書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

マイケル・オンダーチェ『ビリー・ザ・キッド全仕事』福間健二訳

ビリー・ザ・キッド全仕事 (白水Uブックス)

書いた人:悠木みつば(ゆうき みつば)2017年5月トヨザキ社長賞
〆切を過ぎたあとに提出した書評王でもなんでもない書評
1986年名古屋市生まれ 一般市民
一時間に一行くらいのペースで文章を書くことができたり、できなかったりします。
ブログ、あります。http://yukibookreview.blog.fc2.com/

 

 西部劇だ。

 二十一人殺した。二十一歳で死んだ。無法者。ビリー・ザ・キッド。ほかに知られているのは〈ある恋愛沙汰をほのめかすもの〉と〈名前しか知られていない曖昧な友人たち〉だけ。完璧だ! カナダの詩人、マイケル・オンダーチェは思う。

 スリランカで生まれ、アメリカ西部の神話的英雄に憧れていたカウボーイ衣装の少年は。その後も西部劇を見る。たくさん見る。しかし、〈映画はどれも安全すぎる気がした〉。〈悪党たちは必ず岩山から死へと転落し〉〈古い仲間たちは陽気な声をあげながらフェイドアウト〉して消える。そこに〈私たちを混乱させたり、教訓調をおさえたりする「第二幕」は存在しない〉のだ、と悟る。

 カナダに移り二冊の詩集を刊行した。まわりの文芸雑誌には、新しい形式で書かれた様々な〈声〉の作品が並ぶ。良い。とても良い。あるものには作業日誌と詩編が並び、写真とテクストを組み合わせた本もある。そうした手法・視点・声の一つひとつを、全て一篇の作品にまとめあげたらどうなるだろう?

 完璧だ。天啓が訪れる。書くべきは少年期の憧れ。謎に満ちた西部の伝説的人物。資料の空白部は自由を意味する。伝記に書かれていない不明の部分は、全てでっちあげてしまえばいい。

 『ビリー・ザ・キッド全仕事』

 かつての古い西部劇には存在しなかった、驚きに満ちた「第二幕」が始まる。

 オンダーチェの想像力は、二枚の扉だ。西部劇映画に出てくる古びたバーの入り口に、両開きの扉があるのだと思い描いてもらいたい。扉の片方は詩で、もう一方は小説で出来ている。はじまりは、ビリーによって書かれたという想定のいくつかの詩だ。

 殺したものと、殺されたものたちの名前。ブートヒルに二つしかないという自殺者の墓。死肉をついばみ、血管を12ヤードもの長さまで引きずっていくヒナドリ。愛のジュースでばりばりになり、不具になった魔女ほどにもはやく動かせない美しい指。エーテルを飲んでいるみたいないい風。世界のどこでもいちばんやさしいハンターたち。銃の教訓。

 詩によってつくられた世界を、散文が補強していく。

 細部を丁寧につづった美しい文章で書かれた風景に加えて、テキサス・スターによる架空のビリー・ザ・キッドインタビュー。漫画『ビリー・ザ・キッドとお姫様』を文章で再構成したもの。虚構のドキュメンタリー写真までもが挿入され。女性に優しく振舞う紳士としてのビリーを語るサリー・チザムや、かつての仲間であり後に宿敵となった保安官パット・ギャレットのアンビバレントな言葉が小説を立体化していく。

 あらゆるものを詰め込んで語られる物語。そう。それは。西部劇だ。何物にもしばられない無法者の自由を許容していた古きアメリカと、汚らしいごろつきどもを消し去り近代的な所有権に守られた新しい自由都市を建設しようとする資本家たちのせめぎあいの場。

 そこでは多くの血が流れ。昨日の友は今日の敵となり。腰のホルスターから抜かれた拳銃からは、弾丸が。弾丸が。弾丸が発射されて宙を飛び交い。敗れ去ったものは世界から退場していく。しかしその中で、最も自由だった者の魂は、死後も消えることなく繰り返し語られ、芸術家による作品として永遠に残っていく。

  詩と小説、二つの想像力でできた両開きの扉から出ていくと。砂漠の風に吹かれて、ビリー・ザ・キッドがそこにいる。原著は1970年・刊行。詩人・福間健二訳。

 

『百年の散歩』多和田葉子(新潮社)

 

百年の散歩

書いた人:鈴木隆詩  2017年5月書評王
フリーライター

 〈自分は孤独だと認めてしまうのは気持ちがいい。春だからこそできること。孤独だなんて最悪の敗北宣言ではあるけれど。友達が見つからなかった、恋人が見つからなかった、家族が作れなかった、仕事がない、住むところがない。そうなっても誰もじろじろ見たりしないから、平気で歩き回れるのが大都市だ〉。

 ベルリンで暮らす日本人の「わたし」が、一人、街を歩き回る小説、『百年の散歩』。長年住んでいるはずの街なのに、この小説には「わたし」の顔なじみの住人たちは、一切登場しない。 〈匿名の体になりたくてわざわざ都会の、しかも自分の住んでいない地区をうろうろする〉という「わたし」。おそらく、彼女には行きつけの店のいくつかがあり、友達が集まる場所があるのだろうが、それはこの物語から、そっと排除されている。

 その代わり、「わたし」は人名が付けられている通りや広場を歩く。カント通り、カール・マルクス通り、マルティン・ルター通り、レネー・シンテニス広場、ローザ・ルクセンブルク通りなどなど。いずれもこの街に関わりのある思想家、芸術家たちだ。レネー・シンテニスは二度の世界大戦の時代を生きた女性彫刻家。金熊賞銀熊賞で有名なベルリン映画祭の、トロフィーの熊の作者である。〈街路の名前になっている人には、命をかけて戦争に反対したという業績の人が多いから、彼女もそうだったのかもしれない。どんな一生を送った人か知りたいけれど、すぐに調べてしまうのではもったいない。今日こそが調べる日だという日が来るまで名前だけを大事に抱きしめていたい〉。「わたし」は、街を歩きながら、こんなふうにベルリンの百年に触れる。知り合いに会うことがない散策だが、どの通りにも、街を(思索や芸術によって)作ってきた、今はもうこの世界にはいない人たちの息吹がある。

 「つまづきの石」というものの存在も、恥ずかしながら、この小説で初めて知った。小さな花屋の店先を見て、冗談めかしてマフィアが不正資金浄化のために営んでいる店かも、と考えていた「わたし」は、〈全く別のものが視界に入って、脳内の話題が豹変した〉。それが、つまづきの石。ナチス・ドイツの犠牲になった人が住んでいた場所の路面に設置されている十センチ四方の真鍮板だ。〈マンフレッド・ライス、1926年生まれ。殺されたのは1942年、アウシュビッツ〉と、「わたし」は板に刻まれた文字を読む。このプロジェクトは一九九三年にケルンで始まり、今はヨーロッパ中に広まっているという。

 もちろん、「わたし」は街を歩きながら、歴史を振り返っているだけではない。街で見かけた人たちに、この人はナタリー、この人はジャンヌと勝手に名前を付け、時にはその人の過去のストーリーまで妄想してしまう。小ぎれいな店よりも、どこかアヤシイ店に心惹かれて、ついふらふらと入っていく。バナナ・パンを出す店の女主人とのやり取りは、好きな箇所だ。〈「美味しい?」と訊かれ、食べられないこともない、と答えるのも失礼なので、無機質な「はい」で答えると、「今日初めて作ったの。自分でも味見してないから、美味しいかどうか自信なかったの」と言う〉。でも、残さず食べる。

 また、トイレのドアを開けると、そこは百年前の教室で、本を読んでいた子供たちに一斉に視線を向けられる、なんていう不思議も起こる。「わたし」の想像力の中では、百年のベルリンの全ての時が同時に存在していて、彼女はそこを自由自在に行き来する。
 「わたし」は一人きりで街を歩きながら、「あの人」のことを考え続ける。「あの人」とはいつも、街のどこかで落ち合う約束をしているのだが、それはなかなか果たされないのだ。いったい誰なのか。最後にその謎が明かされ、小説は春の爽やかな孤独に包まれて終わる。

 

百年の散歩

百年の散歩

 

 

 

フリオ・リャマサーレス『黄色い雨』木村榮一訳

黄色い雨 (河出文庫)

書いた人:小平智史  2017年4月 ゲスト栗原裕一郎
1985年生まれ。仕事では英会話の本を作ったりしています。

 

 二〇〇五年に刊行されたスペインの作家フリオ・リャマサーレスの『黄色い雨』が、短編二編を新たに加えた形で復刊された。表題作の舞台は、過疎化が進み住人が次々と出て行った僻村、アイニェーリェ村。語り手の男は、崩壊していく村に妻サビーナと、飼っている雌犬と共にとり残される。さらに冬のある朝、粉挽き小屋で〈目をかっと見開き、首が折れ曲がったような格好で機械の間に袋のようにぶら下がって、ゆらゆら揺れて〉いる、妻の変わり果てた姿を発見する。妻の自殺により、男はついに村に残された最後の人間になったのだ。
 手入れをする者のない畑や家々が荒れ果てていくことは避けようがないが、男は村を離れようとはしない。誰もいない村での生活を淡々と語るが、その語りは孤独な身の上を呪うものではなく、村の崩壊と自分の死をただ待ち受ける口調である。〈私はすべてに疲れきっていた〉と男は語る。〈もはや何かをしなければならないとか、何かをしたいという気持ちになれな〉いのだと。
 意外なことに、孤独な主人公を待つのは静寂に閉ざされた世界ではない。戦争に行ったきり戻らなかった息子の亡霊が家の中をうろつき、母の亡霊が、時には家族を引き連れて毎晩のように姿を現して台所の椅子に座っている。夜、〈錆びついた物が立てる音、黴が壁の中に入り込んで内側から腐らせていく音〉に耳を傾ける男は、ただの静寂ではなく、にぎやかな沈黙とでも呼べるものの中に身を置いているのだ。
 この小説は忘却と追憶についての物語でもある。〈霧と荒廃の中に消え去った記憶を守ろうとするのは、結局は新たな裏切り行為でしかないのだ〉と語る男には、忘却に抗おうという気すらない。にもかかわらず過去の出来事はしぶとく脳裏に浮かび続ける。〈ある物音を聞いたり、何かの匂いを嗅いだり、思ってもみないものが突然手に触れたりすると、時間が一気に溢れ出して、情け容赦なくわれわれに襲いかかり、稲妻のような激しい閃光で忘れたはずの記憶を照らし出す〉。
 そうした記憶をフィルターのように覆うのが、タイトルにもある〈黄色い雨〉だ。ある時、粉挽き小屋にいた男は〈突然黄色い雨が降り注いで、粉挽き小屋の窓と屋根を覆い尽く〉すのを見る。それはポプラの枯葉だった。黄色い雨は〈街道を消し去り、堰を埋め尽くし〉、忘却の象徴のように〈がらんとした部屋のようになった私の心の中にまで入りこんで〉くる。この作品は、忘却というものを何かが見えなくなることではなく、別の「色」に変わってしまうこととして描くのだ。
 目まぐるしい展開はほとんどないこの作品だが、〈黄色い雨〉に代表されるイメージの数々は印象的だ。例えばサビーナが死んだ途端、狂ったように花をつけるリンゴの木。村の光景が黄色く染まって見え、〈木々、水、雲、ハリエニシダ、そしてついには大地までが黒い色からだんだんサビーナの腐敗したリンゴの色に変わって〉いく際の幻覚めいた毒々しさ。独特の質感を備えた濃密なイメージが次々と展開される。
 この小説の語りは、過去を順序だった物語でなくイメージの断片のように提示する。主人公はなぜ自分や村がこうなってしまったのかについて論理的な説明をしようとはせず、ただ「見る」ことだけを続けようとし、その態度には生死を超越した感すらある。〈死が私の記憶と目を奪い取っても、何一つ変わりはしないだろう。そうなっても私の記憶と目は夜と肉体を越えて、過去を思い出し、ものを見つづけるだろう〉。その達観は、村を捨てて去った息子を思うときだけ心もち揺らぐようにも思えるのだが、その揺らぎがこの男の語りに生々しいリアリティーを与えている。本作は、死と崩壊の運命に向かって静かに歩む男の目を通して、妖しくも豊穣な世界の像を読者に提示するのである。

黄色い雨 (河出文庫)

黄色い雨 (河出文庫)

 

 

『こびとが打ち上げた小さなボール』チョ・セヒ(斎藤真理子訳)

こびとが打ち上げた小さなボール

書いた人:豊崎由美(とよざきゆみ)2017年4月書評王

1961年生まれのライター・書評家。最新刊は大森望との共著『「騎士団長殺し」メッタ斬り!』(河出書房新社)。

 

 

 日本の翻訳界で手薄なのがアジア文学。多くの日本人は名誉白人をきどっているというか、近隣諸国をひとつ下に見たがるところがあり、その欧米敬拝根性ゆえに中国や韓国、東南アジアの小説に食指を動かさない傾向があるからではないかと、わたしは疑っている。ところが、ここ数年、新潮社の「クレスト・ブックス」シリーズ、白水社の「エクス・リブリス」シリーズを中心に、日本の読書界にとってはマージナルな存在だったアジア文学の良書が次々と翻訳されるようになって嬉しい限り。おかげで、チョ・セヒが1978年に発表した連作短篇集(のスタイルを取った長篇小説ともいえる)『こびとが打ち上げた小さなボール』も、思いがけず日本語で読めるようになったのである。「思いがけず」というのも、この小説、言葉の自主規制はなはだしい日本では翻訳困難な単語がバンバン放たれる過激な内容になっているからだ。  なんせ冒頭の1篇が、〈せむし〉と〈いざり〉が自分たちの家を取り壊しておいて、相場より低い額の保証金しか払わなかった業者の男を襲う話。で、最後に置かれた1篇も、同じコンビが、自分たちを置き去りにした見世物で人寄せする移動薬売りを、殺意をもって追いかける話。この、グロテスクな詩情を湛え、かつシニカルな笑いを呼ぶ寓話のような2つの物語と、間に挟まれたリアリズム寄りの10篇の舞台になっているのは、朴正煕による軍事独裁政権下、知識人が次々と連行され、資本家によって労働者が搾取される一方だった1970年代の韓国なのである。  スムーズに水も出てこない家に住み、世の中の不公平さに苛立ちを覚えている中産階級の専業主婦シネが、〈こびと〉に水道を修理してもらい、自分もまた彼の仲間なのだということに思い当たる「やいば」。学生運動に身を投じ、精神を失調させたシネの弟の物語「陸橋の上で」。特権階級の父親に敷かれたレールに反発を覚える受験生が、自分でものを考え、曇りのない目で社会を見ることを学んでいく「軌道回転」と「機械都市」。巨大企業グループ一族に属する青年の目を通し、持てる者の残酷さを活写する「トゲウオが僕の網にやってくる」。  当時、北朝鮮よりも貧しかった韓国の経済成長を第一義にかかげた朴正煕政権による急激な都市開発によって、生を蹂躙されていくスラムの住人たちをはじめ、さまざまな立場にある人物を登場させることで、民衆苦難の時代を立体化させるこの小説の中心にいるのが、スラムの住人代表といえる〈こびと〉一家だ。長男ヨンス、次男ヨンホ、長女ヨンヒそれぞれの視点から、家族のために懸命に働いてきた愛情豊かで辛抱強い〈こびと〉の、報われなかった一生を描く表題作。資本家から人間として扱われない理不尽な状況下、勉強会を開き、組合を結成したヨンスが、静かに怒りを内に育てていく過程を描いた「ウンガン労働者家族の生計費」と「過ちは神にもある」。  描かれていることのほとんどは、読んでいてギョッとするほど苛烈で過激で過酷。でも、イメージ喚起力の高い、時に詩的とすらいってもいい文章が、この小説を貫く悲しみに繊細な表情と普遍性を与え、日本人のわたしからも深いレベルにおける共感を引き出す。つまり、韓国文学を超えて世界文学になっている作品なのだ。  作中で重要なエピソードとして語られる「こびとが打ち上げた小さなボール」にまつわる出来事。「小さなボール」とは一体何を意味するのか。わたしは、〈こびと〉がわが子や祖国に託す未来ではないかと受け取る者だが、解釈は読者一人ひとりに任されている。この小説が本国でベストセラーになり、ロングセラーとして読まれ続けているのは、今もなお「小さなボール」に心を寄り添わせる人たちがいるということの証左だ。そんな韓国の読書界を、わたしはリスペクトする。 

 

こびとが打ち上げた小さなボール

こびとが打ち上げた小さなボール

 

 

『模範郷』リービ英雄

模範郷

書いた人:藤井勉 2017年3月書評王

会社員、共著に『村上春樹を音楽で読み解く』(日本文芸社)。
「エキレビ!」でレビューを書いております。
http://www.excite.co.jp/News/review/author/kawaibuchou/

 

 リービ英雄8年ぶりの作品集となる本書は、4つの短篇を収めている。全篇を通じて主人公となるのは、リービ英雄という名の作家の〈ぼく〉だ。冒頭を飾る表題作「模範郷」で〈ぼく〉は、現地の日本語教師に招かれて台湾を訪れる。目的は子供の頃に住んでいた家の跡を見つけること。〈実感のない故郷には帰りたくない〉と長らく帰郷をためらっていた〈ぼく〉だが、地方都市・台中の郊外にある故郷・模範郷へと52年ぶりに向かう。

 本書を私小説として括るのは簡単だが、実は様々な側面がある。たとえば「模範郷」は、優れた紀行文でもある。植民地時代に日本人が建設した模範郷は、日本家屋の建ち並ぶ町だった。ところがマンションやコンビニが建てられた今、当時の面影はない。それでも作者は町の区画から想像力を駆使して、かつて見た風景を再現する。狭い路地の側溝を見つけて、突然こみあげる〈ここだった〉という感覚。〈I give to you〉という歌詞と共に脳裏に浮かぶ、大きな平屋の自宅に流れる音楽と母の姿。後に現実となる、家族との別離の予感。蘇ってくる記憶に感情を乱して、顔を涙で濡らす〈ぼく〉。読者が知るのは、模範郷の記憶だけではない。自分の見た景色がもはや戻ってこないという喪失感をも、追体験していくのだ。

 さらに本書は、小説を書けなくなった作家の物語として読むこともできる。〈ぼく〉は自身が評論対象である本を手に取り、〈帯には「移動と越境の作家」といういつものぼくのキーワードが書かれている〉と、主題としてきた言葉に飽きていることを隠さない。〈小説は、すでに書きつくした〉と、創作意欲を失ってしまったことも隠さない。根底には2011年の春に芽生えた、作家としての無力感と倦怠があった。「模範郷」で台湾を訪問した頃の〈ぼく〉は、多くの死を乗り越えて再び小説を書く動機を探していた。

 第2篇「宣教師学校五十年史」では、通っていた台湾の宣教師学校を訪ねる〈ぼく〉。場所を移転し真新しい校舎となった学校に、感慨はない。それよりも、購入した宣教師学校の五十年史『通常でない絆』を読んで心を動かされる。中国で生まれ、内戦で台湾に逃れてきた白人の卒業生たちが拙い英語で書いた回想文。そこに〈ぼく〉は故郷中国への愛着を読み取り、彼らの見た大陸の風景に思いを馳せる。第3篇「ゴーイング・ネイティブ」では、1938年に『大地』でノーベル賞を受賞したアメリカ人作家パール・バックの評伝を読む。中国で生まれ育った彼女が中国人の視点から、英語で小説を書いた先見性に〈ぼく〉は驚きを覚える。だけど彼らに対して、ある疑問が頭から離れない。〈なぜ、中国語で書かなかったのか〉と。その答えを考察する中で、外国語で小説を書く意義を再発見していく。そんな書く動機を模索する過程で主人公の語る言葉は、そのまま作者の創作論として読むこともできる。

 こうした多様な形式から連想されるのが、台湾文学の歴史だ。清朝・日本・中国国民党と統治者が変わるごとに、漢語・台湾語・日本語・中国語と使用する言語は変わり、郷土文学・反共文学・モダニズム文学・原住民文学などさまざまなジャンルの作品が書かれてきた。エッセイ集『日本語を書く部屋』(2001年刊)の中で、〈ぼくは家族崩壊というアメリカ文学のテーマと、歴史という中国文学のテーマを、近代日本文学の主流を成してきた私小説の文体の中で織りなそうとした〉と書いたリービ英雄。彼が台湾文学の多様性という新たなテーマを手に入れるきっかけが、第4篇「未舗装のまま」の結末には描かれている。本書は作者に縁の深かった国とこれまで取り上げてきたテーマがすべて味わえる上に、台湾という新境地を切り拓いた作品として記憶されるに違いない重要な一冊だ。

模範郷

模範郷

 

 

『天使の恥部』マヌエル・プイグ(安藤哲行訳)

天使の恥部 (白水Uブックス)

書いた人:白石 秀太(しらいし しゅうた)2017年2月ゲスト倉本さおり賞
同志社大学文学部美学芸術学科卒。会社員

 

 サスペンス映画の傑作とされる『裏窓』は、ヒッチコック監督ならではの技巧も光る。足を骨折中の主人公が、暇つぶしに窓から向かいのアパートの住人を観察するシーン。
 引っ越してきたばかりの新婚夫婦。それを見て主人公の頬がゆるむ。
 下着姿でエクササイズをする女性。それを見て主人公の頬がゆるむ。
 見比べても同じような笑顔なのに、カットのつなぎ方だけで観客は「和んでいるなぁ」、「スケベだなぁ」とつい想像してしまう。一つの表情も観衆の心を掛け算するように編集すれば、とたんに表現は豊かになるのだ。
 マヌエル・プイグははじめ、映画監督を目指していた。ルネ・クレマン監督らのもとで映画製作を学んだのち文学に転向したが、土台にはやはり映画芸術があった。とくに三作目の『ブエノスアイレス事件』。全章の冒頭で映画のワンシーンを引用して、告白、通報の電話、警察の調書、速記メモまで多様な文章を、まるで映像編集のようにつないで記される犯罪小説でありながら、しかし浮上するのは事件の真相ではなく、一組の男女の虚しい愛と性の遍歴という別の表情なのだ。『裏窓』の笑顔のように、パラグラフごとの意味が多重化された小説だ。
 断片と断片が再構築されて生みだされる光景が、筋書きをさらりと飛び越える。その跳躍をプイグが彼方まで引き延ばしたのが『天使の恥部』だ。まずは話の軸からして、三つの異なる時空間を行きつ戻りつ進んでいく。だから主人公も三人だ。
 一人目は1936年のウィーン。郊外の屋敷に閉じ込められた大女優。二人目は1975年のメキシコ。病院で療養中のアナ。三人目は地軸変動で氷河期を迎えた未来の中央都市。性的医療事業に就くW218。彼女ら三人の運命が、会話、日記、三人称の語りの混合によって描かれる。
 大女優は、メスで胸を切り開かれるという悪夢に悩まされていた。すると夫から、亡くなった彼女の父親は人間の思考を読み取る実験をしていたと知らされて驚く。いっぽうアナは、不和になった夫と離婚し、娘も母親に預けてメキシコにいる。胸中を日記に綴りながら、一人称を〈わたしたち〉と書いていることに気づく。〈もしかすると、わたしは独りじゃない?〉。見舞いに来た友人からは、銀幕から消えたかの女優にそっくりだと指摘される。そしてW218は、何度も氷河期前の世界を夢で見る。そこにはなぜかいつも、ウィーンのあの大女優の姿があった。過去と未来、現実と夢をこえて、三人がシンクロしはじめる。
 別々の人生から重なるように聞こえてくるのは、生きることの息苦しさだ。男尊女卑の社会、コミュニケーションの断絶、恋人や家族との愛に対する不信感。悩み続けるアナが男性社会への怒りを日記にぶつけたとき、女優が悪夢にまで見たあの力が、時をこえてW218に現れる。三人が同じように切望した〈白馬の王子〉とついに出会えたW218は、男の心を読んだことである行動をおこす。並走していた彼女たちの運命が一つになって、自分の居場所を見つけるために。
 女優とアナ、W218は同一人物なのだろうか?なぜ夢や時間が錯綜するのか?明確な答えは用意されていないし、必要もない。この混濁もまた一つの現実なのだといわんばかりに、プイグは世界を再編集したのだ。
 複数の〈わたし〉、過去と未来、夢と現実。さらには三つの人生の中で、政治、陰謀、セックス、コンピュータ依存という要素も差し込まれる。映画のカットとはまた違った想像をかきたててくれる、断片の数々。そのピースが像を結ぶのはあなたの心の中だけで、他の読者にはない、あなただけの光景がきっと広がる。

 

 

『ブラインド・マッサージ』畢飛宇(飯塚容 訳)

ブラインド・マッサージ (エクス・リブリス)

書いた人:倉本さおり  2017年2月書評王

ライター、書評家。『週刊現代』『週刊SPA!』『TV Bros.』などの週刊誌や新聞各紙、『すばる』『新潮』『文藝』『文學界』などの文芸誌に寄稿。「週刊読書人文芸時評担当(2015年)、『週刊金曜日』書評委員、『小説トリッパークロスレビュー担当のほか、『週刊新潮』誌上にて「ベストセラー街道をゆく!」連載中。共著に『世界の8大文学賞 受賞作から読み解く現代小説の今』(立東舎)。

 

 

 生まれつき目が見えない者がいれば、徐々に視力を失った者もいる。逆境にもめげず結婚願望に身を焦がす勇敢な女たちがいれば、美人と聞いただけで新人スタッフにガチ恋してしまうプライドの高い経営者、はては初恋をこじらせて風俗にどハマりする寡黙なイケメンだっている。

 盲人たちの青春、といえばすわりがいいかもしれないが、この群像劇が描く軌跡はどこまでもいびつで不揃いだ。善意と欺瞞は紙一重だし、友情は損得勘定に左右され、愛が報われる機会はけっこう少ない。にもかかわらず、そこで提示される図は、ある種の完全さを備えて現れるのだ――それは、私たちが「世界」を眺める時に、いつだってこぼれ落ちてしまうものと関係がある。

 舞台は南京、手に職をつけた盲人たちの集うマッサージセンター。タイプの異なる二人の店長の下、経営はおおむね安定している。ところがスタッフ同士のしょっぱい確執をきっかけに、絶妙なバランスを保っていたはずの日常が冗談のように崩れていく。

 並べられた文字を追うごとに読み手を激しく揺さぶるのは、身体感覚の驚くべき豊かさと濃やかさ、なによりも鮮やかさだろう。たとえば彼らの駆使する整体術。ひとたび尻のツボを押さえれば、たちまち骨格からバラバラにほどけ、しなやかな筋肉がすみずみまで喜びの声をあげる。そして視覚以外の五感を総動員させて味わう、恋人たちの甘やかな気配。彼らの恋愛は慎み深く、粘り強い。自由がきかないからこそ、手をつなぎ合って、ひたすら一緒に待つのだ。そうやって互いに相手を守りながら、相手を抱き続け、キスをし続ける――はたしてこれ以上に必要なことが「恋愛」にあるだろうか?

 だが、この作者は、盲人の世界をいたずらに美化するような、つまらない愚行など犯さない。どんなに感性が鋭くても、彼らには「見えない」以上、健常者から――すなわち社会から一方的に「見られる」ことで保障される存在なのだ。彼らの人生は一種の博打の様相をなす。成功すればどうにか搾取されずに済むし、失敗すれば愛や仕事や信頼を簡単に失う。彼ら自身の意志の力が反映される余地はごくわずかしかない。

〈盲人の人生は、インターネットの中の人生に似ている。健常者が必要なときにクリックすると、盲人が現れる〉――作中、店長のひとりは心の内でこう自嘲する。だが病院のラストシーンにおいて、その言葉の真意は逆説的な形で再現されるのだ。瞬間、盲人と健常者は立場をくるりと入れ替え、私たちは「見られる」存在――つまり「世界」の中へと改めて取り込まれる。私たちが取りこぼしてきたものをまるごと回収して突きつける、なんと見事な幕切れか。

 本書の盲人たちは、私たちにとって「異端者」であると感じさせない。それはなにも、彼らが欲深で生臭く、正直で愚かしい姿をさらしていることのみに起因するのではない。まさしく彼らの視線が、「私たち」を内側から捉え直す機能を果たしているからなのだ。

 

ブラインド・マッサージ (エクス・リブリス)

ブラインド・マッサージ (エクス・リブリス)