書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

『無形』井戸川射子著

 『無形』は月刊誌「群像」で十三回にわたって連載された長編で、作中の季節も春に始まり翌年の春まで約一年、少しずつ移り変わっていく。舞台となるのは、海辺に立つ老朽化した団地。取り壊しがほぼ決定していて、最初は盛り上がった住人たちの反対運動もすでに下火となっている。生活に余裕のある人々は転居してしまい、今も住んでいるのはまさに「残された人々」という状況だ。そのせいか本作では、三十代から五十代の働き盛りと言われる世代は背景としてしか描かれない。主な登場人物は老人と子ども、そして社会と確かな接点をまだ持っていない二十代前半の若者たちだ。
 斜陽の団地で彼らは年齢差を越えて、肩を寄せ合って生き、団地の近所の住む子どももコミュニティに加わる。中心には、森の守り神の老木のようにしてカンという老人がいて、子どもたちはカンが静養する部屋に集まって宿題をする。正月には餅つきもする。では彼らの父母はどうしているかというと、子どもに無関心だったり、酒ばかり飲んでいたり、既に死者だったり、行方不明だったりする。世間一般に言う家族が形を失っているかわりに、団地に残った人々が一つの大きな家族を形成しているのが『無形』なのだ。つまりはある種のユートピア小説であって、〈全て部屋の陽だまりの、彼らの半円の中で行われる〉平穏が描かれていく。
 カンのことは、孫であるハンナを筆頭に、若者も子どもたちも全員がカンと呼び捨てにする。そしてカンも、もう一人の老人であるフサも年長者としての上からの目線で彼らを見ない。そういう水平な人間関係の中、作者は子どもたちを、ある工夫によって印象的に描写していく。頻繁に出てくる〈というようなこと〉というフレーズがそれだ。
 たとえば、〈マオは相手に気を持たせるような態度を、礼儀と心得ているのかもしれない、分からない、好きということの、言葉を解剖しそれぞれの濃さや深さを比較するというのは、そんなことは決してすべきではない、無粋だろうし誠実とも言えない、というようなことをリユリは考える〉。
 マオとリユリは小学校高学年の女子で、リユリは自分がマオに対して恋愛感情を持っていることを自覚している。一方のマオは高校生の男子に「付き合おう」と言われ、拒絶するのが面倒くさくて流れに任せている。この引用部分ではリユリがマオの心の内を推察しているのだが、その言葉は明らかに小学生の語彙を越えている。そこを作者は「というようなことを考える」と括ることで、成り立たせているのだ。リユリは実際にはここに書かれた言葉を使って考えてはいない。
 小学二年生の男の子タイラは、ランドセルに恐竜のフィギュアを入れているような子どもらしい子どもなのだが、兄のタミキについて〈考え過ぎるところがあるから、人に何かもらっても、自分が上手に喜べたかばかりを気にするような兄だ、人の目の中で生きてるのだ、というようなこと〉を考える。
 タイラはこの小説のラストを締める重要な登場人物で、そこでは高度に抽象的な思考を展開してみせる。それでいて彼は最初から最後まで、小学二年生らしい単純さと無邪気さを失わないのだ。子どもを子どもらしく描きながら、内面の秘められた複雑さを感じさせてくれるのが『無形』の大きな特徴であり、この作品の文章は登場人物に近くて遠い。
 だから、もしかしたら海辺に存在した団地も、そこに最後まで残った人も、全てが失われた未来からの視点で描かれているのではないかと、一瞬思ってしまった。でも、そんな捉え方はどこか寂しくて、〈あのあそこで繋がった瞬間瞬間の積み重ねだけが、私たちの持ち物なんだ、何でも無形だと言いきるつもりもない〉というハンナのセリフが、再び団地の“今”へと意識を引き戻してくれた。人が生きている時間を大切に扱う小説だ。

2025年1月書評王:鈴木隆
実は住んでみたいなと思っている団地があって、もう何年もWebで空き部屋をチェックしては、今住んでいる部屋も気に入っているし、まだいいかなと思ったりしています。