書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

村田喜代子『エリザベスの友達』書評

エリザベスの友達

 

書いた人:関根弥生 2019年2月社長賞
2018年11月から書評講座を受講しています。→Pia-no-jaC←ファン。公務員。
 

 

 村田喜代子は老女を描くのがうまい。『蟹女』や『望潮』などうっすらと漂う狂気に戦慄させられる作品も多いが、『エリザベスの友達』は少し趣が異なる。本作では、介護付き有料老人ホーム〈ひかりの里〉を終の棲家と定めた老男老女たちの、夢と現が入り混じる日常と、時代に翻弄されながら歩んできた半生が語られるが、皺の奥に隠された少女のかわいらしさや、記憶というものの豊かさと不思議が強く印象に残る。 
 110号室の初音さんは97歳。認知症が進み、日がな一日〈うつらうつら過ごしている〉。見舞いに通う二人の娘のことも、もう誰とわからないでいる。初音さんは夕方になると、〈それではお暇いたします〉とどこかに帰っていこうとするが、その魂の行き先は、二十歳で結婚したハンサムな夫と共に渡った天津だ。
 この地で生まれ、6歳まで過ごした長女満州美が〈蜃気楼だった〉と述懐する天津は、日仏英等各国の租界が置かれ、戦乱の最中にあってもここだけは美しい緑の中での競馬観戦や、サーカスの猛獣ショーに興じる贅沢が守られた別天地であったという。初音さんも、駐在員の奥様達と互いを〈エヴァ〉や〈サラ〉とイングリッシュ・ネームで呼び合い、昼下がりのお茶や買い物を楽しむ華やかな時を過ごした。また、天津は日本の女性にとって〈夫から、おまえとは呼ばれなかった〉〈嫌なら、ノー!と言うことができた〉本当の自由を手にした場所でもあったのだ。
 認知症によって〈時空をすり抜けて行く〉のは、初音さんだけではない。隣室の牛枝さんは、男の子ばかり三人続いた後に生まれ、戦争に駆り出されることのない牛にあやかろうと名付けられた。牛枝さんが夢で逢うのは、戦死した初恋の相手や、兄弟同然に育った三頭の馬たちだ。馬たちは揃って大きな眸(め)を向けて〈はよ、こっちきまっしょ〉と冥府へ誘う。
 〈認知症は自由です〉と若い介護士は言う。記憶という積み木の積み方を変えることで、〈別の人生やら過去やらがいろいろ出来る〉のだから。天津時代〈サラ〉と呼ばれた初音さんは、前任の所長夫人で、異国での暮らしを導いてくれた〈エヴァ〉鞠子さんの記憶も取り込み、初音さん自身は出会う機会が訪れなかったはずの、清朝最後の皇帝溥儀の妻で〈エリザベス〉と呼ばれた婉容とも夢の中で邂逅を果たす。記憶を積み直すことで、自己と他者、此岸と彼岸を隔てていたものが融けだし、その境界はどんどん朧になってゆく。
 記憶の積み木を手にするきっかけは、ジャスミンティの香りや、古い写真だったりするが、中でも〈音楽の喚起力はなんと強いものか〉と満州美は感嘆する。ボランティアの歌う韓国民謡や軍歌が、何十年もの時間を一気に巻き戻し、〈人間の抜け殻〉のようだった年寄りたちが束の間集い、嗄れた喉を振り絞って唱和する。しかし、立ち戻ったその時が、深い後悔と慚愧の念に満ちている者もある。『満州娘』を耳にした途端、慟哭し誰かに許しを求め続ける元満州関東軍兵士の姿。いったいどれほどのことがあったのか。その答えを知るものは誰もいない。
 牛枝さんの娘が言うように、認知症によって人の記憶や魂が、雲母のようにサラサラと剥がれ落ちていくものなのだとしたら、最期まで人の魂の核として残るものはいったい何だろう。それが自責や悔恨の念だけでないことを願うばかりだ。
 天津が大戦の挟間に浮かんだ蜃気楼だったとしたら、〈ひかりの里〉もまた、生と死の合間に現れる蜃気楼なのではないか。小さな貝のような部屋から吐きだされた記憶や想いが扉の隙間から漂い出して混ざり合い、ほのかな明るさを宿してホーム全体を包み込んでいるように見えるのだ。誰も避けることができない〝そのとき″の迎え方を考えると、ピンピンコロリだけではない、こんな終焉もありだと思える。

エリザベスの友達

エリザベスの友達

 

 

ジョン・チーヴァー 『巨大なラジオ/泳ぐ人』書評

巨大なラジオ / 泳ぐ人

書いた人:白石秀太 2019年1月書評王 

最近ようやく自分はただの海外エンターテインメント好きでしかないという自覚に至りました。



 J・D・サリンジャーがのちの自選短編集『ナイン・ストーリーズ』の収録作の数本を書き上げ、トルーマン・カポーティが短編「ミリアム」でO・ヘンリ賞を受賞した1940年代、彼らとはまた違った風合いの短編小説でアメリカの人々を描いたのがジョン・チーヴァーだ。雑誌「ニューヨーカー」を主な媒体に、ニューヨークや郊外の高級住宅地が舞台の作品を多数発表。79年にはピュリッツァー賞と全米批評家協会賞を受賞した。日本では絶版状態だったそんなチーヴァーを、村上春樹のセレクトと翻訳で今再び楽しむことができるのがこの一冊だ。
 収められた18の短編の中の一番手で表題作の「巨大なラジオ」は、まさにチーヴァー・ワールドの入口となる作品だ。ニューヨークの高級アパートメントに住む夫婦がラジオを買い替えたところ届いた、巨大なラジオ。スピーカーから聴こえるのは音楽だけではなかった。なんと近隣住人の会話も拾っているらしいのだ。奇怪なラジオに夫は怒るが、妻は違った。高級エリアで何不自由なく暮らす人々に隠された、虚栄心や浅ましさ、絶望感を聞いてしまったことで心がかき乱されてしまう。私たちの幸福だけは一点の汚れもない、本当にそうだろうか? と。
 ステータスや若さ、隣人同士や家庭といった共同体の完璧さに拘泥するあまり、亀裂が生じても作り笑いで現実から目を背け、知らぬ間に転落の一途を辿る。チーヴァーはそういった人々の病理を炙り出そうとした。酒浸りの人間が頻繁に登場するのだが、そこに彼らの逃避する姿がうかがえる。しかし著者の不思議な魅力は、全てを破滅の物語の一言に集約できないところにある。出力の目盛を調整するようにして、登場人物らを襲う破滅の影の暗さが各編で異なっており、ときには「巨大なラジオ」のようなシュールな世界が現れもする。高級アパートメントの管理人が身勝手な住人にふりまわされる「引っ越し日」にはコメディ感もある一方、男女の出会いから始まる「トーチソング」には死神の存在をも感じさせる恐ろしい結末が待っている。
 淡々とした文章とともに、序盤から破滅の影が忍び寄る音が聞こえてくるのがもう一つの表題作「泳ぐ人」だ。舞台は大都会から転じて郊外の高級住宅地。男が道中にある家々のプールを泳ぎながら自宅に帰ることを思いつく。肉体は年齢を感じさせず、精力は旺盛。しかし旅路が進むにつれて不吉な空気が漂う。出会う人々との会話のずれや、風景をなす季節の急変が不気味さをかきたてる。〈参ったわね。あなたって、まだ大人になれないわけ?〉。途中で遭遇した元愛人のこの言葉で露見するのは、男の成熟に失敗した精神であり、著者が当時のアメリカに見た一つの病理でもあるのだろう。本編は68年に映画化もされ、主人公が終始海水パンツ一丁という滑稽ともとれる設定なのにラストには救いがない、そんな奇妙さでカルト的人気を誇る一本となった。主演のバート・ランカスターによる、中年が子供のようにはしゃぐ演技も効いている。
 鋭い人間観察の中でユーモアが前面に押し出されているものもある。主題は大きくは変わらないままに物語の色調を操る、著者の巧妙な書き分けに驚かされる。画家の伯母を中心にした変わり者ぞろいの一族の回想録「パーシー」や、とことんそりの合わない兄弟についての「ぼくの弟」などの家族ものは、一人称による偏屈なのにどこか憎めない饒舌な語り口で、ジョン・アーヴィングの家族小説に皮肉を加えたような面白さがある。
 また小説以外にも、「ぼくの弟」の着想から完成に至るまでの舞台裏を綴った「何が起こったか?」と、短編という形式へのこだわりを語った「なぜ私は短編小説を書くのか?」の2つのエッセイが収録されており、チーヴァー・ワールドにより一層浸れるものとなっている。

 

巨大なラジオ / 泳ぐ人

巨大なラジオ / 泳ぐ人

 

 

【作家紹介シリーズ】年の瀬に読みたい伊藤礼

書いた人:田仲真記子  2018年12月書評王
最近ますます書評講座が心の支えです。

 

年末と言えば……

 いまどきおせち料理を作る人も少ないようですが、年の瀬になればスーパーで正月用の食材を見かけます。この時期だけ出まわるもののひとつがクワイ。ピンポン玉大の芋に角が生えたような形状の野菜です。クワイこそ、伊藤礼の『ダダダ菜園記:明るい都市農業』(ちくま文庫)の陰の主人公なのです。

  作者は昭和の文豪伊藤整の次男。日本大学芸術学部教授だった彼が、齢80歳のときに刊行したのがこの作品です。久我山の自宅に接する13×3メートルの家庭菜園の記録は老人特有の脱線ぶり。それも彼の話芸のなせる業なのですが。初出は雑誌連載だったこのエッセイでは、高齢を理由に草抜きを怠ったあげく作物が雑草に埋もれて壊滅したり、紙数が足りなくなると強引に話題を次回に先送りにしたり、菜園の実りの様子はなかなか読めません。さらにシビンによる排尿手順とか、メダカの飼育とか、菜園と無関係な話題に終始することが多すぎるのです。
 その伊藤礼翁が、全篇を通じて情熱を傾けるのがクワイ栽培です。泥田栽培のための種イモ確保から栽培容器、大量の水やり、収穫後の収支計算まで、脱線がちな本作で唯一継続するのはクワイに関する記述です。本作の読後、「今年はおせち料理クワイを入れてみようかな」と思う読者もいることでしょう。人生の折り返し点に達すると、先々の生き方に思いを巡らすことがありますが、4、50代の迷える男女にとって、気持ちがふうっと軽くなる老人本です。
 著作一覧によると、彼が初の単著を刊行したのは52歳ごろ。初めの2作は父伊藤整をタイトルに冠した作家の子が語る父と言った体の作品です。後の作品に見られるユーモアは散見されますが、まだ堅い。あくまで大作家の息子として黒子に徹した作品です。

狸ビール (講談社文庫)

狸ビール (講談社文庫)

  著者が自分らしさを見せるのは3作目以降です。狩猟をめぐるエッセイ『狸ビール』(講談社)で講談社エッセイ賞をあの須賀敦子と同時受賞し、囲碁がテーマの『パチリの人』(新潮社)では、趣味にのめりこむさまを詳述します。がんの手術後も治療中も碁、文壇囲碁選手権三連覇を果たしたのは、がんの放射線治療中で体内に蓄えられた放射線が勝利を呼び込んだ、なんて自虐的なブラックユーモアをかまします。
 とはいえ、ここまでは前段のようなもの。彼の本領が発揮されるのは、自転車三部作『こぐこぐ自転車』(平凡社ライブラリー)、『自転車ぎこぎこ』(平凡社)、『大東京 ぐるぐる自転車』(ちくま文庫)でしょう。結核にがん、肝臓病と病気の絶えなかった著者は68歳にして自転車に乗り始めます。おしりの痛さや筋肉の衰えを克服し、全国各地の自転車旅行に繰り出すまでになり、数台の自転車を所有します。転倒、骨折にも負けず、不死鳥のようによみがえる伊藤礼翁。趣味あればこその人生を貫く姿勢は、まさしくあこがれの生き方です。

こぐこぐ自転車 (平凡社ライブラリー)

こぐこぐ自転車 (平凡社ライブラリー)

自転車ぎこぎこ

自転車ぎこぎこ

大東京ぐるぐる自転車 (ちくま文庫)

大東京ぐるぐる自転車 (ちくま文庫)

  著作では絶妙な脱力感とユーモアを発揮していますが、『まちがいつづき』(講談社)内の一篇では、気難しかった父に似て、青年期まで癇が強く神経質だったことを明かしています。作者の生き方は、80年の積み重ねがあってようやく身につけたものだったわけです。その告白を読んで、人間年を重ねることも悪くない、そしてそこに病気も忘れるほど打ち込める趣味があれば怖いものなし、と再認しました。

まちがいつづき

まちがいつづき

  最後に、伊藤礼翁流のユーモアを表す一節を紹介しましょう。
 <(『こぐこぐ自転車』の)さまざまな書名候補があがった中に、早いころ『こぐ』というのがあった。幸田文に『流れる』というのがあるが、それに近いだけでなく簡潔さにおいてもっと徹底している。これは編集の保科孝夫氏の両手を挙げての賛同を得るに至らなかった>新年はクワイを食べながら伊藤礼を読んで、老後の人生に思いをはせてみては。 

トンマーゾ・ランドルフィ『カフカの父親』

カフカの父親 (白水Uブックス)

書いた人:藤井勉 2018年12月ゲスト賞
共著『村上春樹の100曲』(立東舎)が発売中です。
http://rittorsha.jp/items/17317417.html


 短篇集『カフカの父親』を読んだあなたはきっと、いつもと違う年末年始を迎える。帰省して実家で過ごすあなたは思い出す。本書の冒頭を飾る、「マリーア・ジュゼッパ」の語り手〈わたし〉のことを。〈わたし〉は語る。〈わたし〉が夏だけ帰る故郷の屋敷、そこに住んでいた女中マリーア・ジュゼッパのことを。〈わたし〉は家に帰る度、マリーアを蔑み、罵り、叩いた。好きな子にちょっかいを出していたようにも見えるし、ただ憎んでいたようにも見える。真意ははっきりとしない、というか本人も未だによくわかっていない。〈わたし〉が語るマリーアは従順な女性かと思えば神経質で手に余る存在にもなり、語れば語る程その実像はぼやけていく。
 1908年イタリア生まれの作者トンマーゾ・ランドルフィは、2歳で母を失う。解説によると、子供の頃は美術コレクターの父に連れられ旅をしているか、親戚の家に預けられることが多く、各地を転々としていたという。そんな作者のなじみの薄い故郷と母親に対する複雑な感情が、「マリーア・ジュゼッパ」には投影されているに違いない。久々に両親と会ってまだ距離感を掴めずにいるあなたは、〈わたし〉のことを近しい存在と感じていた。
 長旅に疲れ、床に就くあなた。すると、「ゴキブリの海」のグロテスクな世界が夢に現れる。ゴキブリの海を目指して進む船の船長は、思いを寄せる女性ルクレツィアを無理やり乗船させ、我が物にしようとしていた。だが、船内に潜入していた彼女の恋人、しかも人間ではなくうじ虫が行く手を阻む。うじ虫は船長に、どちらがルクレツィアの恋人にふさわしいか対決しようともちかける。何で雌雄を決するかといえば、性のテクニックだ。彼女に快感を、愛を与えられた者が勝者となる。うじ虫が人間の女性と、どのように絡むというのか?〈目蓋をやさしくなぶっているようだった。(略)うじ虫はまつげのつけ根を這い始め、それから目蓋をこじ開けて、目蓋と目の間にもぐりこまんばかりに強く押し戻した。娘の快感は持続し、高まった〉。ここで目覚めたあなたは悶々として再び眠れず、早く除夜の鐘を叩いて煩悩を消したいと願う。
 大晦日、大掃除で物置を片付ける寝不足のあなた。「剣」の主人公レナートが自宅の屋根裏で先祖伝来の名剣を見つけたように、掘り出し物が出てこないかと期待する。その後に、見つけたとして不安要素があることに気付く。レナートは丸太をも簡単に裂く剣の切れ味に驚き、いい使い道はないかと考える。だが〈極めて繊細かつ無上の怠け者〉である彼には、何も思い浮かばない。次第に剣の存在が重荷となり、レナートの精神を蝕んでいく。自分は家宝を受け継ぐにふさわしい人間なのか。あなたは物置で考え込み、掃除をサボるなと父親にいい年をして叱られてしまう。
 夜はもちろん、NHK紅白歌合戦を見る。歌声を科学的に分析した体のホラ話「『通俗歌唱法教本』より」によると、著名な低音歌手の「ド」は1万4千キログラムにもなるらしい。あなた調べで北島三郎の声の重さは最高1万キログラム、氷川きよしが8千5百キログラム。年季の違いが声の重さにも表れている。
 元旦は、親戚が実家に集まる。話題となるのは大抵、その場にいない親族やご近所さんの噂だ。「ゴーゴリの妻」で自称友人が披露する、ロシアの文豪・ゴーゴリの妻は実は人形だったというゴシップ。これをインパクトで上回る噂話は出てこなかった。
 冬休みも終わりが近づき、実家を発つあなた。見送る年老いた両親の顔を見て、あなたは思う。「カフカの父親」みたいに、胴体が親の頭で出来ている蜘蛛が部屋に現れたら、どうしてくれようかと。嫌いな上司なら躊躇なく叩き潰すし、好きな人の頭なら虫かごに入れて愛でるのだけどと妄想している内に、仕事始めを迎える。それどころか、妄想したまま次の年末年始を迎えているかもしれない。

カフカの父親 (白水Uブックス)

カフカの父親 (白水Uブックス)

近松秋江『黒髪』書評

黒髪

書いた人:山口裕之 2018年10月ゲスト賞
講座では学生時代からのあだ名の「ルー」で呼んでもらってます。カレーは食べるのも作るのも好きですが、どちらもルゥを使わないのが好みです。


「情痴文学」といっても『黒髪』には色っぽいことは一切書かれていない。ほぼ純度100パーセントのストーカー小説だ。そしてそれ以上に、一人称小説における「私」のあり方について、考えさせられる作品なのだ。
〈私〉は、27歳になる京の芸妓に思いを寄せている。東京から金を送って4、5年にもなるが、なかなか逢えない。それでも女の心は自分にあると思い込んでいる。〈私〉自身の描写はほとんどない。年齢も職業も服装さえも。一方で6節仕立て、原稿用紙でいえば全部で64~65枚程度の作品の、最初の1節はまるまる女の容姿の描写に費やされている。〈本当の背はそう高くないのに、ちょっと見て高く思われるのは身体の形がいかにもすらりとして意気に出来ているからであった〉〈白い額に、いかつくないほどに濃い一の字を描いている眉毛は、さながら白沙青松ともいいたいくらい、秀でて見えた〉この女のことなら、いくらでも書ける、という風情である。あくまでも容姿中心の話ではあるのだが。
 第2節で〈私〉は女を訪ねて京都を訪れている。ところが女は家を〈一時仕舞ってしまった〉と手紙で伝えてきている。どうやって逢うつもりだろうと思って続きを読むと、第3節で1年前の思い出にさかのぼる。で、ここから先はずっと「1年前の話」なのだ。小説がひとまずの「現時点」である第2節の場面に戻るのは、なんと続編に持ち越される。『黒髪』が書かれたのは大正11年。そもそもが同年発表の『狂乱』『霜凍る宵』とひと続きの話の話であり、3部作というよりも、3つまとめてひとつの長編として読まれるべきものらしい。
 本稿の最初に「純度100パーセントのストーカー小説」と書いたが、じつは『黒髪』にはその片鱗程度しか出てこない。〈私〉が本領を発揮するのは続く2作。『狂乱』では女の転居先を調べるためにもとの家の周囲を聞きまわり、臭いを嗅ぎつけるやすなわちアポなし訪問し、同居する女の母親からけんもほろろにあしらわれてもめげずに、遠い親類に預けたという話を信じて三重県との境にあるような山の中まで脚で探し続ける。続く『霜凍る宵』ではさらにエスカレートして、女の母のあとをつけるとか、その家の塀に上って中を伺うとか、ちょっとした隙を見つけて家の中に上がり込むとか……今なら警察呼ばれても文句は言えないところである。
 要するに、商売の女性に入れあげて、自分こそが将来を誓った男だと信じ込み、姿を隠した相手の迷惑を顧みず追いかけ続けるイタイ話なのだが、読み心地は不思議に悪くない。どころか、かなり笑える。それというのも、だいたい当の女がいいように〈私〉をあしらっているのが、読者にはきちんとわかるように書かれているのだ。知らぬは〈私〉ばかりなり……というところではたと気づく。そもそも「痴情に溺れる〈私〉」を赤裸々に描くためには「冷静な〈私〉」が必要ではないか、と。
 たとえば『霜凍る宵』で出てくる(女の)隣家の老婆が〈私〉を諭す場面。〈「茶屋の行燈には何と書いておす、え、金を取ると書いておす。(中略)向うは人を騙さにゃ商売が成り立ちまへん。それを知って騙されるのはこちらの不覚。それをまた騙されんようでは、遊びに往ても面白うない。(中略)……どこのどなたはんかまだお名前も知りまへんが、こりゃあ、わるい御量見や」〉。こんな痛い忠告を聞く「耳」を、少なくとも作家の〈私〉は持っていたということになる。
 本書で描かれる〈私〉の姿がみっともなければみっともないほど、それを作品として描くことができた作家としての〈私〉への信頼が増していく――こうした不思議な回路で、この作品は成り立っているのだ。いわば「信頼できない語り手」と背中合わせの「信頼できる作者」。『黒髪』で見られるの女のつれなさや、その裏に隠された事情についても続く2作で明らかになるので、一作だけで終わらせずぜひ先を続けて読んでほしい。

黒髪

黒髪

狂乱

狂乱

霜凍る宵

霜凍る宵

近松秋江『黒髪 他二篇』

黒髪―他二篇 (岩波文庫)

書いた人:藤井勉 2018年10月社長賞
共著『村上春樹の100曲』(立東舎)が発売中です。
http://rittorsha.jp/items/17317417.html

 

 ここ2年近く、盛り上がりを見せている文豪ブーム。アニメ『文豪ストレイドックス』と共に、その火付け役となったのが「文アル」こと『文豪とアルケミスト』です。イケメンキャラに転生した近代日本文学の作家たちをプレイヤーが操り、本の世界を破壊しようとする「侵蝕者」と戦うこのネットゲームにより、文豪たちが新たな人気を獲得しています。登場する文豪は随時追加され、現在50名ほど。登場していない作家は、まだたくさんいます。中でもゲームに加えてほしいと私の思う文豪が、近松秋江です。

 近松秋江は自らの女性遍歴を赤裸々に書いた私小説で名を上げ、自然主義を代表する作家の一人として20世紀前半に活躍しました。そんな近松の独特な個性を味わえる作品としておすすめなのが、「黒髪三部作」と呼ばれる短篇3つを収めた『黒髪 他二篇』です。

 表題作「黒髪」の主人公〈私〉は、京都で23、4歳の芸者に一目惚れ。芸者稼業から足を洗ってもらおうと、多額のお金を貢ぎます。東京に帰ってからも、こまめに手紙を書いて送ります。出会って4年目の初夏、〈私〉は久々に京都を訪れて彼女と再会します。すると、どうも相手の様子がおかしいのです。不機嫌そうな上に、一緒にいるところを人に見られるのを避けているようなのです。なぜかお座敷ではなく、女が母親と同居している家に招かれた〈私〉は、図々しくもそのまま居座り一ヶ月が経過。ある日、〈私〉は気付きます。まだ借金があるという割に、高価そうな服がたくさんあることに。それだけではありません。新調された仏壇を覗き、中に隠されていた写真を見つけるとそこには……。

 文アルでは、文豪たちに「銃」「弓」など得意な武器の属性が割り当てられています。近松の武器を何にするか考えると、ゲームに実装されていない特殊なものになりますが、「粘着テープ」がぴったりきます。女の家に平気で居座る、作者とほぼ同一人物である主人公のしつこさは、続く「狂乱」でより顕在化。帰省している隙に女に逃げられた〈私〉は、同じく姿を消していた彼女の母の居場所を突き止め、娘はどこにいるのかと詰問するもはぐらかされてしまいます。すると後日〈私〉の宿泊先に、女の親類に頼まれて来たという法律事務所の職員が現れます。娘は君が何度も送った脅迫めいた求愛の手紙により精神に異常を来している、関係を続けたければ慰謝料を出せと代理人の彼から迫られる〈私〉。相手の精神にダメージを与える粘着力は、戦闘では有効そうですが、こと恋愛においてはマイナスに働いていたのです。

 3篇目の「霜凍る宵」では女の転居先を訪れ、彼女の母に門前払いされてしまう〈私〉。すると夜中、〈今晩は今晩は今晩は今晩は〉と大声を上げながら家の扉を叩きます。それでも拒絶されると別の日に不法侵入を果たし、復縁するまではと座り込みを敢行。仲裁に入った隣家の主人に、女からの伝言を預かってきたと周りに聴こえないよう耳元で内容を伝えられると、〈主人の口から静かに吐き出す温かい息が軟かに耳朶を撫でるように触れるごとに、それが彼女自身の温かい口から漏れてくる優しい柔かい息のように感じられて、身体が、まるで甘い恋の電流に触れたように、ぞくぞくとした〉と、誰もがドン引きする心情を語ります。人気声優が声を担当しているのも文アルの魅力ですが、イメージダウンを厭わず近松役を引き受けてくれる声優のいることを願ってやみません。

 本書で作者の訴えたいこと、それは〈私〉=自分が女に捨てられた哀れな男だということです。なのに、読み進める内に読者の同情は薄れていくこと必至。一方で、どこまで〈私〉が醜態を晒すのか楽しみにもなってくるのが、面白いところです。ゲームでも戦闘そっちのけで失恋を愚痴り出す迷惑男キャラで登場したら、案外人気を集めると思うのですが。

※引用部分について、原本は旧字旧仮名ですが新字新仮名で表記しています。

黒髪―他二篇 (岩波文庫)

黒髪―他二篇 (岩波文庫)

町屋良平『しき』

しき

書いた人:小林紗千子 2018年9月書評王
船橋で司書をしています。電子書籍リーダーがほしい。


 
 町屋良平の描く若者たちは、それぞれに感じやすくざわめく心と身体を持て余している。2016年に文藝賞を受賞したデビュー作『青が破れる』ではボクシング、今作ではダンスが持て余した何かを発散させるすべとなるのだが、彼らは決して強いボクサーでもなければ才能豊かなダンサーでもない。そこが良い。『しき』は平凡な若者のきらめきを描いた、好感度高めの青春小説だ。
 主人公は<かれ>こと、クラスでは<ヒエラルキーの内側にすら入れない>存在の星崎。反抗期真っ只中の弟と母親の口論に悩まされ、毎夜公園で“テトロドトキサイザ2号踊ってみた”という動画を見てダンスの練習をしている。踊っているとき、踊りのことを考えているとき、かれは無敵だ。本気で<画面に映っている動画の、粒子よりこまかく、すべらかな動きを、ものにしたい>のだ。ちなみにこの動画は実在のもので、見ると想像以上にレベルの高いダンスとキレのあるダンサーたちの動きに目を奪われる。地味キャラ星崎、本当に踊れるのか?
 <実際に練習しているときより、あたまのなかで踊っているときのほうが、なんとなくうまくおどれているきがする>という星崎は、ダンスする時の身体感覚を自分の中で消化できず、衝動のまま踊っている。同じクラスで、女子のノリに馴染めないグループにいる樋口凛への淡い恋心は、自分の中で言語化できていない。言葉と身体、感情の結びつきがスムーズにいかない思春期の心情がそのままに、視点に揺らぎのあるユニークな三人称で語られていく。必要以上にひらがなを多用した抜け感のある文体に紛れて、彼らの言葉はときおり鋭く真実を突いてくる。
 学校では同じ中学出身の坂田、徳島から転校してきた草野と共にお昼を過ごす星崎だが、ダンスへの熱い思いは幼なじみにしか話さない。このワケありな幼なじみ、つくもの存在がいい。河原で暮らし、もちろん学校には行ってない彼は世間から見たらはみ出しものだが、そこらへんを星崎は深く追求しない。学校でも家庭でもない外部の人間関係だが、星崎を決定的に成長させるのは、つくもである。彼に子供ができた、という告白をきっかけに、へなちょこだけど本気の殴り合いをして絶交する二人。踊りに集中できなくなるほど思い悩んで、はじめて星崎は<いまのこの感情、感覚、わからなさこそをことばにしたい。表現したい>という強い意志を持つ。
 春には衝動のみで踊っていた<かれ>が、冬になる頃には自らの考えで動き、踊る。そしてまた春が巡ってくる頃、一年前とは違う景色が広がっている。伸び盛りな彼らの「しき」は、大人の目から見ると眩しくて懐かしい。
 作中には親の離婚や友達の鬱など、ままならない現実も多々出てくる。だが星崎を中心とした登場人物の、高二らしいどこか呑気な軽さによって、作品全体を取り巻く空気は明るい。悩みながらも、わからないことはわからない、と書けるような潔さがこの小説にはあるのだ。阿波踊りの名手である地元の友人、杉尾に憧れていた草野と踊ることになり、一人から二人へと踊りの同調が広がっていく経緯も青春小説らしい爽やかさに満ちている。そして一見ドライに見える若者たちの、行間に隠された素直な熱さが滲み出るようなラストも心地よい。
 『青が破れる』では三島賞候補、今作『しき』は芥川賞候補作となったことでも知られる町屋良平。かつて文藝賞受賞時のインタビューで「どういう文章をつかって物語をつくると一番小説として生きてくるのか」を考えている、と語っていたように、彼の描く物語は文体や語り口がバラエティに富んでいる。しかし作品の根底に共通する、特別な何かを持たない人々を適切な温度感で肯定する姿勢に救われる人は多いはずだ。世代を問わず全力でおすすめできる、今後も要注目の作家である。

しき

しき