書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

グレアム・スウィフト『マザリング・サンデー』

マザリング・サンデー (新潮クレスト・ブックス)
書いた人:和田M 
『ホライゾン・ゼロ・ドーン』(PS4)というゲームを5月だけで200時間以上やってしまいました。労災おりますか?


 まず、タイトルの「マザリング・サンデー」という言葉が気にかかる。母する日曜? 数ページ読み進めると〈母を訪う日曜〉という訳がある。年に一度のこの日、住み込みの使用人は半日の休暇をもらい、母親に会いに帰るという習慣が、イギリスにはあったらしい。
 時は1924年3月30日、〈人口の半分が奉公人であった時代〉のマザリング・サンデー。ニヴン家のメイドであるジェーンも半日の暇をもらうが、帰る家がない。孤児なのだ。屋敷の図書室の本を借りて、庭先で読書でもしようかと考えている。そこへ、ニヴン夫妻とも昵懇のシェリンガム夫妻の息子ポールから電話が。彼は、二週間後にエマ・ホブデイと結婚することが決まっている。どの屋敷からも使用人がいなくなるこの日、ホブデイ夫妻を含む三組の夫婦は一緒に外食をする予定だ。
「もうすぐつがいが出かけるから、うちに一人きりになる。十一時に、正面玄関へ」
 ポールのこの一言から、今作の核となる出来事が動き出す。22歳のジェーンと23歳のポールは、7年前から肉体関係を続けている。当然周囲には秘密だ。ジェーンはいつもどおり「たいへん失礼でございますが奥様、番号をお間違えです」と応じる。ポールが結婚すると、もう会えないだろう。最後の逢瀬。
 ジェーンが正面玄関に自転車を乗り付け、ポールがすかさず扉を開ける。ポールは自室で、うやうやしくジェーンの衣服を脱がせる。いつもは温室や雑木林で慌ただしく済ませているのに、今日は、主人と使用人の立場が入れ代わったようだ。倒錯的とも、たわいない遊びとも思える情事のひととき、これが最後といううら寂しさと、立場の違いがなければこうでもあっただろうという安らぎが混じり合ったような奇妙な時間が流れていく……。
 語りは、時系列に沿って順序よく進むわけではない。時間は行きつ戻りつする。戻ってから同じ情景を繰り返すこともあるが、最初とは違う情報を得たあとで、それは違った色味を帯びて映る。また、老境に達したジェーンがしばしば顔を出す。物語は、その後の出来事を踏まえた後年の回想という相からも語られるのだ。若い彼女も老いた彼女も、現実にはなかったことを頻繁に想像する(もしここにエマお嬢様が訪ねてきたら。もし避妊器具をわざと装着しなかったら)。これは同じ一日のバリエーションなのか? わずか数時間が無際限に引き延ばされていく不思議な語り口だ。
 後年のジェーンはインタビューを受けるような著名人になっている。また、当時のジェーンが読書によってメイドに似つかわしくない語彙を身につけていく様子も描かれている。そう、彼女は作家になる。言葉を自覚的に再学習することによって自分を世界に開いていく過程と、ポールとともに男女の関係を学んでいく時期は重なっている。そこには意味があると思う。“言葉”と“現実”を行き来することによって世界の解像度が高まるのだとして、ジェーンにとって“現実”の半分くらいはポールだった。そうして得られた世界像の全体には、この男性の存在が、彼との関係が、透かし絵のように写り込んでいるだろう。
 同じ著者の『ウォーターランド』(1983年)に、〈“いま、ここ”は、たいていは“いま”にも“ここ”にもない〉というセリフがある。歴史の勉強なんて意味ない、という生徒に語り手の教師が返す言葉だ。「いまを生きる」といえば聞こえはいいが、過去と未来にぎゅうぎゅう挟まれた現在をたしかに自分の手にしていると感じられる瞬間は多くない。ジェーンにとって、1924年3月30日がそういう時間だったのだ。しかしそれは〈死ぬまで説明することができない〉不可解な感覚によって得られた実感だった。その瞬間を、忘却の淵から、あるいはエゴイスティックな意味づけから救い出そうという試み、しかも、その瞬間を導いたすべて(未来の出来事まで含めたすべて)を凝視することで救い出そうとする試みが、本書には描かれている。タイトルが示しているのは、救うに値するこの特別な時間のことだ。

 

マザリング・サンデー (新潮クレスト・ブックス)

マザリング・サンデー (新潮クレスト・ブックス)

 

 

ジェローム・K・ジェローム『ボートの三人男 もちろん犬も』書評

ボートの三人男 もちろん犬も (光文社古典新訳文庫)

書いた人:村山弘明 2018年6月度書評王
書評講座に3年1ヶ月通って初の書評王です。奇跡!

 

 ひとは自分の都合のいいように物事を解釈しがちな動物である。それは十九世紀であろうと二十一世紀であろうと変わらない。
 『ボートの三人男』の舞台は、ロンドンとオックスフォードのあいだを流れる十九世紀後半のテムズ河だ。語り手である〈僕〉、友達のハリスとジョージ、そして犬のモンモランシーがテムズ河を上流に向かって漕ぎのぼる、ロードムービーならぬリバーストーリーだ。
 気分のすぐれない〈僕〉らは、その原因を“働きすぎ”によるものと結論付け、〈僕らに必要なのは休養だ〉と、テムズ河を二週間ほどボートで旅することにした。最も彼らがほんとうに休養が必要なのかは甚だ疑わしい。
 そんな彼らは、やることなすこと失敗だらけ。荷造りの段階でてんやわんやの騒ぎを起こす→当日みんな揃って朝寝坊→考え事をしていた〈僕〉のせいでボートが岸辺に乗り上げる→ボートに帆を張ろうとすればハリスとジョージが帆に巻き込まれて…。
 だめんず三人組のちょっとしたドタバタなエピソードがずっと続くのかと思いきや、ロマンティストな〈僕〉の夢想が美文体で語られたり、テムズ河周辺の歴史や街並みに関する旅行ガイドブックのような文章も差し挟まれたりする。そして、さすが歴史と伝統を重んじるイギリスだけあって、いまでも現存しているパブやレストランが登場するのも興味深い。また、印象的だったのは〈僕らの知性は消化器官に支配されている〉という言葉だ。〈ベーコンエッグを食べれば、胃袋は「働け!」〉だし〈ビーフステーキと黒ビールなら「眠れ!」〉なのだ。まさに〈僕らが働くのも、ものを考えるのも、胃袋の命令があればこそなの〉だ。
 さらにはこの本の冒頭には彼らが旅するテムズ河の地図が載っているのも嬉しい。その地図を眺めながら、実際にテムズ河をボートでのぼってみたい、なんて思っていたら、巻末の年譜によればこの小説がイギリスで出版された後、テムズ河でボートに乗る人が1.5倍になったという。21世紀の今ですらそう思うのだから、当時はそれはそれは一大ムーブメントだったのであろう。
 ボートを愛する〈僕〉は、蒸気船が鳴らす汽笛に我慢がならない。蒸気船を避けようともせず、知らんぷりをきめこむ。だが、友人の蒸気船に〈僕〉らのボートを曳いてもらうことになると、今度は前方から来る手漕ぎボートが邪魔で邪魔で仕方なくなる始末なのだ。あげくに〈人は河に出るとひどく短気になるようだ〉などと妙な持論を展開。しかし〈僕〉の気持ちは、わかる。わかってしまう。僕らは自分勝手な生き物なのだ。さらに〈こっちが働いているのに他の人間がのんべんだらりと座っているのを見ることほど、頭に来る経験はない〉だとか〈自分が起きているときに他人が寝ているのを見ると無性に腹が立ってくる〉というくだりは、大変に共感してしまう。
 この本に登場する〈僕〉たちの身勝手な考え方は、現代を生きる人たちとたいして違わない。その考えに共感したいわけではないが、心当たりはある。だからこそ、当時のイギリス人はもちろんのこと、いまでも読み継がれている古典なのだ。そしてこんな風に考えなくとも、ただただ楽しく読める一冊でもある。
 余談だが、訳者の解説によると本書はそもそも〈テムズ河の景観と歴史について語る『テムズの物語』という題名の書物だった〉そうなのだ。ところが、新婚旅行から帰ってきたばかりだった著者のジェロームは、幸せな心持ちのまま〈ユーモラスな息抜き〉の部分だけをとりあえず書いた。あとから〈景観と歴史〉も加えてはみたものの、当時の編集長にそのほとんどを削られてしまったのだという。でもこのテムズ河の史実を語る箇所、ユーモア溢れるドタバタの語り、そして〈僕〉の夢想という三つの異なる語りの混在が、なんとも言えない味わいを本書にもたらしている。

 

ボートの三人男 もちろん犬も (光文社古典新訳文庫)

ボートの三人男 もちろん犬も (光文社古典新訳文庫)

 

 

アキール・シャルマ『ファミリー・ライフ』

ファミリー・ライフ (新潮クレスト・ブックス)

書いた人:小平智史 2018年度5月書評王
最近は句会をやりたいです。

 

 一九七〇年代の終わり頃、『ファミリー・ライフ』の主人公である八歳の少年アジェは、インドのデリーから一家で米国へ移り住む。兄は猛勉強の末、入学を希望する理科高校の試験に見事合格。だが喜びもつかの間、事故で脳に損傷を受け、意思の疎通もままならない寝たきり状態になってしまう。一家にとって、いつ終わるとも知れない長い介護生活が始まる。
 この作品はかなりの部分で作者アキール・シャルマの体験をもとにしている。シャルマもまた、インドのデリーで生まれて八歳で渡米。大学で創作を学んだのちに投資銀行に勤めつつ、二〇〇〇年に長編デビュー作を刊行した。『ファミリー・ライフ』は二〇一四年に発表された第二長編。作者自身、脳に損傷を負った兄を長く介護した経験をもつ。
 本作は語り手アジェのつらさだけでなく不正直さや身勝手さも容赦なく描く。彼が兄ビルジュの事故を知って涙するのは《ビルジュはこれから入院することになるのに、僕は普段と変わりばえのしない一日を過ごしただけ》と思うからだし、学校の友達にはビルジュをスポーツ万能で弟思いの理想の兄に仕立て上げて話す。ガールフレンドにキスしてもらうために《慰めてほしいというようにビルジュの病気のことをほのめかし》さえする。
 しかしそれでアジェの悲しみが否定されるわけではもちろんない。《息ができなくなるくらい激しく泣きじゃくるのもしばしばだった。そんな時、僕は自分から抜け出した。僕は歩きながら喘いでいる。と同時に、僕自身の不幸が僕のそばを歩きながら、僕のなかに戻れるよう、呼吸が静まるのを待っているのがわかった。》夢中で泣いて悲しみから逃れても、それは一時のことにすぎないのだ。
 アジェはとにかくよく喋る。学校の友達が嘘だらけの兄自慢にうんざりしてくると、こんどは介護の詳細を生々しく聞かせて相手を辟易させる。反応を示さない兄にさえ話しかける。《一日中、何もしてないよね。(…)「僕は学校に行かなくちゃいけないし、勉強してテストを受けなくちゃいけない」。喋れば喋るほど怖くなっていった。》解決になるわけでもないのに、駆り立てられるようにアジェは喋る。
 そんなアジェに、言葉との別の付き合い方を教えてくれるのが、作家ヘミングウェイだ。有名作家を読んだふりしたい見栄っ張りのアジェは、ヘミングウェイ本人の作品ではなく彼に関する伝記や評論ばかり読むうちに、小説家になりたいと思うようになる。ヘミングウェイの特徴がシンプルな文体なのを知って、《作家になっても、すごく上手な書き手である必要はない。いい生活を送るにはそこそこのものが書けていれば十分なのだ》と曲解するくだりは可笑しい。
 アジェはついにヘミングウェイ本人の作品を読む。すると評論で読んだことが作品の内容とつながり、《不意に立ち上がったときのような、頭がすっきりとして、部屋がぐっと広がって感じられるような》感覚をもつ。達観や心の平穏といった類の救済とは無縁の本作にあって、読書へのすこし変わったアプローチによって主人公の《世界の見え方が変わ》るこの一節は、短いあいだながら開放感にあふれた部分と言ってよい。
 それからアジェは自分の物語を書きだす。だからといって彼が急に人間的な成長を遂げるわけではないし、作品の終盤では、アジェが心にかかえた問題はほとんど解決のしようがないことが示唆されている。本作は、一筋の縫い目のようにまっすぐ問題の解決へと向かう物語ではなく、悲しみも喜びも可笑しさもない交ぜに、さまざまな種類の経験が入り組んでできた複雑なパッチワークだ。兄の事故にしてもヘミングウェイとの出会いにしても「その後」の時間はずっと続いて行くのだし、その時間を複雑さを損なうことなく描いていることが、この小説では肝心なのである。

ファミリー・ライフ (新潮クレスト・ブックス)

ファミリー・ライフ (新潮クレスト・ブックス)

 

 

 

便秘で悩み苦しむ人におすすめしたい3冊

書いた人:林亮子 2018年5月度書評王
韓国のドラマ、小説、映画が好きな30代。時折「ダ・ヴィンチニュース」(https://ddnavi.com)に書評記事を書いています。
Twitterアカウント:@ahirudada

 

・パク・ミンギュ「ヤクルトおばさん」(『カステラ』所収、ヒョン・ジェフン/訳、クレイン)
鹿島茂『モンフォーコンの鼠』(文藝春秋
伊藤比呂美『犬心』(文春文庫)

 

 出したいのに出ない不快感、出そうで出ない残便感、ある時突然襲う腹痛……一難去ってまた一難。乳酸菌?食物繊維?適度な運動?そんなものとっくに全て試している。それでもなお出ないから便秘はつらいのだ。そんな〈便秘族〉の皆さんのために、物語を読むことで自律神経を刺激し、大腸のぜん動運動を促そうというのが今回の目的である。
 パク・ミンギュの短編「ヤクルトおばさん」は、実際に評者が読んでいる最中に便意を催し、この書評を書くきっかけとなった作品だ。
 便秘で苦しむ語り手の〈僕〉。2週間経っても1ヶ月経っても、なんと3ヶ月経っても、一向に出る気配はない。トイレでいきむ際のお供は、友人に借りた〈『お笑い経済学』〉なる本。市場経済の真実が皮肉をもって語られており、読み進めていくと突如〈ヤクルトおばさん〉なる謎の存在が出てきて――。果たして〈僕〉の便秘は解消されるのか。注目すべきは、“こんなに便秘に苦しむ人間の心境に寄り添った小説はないのでは?”ってくらい便秘族に響く表現があちこちに散りばめてあること。〈憶えておいてもらいたい。あんたたちがどこで何をしていようが、今、ここに便が出なくて苦しんでいる一人の人間がいるってことをな〉は大腸に響いた。

 

カステラ

カステラ

 

 

  「ヤクルトおばさん」の〈僕〉はトイレで本を読みながら排便しようとしたが、そもそも現代を生きる我々の排便環境は恵まれている。そう思うことで便意を促すのにおすすめなのが鹿島茂の“一大汚物処理施設スペクタクル巨編”、『モンフォーコンの鼠』だ。
 19世紀、下水道も整備されていなかった時代のパリ。郊外にあるモンフォーコンには、市民の糞尿と、移動や運搬のために使った大量の廃馬がうず高く積まれ、悪臭を放っていた。更にその大量の汚物からは夥しい数の鼠が生まれ、パリ市民の脅威となることは時間の問題。おまけにパリの地下には、空想社会主義フーリエ一派が怪しいユートピアを作り上げていて……。公衆衛生学者パラン・デュ・シャトレ、警視総監アンリ・ジスケ、小説家バルザックなど、実在の人物がフィクションの世界を縦横無尽に走り回ることになる。
 19世紀パリだのバルザックだのフーリエ主義だのが出てくると、「フランスの歴史に詳しくないし……」などと肛門がきゅっと固く締まりそうだが、身構える必要はない。本作は、いってみれば、鹿島茂による渾身の“おふざけ小説”なのである。ミステリ、アクション、ホラー、エロ、何でもあり。仏文化学者としての確かな知識に裏付けられた描写と確かな“モンフォーコン愛”があるからこそ、読者にとって楽しめるものと成り得ているのだ。疾風怒濤のエンターテイメントに身を任せながら、この現代日本の広くキレイな個室で思う存分いきめる幸せを噛み締めよ。そうすれば大腸も反応してくれるかも。

 

モンフォーコンの鼠

モンフォーコンの鼠

 

 

 ……え?作者渾身の素晴らしい文学作品を排便に利用するな?作者に失礼だ?いやそれはあなた、うんこに対するリスペクトが足りないよ。もしかしたら、“うんこ=臭い、汚い”と忌み嫌ってばかりいるから、大腸の動きも固くなるんじゃないのか。そんな人には、伊藤比呂美『犬心』をすすめたい。本作は、筆者とその家族とペットたちの、世話と介護の日々を綴ったエッセイ集だ。本作には実によくうんこが出てくるのだが、単なるドタバタ奮闘記と思うことなかれ。〈シモの世話おそるるに足らずと、大海原に向かって足を踏ん張って立っているような気分である〉と綴るまでに至る筆者の生活は、排泄と向き合うことの大切さを教えてくれる。読後、〈排泄は、生きざまそのものだ〉との筆者の思いを噛み締めずにはいられない。

 

犬心 (文春文庫)

犬心 (文春文庫)

 

 

  以上3冊を紹介したが、評者としてはこれからも、便秘に効能のある作品を探求していきたい。そこで、今回紹介した作品を読んでみて、実際に排便に変化があったかどうか、感想をお寄せいただければ幸いである。

 

 

ケーシー高峰にお薦めしたい3作

書いた人:藤井勉 2018年4月度書評王
共著で参加しています『村上春樹の100曲』(立東舎)が6月15日に発売されます。
http://rittorsha.jp/items/17317417.html

 

■ノーマン・ロック『雪男たちの国』(柴田元幸 訳、河出書房新社
藤枝静男「空気頭」(『田紳有楽 空気頭』所収 、講談社文芸文庫
■『病短編小説集』(石塚久郎 監訳、平凡社ライブラリー

 

 拝啓 春の日差しも心地よい今日この頃、ご健勝にてお過ごしのこととお喜び申し上げます。さて、1月26日にご出演されたテレビ朝日報道ステーション」を拝見し、私の思いをぜひお伝えしたいと筆をとりました。日本の絶景を地元出身の有名人が紹介する企画で、山形県「玉簾の滝」をレポートするケーシーさん。滝の紹介もそこそこに、下ネタを連発されていましたね。なのに、滝の魅力は十分こちらに伝わってきました。深夜の雪山にポツンと立つケーシーさんと、背後に広がる滝の雄大さのコントラストが実に見事だったからです。
 画面を見ながら、ノーマン・ロック『雪男たちの国』のことが頭に浮かびました。1913年に南極大陸探検隊に参加したという、アメリカ人建築家ジョージ・ベルデン。精神病院で亡くなった彼の日誌を作家のノーマン・ロックが発見・編集したこの本は、ノンフィクションというより幻想小説という分類がふさわしい探検記です。ベルデン曰く、〈私たちの旅の目的地は、物質としては存在しない〉。基地を建設するとか、探検隊がどんな任務を持っているのかも作中で定かではありません。彼らが何をするのかといえば、影は凍るのか議論したり、雪上に現われた幻の女性を追いかけたり、空想上の雪男を抱きかかえてワルツを踊り出したりするのです。
 そんな南極をさまよう探検隊の人々が抱く虚無感や幻想から、雪と氷に覆われた世界の厳しさや美しさが浮かびあがります。南極の景色をユニークな方法で伝えるこの本を、ケーシーさんにロケのことを思い出しながら読んでほしいなと考えていました。

雪男たちの国

雪男たちの国

 

  それにしても雪まみれで、自分の状況を「玉簾の滝」と引っ掛けての〈パンティの中がタマスダレになってます〉なんてダジャレで表現する、辛さを見せない姿勢には感銘を受けました。飄々とふざけるケーシーさんの姿から連想したのが、藤枝静男の中篇「空気頭」です。作者兼語り手の〈私〉が〈私はこれから私の「私小説」を書いてみたいと思う〉と宣言して、物語は始まります。長年結核を病みヒステリー気味な妻との生活が綴られた私小説かと思いきや、話は意外な展開をみせます。彼女の身を案じる〈私〉は、ある病の影響で性欲を抑えきれずに浮気を重ねていたのです。しかも〈私〉は浮気相手の若い女性をセックスで圧倒するために中国糞尿学を研究し、人糞を加工した精力増進剤を製造。その開発に至るまでの道のりが語られます。シリアスになりきれない、なろうとしない自分を作品で滑稽に描く作者の姿勢は、ケーシーさんにも共感いただけるはずです。

田紳有楽・空気頭 (講談社文芸文庫)

田紳有楽・空気頭 (講談社文芸文庫)

 

  「報道ステーション」ではロケの腕前を堪能させていただきましたが、ケーシーさんといえばやはり医療漫談。「病」がテーマの小説を集めたアンソロジー『病短編小説集』が2016年に刊行された時には、きっとケーシーさんのネタ作りの参考になるだろうと生意気ながら思っていました。収録されている短編は、一口に病気といっても切り口が作者によって様々。同じ不眠症でもヘミングウェイ「清潔な、明かりのちょうどいい場所」の主人公は暗闇を恐れて夜も営業するカフェに居場所を求め、フィッツジェラルド「眠っては覚め」の主人公は寝床で起きたまま悪夢を妄想したりと、病気への向き合い方が異なります。アップダイク「ある「ハンセン病患者」の日記から」は、乾癬症で皮膚がボロボロであるコンプレックスをバネに成功を収めた陶芸家が主人公。最新の医療技術で皮膚が完治すると、彼の創作意欲は突如落ち込んでしまうのです。

病(やまい)短編小説集 (平凡社ライブラリー)

病(やまい)短編小説集 (平凡社ライブラリー)

 

 病気のネガティブなイメージを覆したり別の側面を映し出すおもしろさが、本書のそしてケーシーさんの漫談の魅力だと私は思います。不謹慎だろうとこういうものにお金を払って行くぞ、応援していくぞという気持ちを胸に、日々仕事に励んでおります。ご多忙と存じますが、ご自愛専一にますますのご活躍をお祈り申し上げます。敬具

 

 

ソフィア・サマター『図書館島』書評

図書館島 (海外文学セレクション)

書いた人:鈴木隆詩  2018年3月度書評王
フリーライター。アニメや漫画がメインです。以下、最近の仕事。
https://bkmr.booklive.jp/complete-comic-in-1volume
https://akiba-souken.com/article/32832/

 

 幽霊と旅をする物語だ。

 舞台は架空の世界。オロンドリア帝国という広大な国があり、南の大海には七島からなる紅茶諸島が浮かんでいる。二十二歳の青年ジェヴィックはその一つ、ティニマヴェト島の生まれ。胡椒農園を営む父が死に、新たな家長としてオロンドリアの港町ベインに交易に出かける船の中で、ジサヴェトという名の少女と出会う。
 彼女はキトナという不治の病を患っていて余命幾ばくもなかったが、明るく知性に富み、奔放な言動が魅力的だった。

 しかし、次にベインでジェヴィックがジサヴェトと出会った時、彼女は“幽霊”になっていた。〈彼女はここで、オロンドリアで、北方で亡くなったに違いない。その後、紅茶諸島の慣習に反して、火葬されぬまま土に埋められた。“腐った死者”の一人となったのだ。彼女はそうした死者のだれもが望むことを望んでいるのだろう。焼かれること、解放されることを〉。
 ジェヴィックは、女神アヴァレイを崇拝するアヴァレイ教団の助けを得て、ジサヴェトの亡骸を探す、長い旅に出る。

 本作はソフィア・サマターのデビュー作。アメリカでの出版は二〇一三年で、執筆に二年、手直しに十年かかったという。一読すればその理由は瞭然。紅茶諸島とオロンドリアの地理、歴史、統治機構、宗教、文化が見事に構築されているからだ。特に言語、文学へのこだわりは相当で、紅茶諸島で使われるキデティ語と大陸のオロンドリア語に関しては、訳者が巻末に小辞典を付けているほど。
 作中には数々の架空の書物からの引用が頻出し、世界創世の神話や吟遊詩人が歌う叙事詩(二段組で五ページに及ぶ)など、様々な物語が登場人物によって語られる。

 幽霊についても、本作ならではの定義付けがされている。キデティ語では“ジェプトウ”。その意味は〈荒ぶる魂、幽霊、幽霊の国ジェプナトウ=ヘットの住人〉。しかし、〈オロンドリア語に“幽霊”に当たる単語は存在しない。“天使”を意味するネアという言葉があるだけ〉だ。
 オロンドリアの年鑑兼百科事典『明りを灯す者の手引き』によれば、天使とは幻覚。〈かつては死者の魂と信じられ〉ていたが、現在では〈バランスを欠いた精神の産物にすぎない〉とそれを否定。天使信仰は〈犯罪として登録〉されているという。

 これはアヴァレイ教団に代わって、テルカン(国王の意)の庇護を受けるようになった、新たな教団の教えによるもの。アヴァレイ教団にとっての“天使”は生者に希望を与える存在で、天使と交霊する力を持つ者は尊敬の対象だった。この新旧二つの教団の対立は、ジェヴィックの旅の全行程に大きな影響を及ぼし、『図書館島』というタイトルを象徴する最終章まで繋がっていく。宗教闘争によって損なわれるヴァロン(書物の意)を守るというのは、本作の大きなテーマだ。

 そして、書物は名もなき個人の想いを後世に残すものでもある。
「あたしにヴァロンを書いて。あたしの声をその中に入れて。あたしを生かして」というのが、ジサヴェトのもう一つの願い。ジェヴィックは、ある条件と引き換えにその役目を引き受けるのだった。

 最初は幽霊のジサヴェトを怖れ、精神的に追い詰められたジェヴィック。しかし何度も交霊するうちに、彼女の存在は文字通り(私達の世界のニュアンス通り)、天使へと変わっていく。もともとその知性と奔放さは大いなる魅力だったのだ。生い立ちを話して聞かせるジサヴェトの語りは詩的で美しく、貧しい暮らしの中でも輝きがあったことや、キトナに冒された後の家族や友人とのやり取りの切なさが、ジェヴィックの手で綴られていく。魂の触れ合いの深さ。二人の平穏。

 〈わたしは天使を理解していた──すぐそばで聞こえる、不安定で切羽詰まった、夜を呼吸する声を通じて〉。〈天使はわたしにささやきかけ、両腕をわたしの肩にもたせかけ、頬をわたしの頬に寄せた〉。本作は天使と恋をする物語だ。

図書館島 (海外文学セレクション)

図書館島 (海外文学セレクション)

 

 

アーネスト・ヘミングウェイ『移動祝祭日』書評

移動祝祭日 (新潮文庫)

書いた人:白石秀太(しらいししゅうた)2018年2月度社長賞
同志社大学文学部美学芸術学科卒。会社員


 「敗れざる者」は大学の授業で原文を読んでから忘れられない短編だった。汗でてらつく雄牛の突進、闘牛士の間一髪の回転。すかさず上がるオーレ! 連打される短文は躍動感に溢れ、ピリオドは銃創にみえた。紹介するならこの作品を収めた『男だけの世界』で決まりだ。と、思っていたのに。再読でその輝きに気づき、闘牛士に負けず劣らず心に刻まれたものができてしまった。鉛筆を走らせる作家の卵、『移動祝祭日』の若きヘミングウェイの姿だ。
 60歳をこえた著者が、22歳で移住したパリでの約5年間を振り返る本作。「はじめに」でもある通り創作に近い箇所もあるらしいが、〈こういうフィクションが、事実として書かれた事柄になんらかの光をなげかける可能性は、常に存在するのである〉という。実体験はあくまで素材とした、ヘミングウェイ版『若い芸術家の肖像』なのだ。
 パリで待っていたのは芸術家たちとの刺激的な出会いだった。ガートルード・スタインは称賛を浴びないと機嫌を損ねる面倒な性格だが、いちはやくピカソを収集した審美眼の持ち主だ。ヘミングウェイは彼女を慕い、芸術論に聞き入った。いっぽう名声欲にまみれた連中は大嫌いで、同じ空間にいれば〈息をつめるようにしていた〉ほど。交流のなかで関係が変化することもある。フィッツジェラルドとの初の二人旅はトラブル続き。あいつとの旅は二度と御免となったが『グレート・ギャッツビー』に打ちのめされて、執筆のための手助けは惜しまないと決心する。その後も精神が不安定なフィッツジェラルドに悩まされることにはなるのだが。
 狂騒のパリとコントラストのように際立つのが、ヘミングウェイの静かに燃える創作意欲だ。鉛筆とノートをカフェに持ち込んで一心不乱に書く。頭の中は、北ミシガンの湖畔、鱒が泳ぐ原野の川。どこにでも行けた。読書にもふけった。ウィスキー片手に友人と大好きなロシア文学について語り、〈『カラマーゾフ兄弟』にもう一度挑戦してみようと思っている〉という言葉に親しみがわくが、じつは彼にとって読書もまた創作の井戸を潤すための欠かせない行為だったという。
 「空腹は良き修行」という章もあるように、若い彼はつねに飢えていた。まずは肉体的に。香り豊かなパンやワインの魅惑に負けないよう倹約に努めたし、食べるときはとことん楽しんだ。そして精神的に。自分の新しいスタイルはいつかきっと認められる。〈意図的に省略〉して物語にインパクトを与え、削りぬいても失われない真実を書くそのスタイルを、貪欲に磨いた。
 でも、『移動祝祭日』で書かれているのはそれだけではなかった。
 たしかに青春ならではの輝きに満ちた一冊でもある。ではなぜ〈新しい文学〉を貪欲に追い求めた男が、過去を振り返るのだろう?
 「空腹は良き修行」のなかで、重要人物の老人が自殺するという大切な結末をカットした短編を書く場面がある。同じようにして『移動祝祭日』で、その予感だけを漂わせて〈光をなげかける〉ものがある。芸術家としての死。創作の井戸が枯渇する恐怖だ。
 「偽りの春」という章にその兆しはあった。修業時代を支えた当時の妻、ハドリーと過ごす、美しい春の一日。本業の執筆も副業の競馬も順調。妻とお気に入りの店で食事をして、愛し合う。しかし突然、満たされない気持ちに襲われてしまう。〈ケリをつけたくてたまらなかった〉がなすすべはなく、何かが壊れそうな予感だけを残してこの章は終わる。
 作家ヘミングウェイの地位は初期の短編なくしてありえなかった。そんな名作を次々と生んだパリ時代を振り返ったのは、60歳を過ぎたいま、創作の井戸が枯れ果ててしまったこと、そして予感はあったにもかかわらず、破滅の運命から逃れられなかったことを、静かに自分の手で確かめるためだったのだ。

 

移動祝祭日 (新潮文庫)

移動祝祭日 (新潮文庫)