書評王の島

トヨザキ社長こと豊﨑由美さんが池袋コミュニティカレッジで開講している「書評の愉悦ブックレビュー」。そこで書評王に選ばれた書評を紹介するブログです。

【作家紹介シリーズ】年の瀬に読みたい伊藤礼

書いた人:田仲真記子  2018年12月書評王
最近ますます書評講座が心の支えです。

 

 

年末と言えば……

 いまどきおせち料理を作る人も少ないようですが、年の瀬になればスーパーで正月用の食材を見かけます。この時期だけ出まわるもののひとつがクワイ。ピンポン玉大の芋に角が生えたような形状の野菜です。クワイこそ、伊藤礼の『ダダダ菜園記:明るい都市農業』(ちくま文庫)の陰の主人公なのです。

  作者は昭和の文豪伊藤整の次男。日本大学芸術学部教授だった彼が、齢80歳のときに刊行したのがこの作品です。久我山の自宅に接する13×3メートルの家庭菜園の記録は老人特有の脱線ぶり。それも彼の話芸のなせる業なのですが。初出は雑誌連載だったこのエッセイでは、高齢を理由に草抜きを怠ったあげく作物が雑草に埋もれて壊滅したり、紙数が足りなくなると強引に話題を次回に先送りにしたり、菜園の実りの様子はなかなか読めません。さらにシビンによる排尿手順とか、メダカの飼育とか、菜園と無関係な話題に終始することが多すぎるのです。
 その伊藤礼翁が、全篇を通じて情熱を傾けるのがクワイ栽培です。泥田栽培のための種イモ確保から栽培容器、大量の水やり、収穫後の収支計算まで、脱線がちな本作で唯一継続するのはクワイに関する記述です。本作の読後、「今年はおせち料理クワイを入れてみようかな」と思う読者もいることでしょう。人生の折り返し点に達すると、先々の生き方に思いを巡らすことがありますが、4、50代の迷える男女にとって、気持ちがふうっと軽くなる老人本です。
 著作一覧によると、彼が初の単著を刊行したのは52歳ごろ。初めの2作は父伊藤整をタイトルに冠した作家の子が語る父と言った体の作品です。後の作品に見られるユーモアは散見されますが、まだ堅い。あくまで大作家の息子として黒子に徹した作品です。

狸ビール (講談社文庫)

狸ビール (講談社文庫)

 

  著者が自分らしさを見せるのは3作目以降です。狩猟をめぐるエッセイ『狸ビール』(講談社)で講談社エッセイ賞をあの須賀敦子と同時受賞し、囲碁がテーマの『パチリの人』(新潮社)では、趣味にのめりこむさまを詳述します。がんの手術後も治療中も碁、文壇囲碁選手権三連覇を果たしたのは、がんの放射線治療中で体内に蓄えられた放射線が勝利を呼び込んだ、なんて自虐的なブラックユーモアをかまします。
 とはいえ、ここまでは前段のようなもの。彼の本領が発揮されるのは、自転車三部作『こぐこぐ自転車』(平凡社ライブラリー)、『自転車ぎこぎこ』(平凡社)、『大東京 ぐるぐる自転車』(ちくま文庫)でしょう。結核にがん、肝臓病と病気の絶えなかった著者は68歳にして自転車に乗り始めます。おしりの痛さや筋肉の衰えを克服し、全国各地の自転車旅行に繰り出すまでになり、数台の自転車を所有します。転倒、骨折にも負けず、不死鳥のようによみがえる伊藤礼翁。趣味あればこその人生を貫く姿勢は、まさしくあこがれの生き方です。

こぐこぐ自転車 (平凡社ライブラリー)

こぐこぐ自転車 (平凡社ライブラリー)

 
自転車ぎこぎこ

自転車ぎこぎこ

 
大東京ぐるぐる自転車 (ちくま文庫)

大東京ぐるぐる自転車 (ちくま文庫)

 

  著作では絶妙な脱力感とユーモアを発揮していますが、『まちがいつづき』(講談社)内の一篇では、気難しかった父に似て、青年期まで癇が強く神経質だったことを明かしています。作者の生き方は、80年の積み重ねがあってようやく身につけたものだったわけです。その告白を読んで、人間年を重ねることも悪くない、そしてそこに病気も忘れるほど打ち込める趣味があれば怖いものなし、と再認しました。

まちがいつづき

まちがいつづき

 

  最後に、伊藤礼翁流のユーモアを表す一節を紹介しましょう。
 <(『こぐこぐ自転車』の)さまざまな書名候補があがった中に、早いころ『こぐ』というのがあった。幸田文に『流れる』というのがあるが、それに近いだけでなく簡潔さにおいてもっと徹底している。これは編集の保科孝夫氏の両手を挙げての賛同を得るに至らなかった>新年はクワイを食べながら伊藤礼を読んで、老後の人生に思いをはせてみては。