書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

『エロ事師たち』野坂昭如(新潮文庫)

エロ事師たち (新潮文庫)

書いた人:山口裕之 2016年3月書評王
1969年生まれ。学生時代からのあだ名の「ルー」で呼んでもらうことも多いです。講座へは2007年4月期から参加。好きなものは自転車、ビール、ボードゲーム。嫌いなものは占いとエセ科学

 

 昭和五年(1930年)に生まれ、平成27年(2105年)12月9日に85歳で亡くなった野坂昭如は、作中人物のひとりに、自身と同じ10月10日の誕生日を与えている。昭和38年(1964年)に発表されたデビュー作『エロ事師たち』の主人公だ。

 スブやんは35歳。空襲で若くして母を亡くし、いろんな商売を転々としたあげく、盗聴テープやブルーフィルム(8ミリフィルムで撮影された家庭で上映できるエロ映画)を扱う「エロ事師」として世渡りをしている。全体は6章に分かれていて、1961年の年末から1964年の年末まで。この最後の年は東京オリンピックがあった年にあたる。
 スブやん制作のエロフィルムのカメラマン兼監督で、ときには主演男優もつとめる伴的(ばんてき)。ブツの運び屋でペットとしてゴキブリを飼っているゴキ。自分の作品でオナニーするのが最高というエロ小説家のカキヤなど、癖の強い仲間たちとともに、エロ映画を撮ったり、田舎から出てきたBG(ビジネスガール)をコールガールに仕込んで斡旋したり、はたまた通勤ラッシュで痴漢指南したり。エロ業界のさまざまな側面が活写されていて、発表当時は一種の実録・裏業界ものとしても読めたに違いない。
 表をはばかる商売ではあるが、スブやんはこの仕事を卑下してはいない。内縁の妻お春に寝物語に聞かせていわく「よう薬屋でホルモン剤やら精力剤やら売ってるやろ。いうたらわいの商売はそれと同じや、かわった写真、おもろい本読んで、しなびてちんこうなってもたんを、もう一度ニョキッとさしたるわけや、人だすけなんやで」。こうして他人のものを立たせるぶんにはいいのだが、お春の死後、その連れ子の恵子といたそうというだんになって、スブやんインポになってしまう。自らの不能を埋め合わせるかのように、彼はある野望に取り憑かれていく。
 セックス描写は多いが、読んで興奮するという書かれ方ではない。むしろ驚いてしまうのは、エロ事師たち苦心の作を貪欲に飲み込んでおかわりまで要求する客たち(スブやんいわく“色餓鬼亡者”)の旺盛な性欲だ。東京オリンピック前夜のアゲアゲの時代。男ばかりではなく、女もまたときに正直に、ときにしたたかに、自分の欲を満たそうとする。スブやんは「いっぱつバチーンと、これがエロやいうごっついのんを餓鬼にぶつけたりたいねん」との一念で商売にのめり込んでいくのだが、「亡者」たちの果てしない欲望の前には賽の河原のたとえが浮かぶばかりだ。
 生命力あふれる男女が描かれる一方、スブやんの側には、濃厚な死の気配が漂っている。しかも野坂は「死」をけっしてロマンチックだったり、意味あるものとしては描かない。たとえば作中でスブやんが、お春に堕胎させた子の亡骸を葬る場面。
〈翌日、山本山の海苔の缶に、土と共に包装された五ヶ月の胎児を、スブやんしっかとかかえ、伴うは伴的にゴキ、淀の川原を粛然として歩く。水際にいたって三人靴を脱ぎすて、うわべぬくうても、底は冷たい晩春の水に膝までつかり、「さあスブやん、この先きもうぐっと深いから大丈夫や、放り込んだらええわ」とゴキにいわれ、スブやんふと悲しさがこみあげ、「ほんまかわいそうなことしたなあ、せっかくチンチンつけて勇んでたのに、かんにんしてや」と半ば涙声でつぶやき、思いきってポーンと投げる。とたんにゴキ、鋭い声で「敬礼」と号令をかけ、三人そろって見事に挙手の礼〉。
 即物的な性と、即物的な死が隣り合わせで描かれる。だからこそ「生」のエッジがくっきりと立ち上がってくる。戦争どころか、戦後さえ遠くなりつつある現代で、本作の普遍性がかえって際だつようだ。生涯、性と生を描き続けた作家の、見事な処女作なのである。

 

エロ事師たち (新潮文庫)

エロ事師たち (新潮文庫)

 

 

『学校の近くの家』青木淳悟(新潮社)

 学校の近くの家

書いた人:長瀬海(ながせ かい) 2016年2月書評王
ライター・書評家(これまでの仕事リスト → http://nagasekai.tumblr.com
ツイッターID: @LongSea
メールアドレス:nagase0902アットマークgmail.com

 

 青木淳悟の小説を手に取り、最初の一ページをめくる前、いつもかすかな慄きに襲われる。それは私のなかにある小説についての既成概念がまた壊されるのか、という予感があるからだ。例えば、第25回三島賞受賞作の『私のいない高校』。カナダから来たブラジル出身の留学生を受け入れた高校の生活を無機質な、まるで日誌のような文章で綴ったこの小説は、「私」という、物語を動かすペルソナともいうべき主人公を徹底的に排除した作品となっていて、近代以降に作り上げられたあらゆる小説観をぶち壊す一冊だ。とある高校の先生が書いた留学生の日記がこの小説の原典として存在すると知り、作品を解読する鍵がそこにあるはずだと国立国会図書館に足を運んだが、作者の思惑がますますわからなくなるばかりで、頭を抱えたものだった。

 そんな経験が私のうちにあるものだから、本作を読む前にぎゅっと身構えたが、同時に心のどこかにほんのり期待もあった。また「小説」を壊してくれますようにーー。

 『学校の近くの家』は、平成になったばかりの時代を背景に、埼玉県狭山市の小学校に通う男子のスクールライフを描いた連作短編集だ。といっても学校小説と聞いて頭にすぐ浮かぶような、小学生の友情や周囲との葛藤を読者の情感に寄り添いつつ描いた青春モノではない。作者のたくらみはその彼岸にある。

 小学五年生の杉田一善は、全校生徒のなかで一番学校に近い家に、両親と9つ離れた妹の4人で住んでいた。物語はこの「学校の近くの家」を中心に、一善が五年生だった頃という過去を掘り返しながら、さらにそれ以前のおぼろげな記憶を遡り、また戻って来る、という具合に進んで行く。けれど、そこにはほとんど物語の起伏はない。断片的なエピソードが、驚くほど詳細な周辺地域のディテールとともに淡々と語られていく。小学二年生の時に、母親が妹を出産し、学校でちょっとした話題となったこと。社会の授業で地域の地図を調べたことをきっかけに、友人と放課後の冒険に出かけたものの、こころざし半ばで頓挫してしまったこと。母親が自宅の隣に新しく作られた学童保育所を任されたこと。歴史ゲームをやり込んでいたおかげで、学校の行事で披露することになった時代劇の企画立案の際にクラスの中心となれたこと。ドラマ性に乏しいこうした過去の逸話のひとつひとつが無感動な文章で綴られていく。

 ドラマ性を完全に脱臭する、その反・小説的な企て。それは次のような叙述のなかで行われている。例えば、母親の光子はかつて流産をした経験を持ち、過去から逃れるようにこの地にやってきた。しかし、そのエピソードは仄めかされるだけで、章題通り、「光子のヒミツ」は読者にも秘密にされる。それから、ストーリーの核となる一善の小学校生活も、全く郷愁を読者に押し付けない。ただ時折現れる、ファミコンソフトや空中で爆発したチャレンジャー号、光GENJIといった固有名詞からノスタルジアを読者が勝手に感じるだけなのだ。ドラマが隆起する手前で、作者はそこに蓋をするかのように筆を進めていく。

 さらに奇妙なのは語り手だ。一善の過去を探る語り手は、この主人公のことを「指標児童」と呼び、不確かな記憶をはっきりさせるために、一善を「抽出」あるいは「放送で呼び出し」て確認したいと言う。一善の作文、光子の日記、そして二人の記憶を手掛かりに物語を作り上げるこの不気味な語り手は、果たして何者で、何のために一善の過去を物語として紡ぎだしているのか。と、問うてみるものの、そんな問いすら虚しくなってくる。

 既存の小説作法から大きく逸脱したこの作者の技法は、凝り固まった小説観を破壊する。そこにこの小説を読む悦びがある。私はいま、本作を含めた青木淳悟の数々の小説を21世紀のアンチロマンという意味を込めて、ネオ・ヌーヴォロマンと読んでみたい。小説はまだまだ壊される余地があるのだ。

 

 

学校の近くの家

学校の近くの家

 

 

『犬の心臓・運命の卵』ミハイル・ブルガーコフ(増本浩子/ヴァレリー・グレチュコ訳 新潮文庫)

犬の心臓・運命の卵 (新潮文庫)

書いた人:坂田耳子(さかた みみこ) 2016年1月書評王
犬好きの猫飼い。本まわりの仕事をしています。
https://twitter.com/coinu

 

いらっしゃいませ、犬専門書店書肆こいぬ(※)です。犬の登場する本を全世界から取り集めておりますので、必ずやお客様のお気に召す一冊が見つかると思います。さてさて、今日はどのような本をお探しですか? なるほど、犬が大好きだけど、最後に犬が死ぬ話は苦手。犬が最後まで死なない話がよいのですね。分かります、分かります。私も大の犬好きですので、犬が死ぬ話は人間が死ぬ話よりも読んでいて辛い。号泣必至なものをわざわざ読みたくないというお気持ち、よく分かります。

そんなお客様には新潮文庫から新訳が出たばかりのミハイル・ブルガーコフ「犬の心臓」をおすすめします。多少犬が手荒な扱いを受けますが、ご安心ください。犬は死にません!

モスクワの街をうろつく野良犬コロは無慈悲なコックに熱湯を浴びせられて脇腹を火傷、空腹も相まって息も絶え絶えのところをフィリップ・フィリーバヴィチ・プレオブラジェンスキー教授に拾われ、自宅で豪華な食事と手厚い看病を施されます。突如降って湧いた幸運にコロは鏡を見ながら、自分は「ひょっとしたら世に知られていない犬の王子様なのかも」「おばあちゃんがニューファンドランド犬と過ちを犯したのかも」と甘い空想を膨らませます。が、プレオブラジェンスキー教授がコロを連れて帰ったのには別の恐ろしい理由がありました。

若返りの研究で著名な医師であるプレオブラジェンスキー教授は、助手のドクター・ボルメンタールとともに、死んだばかりの男の精巣と下垂体を犬に移植する実験を試みたのです。つまりコロはその実験のためにプレオブラジェンスキー教授に連れて来られたのです。

人間の精巣と下垂体を移植されたコロは、思いもよらないことに徐々に人間化していき、術後一ヶ月も経たないで、完全な人間の外見となりました。そして、人間と同じものを食べ、自分で着替え、煙草を吸い、会話もスムーズに成り立つようになります。プレオブラジェンスキー教授の当初の仮定とは違って「下垂体の交換は若返りの効果ではなく、完全な人間化をもたらした」のでした。

人間となったコロはポリグラフポリグラフォヴィチ・コロフという名前を得、さらにモスクワ市公共事業局動物処理課長という役職(主な仕事は野良猫を絞め殺すこと)まで得ます。しかし、コロフは数々の問題行動を起し、さらにはプレオブラジェンスキー教授を反体制だと敵視するシュヴォンデルに加担、教授に反抗的な態度をとります。前科者の下垂体を移植したことから、今後コロフの更生は見込めず、ますます凶悪な人間となって、プレオブラジェンスキー教授を破滅へと追い込むと考えた助手のドクター・ボルメンタールはコロフの殺害を教授に提案します。が、教授は決してそれを許しません。教授はこう言います。「絶対に犯罪に手を染めてはならない。それが誰に対するものであったとしても。手を汚さないで、年をとるまで生きていくのだ」最終的にある手段を用いて、プレオブラジェンスキー教授とドクター・ボルメンタールはコロフの暴走を阻止します。しかし犬は死にません。

作者のミハイル・ブルガーコフソビエト連邦スターリン体制下で、反体制的な作風の戯曲や小説を発表し、その多くが発禁処分を受けました。この「犬の心臓」もプレオブラジェンスキー教授の反体制的な言動、党が推進する科学至上主義への揶揄から発禁処分になったと言われています。が、ブルガーコフの最も痛烈な体制批判は、この「殺さない」ことではないかと思うのです。醜悪だけど、非力なコロフを始末してしまうのが最も簡単な解決法でした。しかしプレオブラジェンスキー教授は最も手のかかる方法を選びます。それは簡単に人を殺して反対勢力を粛清していった体制へ「人間の本来のあり方」を示したともいえるのではないでしょうか。

ご安心ください。犬は死なないのです。


※ 実際の「書肆こいぬ」は犬専門書店ではありません。

 

 

犬の心臓・運命の卵 (新潮文庫)

犬の心臓・運命の卵 (新潮文庫)