書評王の島

トヨザキ社長こと豊﨑由美さんが池袋コミュニティカレッジで開講している「書評の愉悦ブックレビュー」。そこで書評王に選ばれた書評を紹介するブログです。

『学校の近くの家』青木淳悟(新潮社)

 学校の近くの家

書いた人:長瀬海(ながせ かい) 2016年2月書評王
ライター・書評家(これまでの仕事リスト → http://nagasekai.tumblr.com
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メールアドレス:nagase0902アットマークgmail.com

 

 青木淳悟の小説を手に取り、最初の一ページをめくる前、いつもかすかな慄きに襲われる。それは私のなかにある小説についての既成概念がまた壊されるのか、という予感があるからだ。例えば、第25回三島賞受賞作の『私のいない高校』。カナダから来たブラジル出身の留学生を受け入れた高校の生活を無機質な、まるで日誌のような文章で綴ったこの小説は、「私」という、物語を動かすペルソナともいうべき主人公を徹底的に排除した作品となっていて、近代以降に作り上げられたあらゆる小説観をぶち壊す一冊だ。とある高校の先生が書いた留学生の日記がこの小説の原典として存在すると知り、作品を解読する鍵がそこにあるはずだと国立国会図書館に足を運んだが、作者の思惑がますますわからなくなるばかりで、頭を抱えたものだった。

 そんな経験が私のうちにあるものだから、本作を読む前にぎゅっと身構えたが、同時に心のどこかにほんのり期待もあった。また「小説」を壊してくれますようにーー。

 『学校の近くの家』は、平成になったばかりの時代を背景に、埼玉県狭山市の小学校に通う男子のスクールライフを描いた連作短編集だ。といっても学校小説と聞いて頭にすぐ浮かぶような、小学生の友情や周囲との葛藤を読者の情感に寄り添いつつ描いた青春モノではない。作者のたくらみはその彼岸にある。

 小学五年生の杉田一善は、全校生徒のなかで一番学校に近い家に、両親と9つ離れた妹の4人で住んでいた。物語はこの「学校の近くの家」を中心に、一善が五年生だった頃という過去を掘り返しながら、さらにそれ以前のおぼろげな記憶を遡り、また戻って来る、という具合に進んで行く。けれど、そこにはほとんど物語の起伏はない。断片的なエピソードが、驚くほど詳細な周辺地域のディテールとともに淡々と語られていく。小学二年生の時に、母親が妹を出産し、学校でちょっとした話題となったこと。社会の授業で地域の地図を調べたことをきっかけに、友人と放課後の冒険に出かけたものの、こころざし半ばで頓挫してしまったこと。母親が自宅の隣に新しく作られた学童保育所を任されたこと。歴史ゲームをやり込んでいたおかげで、学校の行事で披露することになった時代劇の企画立案の際にクラスの中心となれたこと。ドラマ性に乏しいこうした過去の逸話のひとつひとつが無感動な文章で綴られていく。

 ドラマ性を完全に脱臭する、その反・小説的な企て。それは次のような叙述のなかで行われている。例えば、母親の光子はかつて流産をした経験を持ち、過去から逃れるようにこの地にやってきた。しかし、そのエピソードは仄めかされるだけで、章題通り、「光子のヒミツ」は読者にも秘密にされる。それから、ストーリーの核となる一善の小学校生活も、全く郷愁を読者に押し付けない。ただ時折現れる、ファミコンソフトや空中で爆発したチャレンジャー号、光GENJIといった固有名詞からノスタルジアを読者が勝手に感じるだけなのだ。ドラマが隆起する手前で、作者はそこに蓋をするかのように筆を進めていく。

 さらに奇妙なのは語り手だ。一善の過去を探る語り手は、この主人公のことを「指標児童」と呼び、不確かな記憶をはっきりさせるために、一善を「抽出」あるいは「放送で呼び出し」て確認したいと言う。一善の作文、光子の日記、そして二人の記憶を手掛かりに物語を作り上げるこの不気味な語り手は、果たして何者で、何のために一善の過去を物語として紡ぎだしているのか。と、問うてみるものの、そんな問いすら虚しくなってくる。

 既存の小説作法から大きく逸脱したこの作者の技法は、凝り固まった小説観を破壊する。そこにこの小説を読む悦びがある。私はいま、本作を含めた青木淳悟の数々の小説を21世紀のアンチロマンという意味を込めて、ネオ・ヌーヴォロマンと読んでみたい。小説はまだまだ壊される余地があるのだ。

 

 

学校の近くの家

学校の近くの家

 

 

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