書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

多和田葉子『地球にちりばめられて』書評

地球にちりばめられて

書いた人:田仲真記子 2018年7月書評王
この夏は飯嶋和一ブームが来る予感です。

 前作にあたる作者の2017年の作品『百年の散歩』に、ドイツに亡命したウイグル人ジャーナリストがミュンヘンで串焼き羊肉を売って暮らしている、という話を引き合いに出し、「もしも将来日本が独裁政治に蝕まれることになったら、ベルリンに亡命して寿司屋をやる人も出てくるんだろうか」と主人公が語る一節がある。『地球にちりばめられて』の発想は、ここから始まったのかもしれない。それは多和田葉子の手にかかるとこんなに軽やかで豊かな物語になる。
 舞台はデンマークの首都コペンハーゲン言語学を研究する大学院生のクヌートが、「中国大陸とポリネシアの間に浮かぶ列島」で生まれ育ち、一年の予定でヨーロッパに留学し、あと二か月で帰国という時に、自分の国が消えてしまったというHirukoをテレビで見るところから始まる。北欧の三か国語を勉強し、スカンジナビアの人ならだいたい理解できるパンスカ、という自作の言葉を話す彼女に強く興味をひかれたクヌートは、テレビ局の仲介でHirukoに対面する。
 この二人を中心に、インド出身の青年で女性として生きることを決めたアカッシュ、鮨職人Tenzo、彼に心惹かれるノラ、そしてもう一人の鮨職人Susanooが入れ替わりで一人称の語りを続ける。中心となるのは、Hirukoが母語で話せる相手を探す旅である。ドイツのトリアー、スウェーデンオスロー、フランスのアルルと、行く先々に語り手の多くが同行する。
 旅の行方とともに小説の読みどころとなるのは、全篇にちりばめられた言葉遊びや想像力を喚起する表現の数々だ。作者の文章は読者の脳を刺激して言葉に対する感度を高めてくれるから、読み手は五感を総動員して作品を味わうことになる。「(デンマーク語は)発音がとても柔らかいので、難しい。柔らかいものばかり食べるようにして発音の努力をしている。」とか、「これからテンゾと会って話せると思うと、脳の池がかきまぜられて、これまで底に沈んでいた単語が水面に浮かび上がってくる」なんて具合に。
「消滅したHirukoの生まれた国」に対する登場人物たちの見解もおもしろい。自分の意見を提案し続ける若者は評価されず、「出る杭は打たれる」という諺があって、出る杭を打つ腕を鍛えるために「もぐら叩き」というゲームが開発された、とか、電車がひどく混んでいる状態を「スシズメ」と呼ぶ、と語ったうえで、さすが鮨の国だ。本当にうらやましい。とまとめる箇所など、日本人なら自虐的なネタに苦笑してしまう。
 国の消滅は自国人にとっては衝撃的な大事件だが、Hirukoに対する周囲の反応は様々だ。その国の存在さえ知らない人もいるし、ひとりヨーロッパに取り残された彼女を皆が同情するわけではない。たとえばいま、日本人の多くがシリアの現状をどれだけ理解しているか、その国の難民と対峙したらどう反応するか、と想像してみると、本作の描写も戯画化されたものには感じられない。
 作中、主人公は現実を率直に受け止め、難民として、というより地球人として生きることを選ぶ。それが物語の前提になっていることが、作品の明るさの源だ。またクヌートとの恋が温かく居心地がいいからだろうか、物語に悲壮感はなく、読後はふわっとした高揚感に包まれる。一行の旅がまだまだ続くことを予感させる結末も楽しい。
 何よりこの小説は、独裁政治に蝕まれつつある、かろうじて消滅していない極東の島国に生きる読者に、どこで、誰と、どう生きていても、いくらかの好奇心と好きな人、好きなもの、壁のない心があれば、世界は大きく開ける、という抜群の開放感を感じさせてくれる。それが境を越え続けてきた作家の声で語られると、「壁」は文字通り敷居をまたぐように難なく取り払える、と思えるようになるのだ。

 

地球にちりばめられて

地球にちりばめられて