書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

『ハバナ零年』を読んだ人にお薦めしたい3冊

 キューバ出身の新鋭作家カルラ・スアレスの『ハバナ零年』。この洒脱な小説を読んでキューバをもっと知りたいと思ったら、越川芳明の『あっけらかんの国 キューバ』(猿江商會)がいい。著者は明治大学副学長の現代アメリカ文学者で、スティーヴ・エリクソンなどの翻訳家でもある。専門外のキューバ文化に興味を持ち、現地の黒人信仰「サンテリア」の司祭になる修業まで始め、2008年から春と夏ごとに通い詰めている。この滞在記を中心にまとめたのが本作だ
 師匠や同門の司祭と交流を重ね、あらゆる儀式に参列し、時には闇市のエビでてんぷらをふるまう。著者が記すリアルなキューバに、ますます興味がそそられること間違いない。
 さて次は何を読むか。必読の一冊を探すのに超お薦めなのが寺尾隆吉の『ラテンアメリカ文学入門』(中公新書)。薄手の新書に20世紀以降のラテンアメリカ文学史がギュっと詰まっている。主要作品の解説はもちろん、キューバを含む各国の政治状況も織り込んで、ラテンアメリカ文学ブームの流れを俯瞰的に描く。膨大な読書量に基づく考察、批評眼、造詣の深さ。あっぱれである。
 特筆すべきは「メッタ斬り」と題したいほどの辛口ぶり。マルケス、コルサタルなどの大作家も一刀両断。ボラーニョの短篇、中篇を評価する一方で、傑作と名高く日本でも版を重ねる『2666』には同じモチーフの変奏だけの冗漫な章が目立つ、と批判する。著者の読解を鵜呑みにする必要はないが、世評高い作品をありがたがって読んできた評者には新鮮かつ刺激的な一冊だった。
 その最終章で著者が新世紀の傑作、と興奮気味に評するのがレオナルド・パドゥーラの『犬を愛した男』(水声社)。原書がほぼ同時期に刊行されたローラン・ビネによるナチス幹部の暗殺譚で、本屋大賞翻訳小説部門やツイッター文学賞海外篇で1位を獲得した『HHhH』を凌ぐ、とまで書いている。まじか。しかもキューバ文学と知れば手に取らずにいられない。寺尾氏自身の翻訳版は今年刊行された。
 物語の主軸は、ソ連共産党指導者でレーニンの後継者の一人だったトロツキー暗殺。スターリンとの権力闘争に敗れ追放された彼が、メキシコで暗殺されるまでの緊迫する亡命生活と、片や実行犯ラモンがソ連のスパイになり、暗殺を遂行するまでが交互に語られる。これがなぜキューバ小説なのかって。意外にも、本作は2004年のハバナで幕を開ける。
 第一章で語り手イバンは、14年前の「犬を愛した男」との出会いを回想する。海岸で2頭のボルゾイを散歩させていた男は、しだいにイバンと親交を深め、ある日途方もない話を語り始めたのだった。このキューバ人イバンの回想が、トロツキーと暗殺者ラモンのストーリーに挿入されることで、作品がぐっと現代性を帯びてくる。まさに『HHhH』における作者の声のように。
 一貫して作品に流れるのは恐怖の感覚だ。世界の裏側まで追われるトロツキーソ連秘密警察の駒として動かされるラモン、90年代のキューバで、物質的欠乏と言論の制限の中生きるイバン、彼らは三人三様に恐怖にからめとられながら日々を過ごす。
 密告や裏切りは当たり前、誰も信じることができない息が詰まりそうな日常の中で、3人は妻や恋人にさせ向けない盲目的な愛情を犬に傾ける。彼らの消えかかった人間性の灯は、愛犬を前にして、かすかに輝きを増す。
 1955年生まれの著者は、ミステリー作家として人気を博したのち、4年がかりで本作を書きあげた。綿密な時代考証に基づいたこの重厚な長編。ミステリーで鍛えられた読ませる力、クライマックスに向けた緊迫感、どんでん返しや読後の余韻が群を抜く。日本語で600ページを超える超大作だが、寝食を忘れて読み進めたくなること必至の傑作だ。
 『ハバナ零年』から3冊を経て、次は何を読もうか。トロツキーの伝記か、ラテンアメリカ文学を掘り下げるか、久々に『HHhH』を再読するか。読書の輪はこうやってらせんのように展開していくのだ。

2019年6月書評王:田仲真記子
この書評を読んで『犬を愛した男』を手に取ってくださる方が一人でもいたら本望です。激推し。 

ハバナ零年

ハバナ零年

あっけらかんの国キューバ―革命と宗教のあいだを旅して

あっけらかんの国キューバ―革命と宗教のあいだを旅して

  • 作者:越川 芳明
  • 発売日: 2016/02/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)