に分岐しているかのように見えたイラストは、異なる道を辿ってきた二頭の馬が最終的に同一の地点に到達しているようにも見える。二人の人生が収斂する場所にかかっている虹は、それぞれに人生の混沌をがむしゃらに生き抜いてきた留津とルツへの祝福であるかのようだ。

森へ行きましょう

森へ行きましょう

 

 

 

知っているけど知らないことを知りたい人が知っておくべき3冊

書いた人:和田M 2017年12月度トヨザキ社長賞
折に触れて何回も読んでいる本ばかり集めました。はじめての三冊書評です。

 

「知る」ってなんだろう。あの人は漫画のことをよく知っている、と聞いて思い浮かぶのは、古今東西のいろんな漫画を読んでいて、作者のスタイルやジャンルの消長についても博識、そんな人だろうか。ところでここに、〈個々の漫画家の、作家としての主題性や個性といった問題へ素朴に赴くこと〉と〈漫画を社会的な現象としてのみとりあげ、漫画を通して社会を語ること〉を〈禁じ手〉にしたと宣言する『漫画原論』という本がある。

漫画原論

漫画原論

 

  では、なにが書いてあるのか。簡単にいうと「漫画の読み方」だ。わざわざ教えてもらわなくても知ってるって? たしかに。漫画に詰め込まれた膨大な情報を、私たちは瞬時に、適切に処理しながら読んでいく。けど、それってけっこう驚くべきことなんじゃないか、著者四方田犬彦はそう考える。たとえば「だれ?」という文字があるとしよう。通常の吹き出しに入っていれば台詞、アブクの吹き出しなら心内語で、吹き出しに入っておらず手書きであれば独り言、\だれ?/のような体裁なら物理的な音声としての意味合いが強くなるし、吹き出しの外で写植の場合はたぶんモノローグか地の文だ。文字だけでもこの調子。漫画という表現が多種多様な情報をいかに効率的に組織しているか、あらためて考えてみると恐ろしいほど。豊富な図版とともに漫画の文法を綴った本書を読めば、「知っていることを知る」という不思議な喜びを味わうことができる。


 これと似たかんじの認識の楽しさを、テレビゲームという素材から引き出してみせるのが、ブルボン小林のエッセイ『ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ』。

ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ (ちくま文庫)

ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ (ちくま文庫)

 

 テレビゲームに限った話ではないが、やればやるほどできなくなるのが「疑う」ということ。ゲームなんか触ったこともないおばあちゃんのような視点を、すでに密着してしまっている自分と対象との間に強引に割り込ませる。すると、その狭い隙間から「批評」が芽を出す。自分がそのときなにをやっているのか、著者はその経験の質をつかみ出そうとする。遊ばされることを遊んでいるというか。だからこそ、「怒られゲー」なんていう変なジャンルが誕生するし、〈ゲームとは動詞の複合である〉といった洞察が可能になる。また、〈自分の好きなゲームを女子が熱中してくれて、それを傍らでみているだけでも至福〉という、くだらないけどつい納得の述懐が漏れたりもする。ブルボン小林は小説家長嶋有の別名。「すっかり慣れきったことの前で一度立ち止まってみる」という姿勢は小説にも通じる。


 小説が好きなら佐藤信夫『レトリック感覚』もおすすめ。

レトリック感覚 (講談社学術文庫)

レトリック感覚 (講談社学術文庫)

 

 文章を味わう舌が一段肥える。「レトリック(修辞学)」とは、いわば「平常でない言語表現」を扱う学問体系。ヨーロッパで長く栄えたが、20世紀を目前にあっさり廃れた。それは、〈言語を飾ることの不必要と忠実な記述の可能性〉を人々が信じたから。「作文は思ったこと、感じたことを素直に書けばいい」というやつ。だが、そんなに単純なものだろうか。私たちはすでに言葉を知っている。だから、話せるし読める。それはそうなのだが、この「知っている」にも詮索に値するなにかがある。レトリックの姿は、ほとんど目立たないものから意表を突く過激な表現までさまざま。前者の例として、上に書いた「ゲームなんか触ったこともない」を挙げてもいい(片付けのときに祖母は触ったかもしれない)。本来より意味の広い(狭い)言葉をあてる比喩を「提喩」と呼ぶ。直喩の章には、丸谷才一作品から採ったこんな例文がある。〈それはいかにも、テレビの音がうるさい喫茶店でしゃべる人生論のように聞こえた〉。「それ」は主人公が述べた意見を指す。ここだけ切り取ると素直な直喩のようだが、実は違う。というのも、主人公がいるのはまさに「テレビの音がうるさい喫茶店」で、吐かれた台詞は一種の「人生論」だから。比喩の常道を外れた「AのようなA」という表現がなぜ成立してしまうのか、著者の分析は明快だ。レトリックの型とは、すなわち認識の型である、著者はそう主張する。「知っていることを知る」とは、知っている状態について、つまり自分について知ることでもある。 

柞刈湯葉『横浜駅SF』

横浜駅SF (カドカワBOOKS)

書いた人:たの 2017年12月度ゲスト賞
ジャム作りが趣味で講座ではジャムおじさんとして過ごしています。最近はボードゲームにはまって、ボドゲおじさんです。

 


 設定勝ちだ。
 本著のぶっとんだ設定に思わずニヤりとしてしまうに違いない。横浜駅は永遠に自己増殖を続ける巨大な構造物で、本州のほとんどがほぼ横浜駅に覆い尽くされている世界。大正4年から横浜駅の工事が途切れていない事に着想を得て、横浜駅は常に工事を続け成長していく存在として描かれる。傷を受ければある程度は自分で再生するし、外界から色々な物を取り込みもするし、物資を生産したりもする。
 この世界で生活する大多数の人々は横浜駅構内で生活していた。でも駅内に入れない人達もいて、その人達は横浜駅の浸食から逃れたわずかな土地で暮らしている。本作の主人公である三島ヒロトも駅外の一人だ。ヒロト達が生活する村に、横浜駅から追放された東山という男が現れる。東山は外の生活に慣れずに衰弱し、死の間際、ヒロトに自分たちの組織のリーダーを救い出して欲しいと頼んだ。横浜駅内に興味があったヒロトは、5日間限定で未知の横浜駅構内に侵入するのだった。
 JRで使われている用語を小説に落とし込むのが見事でつい笑ってしまう。例えば横浜駅構内は<エキナカ>と呼ばれ、体内にSuikaという認証端末を埋め込まないと中に入ることが出来ない。エキナカ内で使われるネットワーク<スイカネット>の位置情報を偽装するシステムは<ICoCar>。東山がヒロトに託した5日間限定で横浜駅に入れる箱状の端末は<18きっぷ>だし、組織の名前は横浜駅から人類の解放を目指す<キセル同盟>。読みながら思わずツッコミを入れずにはいられない。
 名付けの楽しさに加えて、自己増殖する横浜駅の世界観についての作り込みも面白い。<エキナカ>にエレベーターが突然生えたり、横浜駅の勢力が薄いところでは青空が望めたりする。横浜駅は水が苦手で海峡を越えらなかったりするので、北海道と九州は横浜駅の侵攻をまさしく水際で食い止めている。九州を防衛するJR九州は、どんな物体も弾丸としてしまう<電子ポンプ銃>で戦闘能力に長け、北海道を守護するJR北日本は幼い工作員アンドロイドを使って横浜駅の情報を集める。それぞれが独自のやり方で横浜駅と永遠にも思える戦いを続けていた。彼らと遭遇したり、横浜駅内の独自文化に振り回されながら、ヒロトは少しずつ大きな目的に向かって近づいていく。
 Suika不正使用者を取り締まる自動改札に対して、<しうまいパンチ! しうまいパンチ!>と子供に殴らせてみせたり、いつまでも工事の終わらない横浜駅をディスりながら、それをユーモアに仕上げている。ディストピアというよりもディスとユーモアに溢れた小説なのだ。

 

横浜駅SF (カドカワBOOKS)

横浜駅SF (カドカワBOOKS)

 

 

エンリーケ・ビラ=マタス『パリに終わりはこない』書評

パリに終わりはこない


書いた人:鈴木隆詩  2017年10月度トヨザキ社長賞
フリーライター。最近はさぼってばかりいます。

 

 〈私がデュラスの屋根裏部屋でしていたのは、基本的にヘミングウェイが『移動祝祭日』で語っているような作家生活だった。〉
 これはエンリーケ・ビラ=マタスが二〇〇三年に発表し、今年邦訳が出た小説『パリに終わりはこない』の序盤に出てくる一文で、これだけで小説全体を説明しきっている。

 「私」とは誰か? 『パリに終わりはこない』の主人公であり、作者自身と重なり合う人物だ。「私」は二十代だった一九七四年にパリに行き、最初の小説『教養ある女暗殺者』を書きながら二年を過ごした。これはビラ=マタス本人の経歴と、ほぼ同じである。
 デュラスとは誰か? 『愛人 ラマン』などで知られる小説家であり、脚本家、映画監督としても活躍したマルグリット・デュラスだ。「私」にとっては、月百フランの家賃を何ヶ月も滞納することを許してくれた家主であり、小説を書くための十三の心得を、ありがたくも授けてくれた先人だった。

 では、〈ヘミングウェイが『移動祝祭日』で語っているような作家生活〉とは?

 『移動祝祭日』はヘミングウェイが、パリで過ごした二十代の六年間を、晩年になって振り返った作品だ。二十二歳のヘミングウェイは妻を伴ってパリに渡り、新聞記者をしながら最初の小説の刊行を目指した。そして、ガートルート・スタイン、スコット・フィッツジェラルドエズラ・パウンドらたくさんの作家や芸術家と親交した。
 〈もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ〉というのが、その序文(高見浩訳/新潮文庫版)。叙情に満ちた作品で、最後の章のタイトルは「There Is Never Any End to Paris」、つまり「パリに終わりはない」だ。

 「私」は、そんなパリに憧れて移り住み、ヘミングウェイみたいに小説家を目指しながら、ヘミングウェイみたいにさまざまな作家や芸術家と付き合って、後年、作家として何冊も小説を著してから、ヘミングウェイみたいに若かったパリ時代を回想する。では、『パリに終わりはこない』は『移動祝祭日』みたいな作品なのかというと、そこは違う。バルセロナに住む「私」が三日間続く講演としてパリ時代を語る、という体裁で書かれているからだ。ビラ=マタスは、ヘミングウェイのように一直線に過去を振り返ってはいない。「私」という自分によく似た主人公を立て、講演という虚構の行為をさせている。

 そのことでまず、パリ時代の若かった自分に対するアイロニカルな視点が立ち上がってくる。「あの頃の自分、こんなだったんですよ、どう、笑っちゃうでしょ?」的な一歩引いた冷静さは、人前で自分語りをする時の作法である。その上で、絶妙な語り口による、自虐的な笑いの奥から立ち上がる青春の苦味や、今は失われてしまったきらめきに、聴衆は(そして読者は)共感させられる。

 だが、小説内にいる聴衆はともかく、その外にいる我々読者が忘れてはいけないことは、「私」が語る体験談はまったくの作り話である可能性がおおいにあるということだ。『パリに終わりはこない』には、たくさんの著名人が登場して、「私」と言葉を交わしていくが、それが「三日間の講演」を面白くするための味つけではないという証拠は、どこにも提示されていない。「私」がおびただしく引用する古今の作家の言葉に導かれ、全てがビラ=マタスの頭の中で組み立てられている出来事なのかもしれないと疑うと、この小説のもう一つの面白さが立ち上がってくる。

 作家の頭の中で、郷愁と混ざり合いながら、現実とは違う広がりを見せるパリ。「私」はこう言っている。〈リアリスティックな作家が現実を忠実に写し取りながら、結果的にそれを一層貧相なものにしてしまっているのを見ると、思わず笑ってしまう〉。

 

パリに終わりはこない

パリに終わりはこない

 

 

 

パトリシア・ハイスミス『見知らぬ乗客』書評

 

見知らぬ乗客 (河出文庫)

書いた人:山口裕之 2017年11月書評王
講座では学生時代からのあだ名の「ルー」で呼んでもらってます。冬はNBAとNFLのテレビ観戦で忙しいです。今年はNYニックスの調子がよくてご機嫌。NYジャイアンツ、お前はダメだ。

 


〈そこでわたしは一夜にして"サスペンス"作家となったわけだが、わたし自身は『見知らぬ乗客』をカテゴライズするつもりはなく、単に面白い小説だと思っていた〉。別名義で書いた『プライス・オブ・ソルト』(のちに『キャロル』と改題)がのちに本人名義で出たときのあとがき(※1)に、パトリシア・ハイスミスはこう記している。彼女の第1長編『見知らぬ乗客』は、1950年の刊行後すぐにヒッチコックが映画化の権利を取得。翌年公開された映画は、たくみなカメラワークと先の読めないシナリオによって、緊張感が持続しつづける"サスペンス映画"の傑作とされている。ところが原作はまるで違う。筋も相当違うのだが、何より作品の焦点が「サスペンス」とはおよそ異なるところに当てられているのだ。
 新鋭の建築家である29歳のガイは、長距離列車のなかで富豪のどら息子である25歳のブルーノと出会う。馴れ馴れしく自分のコンパートメントにガイを連れ込んだブルーノは、ガイが離婚協議中の不貞の妻を憎んでいることを聞き出す。かねてより殺人にあこがれを抱き、小遣いほしさとマザコンのあまり父親を殺す算段を練っていたブルーノは、ガイにひとつの思いつきを提案する。「殺す相手を交換したらどうでしょう? ぼくはあなたの奥さんを殺し、あなたはぼくの親父を殺す。ほら、ぼくたちはこの列車で会っただけだから、知り合いだってことはだれにも知られてない! 完璧なアリバイだ!」
 ヒッチコックが気に入ったのは、のちに「交換殺人」という類型にまでなるこのアイデアだったのかもしれない。頼まれもしないのにブルーノがガイの妻を先回りして殺害し、もうひとつの約束の履行を迫るというところまでは映画・原作とも共通だ。しかし、映画では善をガイに、悪をブルーノに単純に割り当てているのに対して、原作ではガイの良心はそれほど楽をさせてもらえない。
「交換殺人」のキモは、殺人を犯す者どうしに接点や取引が見えないというところにある。なのにブルーノは終始、ストーカーさながらにガイにつきまとう。安全を考えればその行動は、とても合理的とは思えない。ところが、なぜかガイはそんなブルーノを究極のところ突き放すことができない。本来は理性的なタイプなのに、ブルーノの偏執的なまでの思い込みに巻き込まれるように選択ミスを重ね、悪の領域へ踏み込んでいってしまうガイの行動もまた、非合理なのである。
 本作に先立つこと5年前に発表され、ハイスミスの"実質的な文壇デビュー作"とされる「ヒロイン」という短編がある(※2)。家庭で愛に恵まれず、それがゆえに奉公先の女主人に気に入ってもらいたいと狂おしく願う21歳の保母ルシール。〈いざというときにあたしがどんなに役に立つか証明して〉みせたいと思った彼女は、その思いあまって「いざというとき」を自分で起こしてしまう。ブルーノは、この娘の写しとも言える。ブルーノがガイの妻を殺したのは、かわりに自分の父親を殺してほしいという打算よりも、そうすればガイに気に入ってもらえると思い込んだからだ。ガイがブルーノを拒絶しきれないどころか、だんだんとブルーノとのあいだに〈神聖で侵すことのできない〉秘密を共有しているとまで思うようになったのは、一見理解しがたい彼の行動の奥底に、その切実な欲求を認めたからにほかならない。
 本作を〈単に面白い小説だと思っていた〉ハイスミス自身は、どこにその面白さを感じていたのだろうか。おそらく、なぜ人は特定の状況下で非合理的な行動をとってしまうのかという点に向けられていたのではないか。「交換殺人」は、いわばその状況をつくるための道具となっているに過ぎない。緻密な心理描写によって、いつの間にか登場人物だけではなく読者をも、その非合理にからめとってしまうところに、複雑かつ大いなる魅力がある作品なのである。
※1 河出文庫『キャロル』(柿沼瑛子・訳)に収録
※2 ハヤカワ・ミステリ文庫『11の物語』に収録

 

 

陳浩基『13・67』書評

13・67

書いた人:田仲真記子 2017年11月度ゲスト賞
2017年8月から書評講座生。いまいちばん楽しみなのは12月の閻連科の来日。

 未知の作家の作品が当たりだった時の高揚感は何物にも代えがたい。ここ数年、中国語圏にかかわる小説とはそんなうれしい出会いが多かった。閻連科の『愉楽』、東山彰良の『流』、呉明益の『歩道橋の魔術師』そして甘耀明の『鬼殺し』。いずれも作品の持つ熱量が圧倒的で、息苦しさや閉塞感、了見の狭さを感じることのない、風通しの良い作品ばかりだ。
 さて『13・67』である。『歩道橋の魔術師』で知った天野健太郎訳であることからほのかな期待を抱きつつ、6作の中篇が逆年代記の形式で時代をさかのぼるという構成や、なにより読みつけないミステリーを楽しめるか、という疑問も胸にページをめくる。そんな不安は杞憂に終わり、序盤から小説世界に取り込まれ、結末まで読み進めた時ふわっと体温が上がるような「お気に入りを見つけた」感覚に捕らえられた。中国、台湾に続き香港にもこんなにおもしろい小説があったとは!今年のトップ5に入る快作だ。
 幕開けの「黒と白のあいだの真実」の舞台は2013年、主人公のクワン警視は末期がんで昏睡状態。脳波計測器の助けを借りて「YES」、「NO」の意思表示しかできない、という人を食った設定だ。もう一人の主人公である弟子のロー警部が担当する香港の名門一族の総裁殺害事件は、70ページあまりの中で二転三転、目まぐるしい展開を見せる。正直、この調子で6篇読み続けるのはつらいかな、と感じるほど。
 続く「任侠のジレンマ」では2003年、クワンは定年後、特別捜査顧問として、香港マフィアの抗争がからむ人気アイドルの殺害事件を解決する。「クワンのいちばん長い日」と「テミスの天秤」は、凶悪犯兄弟の逮捕劇と後年の脱走事件が主題である。「テミスの天秤」ではふたりの逮捕をめぐる撃ち合いの末、一般人の被害者を出す。この時のクワンは「正義」と「大義」をめぐって身を切るような判断をすることになる。
 1977年、イギリス人少年の誘拐事件をテーマにした「借りた場所に」を経て、最終篇「借りた時間に」の舞台は1967年。ここで一転語り手は身寄りのない青年「私」になる。「私」はアチャと呼ばれる若手の警察官とともに、爆弾テロ事件解決に向けて奔走する。事件の終息後、アチャは「私」から「顔色を真っ青に」するようなきつい言葉を告げられる。後の時代を舞台にする6篇の中で、登場人物が常に思い出し、自分の戒めとすることになったであろう言葉だ。さらに最後の一段落を読むに至って、私はこれまで展開されてきた物語の意味を再考し、登場人物たちの人生や、人が大人になること、時間が人を変えることに思いをめぐらした。さらにわいてくるそれらの疑問を確認するために、第一篇に立ち返ることになった。
 冒頭で死の床にあったクワンは順を追って若返り、本題の謎解きのかたわら触れられる逸話を通じて、その人物像に肉付けがされていく。各篇のエピソードが後年のクワンにどんな影響を及ぼしたのか、思い返しながら読むことで、本作の味わいはいっそう深まる。後半見えてくるクワンの若さゆえの未熟さは、危なげである以上に彼の魅力をいや増す。警察内部の内通やいさかいにまみれながら「正義」を貫こうとする彼の成長譚をたどるのは、ミステリーやアクションを追う以上にひきつけられる読みどころである。
 帯に示された香港のこの50年の激動を見るにつけ、その混沌の中で、知力と精神力の限りを尽くし、たくましく、地に足をつけて生き切ったクワンの物語に心を奪われ、一気に駆け抜けるように読み終えた。

13・67

13・67

 

 

ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』池央耿訳

星を継ぐもの (創元SF文庫)

書いた人:和田M 2017年10月書評王
最近読んで面白かったのはサルトルユダヤ人』。
ホーガンは『造物主の掟』もいいですよね。

 

 あらゆる分野の科学用語で埋め尽くされたハードSF、ジェイムズ・P・ホーガンの処女作『星を継ぐもの』を、まごうかたなき傑作“ミステリ”であると喝破したのは、ミステリ/映画評論家の故瀬戸川猛資氏だ。〈こういう種類の小説を、ぼくらは本格推理小説と呼んでいるのではあるまいか〉と、《ミステリマガジン》誌上の連載で絶賛した。
 たとえば、ひとつの事件について六人が独自の推理を披露する『毒入りチョコレート事件』(アントニイ・バークリー著)というミステリがある。すでに起こってしまった事件を調査し、推理をめぐらせて真相を明らかにする、という筋立ては本書とよく似ている。本書でも、究明すべき出来事はすべて手の触れられない遠い過去に属しており、語られるのはその痕跡の発見とそこから導かれる推論だけだからだ。進行中の現在においては積極的な事象がひとつとして起こらない、いわばきわめて静的な構造である。
 簡にして要を得た裏表紙のあらすじにはこうある。〈月面で発見された真紅の宇宙服をまとった死体。だが綿密な調査の結果、驚くべき事実が判明する。死体はどの月面基地の所属でもなければ、ましてやこの世界の住人でもなかった。彼は五万年前に死亡していたのだ!(後略)〉。〈彼〉はチャーリー、その種族はルナリアンと名付けられた。その時代に月へ行けるほどの文明を築いたルナリアンはいったいどこからやってきたのか。
 科学者たちがチャーリーの体や所持品の分析を進めるなかで開かれたある日の会議、ここが最初の読みどころだ。ルナリアンの起源について議論が百出、生物学者ダンチェッカーは「チャーリー=地球人」説を唱える。根拠はチャーリー自身。体の構造、体組織、すべて地球人とほぼ同じで、別々の進化の系列からこれほど似た種が生まれることは確率的に考えられないという。しかし、地球上でそんな文明の跡が見つかっていないのも事実。この点をいくら指摘されても、すでに体系化された理論に固執するダンチェッカーはまるで取り合わず、議論は停滞の気配を見せる。それを後ろのほうで見ていたのが、本作の主人公ヴィクター・ハントだった。調査に欠かせない分析機器の発明者として技術的な支援をしていたハントは、すでにいろいろな方面から情報を得ていた。そこで彼は、あるひとつの資料についての仮説を述べる。それ自体はささやかな発見だが、本題はここから。ハントはその小さな発見を各分野で個別に判明していた事実と付きあわせ、そこから数々の重大な成果が生まれる可能性を示唆してみせる。思ってもみなかった補助線に刺激を受け、会議は一気に白熱する――。発見と推論が互いの触媒となって高まりあうさまに科学の醍醐味を見てもいいし、理屈の応酬を高度な口げんかとしてただただ楽しんでもいい。本書が差し出すのはそのような快楽だ。活劇は必要ない。
 矛盾のとばりの奥深くに隠された過去はなかなか姿を現さないが、推理の光が、ついにその輪郭を明瞭に描き出す。ふいに現れるこのヴィジョン、立ち会ってそれを見たものは誰もいないこの情景の力強さと鮮やかさ。失われた情景をそれ以外の可能性はありえないという説得力をもって復元する、こういう語りのスタイルこそがミステリの十八番なのだ。
 ところで、物語最後のどんでん返しとなる驚愕の真相にたどりついたのは、それまで科学者集団の司令塔として活躍してきたハントではなく、ダンチェッカーだった。私はここに、著者ホーガンの懐の深さを感じる。科学の発展には、ダンチェッカーのような教条的で堅実な知性が欠かせない。その背後には「それなしで説明できるなら余計な要素を持ち込むな」という科学の鉄則があり、一方で、もしどうしても説明がつかないとなればそれまで有効だった理論でも疑わなければならない。その用意が彼にはあった。タイプの違うふたつの頭脳に見事なタッグを組ませたのは、科学に対する著者の敬意と信頼ではなかったか。 

星を継ぐもの (創元SF文庫)

星を継ぐもの (創元SF文庫)