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書評王の島

トヨザキ社長こと豊﨑由美さんが池袋コミュニティカレッジで開講している「書評の愉悦ブックレビュー」。そこで書評王に選ばれた書評を紹介するブログです。

『こびとが打ち上げた小さなボール』チョ・セヒ(斎藤真理子訳)

書評 書評王 池袋書評講座

こびとが打ち上げた小さなボール

書いた人:豊崎由美(とよざきゆみ)2017年4月書評王

1961年生まれのライター・書評家。最新刊は大森望との共著『「騎士団長殺し」メッタ斬り!』(河出書房新社)。

 

 

 日本の翻訳界で手薄なのがアジア文学。多くの日本人は名誉白人をきどっているというか、近隣諸国をひとつ下に見たがるところがあり、その欧米敬拝根性ゆえに中国や韓国、東南アジアの小説に食指を動かさない傾向があるからではないかと、わたしは疑っている。ところが、ここ数年、新潮社の「クレスト・ブックス」シリーズ、白水社の「エクス・リブリス」シリーズを中心に、日本の読書界にとってはマージナルな存在だったアジア文学の良書が次々と翻訳されるようになって嬉しい限り。おかげで、チョ・セヒが1978年に発表した連作短篇集(のスタイルを取った長篇小説ともいえる)『こびとが打ち上げた小さなボール』も、思いがけず日本語で読めるようになったのである。「思いがけず」というのも、この小説、言葉の自主規制はなはだしい日本では翻訳困難な単語がバンバン放たれる過激な内容になっているからだ。  なんせ冒頭の1篇が、〈せむし〉と〈いざり〉が自分たちの家を取り壊しておいて、相場より低い額の保証金しか払わなかった業者の男を襲う話。で、最後に置かれた1篇も、同じコンビが、自分たちを置き去りにした見世物で人寄せする移動薬売りを、殺意をもって追いかける話。この、グロテスクな詩情を湛え、かつシニカルな笑いを呼ぶ寓話のような2つの物語と、間に挟まれたリアリズム寄りの10篇の舞台になっているのは、朴正煕による軍事独裁政権下、知識人が次々と連行され、資本家によって労働者が搾取される一方だった1970年代の韓国なのである。  スムーズに水も出てこない家に住み、世の中の不公平さに苛立ちを覚えている中産階級の専業主婦シネが、〈こびと〉に水道を修理してもらい、自分もまた彼の仲間なのだということに思い当たる「やいば」。学生運動に身を投じ、精神を失調させたシネの弟の物語「陸橋の上で」。特権階級の父親に敷かれたレールに反発を覚える受験生が、自分でものを考え、曇りのない目で社会を見ることを学んでいく「軌道回転」と「機械都市」。巨大企業グループ一族に属する青年の目を通し、持てる者の残酷さを活写する「トゲウオが僕の網にやってくる」。  当時、北朝鮮よりも貧しかった韓国の経済成長を第一義にかかげた朴正煕政権による急激な都市開発によって、生を蹂躙されていくスラムの住人たちをはじめ、さまざまな立場にある人物を登場させることで、民衆苦難の時代を立体化させるこの小説の中心にいるのが、スラムの住人代表といえる〈こびと〉一家だ。長男ヨンス、次男ヨンホ、長女ヨンヒそれぞれの視点から、家族のために懸命に働いてきた愛情豊かで辛抱強い〈こびと〉の、報われなかった一生を描く表題作。資本家から人間として扱われない理不尽な状況下、勉強会を開き、組合を結成したヨンスが、静かに怒りを内に育てていく過程を描いた「ウンガン労働者家族の生計費」と「過ちは神にもある」。  描かれていることのほとんどは、読んでいてギョッとするほど苛烈で過激で過酷。でも、イメージ喚起力の高い、時に詩的とすらいってもいい文章が、この小説を貫く悲しみに繊細な表情と普遍性を与え、日本人のわたしからも深いレベルにおける共感を引き出す。つまり、韓国文学を超えて世界文学になっている作品なのだ。  作中で重要なエピソードとして語られる「こびとが打ち上げた小さなボール」にまつわる出来事。「小さなボール」とは一体何を意味するのか。わたしは、〈こびと〉がわが子や祖国に託す未来ではないかと受け取る者だが、解釈は読者一人ひとりに任されている。この小説が本国でベストセラーになり、ロングセラーとして読まれ続けているのは、今もなお「小さなボール」に心を寄り添わせる人たちがいるということの証左だ。そんな韓国の読書界を、わたしはリスペクトする。 

 

こびとが打ち上げた小さなボール

こびとが打ち上げた小さなボール

 

 

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