書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

ドナルド・E・ウェストレイク『さらば、シェヘラザード』

さらば、シェヘラザード (ドーキー・アーカイヴ)

書いた人:白石 秀太(しらいし しゅうた) 2018年8月度書評王
同志社大学文学部美学芸術学科卒。会社員

 

 まず誰が何をする話かを手短にいってしまうとポルノ小説のゴーストライターがタイプライターを打っているだけの話である。では何を書いているのかというと本来あるべきエロ話ではなくてムダ話である。そんなポルノ用の使えない原稿が収められたのが『さらば、シェヘラザード』である。まじである。

 原稿の書き手はエドウィン・トップリス。今までに28本の作品を書き上げてきた。分量は一律250ページで、1日あたり25ページを毎月10日間だけ集中して書けばよかった。ところが29作目となる今月はどうだ。スケベなイマジネーションが湧き出てこない。気づけば作品と無関係のたわごとで25ページを埋めてしまっていた。仕切り直しで再び章番号「1」を打ち、続けた一行目が〈タイトルが思い浮かばない。〉やっぱりだめである。

 こうして締め切り10日前から書かれ始めた新作ポルノの第1章が繰り返されていく。ご丁寧にページ番号も「25」をめくると再び「1」とふってある。気になって仕方ないのか、本文ではたびたび残りの日数も記されるので「時間内に脱出せよ! 第一章から、スランプから」という全作家戦慄のタイムリミットものだ。と、いえなくもない。ただ一日の作業量の限度とは天変地異がおきても変わらないもので、エドウィンは途中で「あ、無理だ」と悟ってしまうのだが。

 ムダ話から明らかになるのは〈いちばん楽な潮流に乗ってただけ〉といわざるをえない半生だ。興味があるという理由だけで目標もなく文学を専攻し、子供ができたからという理由だけで結婚し、ギャラが良いからという理由だけでゴーストライターになった。そして現在、夫婦関係はマンネリ化、ポルノ以外のジャンルに挑戦するも撃沈、締め切りには5冊連続で遅れていてエージェントから突きつけられた最後通牒。つまりにっちもさっちもいかなくなったのは今月どころか人生まるごとで、そんなやるせない日々への不満、妄想、失望が原稿に吐き出されていくのだ。

 物書きの道を選んだのが運の尽き。夢も希望もなく、たとえ不向きであっても物語を生み続けないと食っていけない現状をエドウィンはこう表現する。〈あとすこしのところで人間になれずに、まったく得体の知れないものとして生きることを強いられている、泳ぐ場所のない哀れな腐った魚だ〉と。

 もちろん小説のほうも書くには書く。でもいつのまにか妻への愚痴にスライドしていたりと、実生活の悩みが邪魔して続かない。ならばと実体験からネタを絞り出して濡れ場を書いてみたら気が滅入っただけ。もがけばもがくほど創作と現実の泥沼に溺れてくのだ。6度の書き直しを経てなんとか第2章に突入するのだが、先行きが明るくなるはずもなく。

 話が進まないのが作品の醍醐味というだけでも異色だが、ポルノの創作技法を自ら解説するというメタフィクション要素があるだけでなく、メタフィクションについても話が及ぶので、もうメタメタな怪作といえよう。

 作者のドナルド・E・ウェストレイクには多くの人気作があり、リチャード・スターク名義では冷徹な犯罪者「悪党パーカー」シリーズを、タッカー・コウ名義では過去の過ちに苦しむ元刑事「ミッチ・トビン」シリーズを、そして本名では才能はあるが運は無い強盗「ドートマンダー」シリーズを発表している。そう、氏の多彩な著作の中でも今作『さらシェヘ』の珍品ぶりはかなりのものなのだ。

 とはいっても、脇役に至るまで登場人物たちがやけに記憶に残ってしまうのはウェストレイクならでは。とくにエドウィンの妹へスターは、気楽に生きるLSD常用者にして100歳のような達観ぶりの21歳。登場回数は少ないのに存在感があり、憧憬の念をもって描かれる。そのことからもエドウィンがいかに心の底から、家庭不和のネタ切れゴーストライターという生き地獄からおさらばしたいのか、しみじみと伝わってくるのである。