書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

アーネスト・ヘミングウェイ『移動祝祭日』書評

移動祝祭日 (新潮文庫)

書いた人:白石秀太(しらいししゅうた)2018年2月度社長賞
同志社大学文学部美学芸術学科卒。会社員


 「敗れざる者」は大学の授業で原文を読んでから忘れられない短編だった。汗でてらつく雄牛の突進、闘牛士の間一髪の回転。すかさず上がるオーレ! 連打される短文は躍動感に溢れ、ピリオドは銃創にみえた。紹介するならこの作品を収めた『男だけの世界』で決まりだ。と、思っていたのに。再読でその輝きに気づき、闘牛士に負けず劣らず心に刻まれたものができてしまった。鉛筆を走らせる作家の卵、『移動祝祭日』の若きヘミングウェイの姿だ。
 60歳をこえた著者が、22歳で移住したパリでの約5年間を振り返る本作。「はじめに」でもある通り創作に近い箇所もあるらしいが、〈こういうフィクションが、事実として書かれた事柄になんらかの光をなげかける可能性は、常に存在するのである〉という。実体験はあくまで素材とした、ヘミングウェイ版『若い芸術家の肖像』なのだ。
 パリで待っていたのは芸術家たちとの刺激的な出会いだった。ガートルード・スタインは称賛を浴びないと機嫌を損ねる面倒な性格だが、いちはやくピカソを収集した審美眼の持ち主だ。ヘミングウェイは彼女を慕い、芸術論に聞き入った。いっぽう名声欲にまみれた連中は大嫌いで、同じ空間にいれば〈息をつめるようにしていた〉ほど。交流のなかで関係が変化することもある。フィッツジェラルドとの初の二人旅はトラブル続き。あいつとの旅は二度と御免となったが『グレート・ギャッツビー』に打ちのめされて、執筆のための手助けは惜しまないと決心する。その後も精神が不安定なフィッツジェラルドに悩まされることにはなるのだが。
 狂騒のパリとコントラストのように際立つのが、ヘミングウェイの静かに燃える創作意欲だ。鉛筆とノートをカフェに持ち込んで一心不乱に書く。頭の中は、北ミシガンの湖畔、鱒が泳ぐ原野の川。どこにでも行けた。読書にもふけった。ウィスキー片手に友人と大好きなロシア文学について語り、〈『カラマーゾフ兄弟』にもう一度挑戦してみようと思っている〉という言葉に親しみがわくが、じつは彼にとって読書もまた創作の井戸を潤すための欠かせない行為だったという。
 「空腹は良き修行」という章もあるように、若い彼はつねに飢えていた。まずは肉体的に。香り豊かなパンやワインの魅惑に負けないよう倹約に努めたし、食べるときはとことん楽しんだ。そして精神的に。自分の新しいスタイルはいつかきっと認められる。〈意図的に省略〉して物語にインパクトを与え、削りぬいても失われない真実を書くそのスタイルを、貪欲に磨いた。
 でも、『移動祝祭日』で書かれているのはそれだけではなかった。
 たしかに青春ならではの輝きに満ちた一冊でもある。ではなぜ〈新しい文学〉を貪欲に追い求めた男が、過去を振り返るのだろう?
 「空腹は良き修行」のなかで、重要人物の老人が自殺するという大切な結末をカットした短編を書く場面がある。同じようにして『移動祝祭日』で、その予感だけを漂わせて〈光をなげかける〉ものがある。芸術家としての死。創作の井戸が枯渇する恐怖だ。
 「偽りの春」という章にその兆しはあった。修業時代を支えた当時の妻、ハドリーと過ごす、美しい春の一日。本業の執筆も副業の競馬も順調。妻とお気に入りの店で食事をして、愛し合う。しかし突然、満たされない気持ちに襲われてしまう。〈ケリをつけたくてたまらなかった〉がなすすべはなく、何かが壊れそうな予感だけを残してこの章は終わる。
 作家ヘミングウェイの地位は初期の短編なくしてありえなかった。そんな名作を次々と生んだパリ時代を振り返ったのは、60歳を過ぎたいま、創作の井戸が枯れ果ててしまったこと、そして予感はあったにもかかわらず、破滅の運命から逃れられなかったことを、静かに自分の手で確かめるためだったのだ。

 

移動祝祭日 (新潮文庫)

移動祝祭日 (新潮文庫)

 

 

レアード・ハント『ネバーホーム』書評

ネバーホーム


書いた人:田仲真記子 2018年2月社長賞
この書評を読んで、『ネバーホーム』を手に取ってくれる人がひとりでもいたら、望外の喜びです。
 
 米国の作家、レアード・ハントの2014年の長編。同じく柴田元幸訳の『インディアナインディアナ』、『優しい鬼』に続く三作目の翻訳作品である。
 舞台は1860年代のアメリカ合衆国。男性と偽って南北戦争に従軍した女性がいた、という史実を下敷きにしている。主人公はインディアナ州で夫とともに農場を経営する女性、コンスタンス・トムソン、転じて兵士アッシュ・トムソン。彼女が出征し、訓練を経て戦闘に加わり、名をあげ、敵を殺し、捕虜になり、語り尽せないような旅を重ねる物語だ。アッシュに降りかかることの多くは過酷だが、ときに心温まる休息も訪れる。
 クライマックスの数ページの展開は、スリリングでスピード感に満ち、意外さと衝撃にあふれる。何度も繰り返し読まずにはいられない密度と迫力で、読者の心に深く刻み込まれる名場面だ。アッシュは愛する夫バーソロミューの待つ農場に、無事帰れるのか。作者のまなざしは人間に優しく、そして運命には容赦ない。
 舞台は戦場で、そこで起きるできごとは殺伐として劇的だが、一人称でコンスタンスが語る文章は、淡々として激することがない。作者がひたすら彼女の思いを探り当て、考え抜いたたまものだ。語彙は限られ、稚拙で武骨な言葉も多い。語り手であるコンスタンスが乗り移ったように抑制された語りが続き、雄弁で精緻な表現を織り込むことを避けている。両親の来歴など、コンスタンスが語りたくないこと、ためらいがあること、隠しておきたいことは説明しつくされず、時にぼんやりと言及されるだけにとどめられる。
 『ネバーホーム』は戦争の物語であると同時に、愛の物語でもある。バーソロミューとコンスタンスの風変わりな夫婦のありようは、稀有な美しさを持つ。力自慢で血の気の多い妻と心優しく純真な夫。彼は妻の尻に敷かれているわけではなく、その唯一無二の理解者で、「純粋な、かけ値なしの愛」でコンスタンスを包み込む。性差より個人の個性や適性をみつめる作者の視点は、特にこの夫婦の描き方で光っている。二人の絆は、読者が悲しみに満ちたこの物語を読むときのよりどころになってくれる。
 作者は、この夫婦以外の弱者やマイノリティーにも温かなまなざしを向ける。アッシュの上官である大佐のいとこと言われる元引きこもりの兵士。瀕死の重傷を負ったアッシュを助け、介抱し、一緒に暮らしたいと持ち掛ける女性。両親がいなくなり、女の子三人だけで暮らす家族。アッシュが旅の途中で遭遇する人々の多くは、弱く、もろく、ゆがんでいる。「グロテスクな人々についての本」と題された米国現代文学の古典で、米国中西部の田舎町に住む市井の人々を描いた短編連作、『ワインズバーグ・オハイオ』の登場人物たちを思い起こさせる。
 さらに、結末のコンスタンスの言葉を読むに至って、読者は本作に用意された文学的なしかけにも目を開かされる。自分の解釈を揺さぶられ、戸惑いを覚える読者もいるかもしれない。そんな思いを抱いたら、序文に戻るといい。南北戦争時の雑誌から取られた言葉だ。『崇高で荘厳な美―-恐怖と脅威に満ちた麗しさ……』これこそアッシュ・トムソンを端的に表現した一節であり、作者はこの一節を体現することで、彼女の人間像を作り上げたようにさえみえる。主人公を慈しみ、畏怖の念を示しつつ、一定の距離を保って客観視し、読者がセンチメンタリズムに流されないようなエンディングを用意することで、作品に多面性を与えることに成功したのだ。
 “Be fierce and undaunted, writers of the world. 2018 is going to need you.”(世界の作家たちよ、猛々しく、不屈であれ。2018年はあなたがたを必要としている)2018年新年のレアード・ハントのツイートである。文学ができること、すべきことに懸ける思いは熱く、その信念は固い。今後も必読の作家だ。

ネバーホーム

ネバーホーム

 

 

マイクル・ビショップ『誰がスティーヴィ・クライを造ったのか?』

誰がスティーヴィ・クライを造ったのか? (DALKEY ARCHIVE)

書いた人:鈴木隆詩  2018年1月書評王
フリーライター。アニメや漫画がメインです。以下、最近の仕事。
https://bkmr.booklive.jp/complete-comic-in-1volume
https://akiba-souken.com/article/32832/

 

 

 モダン・ホラー小説というジャンルに括られる作品だが、この小説は「怖くない」。なぜなら、ビショップは読者を怖がらせるために書いたわけではないからだ。彼がやりたかったのは、隆盛を極めるモダン・ホラーのパロディ。初邦訳は二〇一七年だが、原著の刊行は一九八四年。スティーヴン・キングが『キャリー』でデビューして十年後、数々のヒット作を著して人気爆発中という状況だ。

 巻末の「三十年後の作者あとがき」には、キングと本作の関係性に触れた箇所がある。〈この小説は万人受けするものではない。スティーヴン・キングは嫌っていた〉〈成りあがりの作家がこれみよがしのタイトルに自分の名前のやたらなれなれしい愛称を使っているという事実も気に食わなかったにちがいない〉。スティーヴィ・クライとスティーヴン・キング。どう見ても似ている。からかいと受け取られてもしょうがない。ビショップは本作の刊行前にネビュラ賞を二度も受賞しているので、〈成りあがり〉と書くのもなかなかにたちが悪い。好感が持てる作家だ。
 本作の主人公であるスティーヴィ・クライは女性である。ジョージア州の郊外の町に住み、ライターとして生計を立てている。夫のテッドは大腸癌を患い、一年半前に他界。十三歳の息子テディ、八歳の娘マレラと暮らすシングルマザーだ。

 物語は、亡き夫が買ってくれた七百ドルの高級タイプライター、“エクセルライター”が故障したことから始まる。知人の紹介で修理を頼んだのは、シートン・ベネックという青年。腕は確かなようだが、スティーヴィは第一印象で、〈ジョージ・ロメロの映画に出てくるゾンビの情念、心やさしさ、その他もろもろをすべて持ち合わせている〉と、彼を嫌悪する。案の定、タイプライターは翌日から、一人で勝手に文章を打ち出す不吉な存在になるのだった。

 最初は単文だったが、やがて掌編小説くらいの長文に。しかも内容は、スティーヴィが見た夢そのもの。彼女が寝ている間にカタカタと、誰にも知られるはずのない“深層心理”が、タイプライターによって暴露されていく。各章が、スティーヴィが実際に体験していることなのか、タイプライターが打ち出した「夢」なのか、一見分からないように書かれていることで、スティーヴィだけでなく読者にとっても、現実と夢の境がどんどん曖昧になっていくのが、本作の面白さだ。

 たとえば、小さなマレラに起こった変異。二月の寒い夜にも関わらず、ベッドの中で「ああ、ママ、身体がすごく熱いよう……」と苦しむ娘から、毛布を剥いでやったスティーヴィは変わり果てたマレラの姿を見る。未熟な肉体を気に病むテディには自らの体を使って悩みを解消してやり、あれは現実だったのか夢だったのか、母親として懊悩することに。

 また、修理人のシートンも、スティーヴィの家に直接やって来たことによって、ますます脅威となっていく。その時、彼が連れてきたのはペットの猿。カプチン・モンキー(オマキザル)という種で、スティーヴィの目には〈白い顔、深くくぼんだビーズのような目、鼻孔はしゃれこうべのそれを思わせる、小さな悪鬼〉に映る。クレッツという名のこの猿が、全編を通して大活躍し、スティーヴィを大いに悩ませるのだった。

 他者から与えられる不条理な圧力を、超現実的な恐怖に置き換えていくのがモダン・ホラー。その体裁を守りつつ、本作の特色は、作中に登場するタイプライターによって、物語が現在進行形で紡がれていくように見えるメタ構造にある。後半では、スティーヴィが、今、自分は第何章にいるのか自覚するようになり、小説そのものと対峙する主人公としての姿を明確にしていく。スティーヴィ・クライを造った「誰か」との格闘の物語であり、まさにタイトル通りの作品なのだ。つまりは、ホラーとして怖がる以上に、小説として刺激的。

誰がスティーヴィ・クライを造ったのか? (DALKEY ARCHIVE)

誰がスティーヴィ・クライを造ったのか? (DALKEY ARCHIVE)

 

 

川上弘美『森へ行きましょう』書評

森へ行きましょう

書いた人:松嶋文乃 2018年1月ゲスト賞
元国語の教員。好きな教材は前田愛「ベルリン1888」。

 

 『蛇を踏む』で芥川賞を受賞し、代表作『センセイの鞄』『真鶴』等で、女性の繊細な心理を半歩引いた視点で描いてきた川上弘美の新作。試しに、読み始める前にカバーを外してみる。すると本の背を中心として、二匹の馬がそれぞれ左右に分かれて鬱蒼とした森に分け入って行くイラストが目に飛び込んでくる。これこそ、この作品のイメージ図だ。本作は、留津・ルツという同じ名前を持ち、別の世界を生きる女性が主人公。同じ境遇に生まれながら、いつの間にか別の方向へと舵を切り、全く異なる人生を歩んでいる二人の人生が年代を追って交互に語られる。そんなパラレルワールドを描いた意欲作だ。

 私達が皆そうであるように、留津もルツも喜びを見つけたり、ままならない思いを抱えたりしながら、日々生活している。2人の誕生から60歳までを描いたこの小説を読みながら、読者は自身と同じ年代の留津・ルツをつい自分と比較しながら読んでしまうのではないだろうか。30代の私は、その年で結婚している留津としていないルツ、それぞれの生活や思いを興味深く観察した。この頃の二人の様子を少しレポートしてみよう。

 幼い頃から引っ込み思案で真面目な留津は、既に見合い結婚して子供がいる。私が驚いたのは、新婚初夜に合い鍵を使って新居に居座っていた姑。夫は気に入らない事があると「留津はぼくが嫌いなの?」という台詞を脅し文句のように繰り返すお子ちゃまだ。挙げ句の果てに夫の不倫を知り、一層気持ちが冷めてゆく留津。私だったらこんな結婚生活、心底ごめんだ。一方、研究の仕事に夢中でサバサバした性格のルツは結婚に全く関心がない。初めて結婚を意識した同棲相手とは、その浮気現場を目撃しての最悪の別れ方。その後、結婚しないまま40歳を手前に職場の上司と「絶賛不倫中」。私だったらこちらもご免こうむりたい。留津の娘が言うように「ほかの道を選んでたら、違う人になったかもしれない」が、どちらを選んでも手放しで幸福とは言えない。しかし、彼女達はたくましい。二人ともそれぞれ20代、30代に失恋のショックで一晩中まんじりともしなかった経験をしているが、その時に彼女たちがイメージするのが「森」。辛い思いをしても、「森」の奥へ奥へと彼女たちは進もうとする。ちなみに、留津が大学の文芸部で書いた習作の題は「森へ行きましょう」だった。一体そこには何があるのだろう。進むという選択肢しかない「森」とはまさに人生そのもの。そこではこの先何が起こるのか分からず、自分がどう変わっていくかも分からない。恐怖もあるが、期待もある。こう考える二人の精神的境地は、性格も生活も全く異なるにも関わらず、〝シンクロ〟しているのだ。

 二人の〝シンクロ〟は他にもある。ルツが小学生から書いている「なんでも帳」。その時々の思いがつぶやかれている。例えば、初キスは「くちびる、たよりなし」。一方の留津も、40代で「雑多」というパソコンファイルに日々感じたことを断片的に書き始める。例えば、夫は「ケツの穴、小さし」。二人とも自分を「まぬけ」と書く一致も興味深い。〝書くこと〟は、はかなく消えてしまう時々の思いを刻みつけること。虚飾のない今の自分を客観的に見つめること。それは、人生の「森」を迷いつつも楽しみながら生きている二人にとって、一種の道しるべのような役割を果たしているのだ。

 そう、人生の道程は違っても、根っこの部分でやはり留津とルツはつながっている。読み終えたら、もう一度カバーを外した背表紙を見てほしい。中心から左右に分岐しているかのように見えたイラストは、異なる道を辿ってきた二頭の馬が最終的に同一の地点に到達しているようにも見える。二人の人生が収斂する場所にかかっている虹は、それぞれに人生の混沌をがむしゃらに生き抜いてきた留津とルツへの祝福であるかのようだ。

森へ行きましょう

森へ行きましょう

 

 

 

知っているけど知らないことを知りたい人が知っておくべき3冊

書いた人:和田M 2017年12月度トヨザキ社長賞
折に触れて何回も読んでいる本ばかり集めました。はじめての三冊書評です。

 

「知る」ってなんだろう。あの人は漫画のことをよく知っている、と聞いて思い浮かぶのは、古今東西のいろんな漫画を読んでいて、作者のスタイルやジャンルの消長についても博識、そんな人だろうか。ところでここに、〈個々の漫画家の、作家としての主題性や個性といった問題へ素朴に赴くこと〉と〈漫画を社会的な現象としてのみとりあげ、漫画を通して社会を語ること〉を〈禁じ手〉にしたと宣言する『漫画原論』という本がある。

漫画原論

漫画原論

 

  では、なにが書いてあるのか。簡単にいうと「漫画の読み方」だ。わざわざ教えてもらわなくても知ってるって? たしかに。漫画に詰め込まれた膨大な情報を、私たちは瞬時に、適切に処理しながら読んでいく。けど、それってけっこう驚くべきことなんじゃないか、著者四方田犬彦はそう考える。たとえば「だれ?」という文字があるとしよう。通常の吹き出しに入っていれば台詞、アブクの吹き出しなら心内語で、吹き出しに入っておらず手書きであれば独り言、\だれ?/のような体裁なら物理的な音声としての意味合いが強くなるし、吹き出しの外で写植の場合はたぶんモノローグか地の文だ。文字だけでもこの調子。漫画という表現が多種多様な情報をいかに効率的に組織しているか、あらためて考えてみると恐ろしいほど。豊富な図版とともに漫画の文法を綴った本書を読めば、「知っていることを知る」という不思議な喜びを味わうことができる。


 これと似たかんじの認識の楽しさを、テレビゲームという素材から引き出してみせるのが、ブルボン小林のエッセイ『ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ』。

ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ (ちくま文庫)

ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ (ちくま文庫)

 

 テレビゲームに限った話ではないが、やればやるほどできなくなるのが「疑う」ということ。ゲームなんか触ったこともないおばあちゃんのような視点を、すでに密着してしまっている自分と対象との間に強引に割り込ませる。すると、その狭い隙間から「批評」が芽を出す。自分がそのときなにをやっているのか、著者はその経験の質をつかみ出そうとする。遊ばされることを遊んでいるというか。だからこそ、「怒られゲー」なんていう変なジャンルが誕生するし、〈ゲームとは動詞の複合である〉といった洞察が可能になる。また、〈自分の好きなゲームを女子が熱中してくれて、それを傍らでみているだけでも至福〉という、くだらないけどつい納得の述懐が漏れたりもする。ブルボン小林は小説家長嶋有の別名。「すっかり慣れきったことの前で一度立ち止まってみる」という姿勢は小説にも通じる。


 小説が好きなら佐藤信夫『レトリック感覚』もおすすめ。

レトリック感覚 (講談社学術文庫)

レトリック感覚 (講談社学術文庫)

 

 文章を味わう舌が一段肥える。「レトリック(修辞学)」とは、いわば「平常でない言語表現」を扱う学問体系。ヨーロッパで長く栄えたが、20世紀を目前にあっさり廃れた。それは、〈言語を飾ることの不必要と忠実な記述の可能性〉を人々が信じたから。「作文は思ったこと、感じたことを素直に書けばいい」というやつ。だが、そんなに単純なものだろうか。私たちはすでに言葉を知っている。だから、話せるし読める。それはそうなのだが、この「知っている」にも詮索に値するなにかがある。レトリックの姿は、ほとんど目立たないものから意表を突く過激な表現までさまざま。前者の例として、上に書いた「ゲームなんか触ったこともない」を挙げてもいい(片付けのときに祖母は触ったかもしれない)。本来より意味の広い(狭い)言葉をあてる比喩を「提喩」と呼ぶ。直喩の章には、丸谷才一作品から採ったこんな例文がある。〈それはいかにも、テレビの音がうるさい喫茶店でしゃべる人生論のように聞こえた〉。「それ」は主人公が述べた意見を指す。ここだけ切り取ると素直な直喩のようだが、実は違う。というのも、主人公がいるのはまさに「テレビの音がうるさい喫茶店」で、吐かれた台詞は一種の「人生論」だから。比喩の常道を外れた「AのようなA」という表現がなぜ成立してしまうのか、著者の分析は明快だ。レトリックの型とは、すなわち認識の型である、著者はそう主張する。「知っていることを知る」とは、知っている状態について、つまり自分について知ることでもある。 

柞刈湯葉『横浜駅SF』

横浜駅SF (カドカワBOOKS)

書いた人:たの 2017年12月度ゲスト賞
ジャム作りが趣味で講座ではジャムおじさんとして過ごしています。最近はボードゲームにはまって、ボドゲおじさんです。

 


 設定勝ちだ。
 本著のぶっとんだ設定に思わずニヤりとしてしまうに違いない。横浜駅は永遠に自己増殖を続ける巨大な構造物で、本州のほとんどがほぼ横浜駅に覆い尽くされている世界。大正4年から横浜駅の工事が途切れていない事に着想を得て、横浜駅は常に工事を続け成長していく存在として描かれる。傷を受ければある程度は自分で再生するし、外界から色々な物を取り込みもするし、物資を生産したりもする。
 この世界で生活する大多数の人々は横浜駅構内で生活していた。でも駅内に入れない人達もいて、その人達は横浜駅の浸食から逃れたわずかな土地で暮らしている。本作の主人公である三島ヒロトも駅外の一人だ。ヒロト達が生活する村に、横浜駅から追放された東山という男が現れる。東山は外の生活に慣れずに衰弱し、死の間際、ヒロトに自分たちの組織のリーダーを救い出して欲しいと頼んだ。横浜駅内に興味があったヒロトは、5日間限定で未知の横浜駅構内に侵入するのだった。
 JRで使われている用語を小説に落とし込むのが見事でつい笑ってしまう。例えば横浜駅構内は<エキナカ>と呼ばれ、体内にSuikaという認証端末を埋め込まないと中に入ることが出来ない。エキナカ内で使われるネットワーク<スイカネット>の位置情報を偽装するシステムは<ICoCar>。東山がヒロトに託した5日間限定で横浜駅に入れる箱状の端末は<18きっぷ>だし、組織の名前は横浜駅から人類の解放を目指す<キセル同盟>。読みながら思わずツッコミを入れずにはいられない。
 名付けの楽しさに加えて、自己増殖する横浜駅の世界観についての作り込みも面白い。<エキナカ>にエレベーターが突然生えたり、横浜駅の勢力が薄いところでは青空が望めたりする。横浜駅は水が苦手で海峡を越えらなかったりするので、北海道と九州は横浜駅の侵攻をまさしく水際で食い止めている。九州を防衛するJR九州は、どんな物体も弾丸としてしまう<電子ポンプ銃>で戦闘能力に長け、北海道を守護するJR北日本は幼い工作員アンドロイドを使って横浜駅の情報を集める。それぞれが独自のやり方で横浜駅と永遠にも思える戦いを続けていた。彼らと遭遇したり、横浜駅内の独自文化に振り回されながら、ヒロトは少しずつ大きな目的に向かって近づいていく。
 Suika不正使用者を取り締まる自動改札に対して、<しうまいパンチ! しうまいパンチ!>と子供に殴らせてみせたり、いつまでも工事の終わらない横浜駅をディスりながら、それをユーモアに仕上げている。ディストピアというよりもディスとユーモアに溢れた小説なのだ。

 

横浜駅SF (カドカワBOOKS)

横浜駅SF (カドカワBOOKS)

 

 

エンリーケ・ビラ=マタス『パリに終わりはこない』書評

パリに終わりはこない


書いた人:鈴木隆詩  2017年10月度トヨザキ社長賞
フリーライター。最近はさぼってばかりいます。

 

 〈私がデュラスの屋根裏部屋でしていたのは、基本的にヘミングウェイが『移動祝祭日』で語っているような作家生活だった。〉
 これはエンリーケ・ビラ=マタスが二〇〇三年に発表し、今年邦訳が出た小説『パリに終わりはこない』の序盤に出てくる一文で、これだけで小説全体を説明しきっている。

 「私」とは誰か? 『パリに終わりはこない』の主人公であり、作者自身と重なり合う人物だ。「私」は二十代だった一九七四年にパリに行き、最初の小説『教養ある女暗殺者』を書きながら二年を過ごした。これはビラ=マタス本人の経歴と、ほぼ同じである。
 デュラスとは誰か? 『愛人 ラマン』などで知られる小説家であり、脚本家、映画監督としても活躍したマルグリット・デュラスだ。「私」にとっては、月百フランの家賃を何ヶ月も滞納することを許してくれた家主であり、小説を書くための十三の心得を、ありがたくも授けてくれた先人だった。

 では、〈ヘミングウェイが『移動祝祭日』で語っているような作家生活〉とは?

 『移動祝祭日』はヘミングウェイが、パリで過ごした二十代の六年間を、晩年になって振り返った作品だ。二十二歳のヘミングウェイは妻を伴ってパリに渡り、新聞記者をしながら最初の小説の刊行を目指した。そして、ガートルート・スタイン、スコット・フィッツジェラルドエズラ・パウンドらたくさんの作家や芸術家と親交した。
 〈もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ〉というのが、その序文(高見浩訳/新潮文庫版)。叙情に満ちた作品で、最後の章のタイトルは「There Is Never Any End to Paris」、つまり「パリに終わりはない」だ。

 「私」は、そんなパリに憧れて移り住み、ヘミングウェイみたいに小説家を目指しながら、ヘミングウェイみたいにさまざまな作家や芸術家と付き合って、後年、作家として何冊も小説を著してから、ヘミングウェイみたいに若かったパリ時代を回想する。では、『パリに終わりはこない』は『移動祝祭日』みたいな作品なのかというと、そこは違う。バルセロナに住む「私」が三日間続く講演としてパリ時代を語る、という体裁で書かれているからだ。ビラ=マタスは、ヘミングウェイのように一直線に過去を振り返ってはいない。「私」という自分によく似た主人公を立て、講演という虚構の行為をさせている。

 そのことでまず、パリ時代の若かった自分に対するアイロニカルな視点が立ち上がってくる。「あの頃の自分、こんなだったんですよ、どう、笑っちゃうでしょ?」的な一歩引いた冷静さは、人前で自分語りをする時の作法である。その上で、絶妙な語り口による、自虐的な笑いの奥から立ち上がる青春の苦味や、今は失われてしまったきらめきに、聴衆は(そして読者は)共感させられる。

 だが、小説内にいる聴衆はともかく、その外にいる我々読者が忘れてはいけないことは、「私」が語る体験談はまったくの作り話である可能性がおおいにあるということだ。『パリに終わりはこない』には、たくさんの著名人が登場して、「私」と言葉を交わしていくが、それが「三日間の講演」を面白くするための味つけではないという証拠は、どこにも提示されていない。「私」がおびただしく引用する古今の作家の言葉に導かれ、全てがビラ=マタスの頭の中で組み立てられている出来事なのかもしれないと疑うと、この小説のもう一つの面白さが立ち上がってくる。

 作家の頭の中で、郷愁と混ざり合いながら、現実とは違う広がりを見せるパリ。「私」はこう言っている。〈リアリスティックな作家が現実を忠実に写し取りながら、結果的にそれを一層貧相なものにしてしまっているのを見ると、思わず笑ってしまう〉。

 

パリに終わりはこない

パリに終わりはこない