書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

アキール・シャルマ『ファミリー・ライフ』

ファミリー・ライフ (新潮クレスト・ブックス)

書いた人:小平智史 2018年度5月書評王
最近は句会をやりたいです。

 

 一九七〇年代の終わり頃、『ファミリー・ライフ』の主人公である八歳の少年アジェは、インドのデリーから一家で米国へ移り住む。兄は猛勉強の末、入学を希望する理科高校の試験に見事合格。だが喜びもつかの間、事故で脳に損傷を受け、意思の疎通もままならない寝たきり状態になってしまう。一家にとって、いつ終わるとも知れない長い介護生活が始まる。
 この作品はかなりの部分で作者アキール・シャルマの体験をもとにしている。シャルマもまた、インドのデリーで生まれて八歳で渡米。大学で創作を学んだのちに投資銀行に勤めつつ、二〇〇〇年に長編デビュー作を刊行した。『ファミリー・ライフ』は二〇一四年に発表された第二長編。作者自身、脳に損傷を負った兄を長く介護した経験をもつ。
 本作は語り手アジェのつらさだけでなく不正直さや身勝手さも容赦なく描く。彼が兄ビルジュの事故を知って涙するのは《ビルジュはこれから入院することになるのに、僕は普段と変わりばえのしない一日を過ごしただけ》と思うからだし、学校の友達にはビルジュをスポーツ万能で弟思いの理想の兄に仕立て上げて話す。ガールフレンドにキスしてもらうために《慰めてほしいというようにビルジュの病気のことをほのめかし》さえする。
 しかしそれでアジェの悲しみが否定されるわけではもちろんない。《息ができなくなるくらい激しく泣きじゃくるのもしばしばだった。そんな時、僕は自分から抜け出した。僕は歩きながら喘いでいる。と同時に、僕自身の不幸が僕のそばを歩きながら、僕のなかに戻れるよう、呼吸が静まるのを待っているのがわかった。》夢中で泣いて悲しみから逃れても、それは一時のことにすぎないのだ。
 アジェはとにかくよく喋る。学校の友達が嘘だらけの兄自慢にうんざりしてくると、こんどは介護の詳細を生々しく聞かせて相手を辟易させる。反応を示さない兄にさえ話しかける。《一日中、何もしてないよね。(…)「僕は学校に行かなくちゃいけないし、勉強してテストを受けなくちゃいけない」。喋れば喋るほど怖くなっていった。》解決になるわけでもないのに、駆り立てられるようにアジェは喋る。
 そんなアジェに、言葉との別の付き合い方を教えてくれるのが、作家ヘミングウェイだ。有名作家を読んだふりしたい見栄っ張りのアジェは、ヘミングウェイ本人の作品ではなく彼に関する伝記や評論ばかり読むうちに、小説家になりたいと思うようになる。ヘミングウェイの特徴がシンプルな文体なのを知って、《作家になっても、すごく上手な書き手である必要はない。いい生活を送るにはそこそこのものが書けていれば十分なのだ》と曲解するくだりは可笑しい。
 アジェはついにヘミングウェイ本人の作品を読む。すると評論で読んだことが作品の内容とつながり、《不意に立ち上がったときのような、頭がすっきりとして、部屋がぐっと広がって感じられるような》感覚をもつ。達観や心の平穏といった類の救済とは無縁の本作にあって、読書へのすこし変わったアプローチによって主人公の《世界の見え方が変わ》るこの一節は、短いあいだながら開放感にあふれた部分と言ってよい。
 それからアジェは自分の物語を書きだす。だからといって彼が急に人間的な成長を遂げるわけではないし、作品の終盤では、アジェが心にかかえた問題はほとんど解決のしようがないことが示唆されている。本作は、一筋の縫い目のようにまっすぐ問題の解決へと向かう物語ではなく、悲しみも喜びも可笑しさもない交ぜに、さまざまな種類の経験が入り組んでできた複雑なパッチワークだ。兄の事故にしてもヘミングウェイとの出会いにしても「その後」の時間はずっと続いて行くのだし、その時間を複雑さを損なうことなく描いていることが、この小説では肝心なのである。

ファミリー・ライフ (新潮クレスト・ブックス)

ファミリー・ライフ (新潮クレスト・ブックス)

 

 

 

便秘で悩み苦しむ人におすすめしたい3冊

書いた人:林亮子 2018年5月度書評王
韓国のドラマ、小説、映画が好きな30代。時折「ダ・ヴィンチニュース」(https://ddnavi.com)に書評記事を書いています。
Twitterアカウント:@ahirudada

 

・パク・ミンギュ「ヤクルトおばさん」(『カステラ』所収、ヒョン・ジェフン/訳、クレイン)
鹿島茂『モンフォーコンの鼠』(文藝春秋
伊藤比呂美『犬心』(文春文庫)

 

 出したいのに出ない不快感、出そうで出ない残便感、ある時突然襲う腹痛……一難去ってまた一難。乳酸菌?食物繊維?適度な運動?そんなものとっくに全て試している。それでもなお出ないから便秘はつらいのだ。そんな〈便秘族〉の皆さんのために、物語を読むことで自律神経を刺激し、大腸のぜん動運動を促そうというのが今回の目的である。
 パク・ミンギュの短編「ヤクルトおばさん」は、実際に評者が読んでいる最中に便意を催し、この書評を書くきっかけとなった作品だ。
 便秘で苦しむ語り手の〈僕〉。2週間経っても1ヶ月経っても、なんと3ヶ月経っても、一向に出る気配はない。トイレでいきむ際のお供は、友人に借りた〈『お笑い経済学』〉なる本。市場経済の真実が皮肉をもって語られており、読み進めていくと突如〈ヤクルトおばさん〉なる謎の存在が出てきて――。果たして〈僕〉の便秘は解消されるのか。注目すべきは、“こんなに便秘に苦しむ人間の心境に寄り添った小説はないのでは?”ってくらい便秘族に響く表現があちこちに散りばめてあること。〈憶えておいてもらいたい。あんたたちがどこで何をしていようが、今、ここに便が出なくて苦しんでいる一人の人間がいるってことをな〉は大腸に響いた。

 

カステラ

カステラ

 

 

  「ヤクルトおばさん」の〈僕〉はトイレで本を読みながら排便しようとしたが、そもそも現代を生きる我々の排便環境は恵まれている。そう思うことで便意を促すのにおすすめなのが鹿島茂の“一大汚物処理施設スペクタクル巨編”、『モンフォーコンの鼠』だ。
 19世紀、下水道も整備されていなかった時代のパリ。郊外にあるモンフォーコンには、市民の糞尿と、移動や運搬のために使った大量の廃馬がうず高く積まれ、悪臭を放っていた。更にその大量の汚物からは夥しい数の鼠が生まれ、パリ市民の脅威となることは時間の問題。おまけにパリの地下には、空想社会主義フーリエ一派が怪しいユートピアを作り上げていて……。公衆衛生学者パラン・デュ・シャトレ、警視総監アンリ・ジスケ、小説家バルザックなど、実在の人物がフィクションの世界を縦横無尽に走り回ることになる。
 19世紀パリだのバルザックだのフーリエ主義だのが出てくると、「フランスの歴史に詳しくないし……」などと肛門がきゅっと固く締まりそうだが、身構える必要はない。本作は、いってみれば、鹿島茂による渾身の“おふざけ小説”なのである。ミステリ、アクション、ホラー、エロ、何でもあり。仏文化学者としての確かな知識に裏付けられた描写と確かな“モンフォーコン愛”があるからこそ、読者にとって楽しめるものと成り得ているのだ。疾風怒濤のエンターテイメントに身を任せながら、この現代日本の広くキレイな個室で思う存分いきめる幸せを噛み締めよ。そうすれば大腸も反応してくれるかも。

 

モンフォーコンの鼠

モンフォーコンの鼠

 

 

 ……え?作者渾身の素晴らしい文学作品を排便に利用するな?作者に失礼だ?いやそれはあなた、うんこに対するリスペクトが足りないよ。もしかしたら、“うんこ=臭い、汚い”と忌み嫌ってばかりいるから、大腸の動きも固くなるんじゃないのか。そんな人には、伊藤比呂美『犬心』をすすめたい。本作は、筆者とその家族とペットたちの、世話と介護の日々を綴ったエッセイ集だ。本作には実によくうんこが出てくるのだが、単なるドタバタ奮闘記と思うことなかれ。〈シモの世話おそるるに足らずと、大海原に向かって足を踏ん張って立っているような気分である〉と綴るまでに至る筆者の生活は、排泄と向き合うことの大切さを教えてくれる。読後、〈排泄は、生きざまそのものだ〉との筆者の思いを噛み締めずにはいられない。

 

犬心 (文春文庫)

犬心 (文春文庫)

 

 

  以上3冊を紹介したが、評者としてはこれからも、便秘に効能のある作品を探求していきたい。そこで、今回紹介した作品を読んでみて、実際に排便に変化があったかどうか、感想をお寄せいただければ幸いである。

 

 

ケーシー高峰にお薦めしたい3作

書いた人:藤井勉 2018年4月度書評王
共著で参加しています『村上春樹の100曲』(立東舎)が6月15日に発売されます。
http://rittorsha.jp/items/17317417.html

 

■ノーマン・ロック『雪男たちの国』(柴田元幸 訳、河出書房新社
藤枝静男「空気頭」(『田紳有楽 空気頭』所収 、講談社文芸文庫
■『病短編小説集』(石塚久郎 監訳、平凡社ライブラリー

 

 拝啓 春の日差しも心地よい今日この頃、ご健勝にてお過ごしのこととお喜び申し上げます。さて、1月26日にご出演されたテレビ朝日報道ステーション」を拝見し、私の思いをぜひお伝えしたいと筆をとりました。日本の絶景を地元出身の有名人が紹介する企画で、山形県「玉簾の滝」をレポートするケーシーさん。滝の紹介もそこそこに、下ネタを連発されていましたね。なのに、滝の魅力は十分こちらに伝わってきました。深夜の雪山にポツンと立つケーシーさんと、背後に広がる滝の雄大さのコントラストが実に見事だったからです。
 画面を見ながら、ノーマン・ロック『雪男たちの国』のことが頭に浮かびました。1913年に南極大陸探検隊に参加したという、アメリカ人建築家ジョージ・ベルデン。精神病院で亡くなった彼の日誌を作家のノーマン・ロックが発見・編集したこの本は、ノンフィクションというより幻想小説という分類がふさわしい探検記です。ベルデン曰く、〈私たちの旅の目的地は、物質としては存在しない〉。基地を建設するとか、探検隊がどんな任務を持っているのかも作中で定かではありません。彼らが何をするのかといえば、影は凍るのか議論したり、雪上に現われた幻の女性を追いかけたり、空想上の雪男を抱きかかえてワルツを踊り出したりするのです。
 そんな南極をさまよう探検隊の人々が抱く虚無感や幻想から、雪と氷に覆われた世界の厳しさや美しさが浮かびあがります。南極の景色をユニークな方法で伝えるこの本を、ケーシーさんにロケのことを思い出しながら読んでほしいなと考えていました。

雪男たちの国

雪男たちの国

 

  それにしても雪まみれで、自分の状況を「玉簾の滝」と引っ掛けての〈パンティの中がタマスダレになってます〉なんてダジャレで表現する、辛さを見せない姿勢には感銘を受けました。飄々とふざけるケーシーさんの姿から連想したのが、藤枝静男の中篇「空気頭」です。作者兼語り手の〈私〉が〈私はこれから私の「私小説」を書いてみたいと思う〉と宣言して、物語は始まります。長年結核を病みヒステリー気味な妻との生活が綴られた私小説かと思いきや、話は意外な展開をみせます。彼女の身を案じる〈私〉は、ある病の影響で性欲を抑えきれずに浮気を重ねていたのです。しかも〈私〉は浮気相手の若い女性をセックスで圧倒するために中国糞尿学を研究し、人糞を加工した精力増進剤を製造。その開発に至るまでの道のりが語られます。シリアスになりきれない、なろうとしない自分を作品で滑稽に描く作者の姿勢は、ケーシーさんにも共感いただけるはずです。

田紳有楽・空気頭 (講談社文芸文庫)

田紳有楽・空気頭 (講談社文芸文庫)

 

  「報道ステーション」ではロケの腕前を堪能させていただきましたが、ケーシーさんといえばやはり医療漫談。「病」がテーマの小説を集めたアンソロジー『病短編小説集』が2016年に刊行された時には、きっとケーシーさんのネタ作りの参考になるだろうと生意気ながら思っていました。収録されている短編は、一口に病気といっても切り口が作者によって様々。同じ不眠症でもヘミングウェイ「清潔な、明かりのちょうどいい場所」の主人公は暗闇を恐れて夜も営業するカフェに居場所を求め、フィッツジェラルド「眠っては覚め」の主人公は寝床で起きたまま悪夢を妄想したりと、病気への向き合い方が異なります。アップダイク「ある「ハンセン病患者」の日記から」は、乾癬症で皮膚がボロボロであるコンプレックスをバネに成功を収めた陶芸家が主人公。最新の医療技術で皮膚が完治すると、彼の創作意欲は突如落ち込んでしまうのです。

病(やまい)短編小説集 (平凡社ライブラリー)

病(やまい)短編小説集 (平凡社ライブラリー)

 

 病気のネガティブなイメージを覆したり別の側面を映し出すおもしろさが、本書のそしてケーシーさんの漫談の魅力だと私は思います。不謹慎だろうとこういうものにお金を払って行くぞ、応援していくぞという気持ちを胸に、日々仕事に励んでおります。ご多忙と存じますが、ご自愛専一にますますのご活躍をお祈り申し上げます。敬具

 

 

ソフィア・サマター『図書館島』書評

図書館島 (海外文学セレクション)

書いた人:鈴木隆詩  2018年3月度書評王
フリーライター。アニメや漫画がメインです。以下、最近の仕事。
https://bkmr.booklive.jp/complete-comic-in-1volume
https://akiba-souken.com/article/32832/

 

 幽霊と旅をする物語だ。

 舞台は架空の世界。オロンドリア帝国という広大な国があり、南の大海には七島からなる紅茶諸島が浮かんでいる。二十二歳の青年ジェヴィックはその一つ、ティニマヴェト島の生まれ。胡椒農園を営む父が死に、新たな家長としてオロンドリアの港町ベインに交易に出かける船の中で、ジサヴェトという名の少女と出会う。
 彼女はキトナという不治の病を患っていて余命幾ばくもなかったが、明るく知性に富み、奔放な言動が魅力的だった。

 しかし、次にベインでジェヴィックがジサヴェトと出会った時、彼女は“幽霊”になっていた。〈彼女はここで、オロンドリアで、北方で亡くなったに違いない。その後、紅茶諸島の慣習に反して、火葬されぬまま土に埋められた。“腐った死者”の一人となったのだ。彼女はそうした死者のだれもが望むことを望んでいるのだろう。焼かれること、解放されることを〉。
 ジェヴィックは、女神アヴァレイを崇拝するアヴァレイ教団の助けを得て、ジサヴェトの亡骸を探す、長い旅に出る。

 本作はソフィア・サマターのデビュー作。アメリカでの出版は二〇一三年で、執筆に二年、手直しに十年かかったという。一読すればその理由は瞭然。紅茶諸島とオロンドリアの地理、歴史、統治機構、宗教、文化が見事に構築されているからだ。特に言語、文学へのこだわりは相当で、紅茶諸島で使われるキデティ語と大陸のオロンドリア語に関しては、訳者が巻末に小辞典を付けているほど。
 作中には数々の架空の書物からの引用が頻出し、世界創世の神話や吟遊詩人が歌う叙事詩(二段組で五ページに及ぶ)など、様々な物語が登場人物によって語られる。

 幽霊についても、本作ならではの定義付けがされている。キデティ語では“ジェプトウ”。その意味は〈荒ぶる魂、幽霊、幽霊の国ジェプナトウ=ヘットの住人〉。しかし、〈オロンドリア語に“幽霊”に当たる単語は存在しない。“天使”を意味するネアという言葉があるだけ〉だ。
 オロンドリアの年鑑兼百科事典『明りを灯す者の手引き』によれば、天使とは幻覚。〈かつては死者の魂と信じられ〉ていたが、現在では〈バランスを欠いた精神の産物にすぎない〉とそれを否定。天使信仰は〈犯罪として登録〉されているという。

 これはアヴァレイ教団に代わって、テルカン(国王の意)の庇護を受けるようになった、新たな教団の教えによるもの。アヴァレイ教団にとっての“天使”は生者に希望を与える存在で、天使と交霊する力を持つ者は尊敬の対象だった。この新旧二つの教団の対立は、ジェヴィックの旅の全行程に大きな影響を及ぼし、『図書館島』というタイトルを象徴する最終章まで繋がっていく。宗教闘争によって損なわれるヴァロン(書物の意)を守るというのは、本作の大きなテーマだ。

 そして、書物は名もなき個人の想いを後世に残すものでもある。
「あたしにヴァロンを書いて。あたしの声をその中に入れて。あたしを生かして」というのが、ジサヴェトのもう一つの願い。ジェヴィックは、ある条件と引き換えにその役目を引き受けるのだった。

 最初は幽霊のジサヴェトを怖れ、精神的に追い詰められたジェヴィック。しかし何度も交霊するうちに、彼女の存在は文字通り(私達の世界のニュアンス通り)、天使へと変わっていく。もともとその知性と奔放さは大いなる魅力だったのだ。生い立ちを話して聞かせるジサヴェトの語りは詩的で美しく、貧しい暮らしの中でも輝きがあったことや、キトナに冒された後の家族や友人とのやり取りの切なさが、ジェヴィックの手で綴られていく。魂の触れ合いの深さ。二人の平穏。

 〈わたしは天使を理解していた──すぐそばで聞こえる、不安定で切羽詰まった、夜を呼吸する声を通じて〉。〈天使はわたしにささやきかけ、両腕をわたしの肩にもたせかけ、頬をわたしの頬に寄せた〉。本作は天使と恋をする物語だ。

図書館島 (海外文学セレクション)

図書館島 (海外文学セレクション)

 

 

アーネスト・ヘミングウェイ『移動祝祭日』書評

移動祝祭日 (新潮文庫)

書いた人:白石秀太(しらいししゅうた)2018年2月度社長賞
同志社大学文学部美学芸術学科卒。会社員


 「敗れざる者」は大学の授業で原文を読んでから忘れられない短編だった。汗でてらつく雄牛の突進、闘牛士の間一髪の回転。すかさず上がるオーレ! 連打される短文は躍動感に溢れ、ピリオドは銃創にみえた。紹介するならこの作品を収めた『男だけの世界』で決まりだ。と、思っていたのに。再読でその輝きに気づき、闘牛士に負けず劣らず心に刻まれたものができてしまった。鉛筆を走らせる作家の卵、『移動祝祭日』の若きヘミングウェイの姿だ。
 60歳をこえた著者が、22歳で移住したパリでの約5年間を振り返る本作。「はじめに」でもある通り創作に近い箇所もあるらしいが、〈こういうフィクションが、事実として書かれた事柄になんらかの光をなげかける可能性は、常に存在するのである〉という。実体験はあくまで素材とした、ヘミングウェイ版『若い芸術家の肖像』なのだ。
 パリで待っていたのは芸術家たちとの刺激的な出会いだった。ガートルード・スタインは称賛を浴びないと機嫌を損ねる面倒な性格だが、いちはやくピカソを収集した審美眼の持ち主だ。ヘミングウェイは彼女を慕い、芸術論に聞き入った。いっぽう名声欲にまみれた連中は大嫌いで、同じ空間にいれば〈息をつめるようにしていた〉ほど。交流のなかで関係が変化することもある。フィッツジェラルドとの初の二人旅はトラブル続き。あいつとの旅は二度と御免となったが『グレート・ギャッツビー』に打ちのめされて、執筆のための手助けは惜しまないと決心する。その後も精神が不安定なフィッツジェラルドに悩まされることにはなるのだが。
 狂騒のパリとコントラストのように際立つのが、ヘミングウェイの静かに燃える創作意欲だ。鉛筆とノートをカフェに持ち込んで一心不乱に書く。頭の中は、北ミシガンの湖畔、鱒が泳ぐ原野の川。どこにでも行けた。読書にもふけった。ウィスキー片手に友人と大好きなロシア文学について語り、〈『カラマーゾフ兄弟』にもう一度挑戦してみようと思っている〉という言葉に親しみがわくが、じつは彼にとって読書もまた創作の井戸を潤すための欠かせない行為だったという。
 「空腹は良き修行」という章もあるように、若い彼はつねに飢えていた。まずは肉体的に。香り豊かなパンやワインの魅惑に負けないよう倹約に努めたし、食べるときはとことん楽しんだ。そして精神的に。自分の新しいスタイルはいつかきっと認められる。〈意図的に省略〉して物語にインパクトを与え、削りぬいても失われない真実を書くそのスタイルを、貪欲に磨いた。
 でも、『移動祝祭日』で書かれているのはそれだけではなかった。
 たしかに青春ならではの輝きに満ちた一冊でもある。ではなぜ〈新しい文学〉を貪欲に追い求めた男が、過去を振り返るのだろう?
 「空腹は良き修行」のなかで、重要人物の老人が自殺するという大切な結末をカットした短編を書く場面がある。同じようにして『移動祝祭日』で、その予感だけを漂わせて〈光をなげかける〉ものがある。芸術家としての死。創作の井戸が枯渇する恐怖だ。
 「偽りの春」という章にその兆しはあった。修業時代を支えた当時の妻、ハドリーと過ごす、美しい春の一日。本業の執筆も副業の競馬も順調。妻とお気に入りの店で食事をして、愛し合う。しかし突然、満たされない気持ちに襲われてしまう。〈ケリをつけたくてたまらなかった〉がなすすべはなく、何かが壊れそうな予感だけを残してこの章は終わる。
 作家ヘミングウェイの地位は初期の短編なくしてありえなかった。そんな名作を次々と生んだパリ時代を振り返ったのは、60歳を過ぎたいま、創作の井戸が枯れ果ててしまったこと、そして予感はあったにもかかわらず、破滅の運命から逃れられなかったことを、静かに自分の手で確かめるためだったのだ。

 

移動祝祭日 (新潮文庫)

移動祝祭日 (新潮文庫)

 

 

レアード・ハント『ネバーホーム』書評

ネバーホーム


書いた人:田仲真記子 2018年2月社長賞
この書評を読んで、『ネバーホーム』を手に取ってくれる人がひとりでもいたら、望外の喜びです。
 
 米国の作家、レアード・ハントの2014年の長編。同じく柴田元幸訳の『インディアナインディアナ』、『優しい鬼』に続く三作目の翻訳作品である。
 舞台は1860年代のアメリカ合衆国。男性と偽って南北戦争に従軍した女性がいた、という史実を下敷きにしている。主人公はインディアナ州で夫とともに農場を経営する女性、コンスタンス・トムソン、転じて兵士アッシュ・トムソン。彼女が出征し、訓練を経て戦闘に加わり、名をあげ、敵を殺し、捕虜になり、語り尽せないような旅を重ねる物語だ。アッシュに降りかかることの多くは過酷だが、ときに心温まる休息も訪れる。
 クライマックスの数ページの展開は、スリリングでスピード感に満ち、意外さと衝撃にあふれる。何度も繰り返し読まずにはいられない密度と迫力で、読者の心に深く刻み込まれる名場面だ。アッシュは愛する夫バーソロミューの待つ農場に、無事帰れるのか。作者のまなざしは人間に優しく、そして運命には容赦ない。
 舞台は戦場で、そこで起きるできごとは殺伐として劇的だが、一人称でコンスタンスが語る文章は、淡々として激することがない。作者がひたすら彼女の思いを探り当て、考え抜いたたまものだ。語彙は限られ、稚拙で武骨な言葉も多い。語り手であるコンスタンスが乗り移ったように抑制された語りが続き、雄弁で精緻な表現を織り込むことを避けている。両親の来歴など、コンスタンスが語りたくないこと、ためらいがあること、隠しておきたいことは説明しつくされず、時にぼんやりと言及されるだけにとどめられる。
 『ネバーホーム』は戦争の物語であると同時に、愛の物語でもある。バーソロミューとコンスタンスの風変わりな夫婦のありようは、稀有な美しさを持つ。力自慢で血の気の多い妻と心優しく純真な夫。彼は妻の尻に敷かれているわけではなく、その唯一無二の理解者で、「純粋な、かけ値なしの愛」でコンスタンスを包み込む。性差より個人の個性や適性をみつめる作者の視点は、特にこの夫婦の描き方で光っている。二人の絆は、読者が悲しみに満ちたこの物語を読むときのよりどころになってくれる。
 作者は、この夫婦以外の弱者やマイノリティーにも温かなまなざしを向ける。アッシュの上官である大佐のいとこと言われる元引きこもりの兵士。瀕死の重傷を負ったアッシュを助け、介抱し、一緒に暮らしたいと持ち掛ける女性。両親がいなくなり、女の子三人だけで暮らす家族。アッシュが旅の途中で遭遇する人々の多くは、弱く、もろく、ゆがんでいる。「グロテスクな人々についての本」と題された米国現代文学の古典で、米国中西部の田舎町に住む市井の人々を描いた短編連作、『ワインズバーグ・オハイオ』の登場人物たちを思い起こさせる。
 さらに、結末のコンスタンスの言葉を読むに至って、読者は本作に用意された文学的なしかけにも目を開かされる。自分の解釈を揺さぶられ、戸惑いを覚える読者もいるかもしれない。そんな思いを抱いたら、序文に戻るといい。南北戦争時の雑誌から取られた言葉だ。『崇高で荘厳な美―-恐怖と脅威に満ちた麗しさ……』これこそアッシュ・トムソンを端的に表現した一節であり、作者はこの一節を体現することで、彼女の人間像を作り上げたようにさえみえる。主人公を慈しみ、畏怖の念を示しつつ、一定の距離を保って客観視し、読者がセンチメンタリズムに流されないようなエンディングを用意することで、作品に多面性を与えることに成功したのだ。
 “Be fierce and undaunted, writers of the world. 2018 is going to need you.”(世界の作家たちよ、猛々しく、不屈であれ。2018年はあなたがたを必要としている)2018年新年のレアード・ハントのツイートである。文学ができること、すべきことに懸ける思いは熱く、その信念は固い。今後も必読の作家だ。

ネバーホーム

ネバーホーム

 

 

マイクル・ビショップ『誰がスティーヴィ・クライを造ったのか?』

誰がスティーヴィ・クライを造ったのか? (DALKEY ARCHIVE)

書いた人:鈴木隆詩  2018年1月書評王
フリーライター。アニメや漫画がメインです。以下、最近の仕事。
https://bkmr.booklive.jp/complete-comic-in-1volume
https://akiba-souken.com/article/32832/

 

 

 モダン・ホラー小説というジャンルに括られる作品だが、この小説は「怖くない」。なぜなら、ビショップは読者を怖がらせるために書いたわけではないからだ。彼がやりたかったのは、隆盛を極めるモダン・ホラーのパロディ。初邦訳は二〇一七年だが、原著の刊行は一九八四年。スティーヴン・キングが『キャリー』でデビューして十年後、数々のヒット作を著して人気爆発中という状況だ。

 巻末の「三十年後の作者あとがき」には、キングと本作の関係性に触れた箇所がある。〈この小説は万人受けするものではない。スティーヴン・キングは嫌っていた〉〈成りあがりの作家がこれみよがしのタイトルに自分の名前のやたらなれなれしい愛称を使っているという事実も気に食わなかったにちがいない〉。スティーヴィ・クライとスティーヴン・キング。どう見ても似ている。からかいと受け取られてもしょうがない。ビショップは本作の刊行前にネビュラ賞を二度も受賞しているので、〈成りあがり〉と書くのもなかなかにたちが悪い。好感が持てる作家だ。
 本作の主人公であるスティーヴィ・クライは女性である。ジョージア州の郊外の町に住み、ライターとして生計を立てている。夫のテッドは大腸癌を患い、一年半前に他界。十三歳の息子テディ、八歳の娘マレラと暮らすシングルマザーだ。

 物語は、亡き夫が買ってくれた七百ドルの高級タイプライター、“エクセルライター”が故障したことから始まる。知人の紹介で修理を頼んだのは、シートン・ベネックという青年。腕は確かなようだが、スティーヴィは第一印象で、〈ジョージ・ロメロの映画に出てくるゾンビの情念、心やさしさ、その他もろもろをすべて持ち合わせている〉と、彼を嫌悪する。案の定、タイプライターは翌日から、一人で勝手に文章を打ち出す不吉な存在になるのだった。

 最初は単文だったが、やがて掌編小説くらいの長文に。しかも内容は、スティーヴィが見た夢そのもの。彼女が寝ている間にカタカタと、誰にも知られるはずのない“深層心理”が、タイプライターによって暴露されていく。各章が、スティーヴィが実際に体験していることなのか、タイプライターが打ち出した「夢」なのか、一見分からないように書かれていることで、スティーヴィだけでなく読者にとっても、現実と夢の境がどんどん曖昧になっていくのが、本作の面白さだ。

 たとえば、小さなマレラに起こった変異。二月の寒い夜にも関わらず、ベッドの中で「ああ、ママ、身体がすごく熱いよう……」と苦しむ娘から、毛布を剥いでやったスティーヴィは変わり果てたマレラの姿を見る。未熟な肉体を気に病むテディには自らの体を使って悩みを解消してやり、あれは現実だったのか夢だったのか、母親として懊悩することに。

 また、修理人のシートンも、スティーヴィの家に直接やって来たことによって、ますます脅威となっていく。その時、彼が連れてきたのはペットの猿。カプチン・モンキー(オマキザル)という種で、スティーヴィの目には〈白い顔、深くくぼんだビーズのような目、鼻孔はしゃれこうべのそれを思わせる、小さな悪鬼〉に映る。クレッツという名のこの猿が、全編を通して大活躍し、スティーヴィを大いに悩ませるのだった。

 他者から与えられる不条理な圧力を、超現実的な恐怖に置き換えていくのがモダン・ホラー。その体裁を守りつつ、本作の特色は、作中に登場するタイプライターによって、物語が現在進行形で紡がれていくように見えるメタ構造にある。後半では、スティーヴィが、今、自分は第何章にいるのか自覚するようになり、小説そのものと対峙する主人公としての姿を明確にしていく。スティーヴィ・クライを造った「誰か」との格闘の物語であり、まさにタイトル通りの作品なのだ。つまりは、ホラーとして怖がる以上に、小説として刺激的。

誰がスティーヴィ・クライを造ったのか? (DALKEY ARCHIVE)

誰がスティーヴィ・クライを造ったのか? (DALKEY ARCHIVE)