書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

知っているけど知らないことを知りたい人が知っておくべき3冊

書いた人:和田M 2017年12月度トヨザキ社長賞
折に触れて何回も読んでいる本ばかり集めました。はじめての三冊書評です。

 

「知る」ってなんだろう。あの人は漫画のことをよく知っている、と聞いて思い浮かぶのは、古今東西のいろんな漫画を読んでいて、作者のスタイルやジャンルの消長についても博識、そんな人だろうか。ところでここに、〈個々の漫画家の、作家としての主題性や個性といった問題へ素朴に赴くこと〉と〈漫画を社会的な現象としてのみとりあげ、漫画を通して社会を語ること〉を〈禁じ手〉にしたと宣言する『漫画原論』という本がある。

漫画原論

漫画原論

 

  では、なにが書いてあるのか。簡単にいうと「漫画の読み方」だ。わざわざ教えてもらわなくても知ってるって? たしかに。漫画に詰め込まれた膨大な情報を、私たちは瞬時に、適切に処理しながら読んでいく。けど、それってけっこう驚くべきことなんじゃないか、著者四方田犬彦はそう考える。たとえば「だれ?」という文字があるとしよう。通常の吹き出しに入っていれば台詞、アブクの吹き出しなら心内語で、吹き出しに入っておらず手書きであれば独り言、\だれ?/のような体裁なら物理的な音声としての意味合いが強くなるし、吹き出しの外で写植の場合はたぶんモノローグか地の文だ。文字だけでもこの調子。漫画という表現が多種多様な情報をいかに効率的に組織しているか、あらためて考えてみると恐ろしいほど。豊富な図版とともに漫画の文法を綴った本書を読めば、「知っていることを知る」という不思議な喜びを味わうことができる。


 これと似たかんじの認識の楽しさを、テレビゲームという素材から引き出してみせるのが、ブルボン小林のエッセイ『ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ』。

ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ (ちくま文庫)

ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ (ちくま文庫)

 

 テレビゲームに限った話ではないが、やればやるほどできなくなるのが「疑う」ということ。ゲームなんか触ったこともないおばあちゃんのような視点を、すでに密着してしまっている自分と対象との間に強引に割り込ませる。すると、その狭い隙間から「批評」が芽を出す。自分がそのときなにをやっているのか、著者はその経験の質をつかみ出そうとする。遊ばされることを遊んでいるというか。だからこそ、「怒られゲー」なんていう変なジャンルが誕生するし、〈ゲームとは動詞の複合である〉といった洞察が可能になる。また、〈自分の好きなゲームを女子が熱中してくれて、それを傍らでみているだけでも至福〉という、くだらないけどつい納得の述懐が漏れたりもする。ブルボン小林は小説家長嶋有の別名。「すっかり慣れきったことの前で一度立ち止まってみる」という姿勢は小説にも通じる。


 小説が好きなら佐藤信夫『レトリック感覚』もおすすめ。

レトリック感覚 (講談社学術文庫)

レトリック感覚 (講談社学術文庫)

 

 文章を味わう舌が一段肥える。「レトリック(修辞学)」とは、いわば「平常でない言語表現」を扱う学問体系。ヨーロッパで長く栄えたが、20世紀を目前にあっさり廃れた。それは、〈言語を飾ることの不必要と忠実な記述の可能性〉を人々が信じたから。「作文は思ったこと、感じたことを素直に書けばいい」というやつ。だが、そんなに単純なものだろうか。私たちはすでに言葉を知っている。だから、話せるし読める。それはそうなのだが、この「知っている」にも詮索に値するなにかがある。レトリックの姿は、ほとんど目立たないものから意表を突く過激な表現までさまざま。前者の例として、上に書いた「ゲームなんか触ったこともない」を挙げてもいい(片付けのときに祖母は触ったかもしれない)。本来より意味の広い(狭い)言葉をあてる比喩を「提喩」と呼ぶ。直喩の章には、丸谷才一作品から採ったこんな例文がある。〈それはいかにも、テレビの音がうるさい喫茶店でしゃべる人生論のように聞こえた〉。「それ」は主人公が述べた意見を指す。ここだけ切り取ると素直な直喩のようだが、実は違う。というのも、主人公がいるのはまさに「テレビの音がうるさい喫茶店」で、吐かれた台詞は一種の「人生論」だから。比喩の常道を外れた「AのようなA」という表現がなぜ成立してしまうのか、著者の分析は明快だ。レトリックの型とは、すなわち認識の型である、著者はそう主張する。「知っていることを知る」とは、知っている状態について、つまり自分について知ることでもある。