書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

『犬の心臓・運命の卵』ミハイル・ブルガーコフ(増本浩子/ヴァレリー・グレチュコ訳 新潮文庫)

犬の心臓・運命の卵 (新潮文庫)

書いた人:坂田耳子(さかた みみこ) 2016年1月書評王
犬好きの猫飼い。本まわりの仕事をしています。
https://twitter.com/coinu

 

いらっしゃいませ、犬専門書店書肆こいぬ(※)です。犬の登場する本を全世界から取り集めておりますので、必ずやお客様のお気に召す一冊が見つかると思います。さてさて、今日はどのような本をお探しですか? なるほど、犬が大好きだけど、最後に犬が死ぬ話は苦手。犬が最後まで死なない話がよいのですね。分かります、分かります。私も大の犬好きですので、犬が死ぬ話は人間が死ぬ話よりも読んでいて辛い。号泣必至なものをわざわざ読みたくないというお気持ち、よく分かります。

そんなお客様には新潮文庫から新訳が出たばかりのミハイル・ブルガーコフ「犬の心臓」をおすすめします。多少犬が手荒な扱いを受けますが、ご安心ください。犬は死にません!

モスクワの街をうろつく野良犬コロは無慈悲なコックに熱湯を浴びせられて脇腹を火傷、空腹も相まって息も絶え絶えのところをフィリップ・フィリーバヴィチ・プレオブラジェンスキー教授に拾われ、自宅で豪華な食事と手厚い看病を施されます。突如降って湧いた幸運にコロは鏡を見ながら、自分は「ひょっとしたら世に知られていない犬の王子様なのかも」「おばあちゃんがニューファンドランド犬と過ちを犯したのかも」と甘い空想を膨らませます。が、プレオブラジェンスキー教授がコロを連れて帰ったのには別の恐ろしい理由がありました。

若返りの研究で著名な医師であるプレオブラジェンスキー教授は、助手のドクター・ボルメンタールとともに、死んだばかりの男の精巣と下垂体を犬に移植する実験を試みたのです。つまりコロはその実験のためにプレオブラジェンスキー教授に連れて来られたのです。

人間の精巣と下垂体を移植されたコロは、思いもよらないことに徐々に人間化していき、術後一ヶ月も経たないで、完全な人間の外見となりました。そして、人間と同じものを食べ、自分で着替え、煙草を吸い、会話もスムーズに成り立つようになります。プレオブラジェンスキー教授の当初の仮定とは違って「下垂体の交換は若返りの効果ではなく、完全な人間化をもたらした」のでした。

人間となったコロはポリグラフポリグラフォヴィチ・コロフという名前を得、さらにモスクワ市公共事業局動物処理課長という役職(主な仕事は野良猫を絞め殺すこと)まで得ます。しかし、コロフは数々の問題行動を起し、さらにはプレオブラジェンスキー教授を反体制だと敵視するシュヴォンデルに加担、教授に反抗的な態度をとります。前科者の下垂体を移植したことから、今後コロフの更生は見込めず、ますます凶悪な人間となって、プレオブラジェンスキー教授を破滅へと追い込むと考えた助手のドクター・ボルメンタールはコロフの殺害を教授に提案します。が、教授は決してそれを許しません。教授はこう言います。「絶対に犯罪に手を染めてはならない。それが誰に対するものであったとしても。手を汚さないで、年をとるまで生きていくのだ」最終的にある手段を用いて、プレオブラジェンスキー教授とドクター・ボルメンタールはコロフの暴走を阻止します。しかし犬は死にません。

作者のミハイル・ブルガーコフソビエト連邦スターリン体制下で、反体制的な作風の戯曲や小説を発表し、その多くが発禁処分を受けました。この「犬の心臓」もプレオブラジェンスキー教授の反体制的な言動、党が推進する科学至上主義への揶揄から発禁処分になったと言われています。が、ブルガーコフの最も痛烈な体制批判は、この「殺さない」ことではないかと思うのです。醜悪だけど、非力なコロフを始末してしまうのが最も簡単な解決法でした。しかしプレオブラジェンスキー教授は最も手のかかる方法を選びます。それは簡単に人を殺して反対勢力を粛清していった体制へ「人間の本来のあり方」を示したともいえるのではないでしょうか。

ご安心ください。犬は死なないのです。


※ 実際の「書肆こいぬ」は犬専門書店ではありません。

 

 

犬の心臓・運命の卵 (新潮文庫)

犬の心臓・運命の卵 (新潮文庫)