書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

リービ英雄『模範郷』

模範郷

書いた人:白石秀太(しらいし しゅうた) 2017年3月トヨザキ社長賞
同志社大学文学部美学芸術学科卒。会社員

 

「『there』のないカリフォルニア」というエッセイでリービ英雄は、カリフォルニアにいた約二年間の〈衝撃的〉な生活を振り返っている。たしかに快適な日々が永遠のように続く〈パラダイス〉かもしれないが、その土地らしさもなく、異文化に触れたとき生じる違和感も与えない、つまり「there」にいるという気持ちと一切無縁で、カルチャー・ショックすら感じさせないカリフォルニアの文化が、何よりショッキングだったというのだ。
 この衝撃はひときわ大きかったはずだ。というのもリービ英雄の著作の多くは、ここではない「there」の漂泊の経験をもとに生まれているからだ。
 アメリカ生まれの青年が、父と暮らす横浜の領事館から家出して喧騒の新宿をさまようデビュー作の『星条旗の聞こえない部屋』。幼少時代を台湾ですごし、現在は日本在住という主人公ヘンリーが、中国大陸の奥地から奥地へと旅する『ヘンリーたけしレウィツキー夏の紀行』。母国ではない異国の文化へ、都市ではない奥地へ。私小説やノンフィクションを通じて、there、あちら側を探求してきたのは、漂泊の中でこそ、時代ごとに地理的、言語的に国境をまたいできた自身の生立ちと対峙できるからだった。
 しかしまだ、訪れていない場所があった。作品の中で何度も、著者の原風景として現れる子供時代の家。台湾の台中にある模範郷と呼ばれた町だ。本作『模範郷』は、じつに52年ぶりとなる「帰郷」を書いた表題作をはじめ4編が収められている。
 長年、台中を避けていたのには理由があった。今までは、現代化されていない中国大陸の農村地帯を巡ることで、50年前の台湾の〈面影〉を探し求めてきた。そして〈幻の「自分の台湾」〉だけを鮮やかに保ち、創作のための源泉としてきた。だからこそ、昔の名残は無いと分かっている故郷を目にして、〈実際に失った東アジアの家を、もう一度、記憶の中で失うことを、ぼくは、たぶん、恐れていた。〉というのだ。
 学会に招待されたことをきっかけに「現実の台湾」に帰ってみよう決心した〈ぼく〉だが、胸中でうずまくのは、期待ではなく不安だった。台北を出発した新幹線とともに不安は加速して、日本の都市と変わらない台中駅に降りたときには〈わずかな空虚感〉となっていた。すると突然、駅のベンチで現地の男性から話しかけられる。
 〈Where are you from?〉
 〈ぼくは英語で、五十年前に、here にいた、と説明した。〉
 そう、ここは、何十年も「there」を漂ってきた後に到着した「here」だ。ただし「there」でもないが、故郷の実感もない、母国語でない言葉が響く、〈here には here がない〉ような場所。その模範郷に「帰郷」した〈ぼく〉は、ビルの間の路地を歩きまわって、目には見えない我が家を探し、当時母が聴いていたレコードの歌に心の耳を澄ませる。今までの旅とは違った意味の異国を舞台に、半世紀守ってきた記憶を新たな感情で綴っていくのだ。
 本作を締めくくる「未舗装のまま」が、この小説を喪失の一言では表せない、不思議な余韻を残す。台湾から新宿の自宅に帰ってきた日、手をつけていなかった母の遺品からアルバムを取りだす、という一編だ。離婚することになる両親と弟の四人、模範郷を離れる年に家で撮った、何重もの意味で失われたひと時の写真を見つける。しかし特別な感情がわくこともないまま、〈永久の現在を指先でとざす、そのような感覚でアルバムをとじて、箱の一番下にもどした。〉郷愁のためではなく、記憶を、言葉を、自分の存在を問い続けるために、またひとつの「here」に別れを告げて、〈ぼく〉は歩きだすのだ。

 

模範郷

模範郷