書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

『冬の夜ひとりの旅人が』イタロ・カルヴィーノ(訳/脇功)

冬の夜ひとりの旅人が (白水Uブックス)

書いた人: 鈴木隆詩 2016年11月ゲスト牧眞司
フリーライター(主にアニメ音楽) 

 自らの体験である第二次世界大戦中のパルチザン活動を描いた長編第一作『蜘蛛の巣の小道』から始まり、作品ごとに作風を変えていったイタリアの作家イタロ・カルヴィーノ。その著作には、地上に一歩も降りずに一生を暮らした男を描いた『木のぼり男爵』や、マルコ=ポーロによる架空の都市の見聞録という体裁の『見えない都市』、SF的な要素を取り入れた『レ・コスミコミケ』など、多彩な作品が並ぶ。そんな彼の最後の長編となったのが、1979年に発表された『冬の夜ひとりの旅人が』。この作品には、小説内小説として10編の冒頭部分が登場する。それがまた色とりどりなのだ。

 主人公は、小説の冒頭部だけを繰り返し読むことになり、その続きを追い求める〈男性読者〉。彼はまず、イタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人に』を読み、次にポーランド人作家バザクバルの『マルボルクの村の外へ』を読み、次にチンメリアの詩人ウッコ・アフティが残した唯一の小説『切り立つ崖から身を乗り出して』を読む。その全てが途中で途切れ、続きが気になって、さまざまな手がかりを探す〈男性読者〉は、その度に〈きのう読んでいた小説とは全くなんの関係もない〉新たな小説の冒頭部を手にすることになるのだった。

 もちろん、チンメリアなどという国は現在も過去も実在したことはなく、カルヴィーノのホラ話は、物語が進むごとにドライブ感を増していく。日本人として楽しいのは、8番目に出てくる『月光に輝く散り敷ける落葉の上に』だろう。日本文学のあからさまなパロディで、〈オケダ氏の末娘のマキコが、上品な立ち居振舞いとまだわずかにあどけなさを残した美しい容姿を見せて、お茶を持ってきた。お辞儀をすると、ひっつめて上に巻き上げた髪の毛の下のうなじに細いうぶ毛が背筋まで続いているかのように見えた〉という、谷崎的というか、いかにもありそうな女性描写には、思わずニヤリとしてしまう。
 他にも、ラテン文学ありスパイ小説ありと、さまざまなジャンルが並び、〈男性読者〉と同じ、続きを求めずにはいられないもどかしさを味わえるのが、この作品の快楽ポイントだ。

 それと同時に、ラブストーリーも用意されている。〈男性読者〉が書店で出会うことになる若い女性ルドミッラ。彼女もまた、次々と現れる小説の続きを追い求める〈女性読者〉であり、〈男性読者〉にとっては、魅力的かつ謎めいた想い人になっていく。面白いのは、ルドミッラのような雰囲気を漂わせる女性が、各“小説内小説”にも入れ替わり立ち替わり登場すること。ルドミッラのイメージは、作品全体にふわりと漂うことになり、〈男性読者〉の恋は読書体験とともに深みに落ちる。人生と読書が分かちがたくあり、その果てに男性読者は遥か南米まで運ばれていくことになるのだ。

 さらに、スランプに陥った老作家のサイラス・フラナリーや、フラナリーの翻訳者であり、かつて二つの秘密結社を作ったという謎の人物エルメス・マラーナといった登場人物が現れ、〈男性読者〉の読書体験を複雑なものにしていく。〈私は書き出しの部分だけがある本を、そして全体にわたって冒頭部のもつ可能性が、まだ対象の定まらない期待感が持続するような本を書くことができたらと思う〉とフラナリーに語らせているカルヴィーノ。これは『冬の夜ひとりの旅人が』のテーマそのもの。果てることのない〈期待感〉の連なりは、永遠の命のようでもあり、絶頂に至ることのない男女の交わりのようでもある。

 1981年の松籟社版、1995年のちくま文庫版、そして2016年に出た白水Uブックス版と、時を置いて、何度も復刊を果たしている『冬の夜ひとりの旅人が』。この作品が古びないのは、知的な遊戯のところどころに、心地よい肉体性が潜んでいるからだ。

 

『蜜蜂と遠雷』恩田陸(幻冬舎)

蜜蜂と遠雷

書いた人:白石 秀太(しらいし しゅうた)
同志社大学文学部美学芸術学科卒。会社員

  

 感情が高ぶる、高ぶる。
 世界のコンクールの中でも注目度の高いという〈芳ヶ江国際ピアノコンクール〉に各国から集まったピアニストたちの戦いを描く恩田陸の『蜜蜂と遠雷』。三度の予選と本選の、二週間にわたって繰り広げられる演奏家たちのぶつかり合いに最後まで興奮させられっぱなしだった。芸術に優劣がつけられて参加者がふるい落とされていくのは残酷だ。でも著者はそれをひっくるめた上で、ほんの一握りの才能が選び抜かれる瞬間の凄まじい歓喜をこの一冊に詰め込んだのだ。
 見どころは勝ち残り戦だけじゃない。全編にわたって溢れる、音楽だ。各章のタイトルからして音楽一色。課題曲でもある〈平均律クラーヴィア曲集第一巻第一番〉という章もあれば、〈『仁義なき戦い』のテーマ〉なんていう名前も。さらに物語の中心となる、経歴も音楽性も違う4人の演奏家が一人一章ずつ登場する際も、各人物を演出するかのような章題になっている。まず〈前奏曲〉の章で登場するのは自宅にピアノすらない養蜂家の息子、風間塵。震音を意味する〈トレモロ〉の章では、幼少期には雨の連続音にリズムを感じていたほどの才能で国内外のジュニアコンクール覇者にもなったが、13歳で訪れた母の死が原因で7年間ステージから去っていた栄伝亜夜。〈ララバイ〉つまり子守歌の章は、妻も子供もいる勤め人にして応募規定ギリギリの28歳、高島明石。そして大本命とばかりに〈ドラムロール〉の章で現れるのが、名門ジュリアード音楽院生で実力は文句なし、勤勉でしかもルックス良しのマサル・C・レヴィ・アナトールだ。
 個性的な主人公たちの中でも風間塵の存在は異例だ。学歴も演奏活動歴も無いのに、晩年弟子はとらなかったはずの世界的音楽家の実は秘蔵っ子で、推薦状まで遺されていたのだ。〈皆さんに、カザマ・ジンをお贈りする。〉〈彼を本物の『ギフト』とするか、それとも『災厄』にしてしまうのかは、皆さん、いや、我々にかかっている。〉という内容。実に思わせぶりな〈前奏曲〉が物語の幕開けだ。
 そして圧巻の演奏シーン。同じものは一つとないその人だけの音色、さらには、努力家だけが感じる喜びや天才にしか見えない風景というピアニストの心にまで肉迫しながら、魂の演奏に興奮したり涙する聴き手の感情にも焦点を当てる。色々な視点を重ねて、音楽だけが与えてくれる高揚、〈「あの瞬間」には完璧な、至高体験と呼ぶしかないような快楽〉を、著者は言葉を尽くして表現する。一曲一曲が圧巻のドラマだ。主人公たちの選曲にも徹底している。フランツ・リストの大曲を一九世紀のグランドロマンに見立てて解釈するマサルや、コンテストではまず使われないエリック・サティを自由曲に選ぶ塵。4人の選曲が音楽家としてのプロフィールにもなり、場面ごとのBGMにもなっている。
 濃密な二週間には別の時間も織り込まれる。参加者たちの「今まで」と「これから」だ。大会にむけて費やしてきた膨大な労力、音楽に夢中だった子供の頃にまで遡る記憶がピアニストたちの頭に去来する。でもこのステージは発表会ではない。才能と才能が刺激しあうことで、今まで気づかなかった新しい目標、苦悩を帳消しにしてくれる「もっと弾きたい」という純粋な理由と出会う場所となる。
 感情を高ぶらせるのはこれだ。主人公たちが刺激しあって才能を開花させ、大会の終わりと同時に音楽の道へと歩み出す姿が、読者にじっとしていられない衝動を与えてくれる。風間塵の推薦文のようにこの本もまた、芸術の世界の厳しさを突きつける〈災厄〉でありながら、夢を追う人の背中を押す〈ギフト〉になる。自身の代表作『夜のピクニック』で〈何かの終わりは、いつだって何かの始まりなのだ〉と書いた著者らしく、『蜜蜂と遠雷』は壮大な「始まりの物語」なのだ。

蜜蜂と遠雷

蜜蜂と遠雷

 

 

『ペルーの異端審問』 フェルナンド・イワサキ(八重樫克彦・八重樫由貴子訳)

ペルーの異端審問

書いた人:横倉浩一 2016年10月書評王
都内の私立男子校で国語を教えてます。大学院時代の専門は近世文学。上田秋成井原西鶴を主に読んでいました。サッカー部・演劇部泡沫顧問。図書館部長。スポーツではNBAとツールドフランス、ボクシングなどを好んで観戦。毎年、徳之島に闘牛を見に行くことを恒例としています。飲みには行くがお酒は飲めない。バツイチ独身。

 

 ローマはパンテオン宮殿のほど近く。賑やかな大通りからやや奥まった場所にジェズ教会はひっそりたたずんでいる。ジェズとは即ちイエズス会。教会の奥にはあの、フランシスコ・ザビエルの小礼拝所がある。注目すべきはガラス一枚隔てたそこに、ザビエルの右手(肘から先)が展示されてるということ。すっかり干からびミイラ化しはいるものの、これが正真正銘あのザビエルの身体の一部だと思うとテンション上がる。即身仏として崇められる高僧の話は日本にもあるが、遺骸をバラバラにして分散させ、各地で信仰を促す縁(よすが)とする発想(ちなみに右手の肘から上はマカオ、耳はリスボン、歯はポルトにあるとか)を目の当たりにして、死体に向ける彼我の意識の違いに驚くオレが、かつていた。がしかし!そんなことで驚いていては甘いのである。

 中世。ペルーはリマに一人の聖人がいた。クリストル・パン・イ・アグア修道士。死後、神はこの者にある作用を及ぼした。検査に立ち会った外科医の報告。〈故人の体は生きているかのごとく健康で(略)陰茎の直立に関しては、過去に多くの遺体と対面してきた外科医の観点から考えても医学的根拠が見当たらず、むしろ神の意志であると見なす〉。奇跡。でもそこ?そこに〈神の意志〉?だがこの直立問題に対し、異論が提出された。〈上半身は神に仕え、下半身はどちらかと言えば罪に向かう傾向がある〉〈直立状態は神の御業どころか、むしろ(略)罪人達にありがちな、死してまでも神を冒瀆する行為を彷彿させる〉。神の意志か。冒瀆か。厄介なこの問題はしかし意外なところから証言がもたらされ、あっけなく解決の運びに。長年死刑囚の埋葬に携わってきた慈悲深き修道女の言。彼女によれば、死刑囚にも死後、陰茎の硬直は見られるものの、その陰茎は〈異臭を放つ例がほとんどだ〉。だがアグアのそれは〈甘い香りを放ち、本来の色つやも弾力性も損なわれなかった〉とか。この証言に高名な女子修道院の院長がお墨付きを与えたことで、直立問題は〈神の御業〉と認定された。めでたし。めでたし。

 これは実際の裁判記録をもとネタに持つ短編が十七話収められた『ペルーの異端審問』のエピソードの一つ。「高徳の誉れ」と題されたこの小話にはまだ後日談が存在する。五年後アグアの遺体が墓から掘り起こされた時、例のお墨付きを与えた院長がいた女子修道院が遺体から例の〈モノ〉を〈聖遺物として持ち帰った〉というのだ。嗚呼、切り取られたその〈聖遺物〉。今もどこかでザビエルの右手みたいに善男善女を導く縁となっているのだろうか。

 他にも、悪魔に陵辱されている女に欲情して悪魔を上回る快楽をその女に与え、悪魔から嫉妬される神父や、修道服を着て修道士になりすますことでまんまと多くの女をものにしてきたコスプレ男の話、聖職者を誘惑して宗派ごとの精液をコレクションしてはそれを素材に妖しげな料理を作る女や、天国の席をチケットぴあよろしくグレード別にして値段を分けて売りさばいては大儲けした修道士の話など、タブーを破って神を冒瀆するにもほどがある人間たちの姿を活写して笑いを誘う話が次々登場する。しかもこれが全て資料にもとづく実話だというから驚きだ。

〈僕はこの街の底にたまった宗教的な沈殿物を一掃し、敬虔なイメージを払拭する〉

リマ出身で現在はスペイン在住の作家フェルナンド・イワサキがそう宣言して1994年に上梓された本作は、96年・97年・07年とマイナーチェンジを繰り返しながら版を重ねている。96年版からは文豪マリオ・バルガス・リョサによる構成の巧みさを評価する序文が付され、今回邦訳が出るに当たっては、筒井康隆が各編の終わり数行の切れ味の冴えを絶賛する巻頭言を寄せている。必ず最後にオチが来てクスリとさせられる、落語にも似た日本人になじみの艶笑小説としても味わえる傑作小咄集だ。

 

ペルーの異端審問

ペルーの異端審問

 

 

『パルプ』チャールズ・ブコウスキー(筑摩書房、柴田元幸訳)

パルプ (ちくま文庫)

書いた人:長瀬海(ながせ・かい)2016年9月書評王
ライター・書評家(これまでの仕事リスト → http://nagasekai.tumblr.com)。
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 ニューヨークの古本屋では、店主が腕利きであればあるほど、棚にポール・オースターチャールズ・ブコウスキーの作品が並んでいない。それは品揃えが悪いということではなくて、盗難防止のためにカウンターの下に隠してあるからだ。前者は一番売れ行きが良いため。後者は、いまだ衰えることのないその狂信的な人気と、ブコウスキーを愛する者の懐の貧しさゆえ。そんなことを以前、翻訳家の柴田元幸がどこかで書いていた。

 今やブコウスキーは、酒とセックスに溺れながらも、ドライでシニカルな視線を人間そのものあるいは彼じしんに向け続けた作家として知られている。けれども、その作品のふしぶしには極上のユーモアが込められていて、人間が生きる社会の愚かさをこそ描いたが、ビートニクの小説家たちのように、そこに新たな物語をぶつけて「抵抗」することを作家としての至上命題としなかった。父親からの虐待の日々、友情とは無縁だった孤独な少年期を描いた『くそったれ! 少年時代』。セックス、ドラッグ、喧嘩の毎日に明け暮れる飲んだくれの主人公たちを通じて、生の脆さ、死の軽薄さを描いた短編集『町でいちばんの美女』。彼は、あくまでも、ドヤ街のうらびれた路地裏で完結するような敗北の物語を描き続けたのだった。

 さて、『パルプ』はブコウスキーが遺した最後の長編小説だ。カリフォルニアのある街に事務所を構える探偵、ニック・ビレーンのもとへ一本の電話がかかってくる。「セリーヌをつかまえてほしいのよ」そう、『夜の果てへの旅』で名を馳せ、1960年代半ばに没したフランスの小説家、セリーヌである。依頼人は死の貴婦人と名乗る、とびっきりの美女。彼女に命じられるままに街の古本屋へ向かうと……いた、セリーヌが! そんな謎めいた事件(?)を皮切りに、ニックのもとに次々とヘンテコな依頼が舞い込んでくる。赤い雀を捕まえてくれ、自分につきまとう宇宙人をどうにかしてくれ、挙げ句の果てには、今度はセリーヌから死の貴婦人の正体を突き止めろと言われる始末。ニックの日常が、いや、人生そのものが狂気の渦に巻き込まれていく。

 さらに追い討ちをかけるように、ニックの事務所には日夜、不穏なノックの音が鳴り響く。滞納している家賃を催促する大家、ギャンブルで積み重ねた借金の取り立て屋、赤い雀の正体を知るというペテン師たち。絶望的な状況に追い込まれながらも、しかし、ニックは勇敢に立ち向かっていく。その先にあるのがたとえ、敗北でも。

 「雨(レイン)はもう止んでいたが、痛み(ペイン)はまだ残っていた。それに、肌寒くなってきて、何もかも、濡れた屁みたいな匂いがした」

 ニックは孤独だ。長年付き添った奥さんにも逃げられ、部屋でひとり安酒を飲んではグラスを壁に叩きつけている。「濡れた屁みたいな匂い」のする彼の生き様を、しかし、ブコウスキーは哀しいものとして描かない。彼はニックの後ろ姿を、永遠の負け犬という極めて無様で滑稽なものとして腹を抱えて笑ってやってくれと言わんばかりに描き上げるのだ。

 それもこれも著者の人生観がニックの上に投影されているからだろう。今年の七月に邦訳が刊行されたばかりのブコウスキーの未公開作品集『ワインの染みがついたノートからの断片』のなかに、常に勝者たらんとしたヘミングウェイに向かって次のように書いた文章がある。「アーネストは間違って理解していた。人は負けるために生まれてきたのだ。(中略)人は敗北し、打ち砕かれ、負けて、負けて、負けて、叩き潰されるのだ。」

 負け犬の美学。いや、負け犬に美学なんてものはない。あるのは怒りと、惨めさと、そんなおのれを笑える勇気だけだ。ニックは言う。「今日はツキがない。今週はツキがない。今月は。今年は。この人生は。ふん。」時を経ても錆びつくことのない負け犬の物語を読んで、ぜひとも腹を抱えて笑ってやってほしい。

 

パルプ (ちくま文庫)

パルプ (ちくま文庫)

 

 

『センチメンタルな旅』荒木経惟(河出書房新社)

センチメンタルな旅

書いた人:三星円(みほしまどか) 2016年8月書評王
シングルマザーの三振法務博士。昼は会社員、夜はときどきコラムや書評を書いています。
三星 円 (@mihoshi_m) | Twitter
ブログ:http://www.mihoshiblog.com/

 

ぬらりとした昏い水面に浮かぶ簡素な木の舟。
舟床に敷かれたゴザの上で女の人がひとり、身体を丸めて横たわっている。 
女の人は目を閉じている。眠っているのか、狸寝入りなのか。
それとも死んでいるのか。
ギンガムチェックフレアスカートがふわりと彼女の足を覆い、見えるのはつま先だけ。
チェックの色は何色かわからない。白と黒の濃淡だけでその写真は表現されている。


 荒木経惟が1971年に1000部限定で自費出版した写真集『センチメンタルな旅』が、2016年3月に河出書房新社からオリジナル版と同じく108枚すべて収めて完全復刻された。日本でも有数の有名写真集のひとつだが、オリジナル版は希少価値から極めて高額な値がつけられ、新潮社から出されている『センチメンタルな旅・冬の旅』にはダイジェスト版しか収められていなかった現状において、完全復刻版の発売は「天才アラーキー」ファンにとって驚きと喜びをもって迎えられた。

 私が荒木経惟の写真を「荒木経惟の写真だ」と認識したのは、美容雑誌『VOCE』に掲載されていた荒木の連載においてだった。数枚の写真と彼のエッセイが見開き2ページで雑誌の後ろの方に載っていた。ぱらぱらと雑誌をめくっていると、女性器が目に飛び込んできた。どきりとしてページを戻すと、それは女性器ではなく薄く開けた女性の目をアップで撮り、縦向きにしたものだった。私はまじまじとその目を見つめた。目の端をふちどるまつ毛は陰毛にしか見えなかった。その横のページにはたしか蘭の花のめしべを大写しにしたものが掲載されており、それもふっと見ると性器にしか見えなかった。女性の目も蘭の花も、もちろん目にしたことはある。ところがカメラでそれらを切り取ることにより、見えているものは同じでも、違う意味を創出できる人がいる。そのことに衝撃を受けた。そしてなにより、それらの写真は美しかった。

 それから荒木経惟の写真展に行くようになり、気に入った写真集があれば購入することもあったが、荒木は写真集の刊行点数がたいへん多いカメラマンであり、私家版も含めると400冊以上の写真集を発表しているので、なかなか全部の写真集を購入することは難しく、私家版も多いのでそもそも手にすることも困難な写真集もたくさんあった。

 復刻版とはいえ、美術展でしか見ることのできなかった『センチメンタルな旅』を手元に置けるのは嬉しい。本書は妻・陽子との4泊5日の新婚旅行を撮ったものである。表紙には結婚式の際に撮ったと思われるスーツ姿の荒木とウェディングドレス姿の陽子を写したワイド版サイズのモノクロ写真が一枚、白い和紙張りの装丁のなかに収まっている。表紙をめくると、「私写真家宣言」が序文として手書きで書かれている。

〈これはそこいらの嘘写真とはちがいます.この「センチメンタルな旅」は私の愛であり写真家決心なのです.自分の新婚旅行を撮影したから直実写真だぞ!といっているのではありません.写真家としての出発点を愛にし、たまたま私小説からはじまったにすぎないのです.もっとも私の場合ずーっと私小説になると思います.私小説こそ最も写真に近いと思っているからです.〉

 カメラマンとしてデビューして間もない45年前に書かれたものだが、昨日荒木が書いたと言われても信じてしまいそうなほど一貫した態度に驚く。さらにページをめくると、ものうげな様子で電車の椅子に座る陽子、裸でホテルのベッドに座り煙草を吸う陽子、京都や福岡の街の風景が続き、おそらく荒木の写真のなかでももっとも有名な柳川の川下りの舟のなかで丸まって眠る陽子の写真が現れる。最後の方には荒木とセックスする陽子の姿がそのまま写し出されている。陽子と荒木の信頼関係に胸を打たれる。これは確かに私小説だ。

『魔法の夜』スティーブン・ミルハウザー(白水社)

魔法の夜

書いた人:瀧源舞(たきもとまい) 2016年7月書評王
普通の会社員。小さい頃に従姉から借りたままの小説をまだ持っているほど、本は大事に扱うようにしている。パクチーはシャンツァイもしくはコリアンダーと呼びたい。

 

 night、Nacht、gece、notte、noche、aften、nox、nuit、そして夜。
 “夜”を表わす単語は国によってそれぞれで、どれもが似てはいるけれど違う響きを持っている。想起されるイメージは、個人の体験や記憶によって異なるだろう。けれど、本書に書かれている“夜”は、時代や土地を問わず、だれもが「あぁ、これは知っている」と錯覚するのではないか。自分の中には存在しないかもしれない夜を、物語の中に見てしまう。それは、夏の夜という舞台装置が持つ作用によるものなのか、それともミルハウザー流の魔法なのか。

 時刻は真夜中すぎ。いまだ眠りにつこうとしない者がいる。何かに突き動かされるように部屋を飛び出す14歳のローラ。窓辺で膝をつき約束した誰かを待つジャネット。あまり見込みのない小説を一人きりで書き続けるハヴァストロー。桃色のドレスをまとってショーウィンドウの中で憂鬱を持て余すマネキンと彼女に恋する車体工場士のクープ。月明かりが差し込む屋根裏部屋で動き出すほこりをかぶった人形たち。音もなく家に押し入り、冷蔵庫マグネットや眼鏡ケースなどささいなものを盗んでは「私たちはあなた方の娘です」という置手紙を残していく女子高生の窃盗団。彼らの身に起こるエピソードが少しだけ重なり合いながら、夜は更けていく。

 舞台は米コネチカットらしいが、町の全体像はよくわからない。ミルハウザーの描く場所は、地名が書かれていても、いつも、どこにもない場所のように感じられる。線路の上に立つ黒い鉄の跨線信号台、メインストリートにある百貨店。色づく前のサトウカエデの木々。恋人たちと独り者しかいなくなった浜辺。彼らと一緒にそこここを歩くうちに、それほど大きくはない町を発見していく。

 時折、そんな彼らを眺めているような存在を感じる。月光の描写が繰り返し出てくることから、正体は月かと思ったが、そうでもなさそうだ。なぜなら中盤以降、月の女神もまた庭で眠り込む少年の横顔に魅せられ、地上に降りてきてしまうからだ。では、小説の創造主である作者・ミルハウザーの視点かというとそうでもない。三人称がもたらす効果だけではなく、登場人物を見ている別の視点があるように思えるのだが、どうもはっきりしない。

 時間の流れ方も不思議だ。作中の出来事は現在進行形で語られているはずなのに、登場人物の何人かは、かつてあった一瞬を思いだしているような感覚に捉われ、記憶が揺れる。まるで今夜のこの瞬間だけが、連続する時間からはぐれてしまったかのようだ。肌に触れるあたたかい夜風まで感じ取れるような描写とともに、そうした感覚のゆらぎが、それとは気づかない程度に挿入されている。

 これまでのところ、ミルハウザー作品のほとんどは、彼に惚れ込んだ柴田元幸によって翻訳されている。英米文学に関する広い知識と深い洞察はもちろん、作家への親愛の情がにじむ訳者解説は、作品世界への最適な導き手だ。初期に書かれた短編集『イン・ザ・ペニー・アーケード』の解説によると、ミルハウザーの描く人物は、誰もが退屈しているという。<現実に対する、自分がいまここにあることに対する異議申し立てとしての退屈〉を抱えているという。たしかに本書に出てくる人々もまた、くまなく全身を退屈に覆われながら、夜が与えてくれる変化に焦がれている。

 ミルハウザーが描く人物には、芸術家や職人、子供が多い。そしてしばしば、自分を魅了するものを追い求めるうちに、あちら側の世界へ行きかける。たいていの場合、それが大人であればあちらへ行ったままで、子供であればこちらに戻ってくる。その意味では本書に出てくる者たちは、年齢に関係なく子供に近いのかもしれない。あともう少しで、夜はその座を朝に明け渡すだろうから。

 しかし夜は明けても話は“おしまい”にはならない。どういうわけか、ミルハウザーの書く物語は、その後に起こるであろう変容の方が気にかかってしまうのである。

魔法の夜

魔法の夜

 

 

『ギケイキ』町田康(河出書房新社)

ギケイキ:千年の流転

書いた人:豊﨑由美(とよざきゆみ)またの名をトヨザキ社長  2016年6月書評王
1961年愛知県生。東洋大学印度哲学科卒業後、編集プロダクション勤務を経てフリーに。「GINZA」「TV Bros.」など多くの雑誌に連載を持つライター・書評家。著書は、『そんなに読んで、どうするの?』(アスペクト)、『ニッポンの書評』(光文社新書)など多数。共著書に大森望との『文学賞メッタ斬り!』(ちくま文庫 Kindle)、岡野宏文との『百年の誤読』(ちくま文庫 Kindle)など。

 

〈かつてハルク・ホーガンという人気レスラーが居たが私など、その名を聞くたびにハルク判官と瞬間的に頭の中で変換してしまう〉〈あ、そうなんだ。え、マジ? すごーい。を順番に言って気のない風を装っていたのだけれども、〉〈ちょっと前、人と東銀座のなんということはない喫茶店に入ったところ、一緒にいた人が、この席はジョン・レノンが座った席らしいです、と声をひそめて言っていたが、まあ、そんなようなものだ〉  

 こんなことを喋っているのは誰なのか。そこらでウンコ座りしているアンちゃんではない。源義経なのである。正確を期するなら、義経の魂の依り代となった作家、町田康なのである。と聞けば、世の時代小説家の多くは「そんな現代語を、中世日本に生きた義経が使うのはおかしい」と非難するだろうが、なんということはない、連中の採用している文体だって「なんちゃって雰囲気時代小説語」にすぎないのである。先輩作家が作った時代小説における暗黙の約束事に何の疑問も抱かず、ただ「ござるござる」と従っているにすぎないのでござる。

 一人の浪人侍を狂言回しにして、黒和藩内の権力闘争を背景に、〈腹ふり党〉という奇天烈な宗教団体の蔓延と叛乱を描き、〈生き腐れみたいな人間〉と猿軍団が阿鼻叫喚地獄めいた殺戮党争に突入するハチャメチャな物語になっているばかりか、ジャンル内のお約束をことごとく無視する自由奔放な語り口によって、世の時代小説ファンを「ぎゃっ」と白眼をむいて卒倒させた『パンク侍、斬られて候』(2004年)のデストロイヤーぶりも凄まじかったけれど、記憶に新しいのは、河出書房新社から刊行されている日本文学全集に収められた『宇治拾遺物語』における抱腹絶倒の現代語訳。それまで古典とは縁もゆかりもなかった衆生を熱狂させ、これが入っている巻だけ異様な売上げを示すことに貢献したのだ。この仕事のおかげで中世日本の混沌と自分の思考の波長が合うことを発見したのか、史伝物語『義経記』の語り直しに着手したのが、冒頭で引用文を挙げた『ギケイキ 千年の流転』なのである。

「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」を開いた源頼朝の腹違いの弟である義経の、生まれと育ち、思考と嗜好、性格と容貌、平家討伐に向けての無謀だったり無邪気だったりしすぎる行動の数々、忠実な家臣となる武蔵坊弁慶の生い立ちと出会いを、読めば大笑い必至の饒舌かつスピーディな文体で語りまくる。

〈思えば私の後年の功績はすべて尋常でない速力に追うところが大きかったがこの時点で既に私は速かった。もう少し遅ければ長生きできただろうか、速いということは、普通の速度に生きる者にとってはそれだけで脅威。それだけで罪。けれども私にとってはおまえらのその遅さこそがスローモーションの劫罰、業苦〉と語る速力命の人。〈京都が長い私の父が若い頃、関東に拠点を築くことができたのは、もちろん武芸や気合、といった要素も大きいが、多分にファッションによるところも大きい〉と考えるおしゃれ上等の人。〈返す刀で首のあたりを薙ぐと、ストトトトン、首が切れて飛んで、由利太郎は故郷である東の方に倒れた。そのとき由利太郎は二十七歳だった。若いよね〉と言い放つ非情の人。日本史上指折りのアイドルの速くて濃いぃ人生を、その魂を内に宿した町田康が一人称スタイルで駆け抜ける。面白くないはずが、ない。

〈やっと会える。やっと兄に会える〉、物語は、遂に挙兵した兄頼朝にもうすぐで合流するところで終わっている。完成まで全4巻を予定しているこの物語の続きが、もう読みたい、すぐに読みたいと、読者もまた速力の権化と化してしまう、そんな面白と痛快の塊のような一冊なのだ。「義経は私だ」と町田康が言い切るなら深くうなずくより他にない、そんな説得力に圧倒される傑作小説なのである。 

ギケイキ:千年の流転

ギケイキ:千年の流転