書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

『天使の恥部』マヌエル・プイグ(安藤哲行訳)

天使の恥部 (白水Uブックス)

書いた人:白石 秀太(しらいし しゅうた)2017年2月ゲスト倉本さおり賞
同志社大学文学部美学芸術学科卒。会社員

 

 サスペンス映画の傑作とされる『裏窓』は、ヒッチコック監督ならではの技巧も光る。足を骨折中の主人公が、暇つぶしに窓から向かいのアパートの住人を観察するシーン。
 引っ越してきたばかりの新婚夫婦。それを見て主人公の頬がゆるむ。
 下着姿でエクササイズをする女性。それを見て主人公の頬がゆるむ。
 見比べても同じような笑顔なのに、カットのつなぎ方だけで観客は「和んでいるなぁ」、「スケベだなぁ」とつい想像してしまう。一つの表情も観衆の心を掛け算するように編集すれば、とたんに表現は豊かになるのだ。
 マヌエル・プイグははじめ、映画監督を目指していた。ルネ・クレマン監督らのもとで映画製作を学んだのち文学に転向したが、土台にはやはり映画芸術があった。とくに三作目の『ブエノスアイレス事件』。全章の冒頭で映画のワンシーンを引用して、告白、通報の電話、警察の調書、速記メモまで多様な文章を、まるで映像編集のようにつないで記される犯罪小説でありながら、しかし浮上するのは事件の真相ではなく、一組の男女の虚しい愛と性の遍歴という別の表情なのだ。『裏窓』の笑顔のように、パラグラフごとの意味が多重化された小説だ。
 断片と断片が再構築されて生みだされる光景が、筋書きをさらりと飛び越える。その跳躍をプイグが彼方まで引き延ばしたのが『天使の恥部』だ。まずは話の軸からして、三つの異なる時空間を行きつ戻りつ進んでいく。だから主人公も三人だ。
 一人目は1936年のウィーン。郊外の屋敷に閉じ込められた大女優。二人目は1975年のメキシコ。病院で療養中のアナ。三人目は地軸変動で氷河期を迎えた未来の中央都市。性的医療事業に就くW218。彼女ら三人の運命が、会話、日記、三人称の語りの混合によって描かれる。
 大女優は、メスで胸を切り開かれるという悪夢に悩まされていた。すると夫から、亡くなった彼女の父親は人間の思考を読み取る実験をしていたと知らされて驚く。いっぽうアナは、不和になった夫と離婚し、娘も母親に預けてメキシコにいる。胸中を日記に綴りながら、一人称を〈わたしたち〉と書いていることに気づく。〈もしかすると、わたしは独りじゃない?〉。見舞いに来た友人からは、銀幕から消えたかの女優にそっくりだと指摘される。そしてW218は、何度も氷河期前の世界を夢で見る。そこにはなぜかいつも、ウィーンのあの大女優の姿があった。過去と未来、現実と夢をこえて、三人がシンクロしはじめる。
 別々の人生から重なるように聞こえてくるのは、生きることの息苦しさだ。男尊女卑の社会、コミュニケーションの断絶、恋人や家族との愛に対する不信感。悩み続けるアナが男性社会への怒りを日記にぶつけたとき、女優が悪夢にまで見たあの力が、時をこえてW218に現れる。三人が同じように切望した〈白馬の王子〉とついに出会えたW218は、男の心を読んだことである行動をおこす。並走していた彼女たちの運命が一つになって、自分の居場所を見つけるために。
 女優とアナ、W218は同一人物なのだろうか?なぜ夢や時間が錯綜するのか?明確な答えは用意されていないし、必要もない。この混濁もまた一つの現実なのだといわんばかりに、プイグは世界を再編集したのだ。
 複数の〈わたし〉、過去と未来、夢と現実。さらには三つの人生の中で、政治、陰謀、セックス、コンピュータ依存という要素も差し込まれる。映画のカットとはまた違った想像をかきたててくれる、断片の数々。そのピースが像を結ぶのはあなたの心の中だけで、他の読者にはない、あなただけの光景がきっと広がる。

 

 

『ブラインド・マッサージ』畢飛宇(飯塚容 訳)

ブラインド・マッサージ (エクス・リブリス)

書いた人:倉本さおり  2017年2月書評王

ライター、書評家。『週刊現代』『週刊SPA!』『TV Bros.』などの週刊誌や新聞各紙、『すばる』『新潮』『文藝』『文學界』などの文芸誌に寄稿。「週刊読書人文芸時評担当(2015年)、『週刊金曜日』書評委員、『小説トリッパークロスレビュー担当のほか、『週刊新潮』誌上にて「ベストセラー街道をゆく!」連載中。共著に『世界の8大文学賞 受賞作から読み解く現代小説の今』(立東舎)。

 

 

 生まれつき目が見えない者がいれば、徐々に視力を失った者もいる。逆境にもめげず結婚願望に身を焦がす勇敢な女たちがいれば、美人と聞いただけで新人スタッフにガチ恋してしまうプライドの高い経営者、はては初恋をこじらせて風俗にどハマりする寡黙なイケメンだっている。

 盲人たちの青春、といえばすわりがいいかもしれないが、この群像劇が描く軌跡はどこまでもいびつで不揃いだ。善意と欺瞞は紙一重だし、友情は損得勘定に左右され、愛が報われる機会はけっこう少ない。にもかかわらず、そこで提示される図は、ある種の完全さを備えて現れるのだ――それは、私たちが「世界」を眺める時に、いつだってこぼれ落ちてしまうものと関係がある。

 舞台は南京、手に職をつけた盲人たちの集うマッサージセンター。タイプの異なる二人の店長の下、経営はおおむね安定している。ところがスタッフ同士のしょっぱい確執をきっかけに、絶妙なバランスを保っていたはずの日常が冗談のように崩れていく。

 並べられた文字を追うごとに読み手を激しく揺さぶるのは、身体感覚の驚くべき豊かさと濃やかさ、なによりも鮮やかさだろう。たとえば彼らの駆使する整体術。ひとたび尻のツボを押さえれば、たちまち骨格からバラバラにほどけ、しなやかな筋肉がすみずみまで喜びの声をあげる。そして視覚以外の五感を総動員させて味わう、恋人たちの甘やかな気配。彼らの恋愛は慎み深く、粘り強い。自由がきかないからこそ、手をつなぎ合って、ひたすら一緒に待つのだ。そうやって互いに相手を守りながら、相手を抱き続け、キスをし続ける――はたしてこれ以上に必要なことが「恋愛」にあるだろうか?

 だが、この作者は、盲人の世界をいたずらに美化するような、つまらない愚行など犯さない。どんなに感性が鋭くても、彼らには「見えない」以上、健常者から――すなわち社会から一方的に「見られる」ことで保障される存在なのだ。彼らの人生は一種の博打の様相をなす。成功すればどうにか搾取されずに済むし、失敗すれば愛や仕事や信頼を簡単に失う。彼ら自身の意志の力が反映される余地はごくわずかしかない。

〈盲人の人生は、インターネットの中の人生に似ている。健常者が必要なときにクリックすると、盲人が現れる〉――作中、店長のひとりは心の内でこう自嘲する。だが病院のラストシーンにおいて、その言葉の真意は逆説的な形で再現されるのだ。瞬間、盲人と健常者は立場をくるりと入れ替え、私たちは「見られる」存在――つまり「世界」の中へと改めて取り込まれる。私たちが取りこぼしてきたものをまるごと回収して突きつける、なんと見事な幕切れか。

 本書の盲人たちは、私たちにとって「異端者」であると感じさせない。それはなにも、彼らが欲深で生臭く、正直で愚かしい姿をさらしていることのみに起因するのではない。まさしく彼らの視線が、「私たち」を内側から捉え直す機能を果たしているからなのだ。

 

ブラインド・マッサージ (エクス・リブリス)

ブラインド・マッサージ (エクス・リブリス)

 

 

『すべての見えない光』アンソニー・ドーア(藤井 光 訳)

すべての見えない光 (新潮クレスト・ブックス)

書いた人:森田純 2017年1月書評王
1972年生まれ。海が近い山奥で暮らしています。ビール&おつまみ大好き、居酒屋大好き。

 

 〈縦に細長く、中心には渦巻き状の貝を立てたような螺旋階段がある〉高くほっそりとした、幅の狭い6階建ての家。少女が愛した貝のようである。その建物があるフランス北西部の、海に面した〈壁のなかの街〉サン・マロ。城塞に囲まれ、石造りの建物が並ぶ迷路の街並は、少年が愛したラジオの回路のようである。物語はここから“発信”される。

 少女マリーはサン・マロから400キロ離れたパリのアパルトマンで父親と二人暮らし。背が高く金褐色の髪でそばかす顔。先天性の白内障で6歳で完全に視力を失う。父親は国立自然史博物館の錠前主任として働き、居住エリアを縮小した模型を作り、盲目の娘に〈何度もその模型に指を走らせ、あちこちの家や通りの角度を判別〉させていた。同じ頃、少年ヴェルナーは8歳で、パリから北東に500キロ離れたドイツの炭坑製鉄地帯で、妹と孤児院にいた。アルザス出身で修道女の先生が母親代わり。フランス語の子守唄を聴いて育つ。もじゃもじゃで雪のような白い髪と空色の目を持ち、年齢の割に小柄なヴェルナー。15歳になると、父親が命を落とした炭坑で働かなくてはならなかった。

 マリーは父親の職場で時々、軟体動物専門家の研究室に預けられ、そこで〈一生を海面で過ごす、目の見えない巻貝〉など様々な貝殻に出会う。マリーの手は貝たちの〈空洞になった突起、硬い渦巻き、深い開口部〉に触れ、〈なにかに本当の意味で触れることは、それを愛することだ〉と学んでいく。一方、ヴェルナーはごみの山から壊れたラジオを拾い修理し、イヤホンから聞こえる言葉や音楽に触れる。〈跳ねまわる電子の経路、混みあう都市を抜ける道のような信号の連鎖〉を思い描きながらラジオを修理。ラジオから聞こえる音の中で、彼のお気に入りで人生を方向づけたのは、若い男性がフランス語で話す光についての番組だった。

 〈数学的に言えば、光はすべて目に見えないのだよ〉。

 第二次世界大戦。戦争がふたりの人生をサン・マロまで運ぶ。12歳のマリーは爆撃を受けたパリから逃れて、父親とともに大叔父エティエンヌがいるサン・マロに辿りつく。エティエンヌは第一次世界大戦で心を病み、6階建ての家にひきこもり、〈この、奇妙で、狭い家のなかに、何十年も隠れている〉。マリーの父親がサン・マロの模型も作り、この細長い家自体も模型の一部になる。4年の歳月が流れ、マリーは模型の家を訳あってサン・マロの街から外している。ヴェルナーは14歳で難関の国家政治教育学校に合格したため炭坑で働かずに済み、その後16歳でドイツ国防軍に入隊。技師として不法電波を見つけ出す任務に就き、2年後サン・マロに辿り着く。そして海沿いにある細長い家を見上げることになる。

 本作は2015年度のピュリツァー賞を受賞。すでに短編作家として著名だった作者が10年の歳月をかけて完成させた長編である。丁寧に描かれる多くの登場人物はもとより、幾つかの“物”もふたりをつなげる重要な役割を担う。〈炎の海〉という伝説のダイアモンド、桃の缶、小洞窟の門の鍵、衣裳ダンスの奥の引き戸、家の形をした木製の立体パズル。それらが物語に奥行きを与えていく。

 サン・マロにおける1944年8月を中心に、マリーとヴェルナーの人生がほぼ交互に語られ、パリとドイツを行き来し、過去から1944年に何度もつながっていく。物語を読み進めるうちに〈模型の町を指で歩き回〉るマリーと、〈電子の道筋を指でなぞ〉りラジオの音を拾うヴェルナーが重なっていくのである。ヴェルナーに〈ラジオの声は、彼の夢を織りなす織り機を与えてくれた〉。彼がどこで何を“受信”するのか。戦時下という暗い状況の中、ふたりのつながりはほんの一瞬であっても確かに光を放ち、読者の胸を打つ。目には見えないきらめきを、ゆっくりと指先で辿るように味わいたい作品である。

 

すべての見えない光 (新潮クレスト・ブックス)

すべての見えない光 (新潮クレスト・ブックス)

 

 

『くじ』シャーリイ・ジャクスン(深町眞理子訳)

くじ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

書いた人: 鈴木隆詩 2016年12月書評王
フリーライター(主にアニメ音楽)

 

 シャーリイ・ジャクスンの短編「くじ」が雑誌ニューヨーカーに掲載されたのは、一九四八年のこと。その衝撃的な内容に、編集部には読者からの非難が殺到したという。

 物語の舞台は、人口が三百人ほどの小さな村。子供から大人まで全員が集まって、一人だけが当たるくじが引かれる。これは毎年六月二十七日に必ず行われる恒例行事だった。

 冒頭、くじ引きの始まりを待つ少年たちがポケットに石を詰めこむ、奇妙な描写がある。「北の村じゃあ、もうくじ引きはやめべえかとという話が出とるそうだが」と村人にささやかれた長老のワーナーは、「阿呆どもじゃ」と一蹴する。ワーナーによれば、くじ引きをやめることは、文明生活を捨てて洞窟に住むことに等しいらしい。

 くじはまず、当たりの一族を選び、次にその一族の中から当たりの個人を選ぶ段取りになっている。亭主が当たりを引いてしまった中年女のテシーが、仕切り役のサマーズ氏に向かって、「あんたはうちのひとに好きなだけの時間をやんなかった。あんなのフェアじゃない!」と叫ぶ。ここまで話が進むと、くじの当たりとは大いなる不運なのだと分かってきて、少年たちのポケットを満たしている石が、恐ろしい意味を持ち始めるのだった。

「こんな(野蛮で暴力的な)儀式を行なっている村が実在するのか?」という読者からの問いかけに、「私はただ物語を書いただけ」と応えたというシャーリイ・ジャクスン。一九一六年にロサンゼルスで生まれ、一九六五年に亡くなったこの作家は、人間の悪意、心の中に忍ばせている暗い感情を描き続けた。「くじ」は彼女の代表的な短編で、それを含む短編集『くじ』が、この度、文庫化。親本の発刊は一九六四年というから、日本でも半世紀を生き抜いている作品集ということになる。悪意とは、それほどに読者を引きつける題材なのだ。
村の決まり事であり、伝統行事だからというだけの理由で、村人たちが“当たり”に向かって、むき出しの暴力性を発するという、社会的な悪意をテーマにしている「くじ」。だが実は、この短編集の他の作品は、「くじ」とは趣を異にする。日常に潜む、もっと個人的で、明らかな暴力性を伴わない、悪意かどうかも判然としない、黒よりも灰色に近い負の感情が、紙に薄墨を落とすようにじわりと広がっていくのが、短編集『くじ』全体の妙味なのだ。

 たとえば、「背教者」。
 主人公は、都会から移り住み、田舎暮らしを始めたウォルポール夫人。ある日、お宅の飼い犬がウチの鶏を噛み殺したという、匿名の電話を受ける。「いったん鶏を殺す癖がついたら、犬にそれをやめさせる方法ってのは、ないんだそうですよ」「あの犬をどうにかなさらなきゃいけません」と電話の主。

 この出来事は一気に地域中に知れ渡って、ウォルポール夫人はどこで誰と会っても、犬を殺すように諭され、果ては学校から帰ってきた自分の娘と息子までが、無邪気に言い放つのだった。「レイディーや、おまえは悪い犬だよ。いまに射殺されるからね」「(罰として付けた首輪の)とんがった釘が、レイディーの首をちょんぎっちゃうんだ」

 自分の夫や子供、愛想のいい隣人、身なりのいい婦人といった生活者たちが、本人も無自覚なままに見せる、ふとした暴力性や悪意、差別意識。その負の感情が山と盛られたこの短編集は、読者に何をもたらすか? それが意外と心の自浄効果だったりするから、面白い。フィクションの悪意に浸れば浸るほど、自分の中にある澱みが消えていくような気がするのだ。気がするだけで、実際は、腹黒い自分は何も変わっていないかもしれないが――。

 「私はただ物語を書いただけ」

 一編を読み終える度に、作者のあの言葉が頭の中にそっと響く。

 

くじ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

くじ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

 

 

 

『寛容論』ヴォルテール(斉藤悦則訳/光文社古典新訳文庫)

寛容論 (光文社古典新訳文庫)

書いた人:長澤敦子
光文社古典新訳文庫 読書エッセイコンクール2016 優秀賞受賞作

 

『建て前は「寛容」に繋がるか?』

「名古屋に地震や台風の災害が少ないのは市中で熱田神宮が護ってくれてるからだってよ」会えば親しく話す隣人の言葉に思わず呵々大笑してしまったが直ぐに顔が引き攣った。彼女が忌まわしい物に触れたかのように眉を顰めたのだ。それ以来挨拶にも余所余所しい空気が漂う。嵐の松本潤の大ファンの従妹に「彼って爬虫類っぽいよね」と軽口をたたき絶交されてしまった。高校の同窓会の二次会で「あなたへの愛こそが私のプライド」と元カレをチラチラ見ながら歌う友人のプライドの無さに呆れ、ずっとシカトし続けている。可愛がっていた男性の後輩が天然鯛と養殖鯛の区別がつかずその舌の鈍感さに失望し、彼と一緒に食事をすることはなくなった。

 不用意な言動で隣人や従妹を傷つけてしまった。全く取るに足らない理由で友人や後輩を遠ざけた。親しいと思っていた人との間に見えないベールを自ら下してしまった。

 ヴォルテールが著した『寛容論』の第六章で〈自分がしてほしくないことは他者にもしてはいけない〉(61ページ)これは普遍的な原則だと記されている。しかし何が他者の怒りのスイッチを押すか判らない。日常生活に無数に転がっている小石を踏まないように歩くことは不可能だ。ヴォルテールが言う普遍的な原則を忠実に守ろうとすれば、自分の殻に閉じこもって誰とも接しないのが一番のような気がしてくる。でも彼が説こうとした「寛容」とは勿論そんな卑近で下世話なことではないだろう。

 日本語の「寛容」は他者の言動を広い心で受け入れることを意味するが、本書の解説者福島清紀氏によれば欧州言語toléranceの概念は十七世紀末に形成された近代的発想なのだという。即ち〈自他の間にみられる思考様式の差異の認識に基づいて他者の立場を容認する態勢〉(299ページ)。欧州ではルネサンス期に複数の宗派・宗教が出現するという新たな宗教的状況が起こる。人々はそれらが共存することが統治の要諦であり世俗の平和に繋がるということを経験するのだ。十八世紀に活躍したヴォルテールはフランスの哲学者、文学者にして歴史家だが、このtoléranceという新概念の時代の申し子と言えよう。

 しかし一七六二年の南仏トゥールーズではまだまだ宗派対立が激しく、カトリックプロテスタントを弾圧するという修羅の世界だった。そんな中で実際に起きた冤罪事件。プロテスタントのカラス家の長男がホームパーティの最中に自殺する。だが一五六二年のプロテスタント虐殺を祝う二百年祭の式典の準備で過熱気味の狂信的カトリシズムの民衆は、長男の改宗を許さなかった父親による殺人だと信じ込み激しく攻撃。世論に流される形で父親は拷問・処刑され、一家は破滅と離散に追いやられてしまう。冤罪だと確信したヴォルテールは権力者たちに手紙を書き無罪と再審を訴え続けた。その際構築されたのが本書『寛容論』だ。彼の論考の対象は〈あくまでも社会の物質的な豊かさと精神的な豊かさのみ、これである〉(53ページ)として、当時の宗教的不寛容が国家に如何に大きな害をもたらす原因になったか具体例を挙げ、真理を冷静に見つめる思慮深い目を持つことの大切さを読者に促す。十七世紀末のユグノー弾圧は全仏レベルで経済的衰退をもたらした。ナントの勅令廃止により帽子製造業が衰退し、カーンでは商取引が半減、ポワティエでは毛織物製造業が全滅、トゥールの商業は年一〇〇〇万フランの減少、フランスに敵対する側に移らざるをえなかった陸海軍士官や船乗り…実害は計り知れないと。また、古代ギリシャ・ローマ、更には清の康煕帝治世にも触れながら、繰り返し不寛容は不利益に繋がることを辛抱強く説いていく。それは十八世紀のフランスに根深くある“狂信”を読み取ったからだ。当時は、旧来の因習・偏見・迷信といった蒙昧の闇から人間を解き放とうとする啓蒙思想の真っ只中にあり、あらゆる活動が理性的精神に基づくことを期待されていたヴォルテールは告発する。〈何と、これは現代のできごと。……それはあたかも 狂信ファナティスムが、最近うち続く理性の成功に憤り、理性に踏みつけられてますます激しくのたうちまわっているように見える〉(20ページ)

 彼は超地上的存在としての神を明確に認め、全ての人間は神の創造物であり〈たがいに兄弟であることを忘れないようにしよう〉(197ページ)と訴え、本書の意図を〈ひとびとにもっと思いやりと優しさをもってほしい〉(199ページ)とし、次の言葉で締めくくる。〈知性が虚弱なひとびとは、陰気な迷信に動かされ、そして考え方が自分たちと異なる人間を犯罪者にしたててしまう〉(227ページ)

 テロ、難民、世界各地で散見される右傾化、差別…二世紀半も経ったのに『寛容論』が今尚必要とされる現代。昨年のISによるパリ同時多発テロで妻を失った男性が出したメッセージが話題を呼んだ。〈妻の体に撃ち込まれた銃弾の一つ一つは神の心の傷になっているだろう……君たちに憎しみは贈らない。怒りで応じる事は、君たちと同じ無知に屈することになる〉。ヴォルテールが説いた精神が息づいているように思える言葉だが、それはISの信仰や思想の自由をも認めるということなのだろうか。仏文学者の渡辺一夫は一九七二年に上梓した『寛容について』の中で〈寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか〉を考察し、寛容は寛容によってのみ護られるべきとし〈個人の生命が不寛容によって奪われることがあるとしても…やむを得ぬ……〉と論じている。

 神を持たず戦争を知らない私には、正直言って附いていけない。自分や大切な人の命はどんなに不寛容と罵られようと奪われたくない。妻を失った男性の言葉にもキリスト教の上から目線の欺瞞を感じてしまう。でもテロや戦争は絶対嫌だし狂信的愛国主義は生理的にとても怖い。私は一部の右翼が批判する、自分の手は汚さないで平和と安寧を享受したいエゴとニヒリズムの典型なのだろうか。そうだとしても理性的精神だけは忘れないように心掛けたい。それが人間に備わる特権なのだから。

 思うに今の世界は日本を含め、民主主義とか、みんな仲良くとか、そういう建て前を保つのに疲れ果てうんざりしている。日本の反中嫌韓感情の高まり、米国のトランプ現象、欧州各国での難民排斥や人種差別……。建て前という理性をかなぐり捨て本性を剥き出しにした時に暴力は簡単に暴れ出す。建て前で、綺麗ごとでいい。本音や本性なんて自分にだって判りゃしない。集団の流れに知らず知らず染められていることだって大いにあるのだ。

 最後にもう一つヴォルテール。代表作の『カンディード』の結び。

〈とにかく、ぼくたち、自分の畑を耕さなきゃ〉自分にできることを他者と助け合いながら築いていく。創造的協力関係こそが物心両面の豊かさを紡げるのだ。他者を傷つけるのを恐れ自分の殻に閉じこもってはいけない。小石に躓きながらも歩かなくては。また新たな関係を創り上げればいいのだから。

 

寛容論 (光文社古典新訳文庫)

寛容論 (光文社古典新訳文庫)

 

 

『書記バートルビー/漂流船』メルヴィル(牧野有通訳/光文社古典新訳文庫)

書記バートルビー/漂流船 (古典新訳文庫)

書いた人:春名 孝 
光文社古典新訳文庫 読書エッセイコンクール2016 審査員奨励賞受賞作

 

 

バートルビーという鏡』

 バートルビーとは、何だったのか。

 読み終えて頭に浮かんだのは、その言葉でした。〝誰だったのか〟ではなく、〝何だったのか〟。バートルビーとは一個人の名前に留まらず、彼が周辺を巻き込んでいくムーブメントのように思えたのです。

 物語の語り部は、〈安楽な生き方が一番〉と語る、〈野心のない一介の弁護士〉の<私>。文書の代筆事務所を経営しており、そこに雇われたのがバートルビーでした。彼の第一印象は、〈青白いほどこざっぱりして、哀れなほど礼儀正しく、救いがたいほど孤独な姿〉。それでもバートルビーはかいがいしく働き始め、大量の筆写をこなしていきます。ところがある日、〈私〉がほんの短い文書の照合作業を依頼した時のこと。バートルビーはなんと、〈わたくしはしない方がいいと思います〉と答えるのです! おおいに面食らう〈私〉でしたが、その後も小さな依頼をするたび、〈しない方がいいと思います〉〈言わないほうがいいと思います〉と断られてしまいます。この返答は、〈私〉やその他の登場人物達、そしてわれわれ読者をも煙に巻いていきます。いったい彼の真意はどこにあるのでしょう? 本書を一読し、僕は自分の過去の経験と照らし合わせてみました。

 およそ人と人とのコミュニケーションにおいては、相手がこう言ったらこう返す、こう動いたら自分はこう動く、というパターンが存在するものです。おおざっぱにそれを「常識」と呼んでもいいでしょう。この「常識」に従って人は会話や共同作業をおこないますので、常識通りに行動しない人がいれば周りの者は困ってしまいます。特に震災が多発するようになって以降、人間同士の絆が声高に叫ばれる世相となり、こうした協調性、社交性がさらに重要視されるようになりました。仕事ができるか云々よりも、人と仲良くできるか、決まりごとを共有できるか、人と同調して行動できるかが問われるのです。

 ところが、そこに息苦しさを感じる人もいます。僕も昔、十二年ほど会社勤めをした経験がありますが、こうした同調圧力に苦しめられたものでした。給料をもらっている以上、仕事をこなすことに異議はありません。苦しんだのは、終業後の酒の誘いでした。上記のならいで言えば、誘われれば行く、というのが社会人としての「常識」であり、明確な理由がないかぎり断ることはタブーです。僕は仕事が終われば自分の趣味に時間を使いたいと思うのですが、新入社員の頃にこうした圧力に逆らえるはずもなく、無理をして付き合っていました。酒の席では、勧められた酒は断らないこと、これまた「常識」です。僕は飲めない酒を飲まされ、途中で退席することも許されないなか、毎回、早くこの時間が終わってくれとばかり祈っていました。深夜近く、ようやく解放されてからは、自己嫌悪の嵐です。帰り道で吐くこともあり、そんな夜は本当に惨めな思いを味わいます。あの頃は自分が嫌でたまりませんでした。それでも入社後数年が経ち、徐々に自分の意見も言えるようになった頃、こうした誘いを断るように少しずつ自分を仕向けていきました。これには勇気が要ります。上司からの威圧感あふれる誘いを断るのは容易ではありません。でも、頑張りました。それが自分にとって大事なことだと思ったから、そうしました。するとそのうちだんだんと自信が生まれ、自分が好きになっていったのです。

 つまりバートルビーは、こうした決まりごとの一切を拒否したかったのではないか、それで真の自分を保とうとしたのではないか。そう考えると、すこし納得ができます。決められた行動の枠組みの中でしか生きられない生活を、バートルビーは拒否している。そこから脱却し、真に自由な生を生きている。

 それでは本書は、バートルビー=卓越した神のような存在、〈私〉やその他の登場人物=世俗的なバカ、ということを言いたいのでしょうか。僕は本書を二回ほど読んでみたのですが、最初はバートルビーの行動ばかりに目を奪われていたのが、二回目には他の登場人物達の行動に目が向くようになりました。彼らの行動は、ある種、痛快です。かように奇天烈なバートルビーの行動に対し、〈私〉は文句を並べながらも、けっきょく逆らえずに従ってしまうのです。極めつけは〈私〉が休日に職場を訪れた時のこと。いきなりバートルビーが中から現れ、〈今はあなたを入れないほうがいいと思う〉と告げます。その辺をしばらく歩いてきてくれ、と言われた〈私〉は、すごすごと引き返していくのです。あまりに無様な姿に笑いを禁じ得ません。

 事務所にはバートルビーの他に、二人の書記が雇われています。普通の小説ならば、異質なバートルビーに対し、他の人物達はいかにも世俗的な存在として描かれそうですが、彼らはそうではなく、非常に癖のある人物として登場します。〈私〉と同年代のターキーは、午前中は熱意に溢れて的確に仕事をこなすのに、午後には情緒を乱してミスを濫発します。ターキーよりも若いニッパーズのほうは逆に、午前中は神経質で手がつけられず、些細なことにけちをつけてばかりで仕事になりません。ところが午後になる頃には、落ち着いて業務をこなすようになります。厄介な二人ですが、午前中はターキーが、午後はニッパーズが頑張ることで、なんとか奇跡的に仕事が回っていきます。

 初読時には、彼らの登場する意味がつかめずにいました。ところが二回目をじっくり読んでみると、〈私〉とターキーとニッパーズ、この三人の行動の愚かしさが際立って感じられてきました。そして同時に、「ああ、人間って結局、こんな感じだよな」という安心感も覚えたのです。

 僕は先述の会社を十年以上前に退職し、今は自営業を営んでいます。思い返せば、あれほど嫌で辞めてしまったサラリーマン時代が今では懐かしく感じられます。そして、僕に同調圧力を仕掛け、無理矢理に枠組みを押しつけた周囲の人達のことも、なんだか許せそうな気持ちになっています。それは単なる懐古趣味ではありません。

 小津安二郎の晩年の映画で、『お早よう』という作品があります。子供の目から見た大人社会の変てこさが描かれています。タイトルにあるような「お早よう」や「いい天気ですね」というやりとりが、子供には理解できない。みんなが同じことを繰り返しているだけで、何にも意味がないじゃないか、と子供は思うわけです。でも、こうした定型のやりとりの中に、実に人間的な面白みが隠されています。ラスト近く、知り合いの若い男女が駅で出会うシーン。つまらないあいさつを繰り返しながらも、今にも何か新しい関係が生まれようとしています。二人の行く末さえ暗示しています。絶妙に人間的で、豊かささえ感じるシーンです。

 同様に本作においても、きっと著者の言いたかったのは、バートルビーの強烈な特異性ではなく、バートルビーという存在を置いてみてあぶり出される、市井の人間のおかしさと愛おしさのほうではないでしょうか。バートルビーは鏡となり、型にはまった人間達の行動の愚かさを際立たせると共に、そうしなければ生きられない人間の本質を、意外に温かく映し出してくれているような気がします。
 小説は、奇妙な言葉で幕を閉じます。

〈ああ、バートルビー! ああ、人間の生よ!〉

 ここで「人間の生よ!」と訳されている部分は、別の翻訳者の訳では「人間とは!」や「人間!」とされている場合もあります。原文の「humanity」は、単に「人間」というよりも「人類」といった意味合いに近く、「集合的な人間」という使われ方をするようです。僕はこの部分を、「ああ、バートルビー! ああ、(彼以外の)全ての人々よ!」と訳してみたい。つまり、型にはまらざるを得ないのが人間であり、その愚かで情けない姿も充分に愛おしいのだ、と。

 

書記バートルビー/漂流船 (古典新訳文庫)

書記バートルビー/漂流船 (古典新訳文庫)

 

 

『リリース』古谷田奈月(光文社)

リリース

書いた人:八木みどり 2016年12月書評王
1985年山形県生まれ。早稲田大学第一文学部卒。地方紙を経て子ども向けの専門紙で記者をしています。三十路。

 

 

 古谷田奈月の『リリース』は、メビウスの輪を思い起こさせる。「男女平等、同権」を目標に掲げながら、しかし実現には成功していないこの現実社会を180度ねじってみることで、どちらが「表」とも「裏」とも言えないものを見せてくれる。

 舞台となるオーセルは、女性首相のミタ・ジョズによって同性婚が合法化され、男女同権思想が法律で確立された国だ。国営の精子バンクがあり、未婚者も同性婚者も、子を授かることができる。そこは、「マイノリティという存在を概念ごと消し去ることに成功した」素晴らしい社会――だとされる。そんな中、国の中枢を担う存在である精子バンクの建物が、タキナミ・ボナとオリオノ・エンダという男子学生によって占拠されるテロが発生する。2人はともに異性愛者。ボナは建物を取り囲む群衆に向かって国家の罪を暴露し、そして叫ぶ。「ミタ・ジョズはかつてのマイノリティをマジョリティ化しただけだ」。オーセルではもはや、異性愛者は差別されるべき存在になっているのだ。

 現実社会を裏返した物語かと思いきや、結局、見えてくるのは、マイノリティが虐げられる「表」と同じ光景だ。そこには、「男女平等」「共同参画」「女性が輝く社会」などとうたう現実世界への皮肉がにじむ。だが物語はそれで終わりではない。

 やがて暴走を始めたボナをエンダが撃って、テロは幕を閉じる。逮捕の後、自らの行動を悔い、精子バンクの存在意義とミタ・ジョズを称賛したエンダは政府に取り立てられ、国家公務員の身分を与えられる。その仕事は、精子提供を拒む男性を説得し、提供を促す「リクルーター」。エンダの本当のテロは、ここから始まる。男が男であるということは、オーセルでは「精子提供者」としての存在意義しか持たない。「奪われる」存在であるエンダは、だから女を憎む。だが一方で彼は、一人の女を愛し、交わることを望む。壮大な復讐劇の一方で、人を愛するという行為はなくならない。

 メビウスの輪は、幅を2等分するように切っても、またねじれた一つの輪になる。3等分すると、絡み合う二つの輪になる。男と女は、裏と表のように見えて、実はひと続き。性と愛もまた、別々のように見えて、切り離すことはできない。「裏」をなぞって読んでいくと、いつの間にか表もなぞっている。現実社会のアンチテーゼの先に、普遍性が見える。この小説のすごさはそこにある。

 

リリース

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