書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

『寛容論』ヴォルテール(斉藤悦則訳/光文社古典新訳文庫)

寛容論 (光文社古典新訳文庫)

書いた人:長澤敦子
光文社古典新訳文庫 読書エッセイコンクール2016 優秀賞受賞作

 

『建て前は「寛容」に繋がるか?』

「名古屋に地震や台風の災害が少ないのは市中で熱田神宮が護ってくれてるからだってよ」会えば親しく話す隣人の言葉に思わず呵々大笑してしまったが直ぐに顔が引き攣った。彼女が忌まわしい物に触れたかのように眉を顰めたのだ。それ以来挨拶にも余所余所しい空気が漂う。嵐の松本潤の大ファンの従妹に「彼って爬虫類っぽいよね」と軽口をたたき絶交されてしまった。高校の同窓会の二次会で「あなたへの愛こそが私のプライド」と元カレをチラチラ見ながら歌う友人のプライドの無さに呆れ、ずっとシカトし続けている。可愛がっていた男性の後輩が天然鯛と養殖鯛の区別がつかずその舌の鈍感さに失望し、彼と一緒に食事をすることはなくなった。

 不用意な言動で隣人や従妹を傷つけてしまった。全く取るに足らない理由で友人や後輩を遠ざけた。親しいと思っていた人との間に見えないベールを自ら下してしまった。

 ヴォルテールが著した『寛容論』の第六章で〈自分がしてほしくないことは他者にもしてはいけない〉(61ページ)これは普遍的な原則だと記されている。しかし何が他者の怒りのスイッチを押すか判らない。日常生活に無数に転がっている小石を踏まないように歩くことは不可能だ。ヴォルテールが言う普遍的な原則を忠実に守ろうとすれば、自分の殻に閉じこもって誰とも接しないのが一番のような気がしてくる。でも彼が説こうとした「寛容」とは勿論そんな卑近で下世話なことではないだろう。

 日本語の「寛容」は他者の言動を広い心で受け入れることを意味するが、本書の解説者福島清紀氏によれば欧州言語toléranceの概念は十七世紀末に形成された近代的発想なのだという。即ち〈自他の間にみられる思考様式の差異の認識に基づいて他者の立場を容認する態勢〉(299ページ)。欧州ではルネサンス期に複数の宗派・宗教が出現するという新たな宗教的状況が起こる。人々はそれらが共存することが統治の要諦であり世俗の平和に繋がるということを経験するのだ。十八世紀に活躍したヴォルテールはフランスの哲学者、文学者にして歴史家だが、このtoléranceという新概念の時代の申し子と言えよう。

 しかし一七六二年の南仏トゥールーズではまだまだ宗派対立が激しく、カトリックプロテスタントを弾圧するという修羅の世界だった。そんな中で実際に起きた冤罪事件。プロテスタントのカラス家の長男がホームパーティの最中に自殺する。だが一五六二年のプロテスタント虐殺を祝う二百年祭の式典の準備で過熱気味の狂信的カトリシズムの民衆は、長男の改宗を許さなかった父親による殺人だと信じ込み激しく攻撃。世論に流される形で父親は拷問・処刑され、一家は破滅と離散に追いやられてしまう。冤罪だと確信したヴォルテールは権力者たちに手紙を書き無罪と再審を訴え続けた。その際構築されたのが本書『寛容論』だ。彼の論考の対象は〈あくまでも社会の物質的な豊かさと精神的な豊かさのみ、これである〉(53ページ)として、当時の宗教的不寛容が国家に如何に大きな害をもたらす原因になったか具体例を挙げ、真理を冷静に見つめる思慮深い目を持つことの大切さを読者に促す。十七世紀末のユグノー弾圧は全仏レベルで経済的衰退をもたらした。ナントの勅令廃止により帽子製造業が衰退し、カーンでは商取引が半減、ポワティエでは毛織物製造業が全滅、トゥールの商業は年一〇〇〇万フランの減少、フランスに敵対する側に移らざるをえなかった陸海軍士官や船乗り…実害は計り知れないと。また、古代ギリシャ・ローマ、更には清の康煕帝治世にも触れながら、繰り返し不寛容は不利益に繋がることを辛抱強く説いていく。それは十八世紀のフランスに根深くある“狂信”を読み取ったからだ。当時は、旧来の因習・偏見・迷信といった蒙昧の闇から人間を解き放とうとする啓蒙思想の真っ只中にあり、あらゆる活動が理性的精神に基づくことを期待されていたヴォルテールは告発する。〈何と、これは現代のできごと。……それはあたかも 狂信ファナティスムが、最近うち続く理性の成功に憤り、理性に踏みつけられてますます激しくのたうちまわっているように見える〉(20ページ)

 彼は超地上的存在としての神を明確に認め、全ての人間は神の創造物であり〈たがいに兄弟であることを忘れないようにしよう〉(197ページ)と訴え、本書の意図を〈ひとびとにもっと思いやりと優しさをもってほしい〉(199ページ)とし、次の言葉で締めくくる。〈知性が虚弱なひとびとは、陰気な迷信に動かされ、そして考え方が自分たちと異なる人間を犯罪者にしたててしまう〉(227ページ)

 テロ、難民、世界各地で散見される右傾化、差別…二世紀半も経ったのに『寛容論』が今尚必要とされる現代。昨年のISによるパリ同時多発テロで妻を失った男性が出したメッセージが話題を呼んだ。〈妻の体に撃ち込まれた銃弾の一つ一つは神の心の傷になっているだろう……君たちに憎しみは贈らない。怒りで応じる事は、君たちと同じ無知に屈することになる〉。ヴォルテールが説いた精神が息づいているように思える言葉だが、それはISの信仰や思想の自由をも認めるということなのだろうか。仏文学者の渡辺一夫は一九七二年に上梓した『寛容について』の中で〈寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか〉を考察し、寛容は寛容によってのみ護られるべきとし〈個人の生命が不寛容によって奪われることがあるとしても…やむを得ぬ……〉と論じている。

 神を持たず戦争を知らない私には、正直言って附いていけない。自分や大切な人の命はどんなに不寛容と罵られようと奪われたくない。妻を失った男性の言葉にもキリスト教の上から目線の欺瞞を感じてしまう。でもテロや戦争は絶対嫌だし狂信的愛国主義は生理的にとても怖い。私は一部の右翼が批判する、自分の手は汚さないで平和と安寧を享受したいエゴとニヒリズムの典型なのだろうか。そうだとしても理性的精神だけは忘れないように心掛けたい。それが人間に備わる特権なのだから。

 思うに今の世界は日本を含め、民主主義とか、みんな仲良くとか、そういう建て前を保つのに疲れ果てうんざりしている。日本の反中嫌韓感情の高まり、米国のトランプ現象、欧州各国での難民排斥や人種差別……。建て前という理性をかなぐり捨て本性を剥き出しにした時に暴力は簡単に暴れ出す。建て前で、綺麗ごとでいい。本音や本性なんて自分にだって判りゃしない。集団の流れに知らず知らず染められていることだって大いにあるのだ。

 最後にもう一つヴォルテール。代表作の『カンディード』の結び。

〈とにかく、ぼくたち、自分の畑を耕さなきゃ〉自分にできることを他者と助け合いながら築いていく。創造的協力関係こそが物心両面の豊かさを紡げるのだ。他者を傷つけるのを恐れ自分の殻に閉じこもってはいけない。小石に躓きながらも歩かなくては。また新たな関係を創り上げればいいのだから。

 

寛容論 (光文社古典新訳文庫)

寛容論 (光文社古典新訳文庫)

 

 

『書記バートルビー/漂流船』メルヴィル(牧野有通訳/光文社古典新訳文庫)

書記バートルビー/漂流船 (古典新訳文庫)

書いた人:春名 孝 
光文社古典新訳文庫 読書エッセイコンクール2016 審査員奨励賞受賞作

 

 

バートルビーという鏡』

 バートルビーとは、何だったのか。

 読み終えて頭に浮かんだのは、その言葉でした。〝誰だったのか〟ではなく、〝何だったのか〟。バートルビーとは一個人の名前に留まらず、彼が周辺を巻き込んでいくムーブメントのように思えたのです。

 物語の語り部は、〈安楽な生き方が一番〉と語る、〈野心のない一介の弁護士〉の<私>。文書の代筆事務所を経営しており、そこに雇われたのがバートルビーでした。彼の第一印象は、〈青白いほどこざっぱりして、哀れなほど礼儀正しく、救いがたいほど孤独な姿〉。それでもバートルビーはかいがいしく働き始め、大量の筆写をこなしていきます。ところがある日、〈私〉がほんの短い文書の照合作業を依頼した時のこと。バートルビーはなんと、〈わたくしはしない方がいいと思います〉と答えるのです! おおいに面食らう〈私〉でしたが、その後も小さな依頼をするたび、〈しない方がいいと思います〉〈言わないほうがいいと思います〉と断られてしまいます。この返答は、〈私〉やその他の登場人物達、そしてわれわれ読者をも煙に巻いていきます。いったい彼の真意はどこにあるのでしょう? 本書を一読し、僕は自分の過去の経験と照らし合わせてみました。

 およそ人と人とのコミュニケーションにおいては、相手がこう言ったらこう返す、こう動いたら自分はこう動く、というパターンが存在するものです。おおざっぱにそれを「常識」と呼んでもいいでしょう。この「常識」に従って人は会話や共同作業をおこないますので、常識通りに行動しない人がいれば周りの者は困ってしまいます。特に震災が多発するようになって以降、人間同士の絆が声高に叫ばれる世相となり、こうした協調性、社交性がさらに重要視されるようになりました。仕事ができるか云々よりも、人と仲良くできるか、決まりごとを共有できるか、人と同調して行動できるかが問われるのです。

 ところが、そこに息苦しさを感じる人もいます。僕も昔、十二年ほど会社勤めをした経験がありますが、こうした同調圧力に苦しめられたものでした。給料をもらっている以上、仕事をこなすことに異議はありません。苦しんだのは、終業後の酒の誘いでした。上記のならいで言えば、誘われれば行く、というのが社会人としての「常識」であり、明確な理由がないかぎり断ることはタブーです。僕は仕事が終われば自分の趣味に時間を使いたいと思うのですが、新入社員の頃にこうした圧力に逆らえるはずもなく、無理をして付き合っていました。酒の席では、勧められた酒は断らないこと、これまた「常識」です。僕は飲めない酒を飲まされ、途中で退席することも許されないなか、毎回、早くこの時間が終わってくれとばかり祈っていました。深夜近く、ようやく解放されてからは、自己嫌悪の嵐です。帰り道で吐くこともあり、そんな夜は本当に惨めな思いを味わいます。あの頃は自分が嫌でたまりませんでした。それでも入社後数年が経ち、徐々に自分の意見も言えるようになった頃、こうした誘いを断るように少しずつ自分を仕向けていきました。これには勇気が要ります。上司からの威圧感あふれる誘いを断るのは容易ではありません。でも、頑張りました。それが自分にとって大事なことだと思ったから、そうしました。するとそのうちだんだんと自信が生まれ、自分が好きになっていったのです。

 つまりバートルビーは、こうした決まりごとの一切を拒否したかったのではないか、それで真の自分を保とうとしたのではないか。そう考えると、すこし納得ができます。決められた行動の枠組みの中でしか生きられない生活を、バートルビーは拒否している。そこから脱却し、真に自由な生を生きている。

 それでは本書は、バートルビー=卓越した神のような存在、〈私〉やその他の登場人物=世俗的なバカ、ということを言いたいのでしょうか。僕は本書を二回ほど読んでみたのですが、最初はバートルビーの行動ばかりに目を奪われていたのが、二回目には他の登場人物達の行動に目が向くようになりました。彼らの行動は、ある種、痛快です。かように奇天烈なバートルビーの行動に対し、〈私〉は文句を並べながらも、けっきょく逆らえずに従ってしまうのです。極めつけは〈私〉が休日に職場を訪れた時のこと。いきなりバートルビーが中から現れ、〈今はあなたを入れないほうがいいと思う〉と告げます。その辺をしばらく歩いてきてくれ、と言われた〈私〉は、すごすごと引き返していくのです。あまりに無様な姿に笑いを禁じ得ません。

 事務所にはバートルビーの他に、二人の書記が雇われています。普通の小説ならば、異質なバートルビーに対し、他の人物達はいかにも世俗的な存在として描かれそうですが、彼らはそうではなく、非常に癖のある人物として登場します。〈私〉と同年代のターキーは、午前中は熱意に溢れて的確に仕事をこなすのに、午後には情緒を乱してミスを濫発します。ターキーよりも若いニッパーズのほうは逆に、午前中は神経質で手がつけられず、些細なことにけちをつけてばかりで仕事になりません。ところが午後になる頃には、落ち着いて業務をこなすようになります。厄介な二人ですが、午前中はターキーが、午後はニッパーズが頑張ることで、なんとか奇跡的に仕事が回っていきます。

 初読時には、彼らの登場する意味がつかめずにいました。ところが二回目をじっくり読んでみると、〈私〉とターキーとニッパーズ、この三人の行動の愚かしさが際立って感じられてきました。そして同時に、「ああ、人間って結局、こんな感じだよな」という安心感も覚えたのです。

 僕は先述の会社を十年以上前に退職し、今は自営業を営んでいます。思い返せば、あれほど嫌で辞めてしまったサラリーマン時代が今では懐かしく感じられます。そして、僕に同調圧力を仕掛け、無理矢理に枠組みを押しつけた周囲の人達のことも、なんだか許せそうな気持ちになっています。それは単なる懐古趣味ではありません。

 小津安二郎の晩年の映画で、『お早よう』という作品があります。子供の目から見た大人社会の変てこさが描かれています。タイトルにあるような「お早よう」や「いい天気ですね」というやりとりが、子供には理解できない。みんなが同じことを繰り返しているだけで、何にも意味がないじゃないか、と子供は思うわけです。でも、こうした定型のやりとりの中に、実に人間的な面白みが隠されています。ラスト近く、知り合いの若い男女が駅で出会うシーン。つまらないあいさつを繰り返しながらも、今にも何か新しい関係が生まれようとしています。二人の行く末さえ暗示しています。絶妙に人間的で、豊かささえ感じるシーンです。

 同様に本作においても、きっと著者の言いたかったのは、バートルビーの強烈な特異性ではなく、バートルビーという存在を置いてみてあぶり出される、市井の人間のおかしさと愛おしさのほうではないでしょうか。バートルビーは鏡となり、型にはまった人間達の行動の愚かさを際立たせると共に、そうしなければ生きられない人間の本質を、意外に温かく映し出してくれているような気がします。
 小説は、奇妙な言葉で幕を閉じます。

〈ああ、バートルビー! ああ、人間の生よ!〉

 ここで「人間の生よ!」と訳されている部分は、別の翻訳者の訳では「人間とは!」や「人間!」とされている場合もあります。原文の「humanity」は、単に「人間」というよりも「人類」といった意味合いに近く、「集合的な人間」という使われ方をするようです。僕はこの部分を、「ああ、バートルビー! ああ、(彼以外の)全ての人々よ!」と訳してみたい。つまり、型にはまらざるを得ないのが人間であり、その愚かで情けない姿も充分に愛おしいのだ、と。

 

書記バートルビー/漂流船 (古典新訳文庫)

書記バートルビー/漂流船 (古典新訳文庫)

 

 

『リリース』古谷田奈月(光文社)

リリース

書いた人:八木みどり 2016年12月書評王
1985年山形県生まれ。早稲田大学第一文学部卒。地方紙を経て子ども向けの専門紙で記者をしています。三十路。

 

 

 古谷田奈月の『リリース』は、メビウスの輪を思い起こさせる。「男女平等、同権」を目標に掲げながら、しかし実現には成功していないこの現実社会を180度ねじってみることで、どちらが「表」とも「裏」とも言えないものを見せてくれる。

 舞台となるオーセルは、女性首相のミタ・ジョズによって同性婚が合法化され、男女同権思想が法律で確立された国だ。国営の精子バンクがあり、未婚者も同性婚者も、子を授かることができる。そこは、「マイノリティという存在を概念ごと消し去ることに成功した」素晴らしい社会――だとされる。そんな中、国の中枢を担う存在である精子バンクの建物が、タキナミ・ボナとオリオノ・エンダという男子学生によって占拠されるテロが発生する。2人はともに異性愛者。ボナは建物を取り囲む群衆に向かって国家の罪を暴露し、そして叫ぶ。「ミタ・ジョズはかつてのマイノリティをマジョリティ化しただけだ」。オーセルではもはや、異性愛者は差別されるべき存在になっているのだ。

 現実社会を裏返した物語かと思いきや、結局、見えてくるのは、マイノリティが虐げられる「表」と同じ光景だ。そこには、「男女平等」「共同参画」「女性が輝く社会」などとうたう現実世界への皮肉がにじむ。だが物語はそれで終わりではない。

 やがて暴走を始めたボナをエンダが撃って、テロは幕を閉じる。逮捕の後、自らの行動を悔い、精子バンクの存在意義とミタ・ジョズを称賛したエンダは政府に取り立てられ、国家公務員の身分を与えられる。その仕事は、精子提供を拒む男性を説得し、提供を促す「リクルーター」。エンダの本当のテロは、ここから始まる。男が男であるということは、オーセルでは「精子提供者」としての存在意義しか持たない。「奪われる」存在であるエンダは、だから女を憎む。だが一方で彼は、一人の女を愛し、交わることを望む。壮大な復讐劇の一方で、人を愛するという行為はなくならない。

 メビウスの輪は、幅を2等分するように切っても、またねじれた一つの輪になる。3等分すると、絡み合う二つの輪になる。男と女は、裏と表のように見えて、実はひと続き。性と愛もまた、別々のように見えて、切り離すことはできない。「裏」をなぞって読んでいくと、いつの間にか表もなぞっている。現実社会のアンチテーゼの先に、普遍性が見える。この小説のすごさはそこにある。

 

リリース

リリース

 

 

『くじ』シャーリイ・ジャクスン(深町眞理子訳)

くじ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

書いた人:成毛 満千(なるけ まち) 2016年12月書評王
福島県生まれ
10代で演劇、20代でダンスをはじめる。
本好きな元キャバレーの踊り子。
2016年4月、書評講座の門をたたく。

 

 幼い頃、夏休みに田舎の祖父の家に行くのが楽しみだったんですね。牛、馬、鷄、兎、犬、猫、たくさんの動物がいましたので。猫以外は生活のために働く動物たちです。ある夏、犬が子どもを5匹産みましてね。祖父はいちばん元気な仔犬を1匹選ぶと目も開いていない4匹を麻袋に入れて川に沈めてしまうんですよ。しばらくして袋を引きあげると、代々の犬が眠る場所に埋めてしまいます。そして言うんですね。「ここらじゃ、皆そうしとる」って。またの夏は、東京から夜店で買ったヒヨコが育ち飼いきれなくなったのが連れてこられました。田舎の鷄に馴染めず騒ぎをおこしましたので、祖母に鉈でチョンと首をはねられて夕飯の材料にされてしまったんですよ。祖母は「ここらじゃ…」とは言いませんでしたけど。仔牛が産まれた夏がありました。早朝、見に行くと目をまん丸にしてすりよってくるんです。可愛いです。すぐさま馬喰がやってきて売られていきます。ドナドナです。「ここらじゃ、皆そうしとる」小さいわたしは呟きました。すっかりこの言葉が気に入ってしまい、親に叱られると「ここらじゃ、皆そうしとる!」といい返したりしました。「ここら」というのがどこをさすのか、はっきりわからないけれど漠然とそういう場所があるんだと思ったんですよね。

〈メリキャット お茶でもいかがと コニー姉さん
とんでない 毒入りでしょうとメリキャット〉

 シャーリイ・ジャクスンの『ずっとお城で暮らしてる』の1節。不穏ですよね。毒入りの砂糖で家族が死んでしまい、残った姉妹と伯父さんが広い屋敷に引きこもりながらも“楽しく”暮らしています。それを奇矯な妹メリキャットの目線で描いた作品。

『丘の屋敷』(「たたり」改題)では幽霊屋敷に絡めとられていく狂気を、単なるホラーではなく、追いつめられて逃れられないような恐怖に仕立てあげています。

 ジャクスンはオカルトに通じ、自ら“魔女”と称したように、その小説は悪魔的、残酷、悪意に満ちたと評されることも多いのです。

『くじ』には22編の小説が入ってます。それらは人の悪魔性、残酷さ、悪意についての物語と言えると思うんです。怖い、とても奇妙、面白いけれどあまり関わりたくない、そんな余韻に満ちてるんですね。じゃあ、何がそんなに変な感じなのか?と思ったりもします。気づいたんですが、どうやら心の中のくぼみにある何かがつよくいやがりながらも、ものすごく待ち望んでいるんですね。その残酷やら悪意やらってやつを。くぼみの中には、ふだん、気の迷いだとか考えてはいけないないだとかで隅に追いやられた意地悪とか嫉妬とか嘘とか自慢とか偽善とか復讐心とか、あらゆるいけないとされることがうずたかく積もり積もってるんです。思いあたりませんか?たまにくぼみが溢れ出しては意にそぐわない振るまいをしてしまい貴方は言います。

「ここらじゃ、皆そうしとる」。

 そうです。『くじ』は「ここらじゃ、皆そうしとる」という小説群なのです。「ここら」って何処かっていうと、あるひとりのいち部分だったりあるいち家族だったり、集合体まるごとぜんぶだったりします。そこでは「ここら」に属さない人から見れば正気を疑うようなことが繰り広げられていくんです。怖いですね。面白いですね。

 表題作「くじ」では、それが特に際立ってます。年にいち度行われるくじ引き。広場に集まった住民はひとりいち枚、箱からくじを引くのです。この行事はもう誰も覚えていない程の昔から受け継がれている儀式なんです。そして当たりくじを引い者は…。
最後のページで貴方の心のくぼみの何かが蠢くと思いますよ。心して読んでください。

「このあたりでは、皆そうしていますから」

くじ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

くじ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

 

 

『冬の夜ひとりの旅人が』イタロ・カルヴィーノ(訳/脇功)

冬の夜ひとりの旅人が (白水Uブックス)

書いた人: 鈴木隆詩 2016年11月ゲスト牧眞司
フリーライター(主にアニメ音楽) 

 自らの体験である第二次世界大戦中のパルチザン活動を描いた長編第一作『蜘蛛の巣の小道』から始まり、作品ごとに作風を変えていったイタリアの作家イタロ・カルヴィーノ。その著作には、地上に一歩も降りずに一生を暮らした男を描いた『木のぼり男爵』や、マルコ=ポーロによる架空の都市の見聞録という体裁の『見えない都市』、SF的な要素を取り入れた『レ・コスミコミケ』など、多彩な作品が並ぶ。そんな彼の最後の長編となったのが、1979年に発表された『冬の夜ひとりの旅人が』。この作品には、小説内小説として10編の冒頭部分が登場する。それがまた色とりどりなのだ。

 主人公は、小説の冒頭部だけを繰り返し読むことになり、その続きを追い求める〈男性読者〉。彼はまず、イタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人に』を読み、次にポーランド人作家バザクバルの『マルボルクの村の外へ』を読み、次にチンメリアの詩人ウッコ・アフティが残した唯一の小説『切り立つ崖から身を乗り出して』を読む。その全てが途中で途切れ、続きが気になって、さまざまな手がかりを探す〈男性読者〉は、その度に〈きのう読んでいた小説とは全くなんの関係もない〉新たな小説の冒頭部を手にすることになるのだった。

 もちろん、チンメリアなどという国は現在も過去も実在したことはなく、カルヴィーノのホラ話は、物語が進むごとにドライブ感を増していく。日本人として楽しいのは、8番目に出てくる『月光に輝く散り敷ける落葉の上に』だろう。日本文学のあからさまなパロディで、〈オケダ氏の末娘のマキコが、上品な立ち居振舞いとまだわずかにあどけなさを残した美しい容姿を見せて、お茶を持ってきた。お辞儀をすると、ひっつめて上に巻き上げた髪の毛の下のうなじに細いうぶ毛が背筋まで続いているかのように見えた〉という、谷崎的というか、いかにもありそうな女性描写には、思わずニヤリとしてしまう。
 他にも、ラテン文学ありスパイ小説ありと、さまざまなジャンルが並び、〈男性読者〉と同じ、続きを求めずにはいられないもどかしさを味わえるのが、この作品の快楽ポイントだ。

 それと同時に、ラブストーリーも用意されている。〈男性読者〉が書店で出会うことになる若い女性ルドミッラ。彼女もまた、次々と現れる小説の続きを追い求める〈女性読者〉であり、〈男性読者〉にとっては、魅力的かつ謎めいた想い人になっていく。面白いのは、ルドミッラのような雰囲気を漂わせる女性が、各“小説内小説”にも入れ替わり立ち替わり登場すること。ルドミッラのイメージは、作品全体にふわりと漂うことになり、〈男性読者〉の恋は読書体験とともに深みに落ちる。人生と読書が分かちがたくあり、その果てに男性読者は遥か南米まで運ばれていくことになるのだ。

 さらに、スランプに陥った老作家のサイラス・フラナリーや、フラナリーの翻訳者であり、かつて二つの秘密結社を作ったという謎の人物エルメス・マラーナといった登場人物が現れ、〈男性読者〉の読書体験を複雑なものにしていく。〈私は書き出しの部分だけがある本を、そして全体にわたって冒頭部のもつ可能性が、まだ対象の定まらない期待感が持続するような本を書くことができたらと思う〉とフラナリーに語らせているカルヴィーノ。これは『冬の夜ひとりの旅人が』のテーマそのもの。果てることのない〈期待感〉の連なりは、永遠の命のようでもあり、絶頂に至ることのない男女の交わりのようでもある。

 1981年の松籟社版、1995年のちくま文庫版、そして2016年に出た白水Uブックス版と、時を置いて、何度も復刊を果たしている『冬の夜ひとりの旅人が』。この作品が古びないのは、知的な遊戯のところどころに、心地よい肉体性が潜んでいるからだ。

 

『蜜蜂と遠雷』恩田陸(幻冬舎)

蜜蜂と遠雷

書いた人:白石 秀太(しらいし しゅうた)
同志社大学文学部美学芸術学科卒。会社員

  

 感情が高ぶる、高ぶる。
 世界のコンクールの中でも注目度の高いという〈芳ヶ江国際ピアノコンクール〉に各国から集まったピアニストたちの戦いを描く恩田陸の『蜜蜂と遠雷』。三度の予選と本選の、二週間にわたって繰り広げられる演奏家たちのぶつかり合いに最後まで興奮させられっぱなしだった。芸術に優劣がつけられて参加者がふるい落とされていくのは残酷だ。でも著者はそれをひっくるめた上で、ほんの一握りの才能が選び抜かれる瞬間の凄まじい歓喜をこの一冊に詰め込んだのだ。
 見どころは勝ち残り戦だけじゃない。全編にわたって溢れる、音楽だ。各章のタイトルからして音楽一色。課題曲でもある〈平均律クラーヴィア曲集第一巻第一番〉という章もあれば、〈『仁義なき戦い』のテーマ〉なんていう名前も。さらに物語の中心となる、経歴も音楽性も違う4人の演奏家が一人一章ずつ登場する際も、各人物を演出するかのような章題になっている。まず〈前奏曲〉の章で登場するのは自宅にピアノすらない養蜂家の息子、風間塵。震音を意味する〈トレモロ〉の章では、幼少期には雨の連続音にリズムを感じていたほどの才能で国内外のジュニアコンクール覇者にもなったが、13歳で訪れた母の死が原因で7年間ステージから去っていた栄伝亜夜。〈ララバイ〉つまり子守歌の章は、妻も子供もいる勤め人にして応募規定ギリギリの28歳、高島明石。そして大本命とばかりに〈ドラムロール〉の章で現れるのが、名門ジュリアード音楽院生で実力は文句なし、勤勉でしかもルックス良しのマサル・C・レヴィ・アナトールだ。
 個性的な主人公たちの中でも風間塵の存在は異例だ。学歴も演奏活動歴も無いのに、晩年弟子はとらなかったはずの世界的音楽家の実は秘蔵っ子で、推薦状まで遺されていたのだ。〈皆さんに、カザマ・ジンをお贈りする。〉〈彼を本物の『ギフト』とするか、それとも『災厄』にしてしまうのかは、皆さん、いや、我々にかかっている。〉という内容。実に思わせぶりな〈前奏曲〉が物語の幕開けだ。
 そして圧巻の演奏シーン。同じものは一つとないその人だけの音色、さらには、努力家だけが感じる喜びや天才にしか見えない風景というピアニストの心にまで肉迫しながら、魂の演奏に興奮したり涙する聴き手の感情にも焦点を当てる。色々な視点を重ねて、音楽だけが与えてくれる高揚、〈「あの瞬間」には完璧な、至高体験と呼ぶしかないような快楽〉を、著者は言葉を尽くして表現する。一曲一曲が圧巻のドラマだ。主人公たちの選曲にも徹底している。フランツ・リストの大曲を一九世紀のグランドロマンに見立てて解釈するマサルや、コンテストではまず使われないエリック・サティを自由曲に選ぶ塵。4人の選曲が音楽家としてのプロフィールにもなり、場面ごとのBGMにもなっている。
 濃密な二週間には別の時間も織り込まれる。参加者たちの「今まで」と「これから」だ。大会にむけて費やしてきた膨大な労力、音楽に夢中だった子供の頃にまで遡る記憶がピアニストたちの頭に去来する。でもこのステージは発表会ではない。才能と才能が刺激しあうことで、今まで気づかなかった新しい目標、苦悩を帳消しにしてくれる「もっと弾きたい」という純粋な理由と出会う場所となる。
 感情を高ぶらせるのはこれだ。主人公たちが刺激しあって才能を開花させ、大会の終わりと同時に音楽の道へと歩み出す姿が、読者にじっとしていられない衝動を与えてくれる。風間塵の推薦文のようにこの本もまた、芸術の世界の厳しさを突きつける〈災厄〉でありながら、夢を追う人の背中を押す〈ギフト〉になる。自身の代表作『夜のピクニック』で〈何かの終わりは、いつだって何かの始まりなのだ〉と書いた著者らしく、『蜜蜂と遠雷』は壮大な「始まりの物語」なのだ。

蜜蜂と遠雷

蜜蜂と遠雷

 

 

『ペルーの異端審問』 フェルナンド・イワサキ(八重樫克彦・八重樫由貴子訳)

ペルーの異端審問

書いた人:横倉浩一 2016年10月書評王
都内の私立男子校で国語を教えてます。大学院時代の専門は近世文学。上田秋成井原西鶴を主に読んでいました。サッカー部・演劇部泡沫顧問。図書館部長。スポーツではNBAとツールドフランス、ボクシングなどを好んで観戦。毎年、徳之島に闘牛を見に行くことを恒例としています。飲みには行くがお酒は飲めない。バツイチ独身。

 

 ローマはパンテオン宮殿のほど近く。賑やかな大通りからやや奥まった場所にジェズ教会はひっそりたたずんでいる。ジェズとは即ちイエズス会。教会の奥にはあの、フランシスコ・ザビエルの小礼拝所がある。注目すべきはガラス一枚隔てたそこに、ザビエルの右手(肘から先)が展示されてるということ。すっかり干からびミイラ化しはいるものの、これが正真正銘あのザビエルの身体の一部だと思うとテンション上がる。即身仏として崇められる高僧の話は日本にもあるが、遺骸をバラバラにして分散させ、各地で信仰を促す縁(よすが)とする発想(ちなみに右手の肘から上はマカオ、耳はリスボン、歯はポルトにあるとか)を目の当たりにして、死体に向ける彼我の意識の違いに驚くオレが、かつていた。がしかし!そんなことで驚いていては甘いのである。

 中世。ペルーはリマに一人の聖人がいた。クリストル・パン・イ・アグア修道士。死後、神はこの者にある作用を及ぼした。検査に立ち会った外科医の報告。〈故人の体は生きているかのごとく健康で(略)陰茎の直立に関しては、過去に多くの遺体と対面してきた外科医の観点から考えても医学的根拠が見当たらず、むしろ神の意志であると見なす〉。奇跡。でもそこ?そこに〈神の意志〉?だがこの直立問題に対し、異論が提出された。〈上半身は神に仕え、下半身はどちらかと言えば罪に向かう傾向がある〉〈直立状態は神の御業どころか、むしろ(略)罪人達にありがちな、死してまでも神を冒瀆する行為を彷彿させる〉。神の意志か。冒瀆か。厄介なこの問題はしかし意外なところから証言がもたらされ、あっけなく解決の運びに。長年死刑囚の埋葬に携わってきた慈悲深き修道女の言。彼女によれば、死刑囚にも死後、陰茎の硬直は見られるものの、その陰茎は〈異臭を放つ例がほとんどだ〉。だがアグアのそれは〈甘い香りを放ち、本来の色つやも弾力性も損なわれなかった〉とか。この証言に高名な女子修道院の院長がお墨付きを与えたことで、直立問題は〈神の御業〉と認定された。めでたし。めでたし。

 これは実際の裁判記録をもとネタに持つ短編が十七話収められた『ペルーの異端審問』のエピソードの一つ。「高徳の誉れ」と題されたこの小話にはまだ後日談が存在する。五年後アグアの遺体が墓から掘り起こされた時、例のお墨付きを与えた院長がいた女子修道院が遺体から例の〈モノ〉を〈聖遺物として持ち帰った〉というのだ。嗚呼、切り取られたその〈聖遺物〉。今もどこかでザビエルの右手みたいに善男善女を導く縁となっているのだろうか。

 他にも、悪魔に陵辱されている女に欲情して悪魔を上回る快楽をその女に与え、悪魔から嫉妬される神父や、修道服を着て修道士になりすますことでまんまと多くの女をものにしてきたコスプレ男の話、聖職者を誘惑して宗派ごとの精液をコレクションしてはそれを素材に妖しげな料理を作る女や、天国の席をチケットぴあよろしくグレード別にして値段を分けて売りさばいては大儲けした修道士の話など、タブーを破って神を冒瀆するにもほどがある人間たちの姿を活写して笑いを誘う話が次々登場する。しかもこれが全て資料にもとづく実話だというから驚きだ。

〈僕はこの街の底にたまった宗教的な沈殿物を一掃し、敬虔なイメージを払拭する〉

リマ出身で現在はスペイン在住の作家フェルナンド・イワサキがそう宣言して1994年に上梓された本作は、96年・97年・07年とマイナーチェンジを繰り返しながら版を重ねている。96年版からは文豪マリオ・バルガス・リョサによる構成の巧みさを評価する序文が付され、今回邦訳が出るに当たっては、筒井康隆が各編の終わり数行の切れ味の冴えを絶賛する巻頭言を寄せている。必ず最後にオチが来てクスリとさせられる、落語にも似た日本人になじみの艶笑小説としても味わえる傑作小咄集だ。

 

ペルーの異端審問

ペルーの異端審問