書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

【作家紹介シリーズ】朝倉かすみ

 それでは、乾杯の発声を仰せつかりましたので、ひと言ご挨拶申しあげます。
 今を去ること12年前。エッセー集『ぜんぜんたいへんじゃないです。』で〈年女だ。次に干支がひと回りしたら、還暦というところまできた〉と書いておられた朝倉かすみさん。この度は恙なく還暦を迎えられましたこと、誠におめでとうございます。
 朝倉さんは1960年北海道小樽市でお生まれになり、2003年43歳という“遅咲き”とも“機が熟した”ともいえるタイミングで、〈乙女と年増が一番どんくさい配合でミックスされてる〉ОLのささやかな転機を描いた「コマドリさんのこと」で北海道新聞文学賞を受賞され、翌年、〈ぱぴっとしない〉年下の恋人御堂くんに業を煮やし東京から彼の赴任先稚内までやってきた真穂子の奮闘記「肝、焼ける」で小説現代新人賞を受賞、小説家デビューを果たされました。あ、〈ぱぴっと―〉の意味は、冒頭に挙げた朝倉さんの日常や心の内が垣間見えて非常に興味深いエッセー集『ぜんぜん―』p82をご参照ください。
 さて、朝倉さんの作品の魅力は数々ありますが、そのひとつは同じ作者が書いたと思えないほどの振り幅の広さにあると思っております。片や“同級生もの”(勝手に命名)に代表される温かさ・共感・切なさがじんわり来る作品群。例えば2009年吉川英治文学新人賞受賞の『田村はまだか』。小学校の同級生で〈全員丙午満40歳〉の男女5人が、深夜のスナックで〈田村〉の到着を待ちわびる連作短編集です。“人はなぜ生きるのか”という弩級の命題に小学6年生にして答えを持っているなんて、田村君がかっこよすぎてしびれます。
 また、〈大人の『世界の中心で、愛をさけぶ』をやってみようと〉して書かれたという『平場の月』では、50歳で再会した中学時代の同級生、青砥(男子)と須藤(女子)のリアルで真摯な恋を描いて、2019年山本周五郎文学賞を受けておられます。須藤の頑なさに、素直になれ、ここは青砥に甘えてくれ!と何度歯噛みしたことか。その他にも、小説家になることへの不安を抱え泥酔した加賀谷を励ましてくれた〈ムス子〉と偶然再会する短編「ムス子」や、同級生同士で結婚したその後を描いた「たそがれどきに見つけたもの」など、まだ社会に対して身構える術を持たず素の自分をさらけ出していた者同士の、そこはかとない連帯感が胸を打つ“同級生もの”に外れなしです。
 その一方で、朝倉ワールドの闇の深さに震撼とする作品もまた同じくらい魅力的なのです。一途な思いはときに人を狂わせ、この世界の規範からは逸脱したものになっていきます。『ほかに誰がいる』の親友である少女に恋焦がれ、それ以上の関係を求める女子高校生本城えりの迸る狂気。また、琥珀色の瞳を持つ美しい眉子の抱える空虚が引き起こす悲劇を描いた『満潮』など、色素の薄い中性的なタイプの人物が出てきたら要注意。だいたいヤバい奴です。その筆頭ともいえるのが、色素薄い系のデブ〈太一郎と菊乃〉が、少女を誘拐して〈陰部封鎖〉の手術を施し支配下に置くことを企てる短編「村娘をひとり」。名づけて〈奪って、去る〉作戦の成功を祝し〈「夢が現実になっていく最初の夜に」「ドリカム」〉と乾杯を交わすシーンでは首筋がざわざわします。
 (「ビールの泡が消えるぞー」の声)申し訳ありません。原稿用紙4枚分の長いひと言になってしまいました。ご還暦はまだまだ道半ば。山本周五郎文学賞受賞の際「いいものを書いていきたいです」とおっしゃっていた朝倉さん。その作品をこれからももっともっと読みたいと願うわたしたち読者、双方の夢が叶いますよう祈念いたしまして乾杯したいと思います。みなさま「村娘をひとり」の極悪コンビに倣いご唱和願います。
では、〈ドリカム〉!〈ドリカム〉!!
〈拍手、拍手、拍手。鳴りやまぬ、拍手〉(←こちらは『田村はまだか』より)

2020年8月書評王:関根弥生

朝倉かすみさんの還暦を祝う会の様子を採録し、書評誌で掲載したという想定です。朝倉作品を長らく愛読してきた者として、この書評で書評王をいただけて本当に光栄です。

ぜんぜんたいへんじゃないです。

ぜんぜんたいへんじゃないです。

肝、焼ける (講談社文庫)

肝、焼ける (講談社文庫)

田村はまだか (光文社文庫)

田村はまだか (光文社文庫)

平場の月

平場の月

わたしたちはその赤ん坊を応援することにした

わたしたちはその赤ん坊を応援することにした

たそがれどきに見つけたもの (講談社文庫)

たそがれどきに見つけたもの (講談社文庫)

ほかに誰がいる (幻冬舎文庫)

ほかに誰がいる (幻冬舎文庫)

満潮 (光文社文庫)

満潮 (光文社文庫)

植物たち (徳間文庫)

植物たち (徳間文庫)

『完訳 ロビンソン・クルーソー』ダニエル・デフォー著・増田義郎訳

 子供の頃、わくわくして読んだ『ロビンソン漂流記』。今回、はじめて抄訳ではなく「完訳」を通読してみて、印象がだいぶ変わったので、意外だったところを中心に紹介したい。
1.ロビンソン社長、カネと奴隷に執着
 遭難するまでに70ページくらいかかる。そのあいだは(モロッコの海賊の奴隷になっていた期間を除き)「どうやってカネをもうけるか」という話をずっとしてる。まぁ、17世紀において、家を出た若者が「身を立てる」とは、どうやって財産を築くかということと同義だということは理解できる。しかし、抄訳では「船乗りにあこがれて」で済まされるのに対して、じつのところは〈成功して金持ちになってやろう〉というのが先で、別に船員になりたかったわけではないのである。難破したあとでも使い道のない金銀を無価値と知りつつ船から運び出したりしている。
 ロビンソンは奴隷も大好きだ。そもそもなぜ難破の憂き目にあったかといえば、ブラジルで自身が経営している農園で人手が足りず、同じような悩みを持つ農園主たちからも頼まれて、黒人奴隷をアフリカから密輸入するための船に責任者として乗り込んだからだ。島でも彼は、蛮人を捕まえて奴隷にするという妄想をたくましくしており、その望みはフライデーを手に入れることで実現したというわけだ。もちろん300年前の常識と現代とはだいぶ違うということが前提ではあるが、一方で聖書を信じ、もう一方で奴隷を求めるという西洋文明のいびつさを、あらためて突きつけられるような気にもなる。
2.ロビンソン、神の子、不思議な子
 解説を除いても文庫で400ページ以上ある「完訳」で、抄訳から増えるのは、サバイバルの具体的な記述もさりながら、宗教や聖書、信仰に対する言及である。もちろん神の存在は精神的な支えとしても大事なのだが、それより圧倒的なのは物質的な援助のほうだ。
 ロビンソンはそもそも「身一つ」で放り出されたわけではない。食品、道具類、銃や帆布など〈ひとりの人間のものとしては最大といっていいと思うあらゆる物資〉を恵まれての無人島生活スタートなのだ。
 他にも奇蹟は数え上げればきりがなく、熱帯で麦が栽培できちゃうとか、マラリアをタバコで完治させちゃうとかもその一例。仰天したのは野生のヤギをとっつかまえて牧場をつくっただけではなく〈しまいにはバターやチーズをつくれるようになって〉の部分だ。バターはともかく、チーズには乳を凝固させる酵素が不可欠で、それを得るには哺乳期間中の仔ヤギから第4胃袋を取り出す必要があるはずだが、これを〈あらゆる生き物に食物を与えてくれる自然は、どのようにして食べるかも自然に教えてくれるものだ〉で済ませるには、相当量の奇蹟が必要と思われる。これで神に感謝しなければ罰が当たるというものである。
3.ミニ帝国主義君主・ロビンソン翁
 島を脱出したロビンソンは、最初の望み通り大金持ちになる。そのときすでに54歳にはなっていたはずだが、のちに結婚し〈息子ふたり、娘ひとりの三人の子を得た〉とある。17世紀の人間の寿命から考えたら、たいしたものである。さらに62歳で〈例の島のわたしの新植民地〉を訪れ、〈後継者であるスペイン人たちに会い〉、そのうえでブラジルから〈いろいろな補給品のほかに、七人の女性を送った〉というのだが、よくそんなところへ行く若い女性を探し出せたものだ。なにか訳ありか、非合法な手段を使ったのではないだろうか。
 以上、「完訳」を読む限り、カネに汚く、奴隷に執着する農園主が、数々の奇蹟に恵まれ、老後にプライベート植民地を獲得・経営するというロビンソンさんの物語は、わくわくする冒険譚としてより、18世紀当時の帝国主義的な妄想が大衆レベルに落とし込まれた麻薬的な劇物として扱うほうが正しいのではという結論にいたったものである。

2018年11月書評王:山口裕之

古典の書評は、自由でいいですねー。講座では「次回は『巌窟王モンテ・クリスト伯)』をとりあげます」としないのかというコメントが。たしかに面白そう。

『ハバナ零年』を読んだ人にお薦めしたい3冊

 キューバ出身の新鋭作家カルラ・スアレスの『ハバナ零年』。この洒脱な小説を読んでキューバをもっと知りたいと思ったら、越川芳明の『あっけらかんの国 キューバ』(猿江商會)がいい。著者は明治大学副学長の現代アメリカ文学者で、スティーヴ・エリクソンなどの翻訳家でもある。専門外のキューバ文化に興味を持ち、現地の黒人信仰「サンテリア」の司祭になる修業まで始め、2008年から春と夏ごとに通い詰めている。この滞在記を中心にまとめたのが本作だ
 師匠や同門の司祭と交流を重ね、あらゆる儀式に参列し、時には闇市のエビでてんぷらをふるまう。著者が記すリアルなキューバに、ますます興味がそそられること間違いない。
 さて次は何を読むか。必読の一冊を探すのに超お薦めなのが寺尾隆吉の『ラテンアメリカ文学入門』(中公新書)。薄手の新書に20世紀以降のラテンアメリカ文学史がギュっと詰まっている。主要作品の解説はもちろん、キューバを含む各国の政治状況も織り込んで、ラテンアメリカ文学ブームの流れを俯瞰的に描く。膨大な読書量に基づく考察、批評眼、造詣の深さ。あっぱれである。
 特筆すべきは「メッタ斬り」と題したいほどの辛口ぶり。マルケス、コルサタルなどの大作家も一刀両断。ボラーニョの短篇、中篇を評価する一方で、傑作と名高く日本でも版を重ねる『2666』には同じモチーフの変奏だけの冗漫な章が目立つ、と批判する。著者の読解を鵜呑みにする必要はないが、世評高い作品をありがたがって読んできた評者には新鮮かつ刺激的な一冊だった。
 その最終章で著者が新世紀の傑作、と興奮気味に評するのがレオナルド・パドゥーラの『犬を愛した男』(水声社)。原書がほぼ同時期に刊行されたローラン・ビネによるナチス幹部の暗殺譚で、本屋大賞翻訳小説部門やツイッター文学賞海外篇で1位を獲得した『HHhH』を凌ぐ、とまで書いている。まじか。しかもキューバ文学と知れば手に取らずにいられない。寺尾氏自身の翻訳版は今年刊行された。
 物語の主軸は、ソ連共産党指導者でレーニンの後継者の一人だったトロツキー暗殺。スターリンとの権力闘争に敗れ追放された彼が、メキシコで暗殺されるまでの緊迫する亡命生活と、片や実行犯ラモンがソ連のスパイになり、暗殺を遂行するまでが交互に語られる。これがなぜキューバ小説なのかって。意外にも、本作は2004年のハバナで幕を開ける。
 第一章で語り手イバンは、14年前の「犬を愛した男」との出会いを回想する。海岸で2頭のボルゾイを散歩させていた男は、しだいにイバンと親交を深め、ある日途方もない話を語り始めたのだった。このキューバ人イバンの回想が、トロツキーと暗殺者ラモンのストーリーに挿入されることで、作品がぐっと現代性を帯びてくる。まさに『HHhH』における作者の声のように。
 一貫して作品に流れるのは恐怖の感覚だ。世界の裏側まで追われるトロツキーソ連秘密警察の駒として動かされるラモン、90年代のキューバで、物質的欠乏と言論の制限の中生きるイバン、彼らは三人三様に恐怖にからめとられながら日々を過ごす。
 密告や裏切りは当たり前、誰も信じることができない息が詰まりそうな日常の中で、3人は妻や恋人にさせ向けない盲目的な愛情を犬に傾ける。彼らの消えかかった人間性の灯は、愛犬を前にして、かすかに輝きを増す。
 1955年生まれの著者は、ミステリー作家として人気を博したのち、4年がかりで本作を書きあげた。綿密な時代考証に基づいたこの重厚な長編。ミステリーで鍛えられた読ませる力、クライマックスに向けた緊迫感、どんでん返しや読後の余韻が群を抜く。日本語で600ページを超える超大作だが、寝食を忘れて読み進めたくなること必至の傑作だ。
 『ハバナ零年』から3冊を経て、次は何を読もうか。トロツキーの伝記か、ラテンアメリカ文学を掘り下げるか、久々に『HHhH』を再読するか。読書の輪はこうやってらせんのように展開していくのだ。

2019年6月書評王:田仲真記子
この書評を読んで『犬を愛した男』を手に取ってくださる方が一人でもいたら本望です。激推し。 

ハバナ零年

ハバナ零年

あっけらかんの国キューバ―革命と宗教のあいだを旅して

あっけらかんの国キューバ―革命と宗教のあいだを旅して

  • 作者:越川 芳明
  • 発売日: 2016/02/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

『小説伊勢物語 業平』高樹のぶ子著

初読のオレ:ようやく『伊勢物語』がどういう話なのかわかった。
再読のオレ:これまで受験勉強的にというか、断片的にしか知らなかったもんな。
初読:和歌に短い状況説明がついてる「歌物語」形式で、平安期の有名歌人在原業平が出てきてってくらいしか。125段に分かれている独立した小話を「業平の一代記」として読めるように順番を組み替えて、一本のストーリーにしてくれたというのがありがたい。
再読:じゃあどういう話なのか、言ってみ?
初読:業平シックスティーンから55歳没まで、下は童女から上は白髪頭まで、いろんな女性を口説いたり浮気の言い訳したりするたびに和歌をつくって有名になったという話。
再読:頭いてぇ。も少し整理しようか。とくに印象に残った女性は?
初読:ふたりかな。一人目はのちに天皇に嫁ぐ藤原氏の箱入り娘、高子(たかいこ・17歳)。生まれは高貴なのに、思うままに市中を馬で駆けたいとかいうやんちゃ娘。当代きっての和歌アーティスト業平(34歳)がお近づきになろうと「いずれ文など届けたく」と迫ると「わたくしが欲しいものは、かたちばかりの文ではありませぬ。真心無くても、いかようにも言の葉は操れます」と突っぱねる。こりゃ、業平やられちゃうよね。迫った甲斐あって思い通じるが、身分の違いもあり、業平は駆け落ち同然に高子を抱えて京を飛び出すんだけど、油断したすきに追っ手に取り戻され、地団駄踏んで大泣きしつつ一首よむ。
再読:冷静に考えると、そこで一首がマジスゴイ。
初読:で、もう一人は伊勢神宮斎宮の恬子(やすこ)。もちろん未婚でないと務まらないお役目だし、帝の代わりに神に仕えているんであって、その任期中にいたしちゃうとかヤバイ。もともと自分の妻の父の姪という関係で、20歳以上離れてるのに、童女の内にツバつける的な描写があって背筋がぞわってくる。
再読:結果的には振られるんだけど、あとから子どもができたのがわかって、背筋どころか首筋が涼しくなるよな。
初読:で、伊勢物語はだいたいOKかなと。
再読:OKじゃねぇよ。「小説」であって「現代語訳」じゃないって意味わかってない。
初読:えー、どこが?
再読:最初に自分で「短い状況説明」って言ったよな? 原文では数行しかないのを、著者は何十倍にも膨らませてるわけ。たとえば2段の「西の京の女」。川上弘美の現代語訳(※1)では和歌の解説まで入れても250字程度なのに、本書では約1万字ある。
初読:40倍か。そりゃまるごと創作だな。
再読:もひとつ、解釈の問題。もともと原文は「男がいた」「女がいた」としか書かれてなくて、この「男」は誰かというとあらかた業平でいいだろうとしてもだ、じゃあ女は? いろいろだろうというのが従来解釈。でも、著者はこの「女」も10人くらいに集約しちゃったわけ。たとえば前半のヒロイン・高子が登場するのは3~6段と65段の全5段というのが従来解釈とすれば、本書では13段、26段、53~57段、ついでに76・100・106・110・116段もぜんぶ「女=高子」で読み解いている。こじつけとまでは言わないが、かなりの豪腕ぶり。
初読:お前それ、どうやって数えたの?
再読:出てくる和歌は変わってないから、モトと付け合わせた。で、そうすると伏線がつくれたり、回想を挿入できたりするし、なにより業平にすごい人間味が出るというか、少なくとも節操のないかんじがだいぶ減る。
初読:今なら10人でもすごいが、平安だしな。光源氏のモデルという話も有名だよね。
再読:臣籍降下されたコンプレックスで身分が上の姫を求めるところとか説得力ある感じに脚色されてるし、源氏物語をさらに本歌取りする解釈もあって、そういうところも「小説」ならではの読みどころ? 
初読:再読がおもしろそうでよかったよ。
再読:マンガでは木原敏江さん(※2)が描いてるけど、これ原作で新たにどうよ? 海野つなみさん(※3)とか、水城せとなさんとか(※4)、久保ミツロウさん(※5)とか? さらに解釈上乗せで、楽しくしてくれそう。
初読:妄想乙。


※1 『池澤夏樹=個人編集 日本文学全集03』(河出書房新社)に収録。
※2 『伊勢物語』(集英社)。高子、恬子の顛末のほか「筒井筒」「九十九髪」など5編を収録。言わずと知れた花の24年組。代表作は『摩利と新吾』ほか多数。
※3 時代的背景も織り込んだ上で女性側の自意識をきちっと描写してくれそう。代表作に『逃げるは恥だが役に立つ』(講談社)。
※4 業平がナメてる恋愛の「恐ろしさ」を存分に描いてくれそう。代表作に『失恋ショコラティエ』。(小学館
※5 業平の“ダサさ”“かっこ悪さ”に焦点を当てて、一周回って好きになれるキャラを作ってくれそう。代表作に『モテキ』(小学館)。

2020年7月書評王:山口裕之

すんません、これ「初読・再読」というシリーズで、書評講座では継続的に出しております。最初は面食らうかもですが、自分の読んだ感想を素直に書けるフォーマットとして、重宝しております。

小説伊勢物語 業平

小説伊勢物語 業平

【作家紹介シリーズ】内澤旬子

 以前から作品を読んできた内澤旬子さんのことが気になってしかたない。それというのも最新作を読んでしまったからだ。
 2007年の出世作『世界屠畜紀行』は、世界中の屠畜の現場を訪れてまとめた、自作イラスト入りの詳細なルポルタージュだった。モンゴルで屠畜された羊の内臓を見て、羊の中身を知りたくなってしまったことがきっかけで書かれた本作は、日本で今も言われなき差別を受けることのある屠畜従事者をめぐる社会的な背景への考察も多く、楽しみながら目を啓かされる。
 その後も内澤さんの興味は尽きず、家畜の誕生に始まる一生を知りたくて、自分で豚を育てることを決意。農家で豚の交配、分娩に立ち会い、千葉の格安貸家に移住して豚小屋を作り、三頭の子豚を迎え入れる。その成長に目を細め、ある時は脱走した豚を連れ戻して全身痣だらけになり、約半年の悪戦苦闘の末、三頭は100kgほどに成長する。
 彼らが屠畜され、「三頭の豚を食べる会」でふるまわれるまでを描いた屠畜実践編『飼い喰い』は、好きなことにのめりこんでいるうちに、こんな遠くまで来てしまったという、彼女の生き方を象徴するような一冊。
 この二作ですっかりファンになり、乳がん体験記『身体のいいなり』、小豆島への移住ルポ『漂うままに島に着き』と、新刊が出るたびに、その後の様子を追いかけてきた。
 だから最新刊もさっそく入手した。『ストーカーとの七〇〇日戦争』のタイトルどおり、なんと今度のテーマはインターネットのマッチングサイトで知り合った男性Aとの2年にわたる攻防。怖くて、彼女の行く末が心配で、一晩で読み通してしまった。
 別れ話がこじれてストーカーと化したAに困り果て、警察に相談する冒頭から、調書作成、逮捕、示談交渉、2ちゃんねる上での誹謗中傷を経た再逮捕。紆余曲折を経て自分の思いに沿う弁護士を探し、加害者の治療を手掛けるカウンセラーと出会い、ようやく光明が見え始める。結末まで怒涛の展開だ。
 一気読みしてしまうのは、緊迫した内容にそぐわないおもしろさのためでもある。どんなに危険な状況でも飼いヤギのカヨたちを優先する内澤さん。警察官、検事から弁護士まで、会う人ごとにスーツや人相チェックに余念がない内澤さん。警官が作成した供述調書を、仕事柄手際よく赤字で校正してしまう内澤さん、などなど。ふざけている場合じゃない、と突っ込みを入れながら、つい笑ってしまう。
 それにしても現在進行形のストーカーの存在には心底ぞっとする。本作後半には、週刊文春でこの作品の連載が始まった際のAの反応が出てくる。間に立つカウンセラーを通じ、彼の話が掲載されたことに憤りを表してきたのだ。彼が今もどこかでこの著作を手に取り、何らかの強い感情を抱いていることは容易に想像できる。著者曰く<「絶対安全」は、もう私の人生にはない>という言葉通りに。
 この本を書くことで、内澤さんはAに対する恐怖を追体験してしまったはず。忘れてしまいたい体験と向き合い続け、それを一冊の本にまとめる。それがどんな精神的ダメージになるのか、想像を絶するほどだ。でも、自らを題材にストーカー被害者への実質的な参考書を書きたいという気持ち、加害者の治療が被害者の安全保障につながるという主張、そして、何よりも、理不尽な被害にあって感じ続けてきたとてつもない怒り。恐怖をも凌駕するその怒りを収めるには、どうしてもこの本の執筆が必要だったのだろう。
 切実で、実用的、読み物としても楽しめる優れた一冊だ。テーマがテーマだけに、過去作のように自身のイラスト入りというわけにいかなかったのが唯一残念である。
 自分をさらけ出し、書き手としての矜持をもって本作を上梓した内澤さんが、安心して文筆業を続けられる環境に、一歩でも近づくことを切に願う。

2019年7月書評王:田仲真記子

飼い喰い』生活を一度送ってみるのが夢です。

世界屠畜紀行

世界屠畜紀行

  • 作者:内澤 旬子
  • 発売日: 2007/01/01
  • メディア: 単行本
飼い喰い――三匹の豚とわたし

飼い喰い――三匹の豚とわたし

  • 作者:内澤 旬子
  • 発売日: 2012/02/23
  • メディア: 単行本
身体のいいなり (朝日文庫)

身体のいいなり (朝日文庫)

  • 作者:内澤旬子
  • 発売日: 2013/08/07
  • メディア: 文庫
漂うままに島に着き (朝日文庫)

漂うままに島に着き (朝日文庫)

  • 作者:内澤旬子
  • 発売日: 2019/07/05
  • メディア: 文庫
ストーカーとの七〇〇日戦争

ストーカーとの七〇〇日戦争

『ピエタとトランジ 〈完全版〉』藤野可織著

〈私は小説家じゃない。これは小説じゃない。記録だ〉という語り手の独白から、この「小説」は始まる。なぜ、こうした枠組みが必要なのか? この小説世界が現実世界そのままを下敷きにした世界観のもとにはないということを、逆説的に宣言するためだ。
 語り手はなぜ、この物語を書き残すのか。〈私の親友は天才で、変で面白くてすごくいい子で、そのおかげで私たちは最高に楽しい毎日を送ってきた。私が心からそう思ってて、ひとつも後悔してないってこと、きちんと証明しておきたい〉からだ。たとえ世界が終わっても、私と親友の物語を残したいのだ。
〈親友の名前はトランジで、私はピエタ。本名は書かない。私たちだいたいそう呼ばれてきたし、しっくるくるあだ名だから〉トランジとはフランス語で、腐敗した死骸や骸骨をモチーフとした彫刻、レリーフのこと。ピエタとはイタリア語で、十字架から下ろされた死せるキリストを抱く聖母マリアの彫刻や絵のこと。これは、世界に死をまき散らす名探偵・トランジと、彼女に寄り添い続ける語り手・ピエタの物語なのだ。
 第一章の冒頭からわずか1500字。最後まで読み終わった後に戻ってみれば、これほど完璧なプロローグなはいとさえ思える。この物語のテーマが完璧に説明されている。一見饒舌でありつつ、振り返ればムダがない。本書全体に共通する語りの特徴と言えるだろう。
ピエタとトランジ』は、十二章+エピローグで構成されている。一章から十二章までタイトルは「○○事件」で統一されている。共通しているのは、事件が解決されたとき、探偵役・トランジの周囲には新たな死体がごろごろと転がっていること。〈トランジはものすごく頭がいい代わりに、周囲で事件を多発させる体質〉なのだ。この体質の謎は、物語の最終盤まで読み手を引っ張り続ける。
 コンビ結成のエピソードが描かれるのが「ピエタとトランジ」と題されたエピローグであるという点も工夫されている。ふたりの出会いと意気投合の理由、これもひとつの「謎」として機能しているのだ。最初は単独の短編として発表された作品で、一章から十二章まではいわばこの短編の続編だ。なぜ単行本でこうした構成になったのか。ある決め台詞が接近することで文章上とてもおしゃれな効果が生まれていること(ぜひ読んで確かめて欲しい)、円環をなすことで「終わりがない」感が生まれていることの他にも、理由があるように思う。世界の認識の問題だ。
 一章から十二章まで、人の命は非常に軽い。たとえば一章で自分の彼氏が殺されたことについて振り返るピエタは、悼むどころか通り一遍の注意さえ払わない。もうトランジと「出会って」いて、人が死のうと世界がどうなろうと、たいしたことではなくなっているのだ。エピローグを除き、ピエタが語る物語はこのモードで十二章を駆け抜ける。
 その“命が非常に軽い世界”で、旧来の常識を一身に引き受けるのは、ピエタ医大生時代の寮友である森ちゃんだ。トランジの体質を見抜き、世の中から隔離すべきだと信じ、そのためにあらゆる努力をいとわない。当たり前の世界なら、彼女がヒロインだ。でも、著者は徹底的にピエタとトランジの側に立ち、森ちゃんの世界、この世の常識のほうを足蹴にする。
 ピエタとトランジの関係が末永く――16歳から80歳過ぎまで――描かれる一方で、世界は激変する。トランジの「体質」は、高校を卒業する頃には全校生徒数を半分以下にしてしまうし、中年になる頃には「死を呼ぶババア探偵」として都市伝説になる。殺人事件の増加は日本中を覆い、果ては世界がマッドマックス化するところまで行き着く。その壊れ方は、いっそ痛快でさえある。女性ふたりが自分らしく生きようとするだけで、世界は崩壊するのだ。これは著者の、「今ここ」に対する認識にも通じているだろう。たとえ世界が滅ぼうとも「親友」の側に立つ、詰まるところ、これはそういう物語なのだ。

2020年5月書評王:山口裕之

最初はすごくノレなくて。なんで面白くないんだろうという理由を探すつもりで再読してみたらめっちゃ面白くて、その理由を書いたつもりの書評です。

ピエタとトランジ <完全版>

ピエタとトランジ <完全版>

 

『失われたいくつかの物の目録』ユーディット・シャランスキー著・細井直子訳

 1980年旧東ドイツ生まれの作家・ブックデザイナー、ユーディット・シャランスキーによる2018年刊行の本作は、ドイツを始め各国で数々の文学賞に輝いた。
 今はもう存在しない物について、統一した構成の12篇が並ぶ。まずテーマについて調べこまれた事実が記され、それを端緒にノンフィクション、エッセイ、回想録、SF小説などの形を取った短文が続く。地理、動物、建築、映画、詩、宗教など題材は多岐に渡る。
 前書きにあたる「緒言」で作者は言う。本を読むことで、過ぎ去ったもの、忘れられたものを追体験できる、そして<存在と不在の違いは、記憶がある限り、もしかすると周縁的なものかもしれない>と。
 作者は本というものに圧倒的な信頼を抱き、書物に残された過去の記録をきっかけに、時に正確に残り、時に大胆に再構成される記憶、緻密でありながら意外性に満ちた想像力を駆使して作品を組み上げる。
 20世紀に絶滅したと考えられる猛獣が主人公の「カスピトラ」。この獣が2000年前、古代ローマの闘技会でライオン相手に闘った末、命を奪われるさまが記される。その一頭を殺したローマ皇帝の愚行は、種を絶滅させた現代人と冷やかに並べられる。
 巻末に人名索引を備え、必要な事実を提供するが、各篇を読み解くヒントは、密やかに書き入れられるだけのこともある。「青衣の少年」を見てみよう。冒頭、無声映画時代のドイツの高名な監督、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ムルナウの初めての映画のことが語られる。本篇のタイトル「青衣の少年」は、その映画の重要な小道具となる、18世紀イングランドの画家ゲインズバラの絵画の名だ。
 一転、ニューヨークのホテルに滞在する女優の一人語りが始まる。途中明かされる名はグレタ・ガルボ。年を重ね、容貌が盛りを過ぎた彼女のさばさばした語り口を通し、読者はハリウッドスターの儚さに思いを馳せる。
 一読後、はたと気づく。ムルナウは本篇とどう関連するのか。精読し、人名索引にあたり、周辺状況を調べ、答えとなる一文をみつけた時の嬉しさは格別だ。
 「フォン・ベーア家の城」の中心は、作者自身の幼時の記憶。人は死ぬ、と言うことを知った時の驚き、二階から飛び降りた事件、庭で見つけた棘だらけの動物。彼女が記憶の引き出しから繰り出すエピソードを楽しんでいると、それが事実かどうかなど、些末なことに思えてくる。
 最終篇「キナウの月面図」にも驚かされる。1932年、国際天文学連合は月面のあるクレーターを「キナウ」と命名した。その由来と言われていたボヘミアの役人、C.A.キナウの名は2007年に記録から抹消され、19世紀に月面図を描いたドイツ人の牧師で天文学者ゴットフリート・アドルフ・キナウに置き換えられた。
 こんなトリビアをきっかけに展開するのはC.A.キナウを思わせる人物が主人公の短篇。月に尋常ならぬ興味を持つ彼がたどる運命。もうひとりのキナウが描いた月面図との関わり。唐突なSF的展開に戸惑いながら、芳醇な想像力に魅了される。
 記録と記憶と想像力の絶妙な配分に読者は翻弄され、次はどんな世界が始まるのか、愉しい予感と共にページをめくることになる。
 作者が本作につぎ込んだ時間や情熱や思考には及ばなくても、気持ちを傾けて隅々まで味読して初めて理解できるものがある。各篇冒頭の黒地にうっすら浮き上がる写真や絵のように、目を凝らして、感覚を研ぎ澄まして向き合わなければ見過ごしてしまうものがある。手軽に感情を揺さぶるわけではない。だが、読後、200ページ余りの一冊に収められた世界の大きさに圧倒される読者は多いだろう。腰を据え、時間をかけ、じっくりと読むべき、そしてそれにふさわしい充実感が得られる一冊だ。

2020年6月書評王:田仲真記子
軽快な文体の書評を書くのが当面の目標です。

失われたいくつかの物の目録

失われたいくつかの物の目録