書評王の島

池袋コミュニティ・カレッジで開講中の「書評の愉悦ブックレビュー」で王に選ばれた書評を紹介するブログです。

『象の旅』ジョゼ・サラマーゴ著

 「私の作品に幸せな結末はない。旅の終わりは静かなものだ」
 これは本作『象の旅』を執筆中だった著者ジョゼ・サラマーゴと、その妻で有能なマネージャーでもあるピラールに密着取材したドキュメンタリー映画『ジョゼとピラール』(*1)の中で、著者自身が語った言葉だ。
 1551年、ポルトガル国王にしてアルガルヴェ国王であったジョアン三世は、従弟であるオーストリア大公マクシミリアン二世に、婚儀の祝いとしてインド象のソロモンを贈ることを思いつく。
 史実から着想を得たというこの物語。当時のヨーロッパの人たちにとって、象を観る機会などほとんどなく、希少さゆえにときの権力者たちにとって、その威信を示す贈答品として好まれたであろうことは想像に難くない。まして2年前に象使いと共にインドからポルトガルの地に連れてこられて以来、国王にとっては物珍しさも薄れ、使役につくわけでもないのに<飼葉は山と要る>この獣を厄介払いできるチャンスとあっては、ソロモン贈呈作戦は失敗の許されない大プロジェクトとなったのである。
 象を簡単に輸送できる手段など、当時あるはずもなく、かくしてソロモンは象使いのスブッロのほか、飼料を運ぶ物資補給隊と警備を行う騎兵隊、護衛隊らと共にリスボンを出立し、ただひたすらに歩いてウィーンを目指す旅路に就いたのだ。
 道中では、一行の様子を窺う狼の群れが現れ、不穏な動きを見せるスペイン軍の機先を制すべく、ポルトガルとスペインの国境カステロ・ロドリゴへの先陣争いが繰り広げられ、そして降りしきる雪の中でアルプスの難所越えが敢行される。いやはや平穏とは程遠いのだが、著者サラマーゴの語り口は皮肉を利かせながらも明るく、ユーモアに満ちている。道行きにおける出来事だけでなく、ときに〝群れからはぐれた牝牛が十二日間狼に囲まれながら子牛と共に生き延びた話″や、〝ヒンドゥー教の神で頭部が象のガネーシャが誕生した話″などが縦横に挿入され、旅程とはまた別の広がりをみせてくれるのだ。その文体は独特で改行は極端に少なく、会話も「」は使われず、地の文章と読点で繋がれ一体となっており、まるで雑踏の中に身を置き、流れ込んでくる音を聴いているような趣なのである。
 1922年にポルトガルの小村で生まれたジョゼ・サラマーゴは、溶接工やジャーナリストなど様々な職業に就く傍ら独学し、50歳を過ぎてようやく専業作家となった。突然視界が真っ白になり視力を失うパンデミックが引き起こす恐慌を描いた『白の闇』(*2)は、1998年に<想像力、あわれみ、アイロニーに支えられた寓話によって、われわれがとらえにくい現実を描く>作家として、ポルトガル語圏で初のノーベル文学賞を受賞する直接の契機となったと言われている。筆も舌鋒も鋭く皮肉屋で無神論者。長らく故郷ポルトガルとも決別していた彼が、冒頭に挙げた映画の中で、後年再び故郷を訪れるシーンは感動的だ。そして2010年、本作を遺作としてこの世を去った。
 『象の旅』が迎える<旅の終わり>は、確かにあっけないほど静かだ。象のソロモンが自分の境遇をどうとらえていたのかは知る由もなく、また、サラマーゴは「みんな大げさなのだ。哲学的な考察がどうのとか言い出す。象はクソも小便もする。言葉も思想もない。象を擬人化するつもりはない」と言いきっている。しかし「人は生まれ生き死ぬ。それだけのこと」という著者の言葉を信じるなら、これも一つの<幸せな結末>ではないのか。いや、解釈など後回しだ。今はこの極上の物語を、ただ享受することに徹しよう。

*1『ジョゼとピラール』ミゲル・ゴンサルヴェス・メンデンス監督 本作の訳者あとがきに詳しい。
*2『白の闇』雨宮泰訳 日本放送出版協会 2001年

2021年11月書評王:関根弥生
書評講座を受講し始めて丸3年が経ちました。毎月の課題提出に苦しみながらも続いているのは、やっぱり楽しいからなんだと思います。

ショパン・コンクールをもっと楽しみたい人におすすめする3冊

 ワルシャワで行われる5年に1度のピアノの祭典、ショパン・コンクールがクライマックスを迎えている。何やら遠い世界のことのようであるが、ネットのおかげで今やYouTubeで気軽に視聴できる時代になった。何かの間違いで偶然目に触れ、ちょっと興味が湧いてきた、という方のために、コンクールをより楽しむためのオススメ本を紹介する。 ピアノの詩人・ショパンとは、どういう人だったのか。硝子細工のような儚さと絶対音楽としての強靭な構造、洗練された優美さと狂気すれすれの激情。そんなアンビヴァレントな要素がショパンの音楽には併存し、そこがショパンを弾くことの難しさであり魅力である。平野啓一郎著『葬送』(新潮社,2002)は、愛人ジョルジュ・サンドと別れた後のショパンの後半生を描いた長編大作だ。膨大な資料を丹念に紐解き綿密に練り上げられた歴史観、同時代のフランス写実主義文学を彷彿とさせる緻密な心理描写でショパンの生の軌跡に肉薄する。本書を読みながら、音符の先にあるショパンの心に思いを馳せてみたい。

 1927年に始まるショパン・コンクールは、長い歴史の中で数々のドラマやスターを生んできた。今大会では、地元の期待集まるポーランドの貴公子アンジェイ・ヴェルチンスキ、浜松国際ピアノコンクール[*1]の覇者アレクサンダー・ガジェヴのほか、日本からは幼少よりキャリアを重ねる神童・牛田智大、前回のファイナリスト小林愛実、コロナ禍を機に有料オンライン配信を始め起業家としても才覚を発揮する反田恭平、更には人気ユーチューバー「かてぃん」としてクロスオーバーな演奏活動を展開する角野隼斗、現役医学部生ピアニスト・沢田蒼梧など、一色まことによる人気マンガ『ピアノの森』や、直木賞本屋大賞をダブル受賞し話題となった恩田陸の長編小説『蜜蜂と遠雷』の登場人物さながらの個性的な面々が出場し、コンクールを連日盛り上げている。
 青柳いづみこ著『ショパン・コンクール』(中央公論新社,2016)は、前回2015年大会の模様を伝える。コンクールを現地取材した著者による臨場感あふれる演奏レビューのほか、舞台の裏側のレポートも詳細だ。かつてコンクール史上最大の物議を醸した〈ポゴレリチ事件〉[*2]も今では過去の話となり、近年は〈解釈の自由化〉が進んで〈斬新でユニークな〉演奏解釈も受け入れられる傾向にあること、最終的には審査員の主観に左右される審査の公平性への疑問、若い演奏家にあまりにも過酷な練習と緊張を強いることの弊害など、コンクールのあり方について多角的に論じる。

 世界が注目するコンクールは、ピアノメーカーにとっても社の威信をかけた闘いの場だ。前々回の2010年大会ではヤマハCFX[*3]を弾くユリアンナ・アヴデーエワが優勝し、国内外のメーカーにとっては「王者スタインウェイ[*4]」の牙城が崩れる事件となった。約8000のパーツから成り温湿度の影響も受けやすいグランドピアノは、僅かな差でも響きに狂いが生じるF1マシンのごとき精密品だ。各メーカーは、より多くのコンテスタントに自社のピアノを選んでもらえるよう、技術の粋を尽くす。そんな『プロジェクトX』的視点からコンクールを観るのも、ひとつの楽しみ方だ。
 井上さつき著『ピアノの近代史』(中央公論新社,2020)は、産業の発展によりピアノの大量生産が可能となった近代以降、ピアノ産業が大衆の音楽教育や受容のあり方にもたらした変革、大量生産と品質の維持・向上というパラドキシカルな命題に挑む技術者達の奮闘、そしてコンクールというコンペティションの場の誕生により激化する企業間の競争など、〈ピアノを通して見える近代世界〉を俯瞰する。 

 コロナ禍で1年延期された今大会であるが、無事開催の運びとなった。変わるものと変わらないもの。その両輪によってコンクールは存続し、ショパンの音楽は人々に愛され続けてきた。先の見えない時代だが、人間の本質は変わらない。ひたむきに音楽と向き合う若き演奏家達やコンクールを支える人々の姿を追いながら、そんな事を改めて思う。

[*1] 静岡県浜松市で行われる国際ピアノコンクール。第5回大会(2003)で最高位(1位該当者なし)となった当時無名のポーランド人ピアニスト、ラファウ・ブレハッチが、その後2005年の第15回ショパン・コンクールで優勝したことでコンクールとしての評価が高まった。

[*2] クロアチア出身のピアニスト、イーヴォ・ポゴレリチが1980年の第10回ショパン・コンクールに出場した際、その卓抜した演奏技術にもかかわらず、あまりに奇抜な解釈であったために予選落ちとなったことをめぐり起こった事件。審査員のうち、審査内容に異を唱えたマルタ・アルゲリッチが大会中途で審査員を辞任する騒ぎとなった。この事件がきっかけでポゴレリチは一躍有名ピアニストとなった。

[*3] 2010年7月にヤマハが発売したコンサートグランドピアノ。往年の名ピアニスト、アルトゥール・ベネディッティ・ミケランジェリの専属調律師であったチェーザレ・アウグスト・タローネを招聘し、1965年より本格的に開発に着手したコンサートグランドピアノ・CFシリーズの最新モデルにあたる。

[*4] アメリカの世界的な高級ピアノメーカー。1835年にハンブルクでピアノ製作を始めたハインリヒ・エンゲルハルト・シュタインウェークが1849年にニューヨークに移住した後、息子たちと共に会社を設立し現在に至る。厚みのある壮麗な響きに定評があり、世界中のコンサートホールで使用されている。現在ショパン・コンクールの公式ピアノメーカーとして採用される4社(スタインウェイヤマハ、カワイ、ファツィオリ)のうち、最も古い歴史を持つ。

 

2021年11月書評王:霜鳥 愛 
クラオタ歴も、かれこれ数十年になります。(マニアというほどのガチ勢ではないですが) 
読書を別にすると、クラシック音楽をきくことは怠惰で飽きっぽい私の中で続いている唯一の趣味ですが、それは寝っ転がってかりんとう食べながらでもできることだったからだと思います。 
クラシックというと、なんとなく高尚で敷居の高いイメージがあるかもしれませんが、このように驚くほど簡単に始められるし続けられるので、とってもおすすめのジャンルです。クラオタだけのものにしておくのはもったいない!読書のお供に、みなさまも是非いかがでしょうか♪

『アンソーシャル ディスタンス』金原ひとみ著

 コロナ禍でアルコール依存症が増えているという。ストレスの増加に加え、在宅勤務でより長くより多く飲める環境ができたことが背景にある。嗜癖は「ある習慣への耽溺」を意味する言葉で、より重症な例が依存症と呼ばれる。金原ひとみの短編集『アンソーシャルディスタンス』に収められた5編は、いずれもこの嗜癖がキーワードとなっている。
ストロングゼロ」の主人公、編集者のミナの嗜癖はアルコールだ。同棲中のイケメンの彼氏が鬱になって布団から出られなくなったことを受け止めきれず、朝からストロングゼロ(注)、昼食後にストロングゼロ、帰宅後一分以内にストロングゼロという生活になっている。当然仕事にも影響が出るが、ミナは仕事中にも飲めるアイデアを思いつき……。本作中「ストロング」は38回登場する。
「デバッガー」の主人公、35歳の会社員・愛菜(まな)は、11歳年下の男性社員・大山に交際を申し込まれたことをきっかけに、自分の顔の劣化(バグ)が急に気になり始める。しわ取りのため美容外科ヒアルロン酸を注入する施術を受け、自信が持てるようになったと思ったのはつかの間で、さらにいろんなところが気になりだし、脂肪溶解注射血液クレンジングなど様々な施術に手を出していく。
「コンスキエンティア」の主人公、化粧品会社に勤める30歳の茜音(あかね)は、自称〈トップオブコスメオタク〉だ。しかし、彼女の本当の嗜癖は恋愛に関する刹那的な衝動にある。夫とはコミュニケーション不全&セックスレス、だから不倫相手はひっきりなしにLINEを送ってくるひとつ年上のナイーブ系かまってちゃん、その彼が退場するや次は迫ってきた親友の弟……と、彼女は深く考えることを拒否して他人と関係を結び、手近なもので自分のなかの空白を埋めようとする。
「テクノブレイク」の主人公・芽衣(めい)は、蓮二(れんじ)と激辛料理を食べてはセックスの快楽を追究してきたのだが、コロナウイルスに対する危機感のすれ違いからしばらく会わないことを彼に宣言されてしまう。在宅勤務で週6で自宅の芽衣は、激辛料理を食べながらかつてスマホで撮った二人のセックス動画を見て、食べ終わるとそのままオナニーするルーチンから抜けられなくなっていく。
 嗜癖が高じると自己コントロールが難しくなると考えるのは表層的な見方だ。さきに何らかのままならない事態があり、徐々に大きくなる喪失感や不全感に対処するため、確実に快楽とコントロール感を得られるものにはまっていき、結果としてそれに支配されるのだ。著者はスピード感のある文体で嗜癖におぼれていく主人公の地獄を描写しつつも、その奥底に潜んでいる「ままならない事態」を見過ごさない。突き詰めていけば、それは孤独とよばれるものかもしれない。
 表題作「アンソーシャル ディスタンス」は、本書で唯一、大学生のカップルである沙南(さな)と幸希(こうき)が交互に語る形式をとっている。沙南は10歳から自殺願望があり、リストカット脱法ドラッグ、過食と拒食といった嗜癖のデパート期をくぐり抜けて幸希にたどり着いた。幸希は「自分が嫌いだ」という一点で沙南とつながってはいるが、基本は世間と折り合いをつけられるタイプだ。ところがコロナウイルスが二人にとって特別なバンドのライブを中止に追い込んだとき、絶望のなか幸希は「心中しない?」という沙南の提案に同意してしまう。二人は最後に死ぬためレンタカーで温泉旅行に出るのだが……。
 一人で深みにはまっていく話ばかりの中で、本作だけは一人の問題に二人で立ち向かっている。いや、立ち向かうというより、いっしょに立ちすくむといったほうがいいかもしれない。でも、いいのだ。「ソーシャルディスタンス」が正義とされるアフターコロナの世界で、それでも「つながらなくては生きていけない」二人が読者に手渡すのは、正しさはともかく、きっと大事なものなのだ。
(注)ストロングゼロ:安価で酔えると大ヒット中のウォッカベースの缶チューハイ。アルコール度数9%。

 

2021年8月書評王:山口裕之
最近は「依存症」ではなく「使用障害」が使われるそうです。アル中ではなく、アルコール依存症でもなく、アルコール使用障害。私はNHKが人形劇「プリンプリン物語」で「アルトコ中央テレビ局、略してアル中テレビ!」とかやってた頃を忘れません。

『長い一日』滝口悠生著

 序盤のいくつかのエピソードを読んで、夫婦が仲良く「私」という一人称を共有しているのか、と思った。夫婦というのは、小説家の滝口氏とその妻のこと。本作『長い一日』はエッセイのようにして始まり、やがて小説としか捉えられない形になっていく、そういう作品である。もとは、講談社のPR誌『本』二〇一八年四月号から二〇二〇年十二月号にかけて、全三十三回が連載された。
 世田谷に住んでいる滝口夫妻は二〇一七年八月十六日の朝、七年半暮らしてきた部屋からそろそろ引っ越そうかと思い立つ。正確には、妻が何気ない感じで引っ越しを提案する。だがその後半年、夫婦は腰を上げようとせず、転居先を探し始めたのは翌年二月の終わりのこと。それでも三月に入ると、お気に入りの物件が見つかるのだった。
 夫婦の引っ越しが軸になっているのは確かだが、その顛末を書いただけの小説ではない。まず気づくのは人称の扱い方だ。序盤は「夫」、「妻」という三人称の中に「私」という一人称が時折混ざる形で書かれる。「私」とは書き手である夫、滝口氏だ。ところが少し話が進むと、今度は「妻」が「私」として語り出す。夫婦による一人称の共有と最初に書いたが、バトンのように「私」を受け渡し合っているというほうが的確かもしれない。妻の手に渡ったバトンはまた夫に戻る。だが、それだけでは終わらない。
 夫妻の友人たちが一挙に登場する「お花見の日」という回が契機となる。八朔さんという夫の大学時代からの友人の家に招かれた滝口夫妻。花見の場には八朔さんの家族の他に、窓目くん、けり子といった友人たちが集まっている。楽しく酒を飲み、いろいろあって別れ、その翌日が本作の最重要の一日。自宅で大家のおじさんと話す夫、仕事場に向かったはずが予定外の行動に出てしまう妻、髪を切り護国寺辺りを散策する窓目くん、千葉の実家近くの川を訪れる八朔さん、天麩羅を食べに行こうとするけり子と夫のジョナサン。それぞれが「私」として語り始め、視点人物が蜘蛛の子を散らすように分かれていく。
 彼らの内面を見つめ、本人以外は知り得ない感情を書いていくにあたって本作は完全に小説となる。すると今度は、自分がいつの間にか小説という入れ物の中に放り込まれ、描写されていたことについて、窓目くんと滝口氏の妻が意見を交わし始めるのだ。
 今まで何度も滝口氏の小説に登場させられてきたという窓目くんは「その人物のどこを切り取っても、現実の俺ではないし。それは俺だけど、そいつの部分だけ見ると俺じゃない」と、小説化された自分と現実の自分の差異をはっきりさせた上で、書かれること自体は好意的に捉える。それに対して妻は、「あんなふうに書かれてしまったら、書かれた以外のことが思い出せなくなってしまうじゃないか」と憤慨する。「引っ越ししたいなあ」というひと言を、大家のおじさんのとある事情に気づかないまま、脳天気に言ったふうに書かれたことが、納得いっていないからだ。「なるほど、小説というのはそうやってすべてを記録できないこの現実を、言葉で書き換えて読んだり話したりできる形にするものなのか」と妻は言う。であれば、取りこぼされる思いや出来事があって当然なのだ。
 一方で、窓目くんの一日は小説として書かれることでどんどん膨らんでいく。髪を切りに街に出た彼は、その日知り合ったばかりの美容師の女性と山陽山陰を貫く伯備線に乗って旅をし、護国寺に戻って、妻とばったり鉢合わせするのだ。小説は独自の時間と空間を作り出す。「まだ昼過ぎだというのに、今日の一日はこんなに長く、果てしない」。窓目くんはそれを目一杯楽しむ。
 作者の身辺を記した文章が、小説に変わっていくことで広がりを得る。しかし決して万能ではなく、生きているこの時間自体は、書くことが不可能なものとしてまた別にある。そのどちらもが、豊かな果実として読者に差しだされた作品だ。


2021年8月書評王:鈴木隆
『長い一日』には、時間をどう扱うかという、もう一つの大きな軸があります。それを敢えて捨てての書評となりました。もっともっと広くて入りくんでいて、でも最後まで読むと驚くほどシンプルな形に見えてくる『長い一日』を、ぜひ体験していただきたいです。

 

 

【作家紹介シリーズ】高瀬隼子

隊長:それでは順に、捜索結果の報告をお願いします。今回の捜索対象は高瀬隼子作品ということで、第43回すばる文学賞受賞作の『犬のかたちをしているもの』(*1)や、第165回芥川賞候補作「水たまりで息をする」(*2)など、数こそまだ少ないものの、興味深いフィールドワークとなったのではないでしょうか。

隊員1:はい!モチーフ担当の隊員№1です。私は〝犬″と〝祖母″を採取してきました。デビュー作『犬のかたち―』の主人公薫は、卵巣の病気を抱え<セックスがしんどい>。それでも<薫が好きだから大丈夫>という郁也とセックス抜きの半同棲を続けていましたが、ある日郁也の子どもを宿したというミナシロさんが現れ、〈子どもをもらってくれませんか〉と申し出てきます。

隊長:性交のもつ両面、愛情表現と生殖が分裂しちゃったわけね。そこに〝犬″?

隊員1:薫にとって今は亡き飼い犬ロクジロウに注いだ愛情が最大値で、常にそれと比較してしまう。不在の犬の存在が物語を支配しているんです。作者の実体験も投影されていると思われ、エビデンスとして飼い犬の思い出を綴ったエッセイ「犬と散歩をした話」(*3)があります。

隊員2:え、ちょっと待って!プロフィール担当の隊員№2ですけど、そこエッセイから持っていっちゃいます?

隊員1:作家が描こうとしているものを捜索するんだから、小説もエッセイも未分化ということでいいんじゃないっすか?

隊員2:そしたらプロフィール担当は、ただの経歴紹介でしかないじゃん。1988年生まれ愛媛県出身。立命館大学文学部在学中から<高瀬遊>名義で同人誌に作品を発表してきた、ぐらいのことしか採取報告ができなくなっちゃう。

隊員3:まあまあ。せっかく高橋源一郎センセイの対談(*4)でのひと言から結成された、我が捜索隊じゃないですか。ケンカはやめましょうよ。

隊員1・2:(むっ。小さい声で)ひとりだけいい子になっちゃって。

隊員3:ああ、〝いい子″の閉塞感やそこからの脱出は大きなテーマになっていますよね。申し遅れました、テーマ担当の隊員№3です。

隊長:いや、テーマに移る前に二つ目のモチーフ〝祖母″はどこいったの?

隊員1:すいません。〝祖母“の採取フィールドは彼氏が途絶えたことがない華やかな美貴花と恋愛に興味がない澄子、幼馴染みのふたりの友情を描いた<高瀬遊>名義の「隣の家の子」(*5)です。澄子の祖母は澄子の母を罵倒するわ殴るわで、しかも父はそれを見て見ぬふり。高瀬作品で〝祖母″は憎悪や、古い因習を押し付けてくる世間の象徴として描かれることが多いですね。エッセイ「かわいい顔の人」(*6)には、〈かわいい、いい子〉の孫娘(=高瀬)に<女の子なんだから>で始まる数々のジェンダーバイアスをかけまくってきた祖母への憎しみと、それが小説を書く強い動機になっていることが記されています。

隊長:なるほど。で〝いい子″問題に戻ると。

隊員3:はい。〝いい子″の鬱屈が堰を切ったときの怖さを切れ味鋭く描いた「いい子のあくび」(*7)では、女性であるがために軽んじられたりする場面が多く見受けられました。でも、芥川賞候補作の「水たまり-」では、ある日から入浴することを止めてしまった夫が、いとも簡単に社会からこぼれ出てしまう様を妻の視点から描いているんです。もはや男女問わず、社会が要求するルールに従い続けることの困難さは増すばかり。その中で高瀬隼子は女であることで侮られたり、男であることで強いられたりすることにもう迎合しない、身勝手な許容を強いる圧力に従わないぞと高らかに、でも繊細に宣言しているのだと思います。

隊員2:すみませ~ん!プロフィールもう1個ありました。かなりの緊張しいで下痢体質(*8*9)!

隊長・隊員1・3:締めがそれってあんまりなんじゃ…。

*1『犬のかたちをしているもの』2020年 集英社
*2「水たまりで息をする」『すばる』2021年3月号
*3「犬と散歩をした話」『新潮』2020年2月号
*4「受賞対談 高橋源一郎×高瀬隼子」『青春と読書』2020年3月号
  この時の高橋センセイの発言により本捜索隊が結成された。<書いた人間は書いたことにしか関与していない。あとは、そこに何があるか捜索隊が出て発見すればいいんです>
*5「隣の家の子」高瀬遊『京都ジャンクション11』2017年11月
*6「かわいい顔の人」『文學界』2021年6月号
*7「いい子のあくび」『すばる』2020年5月号 
*8「わたしの正直な体」『青春と読書』2020年1月号
*9「生き残る・腹をなでる」高瀬遊『京都ジャンクション14』2020年11月
 

2021年7月書評王:関根弥生
 私も高瀬氏に劣らぬ下痢族です。緊張度の高い場面ほど危険性は上昇。なにしろ子どもの入学式でも中座した私です。ここ書評王の島には「便秘で悩み苦しむ人におすすめしたい3冊」という名書評が上陸していますが、これで両派が出揃いました。とても嬉しいです。

 

 

 

 

『星の時』クラリッセ・リスペクトル 著 福嶋仲洋 訳

 漫画版が実現するなら、作画はぜひ漫☆画太郎にやってもらいたい。そう思ったのが、クラリッセ・リスペクトル『星の時』(福嶋仲洋訳・河出書房新社)。「ブラジルのヴァージニア・ウルフ」の異名を取り、世界的にも再評価が進んでいる女性作家の遺作だ。
 南米文学と日本のギャグ漫画に何の関係があるのかと思われるに違いない。しかし両者とも、一見ナンセンスに思える言葉の連なり、不条理な暴力性、人間の持つ猥雑な生命力、そしてそれらが極まった先にある聖性とでも言うべきものが見て取れるのだ。
『星の時』のヒロイン、〈北東部から来た女(ノルデスチーナ)〉マカベーアは絵に描いたように不幸な人間なのだが、彼女は自分が不幸だということを知らない。発育不全で生まれてすぐに両親を亡くし、叔母に殴られながら育ち、リオ・デ・ジャネイロに出てきた直後にその叔母も死んだ。
 タイピストとして勤め始めたマカベーアだが、無学と空想癖が災いしてよく字を打ち損じ、同僚のグローリアと比べられ、いつ解雇されるかわからない。人物や容姿に魅力があるわけでもなく、服で洟を拭き、めったに体を洗わず、化粧も下手。マリリン・モンローに憧れているが、口紅を塗ってもホラー映画のメイクのようになる有様。上昇志向の恋人オリンピコには邪険に扱われ、ふたりのやりとりは常にちぐはぐだ。
 このマカベーアにぞっこん惚れ込んでいるのは物語の登場人物ではなくて、語り手の作家ロドリーゴ・S・Mである。自らを語る言葉を持たないマカベーアを、この書き手は饒舌に代弁する。かの娘が人とのコミュニケーションに失敗し、世の中から受け入れられず、そして、自らに意識を向けることなく、宗教的にも見える恍惚にしばしばとらわれる(つまりイッちゃってる)様子を、ロドリーゴは赤裸々に描いていく。その一方で、「愛している」とまで入れ込んでいるにもかかわらず、マカベーアの人生についてなぜだか「僕は何もできない」と不干渉を決め込み、冷淡な態度を貫いている。作者ならば、いかようにも彼女のこれからを変えることができように。
 そんなマカベーアにも、運命の転換点が訪れる。彼女は急流に呑まれた木の葉のごとく人間関係で揉みくちゃにされた末、よく当たるという触れ込みの占い師のもとに流れ着く。そこで彼女はこれまでの人生をことごとく言い当てられた上で、今までは不幸せだったのだと断言される。
 思ってもみなかった指摘を受けた混乱のなか追い打ちをかけるように、これから裕福になる、理想の恋人にも恵まれる、と輝かしい将来を予言されるマカベーア。ただ今を生きるしかなかった彼女の視野に突如として未来の希望が立ちあらわれ、そして、〝栄光の瞬間〟が近づいてくる。
 マカベーアの出身地であるブラジル北東部「ノルデスチ」から、リオやサンパウロなど人手不足の都会に移り住む人は数多く、しかもその先では差別を受けがちという。社会からかえりみられることのない登場人物らを造形し、描写してきたロドリーゴもまた北東部の出で、替わりはいくらでもいる不遇な書き手と自分について綴っている。マカベーアらを冷徹に描く筆致のうちにも、人々の悲惨を繊細にとらえる優しい視線が生きているように思えてならない。読み進めるうち、あなたもマカベーアの生の軌跡に愛おしさを感じ始めるだろう。

 

2021年5月書評王:松廣靜典

海外文学初心者です。『星の時』はかわいらしい小さな本で、没頭すればけっこうすぐに読めてしまうので何度か再読するのに助かりました。ただ、ブックカバーの金色が手の脂でだんだん薄れてきたのはびっくりしました。ヒロインに多少入れ込みすぎて、手に汗握って読んでしまったようです。

 

『断絶』リン・マー 著 藤井光 訳

 2011年5月に中国・深圳で最初の症例が発見されたシェン熱は、瞬く間に世界中に広がった。初期症状は風邪と紛らわしく、感染者には熱病感染の自覚が生じない。傍目からも日常生活を普通に送っているように見える。しかし症状は徐々に深刻化し、思考力と運動能力が損なわれていく。やがてただ自動的に日常動作を繰り返すだけの存在となり、最終的には死に至る。治療法は、ない。
 今日のパンデミックを先取りするような設定だが、1983年生まれの中国系アメリカ人小説家、リン・マーによるデビュー長編『断絶』は、2018年に発表されている。
 物語は2つの時間軸を行き来しつつ進行する。現在時点ともいうべき時間軸は2011年の12月から始まる。最初の症例から7か月にして、すでに世界は崩壊している。語り手である中国系アメリカ人のキャンディスは、生き残った8人のグループに加わり、車でシカゴ郊外のショッピングモールを目指している。もうひとつの時間軸は過去時点。こちらのパートではキャンディスの仕事や恋愛、家族の思い出といった過去も挿入されながら、世界の〈終わり〉がどのように〈始まり〉、進行したのかが描かれる。
 本書はいくつもの顔を持つ。まず思い浮かぶのはゾンビ小説としての側面だ。感染者が人間性を失い、ただ習慣を反復する機械となるという設定や、消費社会の象徴としてショッピングモールが配されるのは、ゾンビ映画創始者、ロメロ監督の『ゾンビ(ドーン・オブ・ザ・デッド)』を踏襲している。ただ本書における感染者は人を襲ったり、ゾンビ化させたりはしない。むしろ攻撃的なのは非感染者のほうというのが皮肉だ。
 お仕事小説としての一面もある。キャンディスはニューヨークにある出版コーディネートを業とする会社で、聖書部門に勤めて5年になる。主な業務は資材の調達や印刷・加工を行う中国企業との交渉だ。内容はいっしょの文字列を、いかに装丁や装飾で取り繕うのか。いかにトラブルやクレームを処理するか。とてもクリエイティブとは言いがたい、反復の連続に過ぎない仕事に縛られていると感じている彼女は、パンデミックの状況下で自分に与えられた任務にどう向き合うのか。
 キャンディスの設定は、作者の経歴と重ねられている。彼女の両親が苦労してアメリカでの生活を築こうとする姿や、自身の仕事上での中国人とのやりとりが描かれるパートは、移民小説の色彩を帯びる。
 これらが黙示録的な終末世界で重なり合い、生き残った仲間に芽生える不信と衝突、宗教への懐疑、さらには生きる意味に対する問いが掛け合わされる。一行はショッピングモールにたどり着けるのか、キャンディスが仲間に秘密にしていることは何か、なぜ彼女はニューヨークに最後まで残っていたのか――過去時点の語りが現在時点に追いつくにつれ、そうした謎があきらかになっていく。
 ユニークなのは終末の描き方。感染の自覚がないこと、感染後も日常動作を繰り返すという症状があることで、人類はシェン熱の急速な流行にあらがうことさえできない。「中国で感染症」という他人事から、すぐに「そういえば隣の人、なんか変だ」になり、やがて潮が引くようにニューヨークから人間が減っていく。終末が舞台なのに、本作はパニックを描かない。人々はできる限り自分の仕事を継続し、できる限り家族と時間を過ごしつつ、静かに現実から記憶の世界へと退却していくのだ。
 タイトルは『断絶』だが、その前提としての反復が繰り返し描かれる。主婦もタクシー運転手も出版コーディネーターも芸術家さえも、仕事になった段階で反復から逃れることができない。いや仕事だけではなく消費生活も、遊びも恋愛も子育ても、人間の営みすべてが反復の連続として描写されている。反復で何が悪いのか、ならば熱病感染者と非感染者とどこに違いがあるのかと、本書は問う。
 原題「severance」には、切断、分離、隔離、契約終了、退職といった意味もあり、本書にはそのどれもが響き合う形で配置されている。ひとつひとつの断絶が、断ち切られる側の反復を呼び覚ます。さまざまな死を描くことで、さまざまな生を際立たせる、これはそういう小説なのだ。

2021年6月書評王:山口裕之

13年も乗っている自転車のホイールをちょっといいのに変えたところ、新鮮な気分がよみがえりました。輪行袋も新調したし、梅雨が明けたら、ちょっと遠いところに行ってみたい。