書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

『魔法の夜』スティーブン・ミルハウザー(白水社)

魔法の夜

書いた人:瀧源舞(たきもとまい) 2016年7月書評王
普通の会社員。小さい頃に従姉から借りたままの小説をまだ持っているほど、本は大事に扱うようにしている。パクチーはシャンツァイもしくはコリアンダーと呼びたい。

 

 night、Nacht、gece、notte、noche、aften、nox、nuit、そして夜。
 “夜”を表わす単語は国によってそれぞれで、どれもが似てはいるけれど違う響きを持っている。想起されるイメージは、個人の体験や記憶によって異なるだろう。けれど、本書に書かれている“夜”は、時代や土地を問わず、だれもが「あぁ、これは知っている」と錯覚するのではないか。自分の中には存在しないかもしれない夜を、物語の中に見てしまう。それは、夏の夜という舞台装置が持つ作用によるものなのか、それともミルハウザー流の魔法なのか。

 時刻は真夜中すぎ。いまだ眠りにつこうとしない者がいる。何かに突き動かされるように部屋を飛び出す14歳のローラ。窓辺で膝をつき約束した誰かを待つジャネット。あまり見込みのない小説を一人きりで書き続けるハヴァストロー。桃色のドレスをまとってショーウィンドウの中で憂鬱を持て余すマネキンと彼女に恋する車体工場士のクープ。月明かりが差し込む屋根裏部屋で動き出すほこりをかぶった人形たち。音もなく家に押し入り、冷蔵庫マグネットや眼鏡ケースなどささいなものを盗んでは「私たちはあなた方の娘です」という置手紙を残していく女子高生の窃盗団。彼らの身に起こるエピソードが少しだけ重なり合いながら、夜は更けていく。

 舞台は米コネチカットらしいが、町の全体像はよくわからない。ミルハウザーの描く場所は、地名が書かれていても、いつも、どこにもない場所のように感じられる。線路の上に立つ黒い鉄の跨線信号台、メインストリートにある百貨店。色づく前のサトウカエデの木々。恋人たちと独り者しかいなくなった浜辺。彼らと一緒にそこここを歩くうちに、それほど大きくはない町を発見していく。

 時折、そんな彼らを眺めているような存在を感じる。月光の描写が繰り返し出てくることから、正体は月かと思ったが、そうでもなさそうだ。なぜなら中盤以降、月の女神もまた庭で眠り込む少年の横顔に魅せられ、地上に降りてきてしまうからだ。では、小説の創造主である作者・ミルハウザーの視点かというとそうでもない。三人称がもたらす効果だけではなく、登場人物を見ている別の視点があるように思えるのだが、どうもはっきりしない。

 時間の流れ方も不思議だ。作中の出来事は現在進行形で語られているはずなのに、登場人物の何人かは、かつてあった一瞬を思いだしているような感覚に捉われ、記憶が揺れる。まるで今夜のこの瞬間だけが、連続する時間からはぐれてしまったかのようだ。肌に触れるあたたかい夜風まで感じ取れるような描写とともに、そうした感覚のゆらぎが、それとは気づかない程度に挿入されている。

 これまでのところ、ミルハウザー作品のほとんどは、彼に惚れ込んだ柴田元幸によって翻訳されている。英米文学に関する広い知識と深い洞察はもちろん、作家への親愛の情がにじむ訳者解説は、作品世界への最適な導き手だ。初期に書かれた短編集『イン・ザ・ペニー・アーケード』の解説によると、ミルハウザーの描く人物は、誰もが退屈しているという。<現実に対する、自分がいまここにあることに対する異議申し立てとしての退屈〉を抱えているという。たしかに本書に出てくる人々もまた、くまなく全身を退屈に覆われながら、夜が与えてくれる変化に焦がれている。

 ミルハウザーが描く人物には、芸術家や職人、子供が多い。そしてしばしば、自分を魅了するものを追い求めるうちに、あちら側の世界へ行きかける。たいていの場合、それが大人であればあちらへ行ったままで、子供であればこちらに戻ってくる。その意味では本書に出てくる者たちは、年齢に関係なく子供に近いのかもしれない。あともう少しで、夜はその座を朝に明け渡すだろうから。

 しかし夜は明けても話は“おしまい”にはならない。どういうわけか、ミルハウザーの書く物語は、その後に起こるであろう変容の方が気にかかってしまうのである。

魔法の夜

魔法の夜

 

 

『ギケイキ』町田康(河出書房新社)

ギケイキ:千年の流転

書いた人:豊﨑由美(とよざきゆみ)またの名をトヨザキ社長  2016年6月書評王
1961年愛知県生。東洋大学印度哲学科卒業後、編集プロダクション勤務を経てフリーに。「GINZA」「TV Bros.」など多くの雑誌に連載を持つライター・書評家。著書は、『そんなに読んで、どうするの?』(アスペクト)、『ニッポンの書評』(光文社新書)など多数。共著書に大森望との『文学賞メッタ斬り!』(ちくま文庫 Kindle)、岡野宏文との『百年の誤読』(ちくま文庫 Kindle)など。

 

〈かつてハルク・ホーガンという人気レスラーが居たが私など、その名を聞くたびにハルク判官と瞬間的に頭の中で変換してしまう〉〈あ、そうなんだ。え、マジ? すごーい。を順番に言って気のない風を装っていたのだけれども、〉〈ちょっと前、人と東銀座のなんということはない喫茶店に入ったところ、一緒にいた人が、この席はジョン・レノンが座った席らしいです、と声をひそめて言っていたが、まあ、そんなようなものだ〉  

 こんなことを喋っているのは誰なのか。そこらでウンコ座りしているアンちゃんではない。源義経なのである。正確を期するなら、義経の魂の依り代となった作家、町田康なのである。と聞けば、世の時代小説家の多くは「そんな現代語を、中世日本に生きた義経が使うのはおかしい」と非難するだろうが、なんということはない、連中の採用している文体だって「なんちゃって雰囲気時代小説語」にすぎないのである。先輩作家が作った時代小説における暗黙の約束事に何の疑問も抱かず、ただ「ござるござる」と従っているにすぎないのでござる。

 一人の浪人侍を狂言回しにして、黒和藩内の権力闘争を背景に、〈腹ふり党〉という奇天烈な宗教団体の蔓延と叛乱を描き、〈生き腐れみたいな人間〉と猿軍団が阿鼻叫喚地獄めいた殺戮党争に突入するハチャメチャな物語になっているばかりか、ジャンル内のお約束をことごとく無視する自由奔放な語り口によって、世の時代小説ファンを「ぎゃっ」と白眼をむいて卒倒させた『パンク侍、斬られて候』(2004年)のデストロイヤーぶりも凄まじかったけれど、記憶に新しいのは、河出書房新社から刊行されている日本文学全集に収められた『宇治拾遺物語』における抱腹絶倒の現代語訳。それまで古典とは縁もゆかりもなかった衆生を熱狂させ、これが入っている巻だけ異様な売上げを示すことに貢献したのだ。この仕事のおかげで中世日本の混沌と自分の思考の波長が合うことを発見したのか、史伝物語『義経記』の語り直しに着手したのが、冒頭で引用文を挙げた『ギケイキ 千年の流転』なのである。

「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」を開いた源頼朝の腹違いの弟である義経の、生まれと育ち、思考と嗜好、性格と容貌、平家討伐に向けての無謀だったり無邪気だったりしすぎる行動の数々、忠実な家臣となる武蔵坊弁慶の生い立ちと出会いを、読めば大笑い必至の饒舌かつスピーディな文体で語りまくる。

〈思えば私の後年の功績はすべて尋常でない速力に追うところが大きかったがこの時点で既に私は速かった。もう少し遅ければ長生きできただろうか、速いということは、普通の速度に生きる者にとってはそれだけで脅威。それだけで罪。けれども私にとってはおまえらのその遅さこそがスローモーションの劫罰、業苦〉と語る速力命の人。〈京都が長い私の父が若い頃、関東に拠点を築くことができたのは、もちろん武芸や気合、といった要素も大きいが、多分にファッションによるところも大きい〉と考えるおしゃれ上等の人。〈返す刀で首のあたりを薙ぐと、ストトトトン、首が切れて飛んで、由利太郎は故郷である東の方に倒れた。そのとき由利太郎は二十七歳だった。若いよね〉と言い放つ非情の人。日本史上指折りのアイドルの速くて濃いぃ人生を、その魂を内に宿した町田康が一人称スタイルで駆け抜ける。面白くないはずが、ない。

〈やっと会える。やっと兄に会える〉、物語は、遂に挙兵した兄頼朝にもうすぐで合流するところで終わっている。完成まで全4巻を予定しているこの物語の続きが、もう読みたい、すぐに読みたいと、読者もまた速力の権化と化してしまう、そんな面白と痛快の塊のような一冊なのだ。「義経は私だ」と町田康が言い切るなら深くうなずくより他にない、そんな説得力に圧倒される傑作小説なのである。 

ギケイキ:千年の流転

ギケイキ:千年の流転

 

 


 

矢口真里さんへ薦めたい3冊

書いた人:林亮子 2016年5月書評王

1999年冬、今は無きコンビニam/pmの店内で、ポスターの中の、その意志の強そうな眼差しにくぎづけになって以来ずっと矢口真里さんファンです。努力家で、頭の回転が早くて、自分をしっかり持っていて、笑顔が素敵で……尊敬する点は挙げればきりがありません。憧れの矢口さんに対して書いた書評で書評王を獲ることができ、望外の幸せです。
この書評王ブログを通して、あわよくば、矢口さんご本人に拙評が届けばいいな~、なんて。

  

  敬愛なる矢口真里さま。

 かつての不倫騒動から早3年。最近ではテレビやネット番組でお姿を拝見する機会も多くなり、ファンとしては嬉しい限りです。しかしそんな折、せっかく出演された日清のCMがクレームにより放映中止になり、憤りを隠せません。何かというと有名人の言動を叩き自粛に持ち込む昨今の風潮、いかがなものでしょう。矢口さんはテレビのインタビューやブログでよく「世間の皆さまに申し訳ない」「どうすれば皆さまに許していただけるのか、そればかり考えている」と仰います。しかし、私には分かります。あなたは、「世間に対して申し訳ない」などとは蚤の糞ほども思っていないはずです。良いのです。それが正しいのです。是非ご自身の考えに自信を持っていただきたく、次の3冊をご紹介致します。

 三島由紀夫『不道徳教育講座』は、〈鼻持ちならない平和主義的偽善を打破するために〉三島が書いた実に愉快痛快な70編のエッセイ集です。本作が書かれたのは昭和33年(1958年)と、今から60年近くも前ですが、決して古くさいなどと思わないでください。当時の帯文からして〈偽善に満ち満ちた現代を痛烈な逆説と揶揄の言葉で切りまくる〉ですよ。今の世の中にも通用するものがあると思いませんか。例えば「醜聞を利用すべし」「沢山の悪徳を持て」「人のふり見てわがふり直すな」「恋人を交換すべし」など、タイトルだけ見れば一瞬目を疑うようなものばかりですが、結局三島は、人間のどうしようもない情けなさ、それが故の愛おしさ、そこにユーモアを見出して楽しむことを本作で説いているのです。物事を表面だけで機械的に判断し、批判する“偽善”を容赦なく斬っていくので、きっと快感を覚えていただけるはずです。

不道徳教育講座 (角川文庫)

不道徳教育講座 (角川文庫)

 

  偽善といえば、宗教というベールに包まれた偽善と疑念により断罪されてしまったのが、『緋文字』(ホーソーン)の主人公、ヘスターです。厳格な清教徒が住む町、ニューイングランド。ヘスターは不義により子を産んだことにより、絞首刑こそ免れたものの鮮やかな緋色で刺繍した「A」の文字を胸につけることを強制されます。海外古典作品なので清教徒とかニューイングランドとか聖書の教えとか出てきますが、ひるまないでください。本作で描かれるのは、“不倫は罪か否か”ではなく、ヘスター、夫、不倫相手、ヘスターを罵る町民、みんなどっちもどっちのお互いさまということなのです。「A」の緋文字は、一度の不祥事のレッテルが一生つきまとう現代のタレントに通ずるものがあるかもしれません。

緋文字 (光文社古典新訳文庫)

緋文字 (光文社古典新訳文庫)

 

  有吉佐和子『悪女について』は、富小路公子(とみのこうじ・きみこ)という女性実業家の謎の死をめぐって、27人の人物がそれぞれ一人称で証言するという構成の作品です。作品の時代背景は終戦後の昭和ですが、モーニング娘。脱退後もタレントとしてマルチに活躍し、俳優の小栗旬川久保拓司中村昌也、モデルの梅田賢三などなど、いずれも長身のイケメンばかりを手玉にとり、それでいて決して男に溺れず自分を見失うことのない矢口さんの姿が公子と重なります。公子に翻弄された27人が皆口を揃えて“あの愛に溢れた心の美しい公子が悪女だなんてことがあるはずがない”と言うところが不気味で面白い。公子は生涯で2人の男の子を産むのですが、その父親が誰であるかについて証言者ごとに事実が違うのです。我こそが父親だという男たちが“自分が公子を抱いたとき、あの子は絶対に処女だった”と口々に言うところが笑えます。本作のミソは、当の公子は語り手として一切登場しないということ。結局、虚像なんて人によって幾種類も作られてしまうし、本当の姿なんて誰にも分からないのです。

悪女について (新潮文庫 (あ-5-19))

悪女について (新潮文庫 (あ-5-19))

 

  矢口さんも、とりあえず表向きは「世間の皆さまに申し訳が云々」と言っておいて、しれっと芸能界でのし上がっていけばいいと思うのです。それだけの芯の強さがあなたにはおありになるのだから。

『ミスター・ホームズ名探偵最後の事件』ミッチ・カリン(駒月雅子訳 角川書店)

ミスター・ホームズ 名探偵最後の事件

書いた人:横倉浩一 2016年4月書評王
都内の私立男子校で国語を教えてます。大学院時代の専門は近世文学。上田秋成井原西鶴を主に読んでいました。サッカー部・演劇部泡沫顧問。図書館部長。スポーツではNBAとツールドフランス、ボクシングなどを好んで観戦。毎年、徳之島に闘牛を見に行くことを恒例としています。飲みには行くがお酒は飲めない。バツイチ独身。

 

 『ミスター・ホームズ』は言うまでもなくシャーロックホームズパスティーシュ作品の一つだ。ただし本作の主人公は、大ヒットしたカンバーバッチ版ホームズのようなスタイリッシュで都会的な華麗さとは対極にある。いつも不安や後悔の念にさいなまれ、迷ったりぼんやりしたりめそめそしたりと、およそ華麗とはほど遠い。それでもカリン・ホームズが老舗ファン団体〈ベイカー・ストリート・イレギュラーズ〉会長はじめ、多くのシャーロック愛好家たちに受け入れられたのは、その秀逸な構成と設定のゆえだろう。ここでのホームズは、事件簿を書いた相棒ワトソンや挿絵画家のねつ造によって巷間に流布している《虚像》、いわゆる快刀乱麻のヒーロー像や「パイプに鳥打ち帽」の名探偵像にむしろ「やれやれ」と辟易している老境の男として登場する。その言動には愛好家たちをして「《本物》のホームズってこんな感じだったかも?」なんて思わしめるリアリティがある。むろん「ホームズなんて、もともと実在しないから!」なんてツッコミは無しだ。

 この物語には三つの世界が存在し、時に連想の糸で繋がりながら同時進行する。

 一つはこの小説の基調をなす1947年のパート。とうに探偵業を引退した93歳のホームズがサセックス州の田舎で養蜂業を営んでいる。家政婦マンロー夫人とその子ロジャーとの三人暮らし。ホームズは利発なロジャーを自分の孫のように愛している。該博な知識と観察力で多くの難局を乗り切ってきた知性も翳りを見せ、そのことに怯えるホームズは老化防止に効果ありとされるローヤルゼリーに執着する。

 二つ目はロジャー達との日常の中で回想される、戻ってきたばかりの日本への旅のパート。これまた老化防止効果が望める植物・サンショウについて意見交換し親交を深めてきたウメザキの招待を受け、敗戦の傷跡も生々しい日本をはるばる訪れた。ウメザキの住む神戸からサンショウの自生する下関までの旅の過程で、ホームズは次第にウメザキが自分を日本に招いた真の目的に気付いていく。それはウメザキの父の喪失にまつわる、悲劇的な因縁ともいえるものであった。

 第三のパートはホームズが語り手となって1902年の事件を自ら書き記した体裁をとる『グラス・アルモニカの事件』。二人の子を続けて流産し、悲しみにくれる若妻アン。その心を癒すため、夫のケラーはグラス・アルモニカなる楽器の演奏を彼女に勧める。しかしそのアルモニカ熱は次第に歯止めの利かぬものとなり、やがては演奏を通して死んだ子供と感応し、霊的交流にふけるところまで昂じてしまう。見かねた夫は強引に妻から楽器演奏の機会を取り上げる。だがその後も妻は音楽家のもとに密かに通っているのではないかと疑ったケラーは、アンの調査を依頼すべくホームズのもとを訪れた。当初それは何の変哲もない〈平凡な案件〉と思われた。しかし予想に反してホームズの人生はこのアンとの出会いを機に大きく歪められることとなる。まさにアンはホームズにとってのファムファタル=運命の女であった。

 喪失の痛みがそこには描かれている。前半おもに描かれるのは《自分》を失う痛み。〈それはただの滑稽な話では済まされない、ぞっとするほど恐ろしいことなのだ〉。ずっと自分を支えてきた知性、その基盤をなす記憶力を失う不安・恐怖はいかばかりのものか。《あの》ホームズだからこそ真底〈ぞっとする〉のだ。そして物語が後半に進むにしたがって浮上してくるのは《誰か》を失う痛みだ。ロジャーが父を、アンが未生の子を、ウメザキが父を失った悲しみ・痛みが真に迫ってホームズに、あるいは私たち読者に実感されるまで、物語の後半を待たねばならない。失うとはこんなにも痛いことなのだ、そして失ってなお生き続ける意味を見いだすことは、〈平凡〉でも何でも無く、こんなにも困難なことなのだと、ミッチ・カリンの容赦ない物語が私たちに思い知らせてくれるはずだ。

 

ミスター・ホームズ 名探偵最後の事件

ミスター・ホームズ 名探偵最後の事件

 

 

ムツゴロウさんにおすすめしたい3冊

書いた人:藤井勉 2016年4月書評王
会社員、共著に『村上春樹を音楽で読み解く』(日本文芸社)。
「エキレビ!」でレビューを書いております。
http://www.excite.co.jp/News/review/author/kawaibuchou/

 

 ムツゴロウさん、はじめまして!1月29日の毎日新聞に掲載されたインタビュー、読みました。〈熊とか馬とかを命がかかっちゃうくらい愛するんです。だけど70を超えたころから、ふーっとなくなったんですね〉という発言にはびっくりしました。原因は不明とのことですが、解明したくはありませんか?
 飴屋法水という人がいます。2014年に『ブルーシート』で岸田國士戯曲賞を受賞した劇作家・演出家にして、現代美術、パフォーマンスライブなど活動は多岐に渡ります。1995年から2003年には、珍獣専門のペットショップ「動物堂」を開いていたこともありました。当時の経験をもとに動物の飼い方を指南するエッセイ『キミは珍獣(ケダモノ)と暮らせるか?』(文春文庫PLUS)は、今のムツゴロウさんにとって興味深い内容のはずです。飴屋は本書で、動物の飼育がいかに無駄な行為かを読者に説きます。たとえば、「動物は純粋」という世間の幻想に、〈自らの食欲、性欲に対して、貪欲なまでに純粋。(略)自分にウソをつかないだけで、他人のことはダマシますよ、ヤツら〉と警告を鳴らします。安易に動物を飼おうとする人には、〈別にそんなに楽しくない(略)飼っていても、毎日は極めて単調な日々なのだ〉と現実を突きつけます。そして、それでも一緒に暮らしたいという得体の知れない欲望こそが「愛」であると定義するのです。動物愛を論理的に語れる彼なら、ムツゴロウさんの気持ちの変化も読み解けるに違いありません。

  ただ、テレビで「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」を見てきた世代としては、動物に夢中であり続けてほしいとも思うのです。熊とか馬にのめり込めないなら、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『幻獣辞典』(柳瀬尚紀訳、河出文庫)があるじゃないかと思うのです。架空の生き物である幻獣を、古今東西の伝説や文学作品から100種類以上も紹介する本書。読めばきっと、愛情を注ぎたくなる幻獣が見つかるはずです。頭が100個ある海の怪物「百頭」に対して、一個一個の頭をなでる内にスタミナ切れを起こすムツゴロウさん。冥界の番犬「ケルベロス」とじゃれ合おうとして、地獄に連れていかれそうになるムツゴロウさん。想像するだけで、ワクワクしてきます。脳内にもムツゴロウ動物王国を建設して、架空の動物とのふれ合いを楽しまれてはいかがでしょうか?

幻獣辞典 (河出文庫)

幻獣辞典 (河出文庫)

 

 でも、今は小説の執筆に夢中とのことで、無理にとは申しません。ブラジルを舞台に、ブラジル人の楽天的な生き方を見習おうと訴える内容だそうですね。でしたら、マリオ・ヂ・アンドラ―ヂの『マクナイーマ―つかみどころのない英雄』(福嶋伸洋訳、松籟社)は押えておくべきでしょう。主人公マクナイーマはブラジルのジャングル奥地で生まれた、3人兄弟の末っ子。〈あぁ!めんどくさ!……〉が口癖で、なぜか英雄と呼ばれています。母の死をきっかけに、兄たちとあてのない旅に出たマクナイーマ。道中、森の神・シーと結婚するも死別し、川で失くした彼女の遺品を探しにサンパウロへ向かうも、女遊びにハマって時間と財産を浪費。サルに騙されて自分の睾丸を叩き潰して死にかけ、兄弟喧嘩でぶつけられたボールを蹴飛ばして、サッカーの始祖にもなります……って、どんな話だ?果たして彼は、本当に英雄なのか?読者の詮索もどこ吹く風と、喜びも悲しみも何もかも〈めんどくさ!〉で片付けてしまうマクナイーマ。その能天気さに、バカ負けすること必至です。そんなブラジル人の国民性を象徴するといわれる主人公とキャラの近い日本人を、私は知っています。ライオンに指を噛まれて中指の第一関節から先を失ったエピソードを、トーク番組で笑い話として語るムツゴロウさん、あなたです。いっそ自伝的小説を書けば、ムツゴロウさんの思い描く作品になりそうな気もします。とにかく、完成を楽しみにしています!

マクナイーマ―つかみどころのない英雄 (創造するラテンアメリカ)

マクナイーマ―つかみどころのない英雄 (創造するラテンアメリカ)

 

 

『エロ事師たち』野坂昭如(新潮文庫)

エロ事師たち (新潮文庫)

書いた人:山口裕之 2016年3月書評王
1969年生まれ。学生時代からのあだ名の「ルー」で呼んでもらうことも多いです。講座へは2007年4月期から参加。好きなものは自転車、ビール、ボードゲーム。嫌いなものは占いとエセ科学

 

 昭和五年(1930年)に生まれ、平成27年(2105年)12月9日に85歳で亡くなった野坂昭如は、作中人物のひとりに、自身と同じ10月10日の誕生日を与えている。昭和38年(1964年)に発表されたデビュー作『エロ事師たち』の主人公だ。

 スブやんは35歳。空襲で若くして母を亡くし、いろんな商売を転々としたあげく、盗聴テープやブルーフィルム(8ミリフィルムで撮影された家庭で上映できるエロ映画)を扱う「エロ事師」として世渡りをしている。全体は6章に分かれていて、1961年の年末から1964年の年末まで。この最後の年は東京オリンピックがあった年にあたる。
 スブやん制作のエロフィルムのカメラマン兼監督で、ときには主演男優もつとめる伴的(ばんてき)。ブツの運び屋でペットとしてゴキブリを飼っているゴキ。自分の作品でオナニーするのが最高というエロ小説家のカキヤなど、癖の強い仲間たちとともに、エロ映画を撮ったり、田舎から出てきたBG(ビジネスガール)をコールガールに仕込んで斡旋したり、はたまた通勤ラッシュで痴漢指南したり。エロ業界のさまざまな側面が活写されていて、発表当時は一種の実録・裏業界ものとしても読めたに違いない。
 表をはばかる商売ではあるが、スブやんはこの仕事を卑下してはいない。内縁の妻お春に寝物語に聞かせていわく「よう薬屋でホルモン剤やら精力剤やら売ってるやろ。いうたらわいの商売はそれと同じや、かわった写真、おもろい本読んで、しなびてちんこうなってもたんを、もう一度ニョキッとさしたるわけや、人だすけなんやで」。こうして他人のものを立たせるぶんにはいいのだが、お春の死後、その連れ子の恵子といたそうというだんになって、スブやんインポになってしまう。自らの不能を埋め合わせるかのように、彼はある野望に取り憑かれていく。
 セックス描写は多いが、読んで興奮するという書かれ方ではない。むしろ驚いてしまうのは、エロ事師たち苦心の作を貪欲に飲み込んでおかわりまで要求する客たち(スブやんいわく“色餓鬼亡者”)の旺盛な性欲だ。東京オリンピック前夜のアゲアゲの時代。男ばかりではなく、女もまたときに正直に、ときにしたたかに、自分の欲を満たそうとする。スブやんは「いっぱつバチーンと、これがエロやいうごっついのんを餓鬼にぶつけたりたいねん」との一念で商売にのめり込んでいくのだが、「亡者」たちの果てしない欲望の前には賽の河原のたとえが浮かぶばかりだ。
 生命力あふれる男女が描かれる一方、スブやんの側には、濃厚な死の気配が漂っている。しかも野坂は「死」をけっしてロマンチックだったり、意味あるものとしては描かない。たとえば作中でスブやんが、お春に堕胎させた子の亡骸を葬る場面。
〈翌日、山本山の海苔の缶に、土と共に包装された五ヶ月の胎児を、スブやんしっかとかかえ、伴うは伴的にゴキ、淀の川原を粛然として歩く。水際にいたって三人靴を脱ぎすて、うわべぬくうても、底は冷たい晩春の水に膝までつかり、「さあスブやん、この先きもうぐっと深いから大丈夫や、放り込んだらええわ」とゴキにいわれ、スブやんふと悲しさがこみあげ、「ほんまかわいそうなことしたなあ、せっかくチンチンつけて勇んでたのに、かんにんしてや」と半ば涙声でつぶやき、思いきってポーンと投げる。とたんにゴキ、鋭い声で「敬礼」と号令をかけ、三人そろって見事に挙手の礼〉。
 即物的な性と、即物的な死が隣り合わせで描かれる。だからこそ「生」のエッジがくっきりと立ち上がってくる。戦争どころか、戦後さえ遠くなりつつある現代で、本作の普遍性がかえって際だつようだ。生涯、性と生を描き続けた作家の、見事な処女作なのである。

 

エロ事師たち (新潮文庫)

エロ事師たち (新潮文庫)

 

 

『学校の近くの家』青木淳悟(新潮社)

 学校の近くの家

書いた人:長瀬海(ながせ かい) 2016年2月書評王
ライター・書評家(これまでの仕事リスト → http://nagasekai.tumblr.com
ツイッターID: @LongSea
メールアドレス:nagase0902アットマークgmail.com

 

 青木淳悟の小説を手に取り、最初の一ページをめくる前、いつもかすかな慄きに襲われる。それは私のなかにある小説についての既成概念がまた壊されるのか、という予感があるからだ。例えば、第25回三島賞受賞作の『私のいない高校』。カナダから来たブラジル出身の留学生を受け入れた高校の生活を無機質な、まるで日誌のような文章で綴ったこの小説は、「私」という、物語を動かすペルソナともいうべき主人公を徹底的に排除した作品となっていて、近代以降に作り上げられたあらゆる小説観をぶち壊す一冊だ。とある高校の先生が書いた留学生の日記がこの小説の原典として存在すると知り、作品を解読する鍵がそこにあるはずだと国立国会図書館に足を運んだが、作者の思惑がますますわからなくなるばかりで、頭を抱えたものだった。

 そんな経験が私のうちにあるものだから、本作を読む前にぎゅっと身構えたが、同時に心のどこかにほんのり期待もあった。また「小説」を壊してくれますようにーー。

 『学校の近くの家』は、平成になったばかりの時代を背景に、埼玉県狭山市の小学校に通う男子のスクールライフを描いた連作短編集だ。といっても学校小説と聞いて頭にすぐ浮かぶような、小学生の友情や周囲との葛藤を読者の情感に寄り添いつつ描いた青春モノではない。作者のたくらみはその彼岸にある。

 小学五年生の杉田一善は、全校生徒のなかで一番学校に近い家に、両親と9つ離れた妹の4人で住んでいた。物語はこの「学校の近くの家」を中心に、一善が五年生だった頃という過去を掘り返しながら、さらにそれ以前のおぼろげな記憶を遡り、また戻って来る、という具合に進んで行く。けれど、そこにはほとんど物語の起伏はない。断片的なエピソードが、驚くほど詳細な周辺地域のディテールとともに淡々と語られていく。小学二年生の時に、母親が妹を出産し、学校でちょっとした話題となったこと。社会の授業で地域の地図を調べたことをきっかけに、友人と放課後の冒険に出かけたものの、こころざし半ばで頓挫してしまったこと。母親が自宅の隣に新しく作られた学童保育所を任されたこと。歴史ゲームをやり込んでいたおかげで、学校の行事で披露することになった時代劇の企画立案の際にクラスの中心となれたこと。ドラマ性に乏しいこうした過去の逸話のひとつひとつが無感動な文章で綴られていく。

 ドラマ性を完全に脱臭する、その反・小説的な企て。それは次のような叙述のなかで行われている。例えば、母親の光子はかつて流産をした経験を持ち、過去から逃れるようにこの地にやってきた。しかし、そのエピソードは仄めかされるだけで、章題通り、「光子のヒミツ」は読者にも秘密にされる。それから、ストーリーの核となる一善の小学校生活も、全く郷愁を読者に押し付けない。ただ時折現れる、ファミコンソフトや空中で爆発したチャレンジャー号、光GENJIといった固有名詞からノスタルジアを読者が勝手に感じるだけなのだ。ドラマが隆起する手前で、作者はそこに蓋をするかのように筆を進めていく。

 さらに奇妙なのは語り手だ。一善の過去を探る語り手は、この主人公のことを「指標児童」と呼び、不確かな記憶をはっきりさせるために、一善を「抽出」あるいは「放送で呼び出し」て確認したいと言う。一善の作文、光子の日記、そして二人の記憶を手掛かりに物語を作り上げるこの不気味な語り手は、果たして何者で、何のために一善の過去を物語として紡ぎだしているのか。と、問うてみるものの、そんな問いすら虚しくなってくる。

 既存の小説作法から大きく逸脱したこの作者の技法は、凝り固まった小説観を破壊する。そこにこの小説を読む悦びがある。私はいま、本作を含めた青木淳悟の数々の小説を21世紀のアンチロマンという意味を込めて、ネオ・ヌーヴォロマンと読んでみたい。小説はまだまだ壊される余地があるのだ。

 

 

学校の近くの家

学校の近くの家